時代と人生 6 「神武景気」2年目、働きながら学ぶ烏城高校2年時代 | 5円玉持って岡南神社(八十路を生きる)

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車に乗れなくなった。歩くしかない。歩き始めはまず岡南神社。そこからはあちこち。感じたまま、思ったまま。子供の作文です。

    昭和30年(1955年)(16歳 烏城高等学校1年ー3月まで 4月ー17歳 烏城高等学校2


実質経済成長率(1970年基準)8.8

自由党と日本民主党が合同して自由民主党、右派と左派が合併した日本社会党の成立(55年体制、保守合同・社会党再統一)。神武景気。原子力基本法成立。紫雲丸事故。トヨタ・クラウン発売開始。

 

働く 竹内歯科商店2年目

植月先輩が卒業され、新しく奄美大島出身で烏城同級生の主島君が、共に働くことに成った。

主島君は、松田先輩岡山市内担当になり、さんちゃんは、西大寺・邑久・牛窓・虫明・鶴海・片上・日生・和気・吉永・三石など東部方面担当。自分は、倉敷・総社・水島・西阿知・船穂・玉島など西部方面の担当になった。(全員、自転車)

 

自分の日程は、

月曜日 倉敷市内(岡山のお店から倉敷へ)

火曜日 総社(倉敷駅の自転車預かり屋さんから総社往復)

水曜日 連島・水島(倉敷駅の自転車預かり屋さんから水島往復)

木曜日 倉敷市内(2度目)

金曜日 西阿知・船穂・玉島駅周辺(倉敷駅の自転車預かり屋さんから玉島駅の自転車預かり屋さん)

土曜日 玉島・勇崎・黒崎(玉島駅の自転車預かり屋さんから玉島を廻って岡山のお店へ)

だった。

自転車の荷台に、歯科材料の入った長方形の二段重ねの箱を括り付けて、歯医者さんを廻る。

 

父の魚の行商と同じ形態なので、そんなに抵抗感は無かった。坂道の押し歩き、土砂降りの中の雨合羽など、うっとうしいこともあったが、色んな所へ行ける楽しさ、一人前の大人扱いされている誇らしさの方が、気持の上で勝っていた。

高梁川の岸辺で、奥さんが作って下さる白米のお弁当の美味しかったこと。忘れられない。虫明の実家にいる時は、いつも麦飯だったし、お弁当など作ってもらうことは、ほとんどなく、昼食時間は、いつも家に帰って食べていた。往復40分位。

 

岡山市内周りの時に較べて、商品についてや、四方山話なども、少しは出来るようになっていた。

 

ほとんどの先生が、何か一つは買ってくださった学生服ではあるし、自転車で遠くから来ている、ご苦労さんという感じだった。有り難かった。少しはお店の役に立てているような気がした。

 

うっかり長話をすると、学校に遅れる。結構、あわただしかった。

 

学ぶ

どちらかと言えば、仕事に重点がある感じで、学校は息抜き的な感じだった。しかし、授業は真面目に受けた。

だからどうした。それがどうした。