認知症の老犬を介護するにあたって、当初私は「怒り」の感情をコントロールすることができずに悩んでいましたが、この本のおかげで、それがだいぶできるようになった気がします。

 なので、後々忘れないようにその内容をブログにまとめておこうと思いたちました。


 現在も介護中の為、少しずつですが、何度も反復しながら進めていきたいと思います。


 もしも、私のように介護のストレスで悩んでいる方のお役に立てることがあれば幸いです。



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 “天台小止観のとは、「感情を波だたせないこと」であり、「思考力を正しく働かせること」です。”

 前回までは、止観の練習の前に準備する五つのことがらのうちの一つ、「持戒(じかい)清浄」が「ほほえみを大事にする」ということであり、頭では分かっていてもそれがなかなかできないという人は、体と心のしこりを解きほぐすことを繰り返し続けていけば、必ずほほえむことができるようになる、というところまでお話ししました。

 今回は、五つの手がかりのうちの第二番目「衣食具足(えじきぐそく)」、「きものと食べ物のととのえ方」についてお話ししたいと思います。

 “考えてみると、きものがふえるということは、財産や地位や名誉が、余計ほしくなることの第一歩であり、人間の業(ごう)や煩悩のはじまりです。だから、最も理想的なのは、「素っ裸でいること」です。
 しかし、それは現実的な方法ではなく、天台大師も、『もっとも、この方法は、精神的にも肉体的にも、よくよく健康な人でなければできないことだから…』と、あっさり撤回しています。
 実は、ここが天台小止観の非常に面白いところだと思えるんです。
 この本(『天台小止観』)が、いわゆる行(おこ)ないすました聖人や、その道をきわめた学者などばかりを、相手にしてない証拠だからです。
 悟りの道を修行したくっても意思が弱くて、どうしても徹底的なことができない…「だから、俺は最底辺のボロ雑巾だ」と、自分自身にあいそをつかしているような凡人にむかって、『あきらめてはいけない!あんただってやりようによっては、きっと仏と同じ境地に到達できるんだよ』と言って、教え導いてくれるのが、この止観の修行方法のようです。
 ですから、これからあとも、たびたびくり返されますが、修行のしかたを上•中•下と区別している場合には、その本当の対象は、いつも、最下級の、ボロ雑巾組にあるように思われます。
 というわけで、「衣類は、たった一枚の布だけ」という最上級のやり方ができなかったら、中級の人は、ひとが不用品として捨てた布で作った三枚のきものだけ。…つまり、外に出る時の外套(がいとう)と、ふだん着と、下着の、各々一枚ずつですが、それ以外は、一切所有しないという暮らし方。
 しかし、これも難しければ、仕方がありません。いよいよ最下級の人のための、衣類だけじゃく、すべての所持品、いや、すべての財産の問題です。
 そのことについて、天台小止観には、『とくに寒さが厳しい国に住む人や、精神的にも肉体的にも、あまり自信のない人は、中級の場合の、三枚のきもののほかに、百一の品物を持ってもいい』と、書いてあります。
 では、その百一の品物とは何々か?…などということは、気にする必要はありません。
 衣類にかぎらず、身の廻り品にせよ、家具にせよ、家でも、土地でも、財産でも、いくら多くてもいいんです。山のようにあってもいいんです。
 ただし、それには一つだけ、条件があります。
 その、山のような財産の中から、あなたが生きていく上に、絶対に必要なものと、そうじゃない余分なもの…つまり、本当は今すぐ、なくてもすむものを、頭の中でより分けてください。そして、もし、本来は不必要なものが、一つでもあったら、それを自分の私有物とは思わずに、『みんな、全人類の共有財産だ。それを今、私は世の中から預かっているだけだ』と考えてください。そして、是非とも必要な時には、「使わせていただきます」と、自分で自分にことわってから使うんです。
したがって、誰か他の人が、それを、あなた以上に必要とした時には、よろこんで貸すなり、分けてあげる…という、心がまえが大切なんです。お金にせよ、ものにせよ、「俺のものを俺が勝手に使うのが、何が悪い」という料簡(りょうけん)では、とても止観の修行は、やれません。
 まあ、とにかく、この『自分の財産は、のこらず全人類からの預かり物だ』という考え方を、いっぺん試してみてください。”

“さて、それを実行してくださったら、つぎは食べものの問題、つまり、くらしのたて方の問題ですが、この方は、上•中•下より一つ余計で、四つの階級に分かれています。
 第一級から三級までは、山奥で仙人のように断食同様の暮らしをしたり、あてもなく町の中で乞食生活をしたり、後援者の志を受けながら、山奥でたった一人で修行する…という出家生活のような現実的ではないやり方です。
 さあ、困った。それじゃあ手も足も出なくなる…とがっかりなさらないでください。例によって、最底辺の、ボロ雑巾組のための修行方法が、この次に、ちゃんと用意してあるんです。
 その、「第四級」の人の暮らし方を、天台小止観の原文には、『僧中の結浄食(けつじょうじき)なり』と書いてあります。
 この結浄食(けつじょうじき)というのは、きものや財産の場合と同じように、托鉢(たくはつ)して食物を手に入れたとしても、それを、自分一人のものとせずに、自分と一緒に共同生活している坊さんたち全体のものとしてさし出し、改めて、その中から、最少限度必要なものだけを、わけてもらってたべる…ということです。
 僧というのは、出家•在家の区別なく、もっとずっと広い意味で、仲よく修行を続ける人々の集まり…というのが本来の意味だという解釈もあります。
 元来、止観の修行は一人でやるのが理想ですが、意志が弱くて、どうしても単独で修行する勇気がないという人たちは、自分と同じような気持ちで、是非とも止観の修行をやりたいという同志を探し出して、お互いに助け合い、はげまし合うグループを作り、お金にせよ、ものにせよ、多く持っている人は多く出し、貧しい人は、少し出す。だからといって、修行のしかたには甲乙をつけず、みんな平等に助け合い、はげまし合って悟りの境地をめざして進む…これが、本当の意味での「僧中の結浄食(けつじょうじき)ではないでしょうか。”

 “要するに、この衣食具足(えじきぐそく)という項目は、直訳すれば、きものとたべもののととのえ方にすぎませんが、その根本の精神は、『我が物を我が物と言わず』という暮らし方と、『無条件で無限に助け合う仏道修行のグループ』を作ること…この二ヶ条に尽きると、私(松居さん)は解釈しています。”

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(2024.3.5 追記)

2024.1.6 愛犬を無事に看送り、2ヶ月ほどが経ちました。

そろそろ続きのブログを更新できれば…と思っています。