以前ブログで、『微笑む禅 生きる奥義をたずねて』(松居桃樓(楼)(とおる) 著)という「天台小止観(てんだいしょうしかん)」について書かれた本をご紹介しました。
認知症の老犬を介護するにあたって、当初私は「怒り」の感情をコントロールすることができずに悩んでいましたが、この本のおかげで、それがだいぶできるようになった気がします。
なので、後々忘れないようにその内容をブログにまとめておこうと思いたちました。
現在も介護中の為、少しずつですが、何度も反復しながら進めていきたいと思います。
もしも、私のように介護のストレスで悩んでいる方のお役に立てることがあれば幸いです。
“「諸悪莫作(まくさ)、諸善奉行、自浄其意(ごい)、是(ぜ)諸仏教」
これは、要するに
「あらゆる悪いことは一切するな。いいことは、なんでも、一所懸命やれ。そして、常に、自分の心を、清らかにたもて。…これが、すべての仏たちの教えである」
この「七仏通偈(つうげ)」が天台小止観の、第一行目に載っているということは、たった十六字の詩が、天台小止観の全文と同じくらいの意味を持っているように、私(松居さん)には感じられたのです。
ところが、この、「善」と「悪」と「浄(きよ)くする」という言葉、いったい何を目安に決めるのか納得できず、ずい分長い間苦しみました。
しかし、ある時「一般的には、浄(きよ)くするということは、きたないものをゴシゴシ洗い清める意味にだけ使っているが、神や仏の立場からすれば、この世のなにものをも、きたないとか、みにくいとか、いやしいと見くださないで、すべてのものに平等の価値を認める…そのことが、本当の意味での浄(きよ)くすることであり、いわゆる清浄なんだ」という仏教的な解釈があることを思い出しました。
そうなると、七仏通偈(つうげ)の「自らその意(こころ)を浄(きよ)くせよ」ということは、前回お話した「いつでも、どこでも、なにものにも、ほほえめ」ということと共通しているように感じられます。そればかりじゃなく、天台大師は、この「なにものにもほほえむ心」すなわち「仏の心」なるものは、元来、誰もが生まれながらに持ってるんだ…と説いています。
だとしたら、その本来の「仏の心」に一歩でも近づこうとするのが善であり、それに背をむけることが悪なんだ…と解釈したら、どうなるでしょうか?
この仮定をもとにして、七仏通偈(つうげ)の「もろもろの悪は作(な)すことなかれ、もろもろの善は奉(うやま)って行なえ、自らその意(こころ)を浄(きよ)くせよ、これ諸仏の教えなり」を次の言葉に置きかえてみたんです。
一粒でも播(ま)くまい
ほほえめなくなる種は
どんなに小さくても
大事に育てよう
ほほえみの芽は
この二つさえ
絶え間なく
実行してゆくならば
人間が
生まれながらに持っている
いつでも
どこでも
なにものにも
ほほえむ心が輝きだす
人生で
一ばん大切なことの
すべてが
この言葉の中に
含まれている
もし、かりに、人生の最高目標は仏と一致すること…つまり「いつでも、どこでも、ほほえむことのできる人間になることだ」としたら、その境地に到達するための、直線コースの近道は、「ほほえめなくなる種は播(ま)かないこと」と、「ほほえみの芽を、大事に育てること」の二つ以外には、なんにも無いはずです。そして、この二つさえ、絶え間なく実行して行くならば、その他の修行は一切いらない…といってもいいでしょう。
となると、七仏通偈(つうげ)さえ、しっかりやれば、天台小止観の修行さえも、必要ないということになるんです。
ところが、この「一粒でも播(ま)くまい、ほほえめなくなる種は」というシロモノ、真剣になってやってみると、思ったほど簡単じゃないことがわかります。
思考力が正しく働いていなければ、何が「ほほえみの芽」なんだか、何が「ほほえめなくなる種」なんだか、判断ができません。かりに、その判断ができたとしても、感情が波だっている時には、「いけない」と思うこともやめられないし、「やるべきだ」と思うことも、なかなか実行できないものです。
さあ、そうなると、もういっぺんはじめから出なおして、天台小止観の止と観の練習をする必要が起こってくるわけですが、「持戒(じかい)清浄」の後半では、そういう「まったく俺はボロ雑巾だ」と自覚する人のために、心の洗い方、つぎのあて方、染めなおしのしかたを、あきれるほど懇切(こんせつ)丁寧に説いています。”
…次回「五つの手がかり(1)-2へつづく。
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