何の折でしたか、三国連太郎が若い頃老け役づくりのために歯を抜いてしまったことを晩年<若干後悔していた>と佐藤浩市が語っているのを聞いて(いろいろと深い葛藤のあった)息子の前で晩年になって見せる三国の素顔にちょっと感慨がこみ上げましたが、その<若干後悔していた>映画というのは家城巳代治監督の『異母兄弟』(独立映画 1957年)。田中絹代を妻に威厳と打擲で組み敷く壮年の夫役で、1957年田中は48歳、三国連太郎35歳、年齢差を更に上回る老け役のために歯を抜くわけです。木下恵介監督『善魔』でデビューして6年目のことです。

 



さてこの6年、最初のうちこそしおらしく木下の映画に収まっていますがデビュー年の終わりに早くも稲垣浩監督『稲妻草紙』で田中絹代を恋人役に阪妻との共演を果たすと、以降は(幾何級数的に我を張り我を通し始め)自分を縛る映画会社の垣根や契約を体でねじ切り(同じだけ会社との軋轢を引きずりながら)三国は松竹から東宝、東宝から日活、そして東映と各社に出演を重ね役者ひとり日本映画という重い海を渡っていきます。(その間にも独立系映画にも出演する、その一本が先の『異母兄弟』なわけです。)

それにしても三国連太郎というひとを思い巡らせるとき、デビュー作の『善魔』は多くのことを教えてくれます。三国は芝居経験のない新人ながら森雅之や淡島千景を相手に物語を引っ張っていく部下の新聞記者を演じています。誰もが自分にもあんな時期があったと思うような、まるで手で掬った水のような純粋さをまだ持った青年です。そうだけに森が一度は失ったその純粋さを取り戻そうとして却って精算し切れない大人の狡さを見せることに耐えられず指弾せずにはいられません。三国の芝居はこなれたものではありませんが、不器用でも器用でもない率直さがはっきりと魅力となっています。

しかしのちのちの作品を見ても三国連太郎という役者はこの新人のときの芝居の線上をずっと歩み続けたひとのように見えます。『切腹』(小林正樹監督 松竹 1961年)の厳しく飾った鎧の影のような家老にしても、『にっぽん泥棒物語』(山本薩夫監督 東映 1965年)の謀略事件を偶々目撃してしまうこそ泥にしても、『旅の重さ』(斎藤耕一監督 松竹 1972年)のドサ廻りの座長にしても、『金環蝕』(山本薩夫監督 大映 1975年)のあけすけな保守党代議士にしても(新劇の俳優のような芝居の肌理の細やかさがあるわけではなく)寧ろ芝居のこなれなさを強く押し出し場面を押し切ってきて、逆に言えば三国連太郎はそういう巧さを誇る新劇的なメソッドを生涯身につけようとせずにリアリズムや芝居の肌理とは違うところに自身の演技を模索していったわけです。三国の芝居が巧いのかどうか答えを窮するのに画面のなかの彼の一挙手一投足に私たちは惹きつけられます。

そうだけに共演者と芝居のアンサンブルをするなどそもそも思慮の外だったでしょう。畏友だった西村晃との場面では演出にないのに突然立ち上がって部屋をうろつき始め、連ちゃん、そういうのをやるなら前もって言ってくれないとこちらも芝居の組み立てがあるからさあ、ああごめんごめん、やり直すと今度は西村の決め台詞のときに鍋をひっくり返したというんですからね。そう言えば同じことをこちらは犬猿の鶴田浩二との絡みでやって更に関係を悪化させたのだとか。しかしここは三国の必死の一線だったように思います。だってアンサンブルに組み込まれてしまうと(新劇や新派の芝居ができるわけではない自分が)まったくハメ殺しにされてしまい、そうだけに芝居に型ではなく緊張を持ち込んで相手の型を殺しその場を言わば一回一回形を生み出すような空間にすることで伸びやかに演じられるわけですものね。

そもそも三国連太郎というのはデビュー作での役名をそのまま芸名にしています。はじめての役名を芸名にするというのは他にも何人もいますが、三国が圧倒的なのはそれまでの(そしてそれからの)自分の実人生を捨て切るように三国連太郎という虚像に自分から憑依してその虚像を生き抜く生き様の強さでして、そのことが実名を拭い去って役名を芸名にする何とも屈折したこの始まりによく出ています。この生き様と芝居への無骨な容赦なさが交錯するわけですもの、いくら晩年に後悔したところで役者人生をまたやり直したら、やっぱり歯は抜きますよ。

 

・ 木下恵介監督 『善魔』 1951年 松竹

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・ 家城巳代治監督 『異母兄弟』 1957年 独立映画

 

・ 山本薩夫監督 『にっぽん泥棒物語』 1965年 東映

 

・ 斎藤耕一監督 『旅の重さ』 1972年 松竹

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・ 山本薩夫監督 『金環蝕』 1975年 東映

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