製作 : アメリカ
作年 : 1958年
出演 : ジョン・ギャビン / リゼロッテ・パルヴァー / エリッヒ・マリア・レマルク
もはやドイツ軍に挽回の望みはなさそうです。1944年の独ソの前線は雪の平原をただただ敵に追い払われるように(まるで何かに見放されて永遠に地上をさ迷うように)ドイツ兵たちの長い隊列がゆらゆらと続いています。そうなんです、本作のダグラス・サークはメロドラマの名手にして戦争映画に踏み込んで参ります。戦争映画それも反戦的な戦争映画というのは前線の、(既にして)絶望的な状況から始まり休暇を得て銃後へひととき戦禍を逃れながら(前線の戦況不利を物の見事にというか寓話的にそして剥き出しに反映して)前線以上に戦争というものを思い知らされ考えさせられてふたたび前線に戻るというのがひとつの形です。そう見ると本作は戦前の、(勿論第一次大戦の)ドイツ軍前線を扱ったルイス・マイルストーン監督『西部戦線異状なし』とよく似ていてまあそれもそれはず原作は同じエリッヒ・マリア・レマルクでして挙句に本作では(何と)そのレマルク自身がナチスと不寛容の精神に市民生活から追い出され綱渡りの、じりっじりっとした足取りながら反政府活動を続けている教授役で瓦礫の廃墟の上に立ってみせます。主人公は2年越しの休暇願いがこの退却戦のさなかに許されともかくも両親の待つ故郷に降り立つと子供のときと変わらぬ町並みに戦争のいまを忘れてしまいそうです。しかしそんな心弾むおとぎ話の駆け足は角をひとつ曲がるまででそこには行けども行けども続く空爆の廃墟がガラガラと足許を崩しながら広がっていて前線に置いてきたはずの戦争がいつの間にか自分を抜いて帰る場所を奪っていることを知ります。休暇が終わればまた前線に戻るしかない自分は次はどこに帰るのか、戦場に収まらない戦争の、哲学的な爪牙が社会に個人にそして歴史に深く喰い込んでくるのが見えるようです。しかも敵は空爆を続ける連合軍だけではなく(或いは彼らこそ戦争の穴に隠れた実相をあぶり出しているとも言えて)ひとびとが焼き出されるなか残った家を(その家主を屋根裏同然に押し込め)優先的に専有する党員だの婦人団体だのの、いからせた肩以上に目を吊り上げた面々にしても何かれと名目をつけては市内の邸宅から美術品や工芸品を強奪しどれだけ集めても飽きたらずまるで壁から(その怨念で顔を出したというように)剥製の動物たちの首がにょきにょきと突き出しいづれも由緒のありそうな風景画が絵葉書のように並び立てられたこの、戦争前には店の御用聞きをやっていた男のいまや党の地区部長という満面の人生にしても自分が何のために戦っているのか主人公は見失っていきます。先ほどのレマルク、いえ収容所帰りの教授に一体何の希望が残されているかとぶつけてみますが意外にも神を口にした教授に彼は納得できません、砲撃で砂塵ごと命が噴き上げられる現代の戦場に神はあまりに崇高です。それでも教授の言う神に対して戦争の責任を贖わねばならないとはどういうことなのか... 主人公がこの映画で迎えねばならなかった結末が或いはその答えなのでしょうか、それともあれは突き放した瞳なのでしょうか。
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