以前ブログで、『微笑む禅 生きる奥義をたずねて』(松居桃樓(楼)(とおる) 著)という「天台小止観(てんだいしょうしかん)」について書かれた本をご紹介しました。

 認知症の老犬を介護するにあたって、当初私は「怒り」の感情をコントロールすることができずに悩んでいましたが、この本のおかげで、それがだいぶできるようになった気がします。

 なので、後々忘れないようにその内容をブログにまとめておこうと思いたちました。


 現在も介護中の為、少しずつですが、何度も反復しながら進めていきたいと思います。


 もしも、私のように介護のストレスで悩んでいる方のお役に立てることがあれば幸いです。



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 “天台小止観のとは、「感情を波だたせないこと」であり、「思考力を正しく働かせること」です。”

 そして、その練習をする前には準備することが五つあり、その中の第一が「持戒(じかい)清浄」、つまり『いつも、ほほえみを大事にしなさい』ということでした。

 しかし、その「ほほえみ」が、なかなかできない人のために、天台小止観では、心の洗い方、つぎのあて方、染めなおしのしかたについて、あきれるほど丁寧に説いている、という所までが前回のお話でした。

 “一体それはどんなやり方かというと、いわゆる懺悔滅罪(ざんげめつざい)の方法です。
 ただし、天台小止観で説く懺悔(ざんげ)とは、単なる精神的な問題じゃあなくて、むしろ肉体そのもののシコリを、完全に解きほごすことが必要です。まず身も心も共々にやわらかくしておかなけりゃ、これからあとの修行が、身につかないんです。” 

 “なーに、そんな難しいことを考える必要はありません。共同浴場へでも出かけて行って、とにかく全身の力を抜いて「自分と宇宙は一体なんだ」という気持ちになりきりゃいいんです。
 海岸の砂浜でも、公園の芝生でも、ビルの屋上でも、布団の中でもいいでしょう。とにかく、死んだ気になって全身の力を抜くことです。”

 “天台小止観の懺悔のし方は「懺悔十法」といって、十段階に分けて瞑想するんです。
 第一は、明らかに因果の法則を信ずる。
 第二は、罪のおそろしさを知る。
 第三は、犯した罪を深く愧(は)じる。
 第四は、罪ほろぼしの方法を工夫する。
 第五は、昔の罪をかくさず告白する。
 第六は、重ねてしないと決心する。
 第七は、仏法を護(まも)ろうという心を起こす。
 第八は、衆生済度(しゅじょうさいど)の大請願を起こす。
 第九は、常に十方の仏を念ずる。
 そして、最後の第十は「罪性(ざいしょう)の無生(むしょう)を感ずる」といって、これは、窮極(きゅうきょく)において、仏とまったく一致して、「元来、罪などというものは、どこにも存在しないんだ」ということを、はっきり悟れ…という意味です。

 天台小止観の執筆者が、われわれボロ雑巾組に、よくよく体得してもらいたいのは、この十番目の境地なんです。

 現在自分が、こんなに苦しんでいる悩みの種は、どこから来たのか?その根本を徹底的に、もう一度考えなおしてみろ!…というんです。
 すると、その根本の原因は、「あの時、ああすりゃよかったんだ」なんていうような、簡単なものじゃないことが、わかってきます。
 そこで、その原因の、また原因を、どこまでも、どこまでもたどってゆくと、何億万年の大昔に、生物が初めて発生した時、すでに自他の区別が始まって、いわゆる業(ごう)の種が芽生えているんですね。
 ですから、懺悔十法の第一の「因果を信ずる」というのは、その業の根源を見きわめて、この世の中全体が、その永遠の業の結晶であることを、悟ることなんです。
 したがって、第二、第三、第四と続く、そのあとの瞑想も、自分ひとりの罪の問題ではなくて、世の中全体の「業(ごう)」の深さを反省して、その永遠の宿業(しゅくごう)を、どう解消するか…を考えるんです。
 ところが、その問題を、どこまでもつきつめて考えぬいて行くと、最終的にはどうしても、「自分と宇宙は一体だ」という心境に、到達せざるをえなくなります。
 さあ、そうなれば、おのずから、いつでも、どこでも、なにものにも、ほほえむことができるようになって、一切の不安も、苦しみも、消え去るはずだ…というんです。
 しかし、ここで最も大切なことは、その懺悔十法の瞑想を、ただ頭の中で考えるだけじゃなくて、徹底的に肌で感じなければ役に立たない…と、天台大師は言っています。
 そのためには『まず体を洗い清め、さっぱりした着物に着かえ、なるべく気持ちのいい場所で、美しい香りをただよわせ、床には、きれいな花をまいて、その上に体を投げ出して、全身の力を抜き、心の底からほほえんで、限りない宇宙の広さの中に、自分自身が完全に、溶けこんでしまったような気分になれ』という意味のことが、天台小止観には書いてあります。
 そしてそのさきには、さらに続けて、
 『この懺悔十法の最終の考え方に徹しきれるまで、一日でも、二日でも、一週間でも、ひと月でも、あるいは一年でも、二年でも、くり返し、くり返し、瞑想を続ければ、かならず、どんな大きな不安も、苦しみも、あとかたもなく消え失せる。
 しかも、あなたが、ほんとうに、そういう境地に到達した証拠には、心も軽く、身も軽く、ぐっすり眠れて、これまで味わったこともない感動がつぎつぎに起こり、すべてのものごとに善意が持てて、まるで自分の体が、光か空気にでもなったような感じになる。
 そうなると、これからさきで練習して体得する、「感情の波だちが完全にしずまった時」の幸福感とは、どんなものか…ということが、おぼろげながらわかってくる。そのうえ、目の前が、パッと明るくなって、「世の中のすべてのことが、みんな真理だ」と、うなずけて、何を見ても、何を聞いても、残らず自分の役に立つ。
 さあ、そうなると、人生は、まことに楽しく面白く、ビクビク、イライラ、クヨクヨすることは何もない。
 ここまでくれば、間違いなく、あなたの「心の古傷」は、すっかり治っている証拠だ
 …と、自信たっぷりに書いてあります。”

 
 残りの四つの準備することがらについても、松居さんはご自身の納得いく言葉に置きかえていらっしゃいます。
 それはまた次回お話しすることにいたします。