2023年12月19日(火)

 

3週間の放射線治療を終え、退院する母を病院まで迎えに行く朝。病棟に向かうと、すでにラウンジで準備を済ませて荷物一式を看護師さんにまとめてもらった母が待っていた。前の週末には退院用にニットのワンピースとカーディガンを用意してあったが、これはバッグの中に入っており母はジャージ姿。これが楽なのだという。元気そうだね、と言うと、「いろんなことがわかるようになってきた。前よりわかる」と母。顔色も良いし認識認知も調子が良さそうだ。放射線治療が良かったのだろうか。26日の造影MRIまで効果のほどは正確にはわからないが、様子を見る限り良さそうだ。懸念だった抜け毛もほとんど見られない。母が仕事やお金の心配の話を繰り返しそうになると、無視してスマホのニュースを見るようにした。すると母の方から「猫は元気?」などと話題を変えてくる。なるほど、厄介な話はこういうふうにカットするに限る。

 

ラウンジで薬剤師さんから薬を受け取り、さらに看護師さんの指示に従ってラウンジで待っていると、主治医登場。ご丁寧にご挨拶してくださった。ところが母は、「この人嫌いだよ」とそっぽを向いて怒っている。「あー嫌われちゃったかな」と主治医。「いやあ希死念慮が強くてですね。今、少し調子が良くなって体も動きますから。こういう時が注意のしどころなんですよ。」と主治医。キシネンリョ?日常使わない言葉に一瞬?となったがすぐに希死念慮かなと漢字を当てはめてみる。自殺を望んでいるという意味のようだが、医学用語なのだろうか。あるいは高齢者介護でよく使われる言葉なのかな。こういうテクニカルタームは実に不思議なもので、状況を客観視させてくれる。「母が死にたいと言っています」はなかなかに衝撃的かつ悲壮な感じのする響きだが、「母に希死念慮が強くあるようです」と言えばどこか冷静に状況を観察し受け止めているような印象にすらなる。だが、後述するように母は本当は死ぬつもりなんてさらさらないんだろうということを私は身をもって知っているので、主治医に対し冷静に、「母がすみません。せっかくお越しいただいているのにこんな態度で。老人ホームにも連携しておきます」と答えておいた。

 

お会計を済ませて病院最上階の眺めの良いレストランでハンバーグのランチを手軽に済ませようとすると、母はほとんど手をつけない。いつも外来の際に訪問する近所のイタリアンレストランの方が美味しいのだという。「ここのものはなんでも嫌い」と母。自分の持っているペットボトルにお冷やのグラスから水を移そうとするなど色々独自行動をして、店員さんに気を遣わせる母。

 

お天気もいいので病院をあとにして東京都庭園美術館に向かってみる。展示はお休みだが庭園だけオープンしており、天気も良いから母も新鮮な空気を楽しめるのではと思ったのだ。途中の車の助手席で、またもやネガティブ炸裂。空家になっている実家で一人で寝ていれば安く済むのだという。そもそも、実家の戸建が住みにくい、新築に住みたい、と母が言ったからマンションを買ってあげたのに、それも忘れたのかな。あなたはマンションを買ってあげたとき、私に言ったね、「よくもまあ親から言われたからって、マンションなんか買うよね。本当に買うなんて思わなかったしさ。私なら親にマンション買ってくれなんて言われても絶対買わないよ」と。まあそこは昔のことだしおいておくとしても、3食は私が往復1時間かけて届けにいくのが前提なんだろうな、暖かくリフォームもして。「食事はどうするの」と聞くと、母は沈黙。「餓死するの?」と聞くと、「ああ、それでもいいね」と答える母。

 

嘘だね。あなたにそんな強い意思はない。あなたがお台場で迷子になった日、本当に起きたことを覚えているかな。あの日あなたは、私の自宅で過ごしていて、「あれも嫌だ。」「これも嫌だ」を繰り返して、家中引っ掻き回して家探しして、写真を破り捨てたりいろんな物の場所を変えたり捨てたり、「死にたい」などと時折繰り返しながらも好き放題やっていた。お台場に買い物に出てもその調子。で、母が持ち込んだ物を整理するためのカゴを買おうとしたとき、母の「いいよ、そんなのいらない」で、私ももう心底嫌になった。周囲の家族づれやカップルがこの上なく幸せそうに見える。私だけがどうしてこんな、どうして。いたたまえれなくなり私は車に戻って、「いいよ、もう一緒に死のう。この車で東京湾に一緒に飛び込んで今、死にましょう」と助手席の母に言ったのだ。運転席から見るボンネットがきらりと光る。伝統と歴史に磨かれた美しい車体。これを水に沈めるなんて本意ではない。ところが私がそう言った瞬間、母の目の中に恐怖の色が広がっていくのがはっきりとわかった。助手席のドアを開けて車外に飛び出す母。あっという間に、母の姿は駐車場のフロアから見えなくなった。結局、以前も記した通り、レストランでお水をもらっているところを警備の方に保護された母だが、その後も恐怖に怯えた様子で、「お水、お水が飲みたい。みんなもお水、飲んで。飲んで。飲んで」とお水を飲むジェスチャーを、警備の方や駆けつけた警察官の前でし続けた。母の強烈な生存欲求、自己保存欲求を見せつけられた出来事だった。

 

人生の残りの時間が少ない中で、それなりの環境に身をおきながら、「モットヤスク、モットヤスク」と念仏のように唱え続けて劣悪な環境を夢見続け、本音ではそんなつもりはないのに「死にたい」などと周囲に漏らし続ける母。それがあなたの最期の時間の過ごし方だというなら、それも一つの人生だろう。もう否定はするまい。こちらとしてはもうこれに巻き込まれないように、精神が蝕まれることがないようにするのが精一杯だ。でも、一つ聞きたい。あなたはなんのためにそんなことをしているの?「モットヤスク」と言っているのに娘がそうしてくれないから悪い、というディスクレーマーかな。そのうちもっと具合が悪くなって起きられない日が来るはずだけど、その時に思わないのかな、ああ、あの時の方がまだ良かったのだ、もっと色々なことをしておけば良かった」と。最期くらい、自分の状況に真正面から向き合うことはないのかな。

 

東京都庭園美術館に到着。ここは1500円かかるけど車で入れて駐車でき、とても便利なのだ。駐車するときに車窓から見える美術館の建物に、「ああ、ここは一緒に来たことがあるね」と母。そうだね、覚えてるんだね。庭園に入ると一気に穏やかになる母。日本庭園や洋風

庭園をひと回りする。「ここはいいねえ」と母。庭園を出て車に戻るとき、母が手を差し出してきて、私の腕につかまる。捉えどころのないあなたは、どこに行こうとしているの?何を考えているの?わからない。

 

美術館をあとにして、老人ホームに母を送り届けてこの日は終了。