5円玉持って岡南神社(八十路を生きる)

5円玉持って岡南神社(八十路を生きる)

車に乗れなくなった。歩くしかない。歩き始めはまず岡南神社。そこからはあちこち。
その間、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚など五感中心の感覚器官からの情報が、
感情・思考をもたらす。ちょこちょこメモにしてみた。

「あらたにす」は、「新’s」(ニュース)がテーマであるが、「あらたにん」には特定のテーマがない。いわゆる「つれづれなるままに」になりそうである。

<戦後混乱期>(「 戦後の写真」で検索すると、そのころの写真が、いっぱい出てくる。)

 

1945年(昭和20年)9月2日第二次世界大戦の終結から、1950年(昭和25年)6月25日に勃発した朝鮮戦争による特需景気(朝鮮特需)で経済復興の糸口をつかむ頃までと見なす。( ウィキペディアさん)

 

◎モノ不足による貨幣価値の急落

(3年半の間に、1銭だったものが1円に、1円だったものが100円に、10円だったものが、1,000円になった。)

 

1945年(昭和20年)10月から1949年(昭和24)4月までの3年6か月の間に、消費者物価指数約100倍となった(公定価格ベース)。闇価格は、戦中既に高騰していたため、戦後の上昇は、これより低い)。

敗戦後のインフレ年率59%であり、1947年(昭和24年)のインフレ率125%となった。( ウィキペディアさん)

 

そんな社会情勢の中、国民学校に入学した。

 

昭和20年(1945年)(6歳 裳掛国民学校初等科1年ー4月から)

 

 (3月10日)東京大空襲 (4月)アメリカ軍が沖縄に上陸 (5月)ドイツが連合国に降伏 (6月29日)岡山大空襲 (7月)ポツダム宣言 連合国側が日本に降伏を勧告する宣言 (8月6日)広島に原爆投下 (8月8日)ソ連が対日宣戦を布告 (8月9日)長崎に原爆投下 

(8月15日)ポツダム宣言受諾 太平洋戦争終結 (9月2日)第二次世界大戦終結(降伏文書調印)

 

ここから戦後へ

(10月)国際連合設置 (11月)選挙法改正 20歳以上の男女に選挙権 (12月)労働組合法制定

 

◎そんな激動の年だということなど、知る由もなく、4月から、2歳上の姉と一緒に、火の見櫓のもとに行き、そこに集まってきた1年生から6年生までの子供たちと一緒に、列を組んで学校へ行った。

新1年生は男子5人、女子2人だったと思う。(よーよーくん、ちからくん、さかえくん、かっちゃん?、自分、あけみさん、ひろこさん)

担任は栄先生、女の先生で優しかった。

この年の教科書は、

「敗戦直後、連合国軍の占領下で、教科書の超国家主義・軍国主義あるいは神道教材に対し、切り取り・貼り合わせ・墨ぬりなど削除の指示が文部省や都道府県、ときには学校現場の判断によって児童に出された。1945(昭和20)年末連合国軍総司令部の司令による修身・歴史・地理授業の停止と、翌年のこれらの教科書の回収がなされる。」(北海道教育大学付属図書館)

 

ということだったが、もらった記憶がない。

担任の先生或いは学校が、教科書を使わずに、独自内容で授業をされたのではないかと思われる。

 

昭和21年(1946年)(7歳 裳掛国民学校初等科2年) 天皇人間宣言 食料メーデー 日本国憲法公布 農地改革 公職追放

 

1946(昭和21)年度使用の暫定教科書は、削除対象外の残存教材をベースに多少の補充教材で編集された。例えば、初等科1年の「 ヨミカタ 一」3分冊で、第1分冊(1ネン上)は、16頁刷り放し( 本文13頁)の新聞用紙に印刷した、製本もされていない、本文2段組みの粗末なものであった。使用に際して、ナイフを入れA5版に切り揃える ことから始まり、概ね他教科も同様の体裁であったため、別に「折りたた み教科書」あるいは「仮綴じ教科書」とも呼ばれている。(北海道教育大学付属図書館)

 

昭和22年(1947年)(8歳 裳掛小学校3年 (3月)教育基本法と学校教育法が制定・公布 (4月1日)学制改革により国民学校廃止、初等科は新制小学校となる。ゼネスト 日本国憲法施行 地方自治法成立 

 

昭和23年(1948年)(9歳 裳掛小学校4年) 昭和電工事件 帝銀事件 

 

昭和24年(1949年)(10歳 裳掛小学校5年) ドッジライン実施 下山事件 三鷹事件 松川事件 湯川秀樹ノーベル賞

 

脱脂粉乳の給食が始まった。

 

<戦後復興期>

昭和25年(1950年)(11歳 裳掛小学校6年 朝鮮戦争勃発(朝鮮戦争特需により経済復興が加速) 警察予備隊発足

 

昭和26年(1951年)(12歳 裳掛小学校6年ー3月まで) サンフランシスコ講和条約 日米安全保障条約調印 ラジオの民間放送開始

自分が生まれた昭和14年(1039年)から、終戦前までのおもな出来事です。
 
基幹的な流れは、昭和4年(1929年)からの世界大恐慌。ブロック経済化、そこから来る戦争への道です。その10年目に、生を受けました。
 
戦争への道山場と最終局面の5年間を、乳児・幼児として過ごしたことになります。
 

昭和14年(1939年)(0歳) (9月1日)第二次世界大戦開戦(ドイツ軍ポーランド侵攻、英仏宣戦布告)  価格等統制令

昭和15年(1940年)(1歳) (9月)日独伊三国同盟成立

昭和16年(1941年)(2歳) (4月) 日ソ中立条約締結 (12月8日)真珠湾攻撃 太平洋戦争開戦  東京都配給制開始  国民学校令施行

昭和17年(1942年)(3歳)  (6月)ミッドウエー海戦 日本側大打撃

昭和18年(1943年)(4歳)  (11月)イタリアが連合国に降伏

昭和19年(1944年)(5歳)  学徒・女性の勤労動員 学童疎開

 
この頃の記憶は、イメージ的・断片的です。

 

家の近くの山にあったおぎょん様(小さな神社)に登り、その周りで走りまわって遊んだ。(「虫明城」の登り口だった、ということは後で知った。

同じ山には家のすぐ横に登り道があり、お母さんと一緒枯葉や小枝を取りによく行った。お父さん薪割りも手伝った。

秋にはお母さんと松茸を取りに行った。「ここはお母さんしか知らんとこじゃけん、人に言うたらいけんよ」と言われたことを覚えている。

 

山は東側で、少し西側に行ったところに、3メートル巾位の小川があった。船底を使った橋が架けられていた。

 

春から夏、特に夏は、その橋を中心に、川の中を上流へ行ったり、反対に下流にくだり、河口付近から広がる海辺の砂浜や石積みの波止場(「はとばな」と呼んでいた)で遊んだ。

 

何歳の時かわからないが、川岸を前掛けで顔を隠して歩き、落ちて気を失ったことがある。本人はなんのことかわかっていなかったが、両親や姉がとんでもなく心配し、慌てたことだったろうと今になって思う。

 

川の更に東側、興禅寺(岡山池田藩筆頭家老伊木家3万3千石の菩提寺)というお寺の境内だった。門が二つあって、最初の門を「大門」(でえもん)と呼んでいた。

 

お寺の横の小道を登っていくと、千力山(伊木家3代長門守忠貞は、怪力の持ち主であったらしく、知行地の虫明(むしあげ)では、親しみを込めて、「千力様」と呼ばれた。それを由来についた山名) がある。

 

お寺の境内の広場二つの門(よく登った)、千力山(夏の朝早く、水を持って行き、セミの穴に入れて、幼虫を取り、夜、蚊帳に止まらせ、孵化するまで見ていた。)も年間通しての遊び場だった。

 

遊び的だが、農作業も手伝った。田植え(苗も植えたが、オケラを追い回していた)、稲刈り(バッタと追いかけっこ)、サツマイモ植え、収穫。(ジャガイモその他も)

 

あれこれ当時の風景・人の顔とともに、思い出されてくる。

 

視覚(目で見る)が中心だが、聴覚(耳で聞く)嗅覚(鼻で匂う)味覚(口で飲食して味わう)・触覚(手足・肌で触れる)の五感を中心とした感覚器官が感じ起きてきた感情・思考も含めて、脳に残っているのだろう。

 

子供時代の新鮮な脳だ。ちょっとしたきっかけで、思い出がいっぱい出てくる。

 

この頃はわかっていなかったが、後から思えば、とんでもなく貧しかったんだということが判る。(近所周りの人も、皆そうだった。要するに戦争のため、日本全体が、とんでもなく貧しくなっていったのである。)

 

田植えをしたが、我が家の水田は、1畝(30坪)(約1アール)しかないので、1俵弱ぐらいしかお米がとれない。親子4人(父が出征している時は3人だが)1年間食べるのには、とても足りない。必然麦飯になり、さつまいも、じゃがいも、かぼちゃなども主食的になる。(は、水田より広く、1反(約10アール)あった)

 

姉はさつまいもが好きで、自分はじゃがいもが好きだった。ご飯代わりやおやつとしてよく食べた。

かぼちゃ(なんきん)がとれるころは、いつも手が黄色になっていた。

かぼちゃばかり、食べていたからである。

 

着るものは、ほとんどお下がり、従兄弟の哲ちゃん(父の姉おせんさんの子供で、3才年上)が着ていたものは、全部、自分のところへ来た。

などなど。

 

全国、お金(=モノ)の廻りが悪いから、一軒当りのお金(=モノ)も少ない。

「お国のために、出征した兵隊さんのために、天皇陛下さんのために,みんな耐えていた。」

 

兵士さんの数の推移

一番多い時は約700万人、その内、戦死した人は212万人

民間の人も、たくさん亡くなった。(当時の日本人口約7千万人)

 

第2次世界大戦における世界全体の死者数

(ウィキメディアさんによると)

第二次世界大戦における連合国枢軸国および中立国軍人民間人の被害者数の総計は5000万〜8000万人とされる。8500万人とする統計もある。当時の世界の人口の2.5%以上が被害者となった。また、これらには飢饉病気の被害者数も含まれる。

 

いくら、神様の思し召しとはいえ、いくらなんでも、ひどすぎる。

 

そんな時代の5才までだった。

だからどうした。それがどうした。

13日(火)からバーバが、出雲(雲南市掛合町波多)へ行った。(高速バス 岡山出雲市駅往復券 7,800円也)

 

今年亡くなった長兄(あんちゃん)の初盆に、参加するためである。

あんちゃん次女は、香り芽本舗の社長さんのもとに嫁いでいる。

長女と一緒に、初盆の世話に懸命のようだ。

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掛合町(かけやちょう)、竹下登元首相の出身地、今でも竹下酒造さんがある。 DAIGO(本名内藤大湖)は、登さんの孫

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特急「やくも」の方が早いが、高速バスの方が、料金が安い。

 

高速バス(ももたろうエクスプレス)約4時間 片道3,700円

特急「やくも」約3時間 片道6,380円

 

(自動車だと、早島ICから尾道松江自動車道吉田掛合ICまで、ETC料金1,940円、ガソリン代1,200円位、片道3,200円位2時間ちょっとで行ける。車に乗らなくなったので、やむをえない。

 

バーバが、メモを残していた。 

①朝だったら、6時ごろ、夕方だったら、7時ごろ水やりをすること。

②郵便ポストを見る。新聞を取り入れる。

③風呂に入る。

④タオルを変える。(台所とトイレ)

◎大風(台風)が来るから、窓を全部閉めて下さい。(15日夕方らしい)

他に、言葉で「掃除機を掛けといて」と言われた。

 

①は台風のお陰で、せずに済んだ。他はちゃんとやった。掃除機は、帰ってくる今日、やっと出来た。

 

要するに、母と子である。自分は、それでいいと思っている。

 

前に、ジョン・グレイという人の本、「ベストパートナーになるために 男は火星から、女は金星からやってきた」で、男の人と女の人との心理的な違いそこから来るすれ違いなどを知ったからである。

 

いつかまた、テーマとして、取り上げてみたいと思っている。

 

横道にそれた。今日の歩きは、いつもとは、逆なコース

 

うどん処「源久」さんから始まる。

バーバが居れば、お昼は、ソーメンざるそば冷麺などを作ってくれるのだが、居ないので、外で食べることにした。

 

自分は、朝 パン食、昼 麺食、夕 穀物食ということにしている。

 

穀物食というのは、白米だけのご飯でないということ。白米に五穀米或いは麦などまぜたご飯を食べるからである。中学を卒業するまで、ずっと麦飯だった。

 

写真のうどん処「源久」さんでは、いつも、素うどん(220円)を食べる。

 

要するに安く済むからだが、自分jなりの理屈は、「うどん」「だし」そのものを味わいたいから、である。
 
も、年寄りには、これ位がちょうどいい。久し振りにおいしかった。
 
ハピー
いつものように、(県内産無し)・惣菜・パンコース
今日のハピーは、台風一過・お盆明けのせいもあるだろうが、いつもの金曜日より、駐車場の車が多い。店内でも、お年寄りによく会う。
偶数月の15日は、年金支給日である。その所為かも知れない。
珈琲館(2時半頃)(いつもは、夕方6時前後)
多いスタッフも、ちいねえちゃん・ニューねえちゃん・西大寺キビキビおにいちゃん・黒シャツおじちゃん4人が頑張っている。)
 
窓側の席は、ほとんど埋まっている。いつものことだが、奥の喫煙席には、空席がある。(9月から、全席禁煙になる。)
 
自分は、奥の喫煙席端っこの一人用の席に、座ることが多い。
 
入り口すぐそばの4人席は、お母さんと幼児の二組。
中央付近は、祖母・母・孫3代組、家族4人組、友達組など。
自分の目の前の端っこの席は、老夫婦。
 
なんだか若い順的。お年寄りは、端っこが多いように思える。
(端っこに行く気持ちは、なんとなくわかる。年を取ると「どうぞ若い人よ、頑張って下さい。」になるからだ。)
 
多いと賑やかだが、特に、子供(幼児)の高音で、よく通る声がすると、とたんに、全体の会話も活発になる。不思議!
 
喫煙席奥の4人席おじちゃん二人がやってきた。
前にも来ていたことのある中央卸売市場おじちゃんたちだ。
 
岡山では、「おじちゃん」ではなく、「おっつあん」の方が、よく使われる。地域にもよるが。)
 
「おい、おめえ」「せいでなあ」「おえんでえ」。親しみのある岡山弁が、ポンポン飛び出してくる。きつそうであるが、そうではない。この言葉の方が、親近感があるのだ。
 
気持ちのいい時間を、しばらく過ごさせてもらった。
 
その後、岡南神社へお参りし、帰宅。
だからどうした。それがどうした。

昭和17年(1942年)ごろの写真(姉5才・自分3才)?

ゴム靴が印象に残っている。普段は裸足ぞうりだった。

着ているものも、いわゆるよそいきだ。帽子は、戦闘帽?。

 

父親の出征前に写したものだろう。

子供の頃の写真は、この1枚だけだ。

同じ日の父親の写真

(2枚とも、裏に同じ写真館の名が書かれていた。)

出征で、戦死もありうる という覚悟がうかがえる。(自分の感じ)

1929年(昭和4年)世界大恐慌

 

日本の歴史.comさんによると

 

1929年、アメリカで「ホーリー・スムート法案」が、連邦議会に提出されました。

この法案を提出したホーリーとスムートは、高い関税外国製品をアメリカ市場から締め出し、自分の関連する企業の利益を上げようとしたのです。

しかし、こんな法律が通れば、世界の貿易はマヒしてしまいます。

そんな不安から、ウオールストリートでは、株が大暴落、大不況がおとずれます。

 

この不況を打開するため、翌年、アメリカ議会は「ホーリー・スムート法案」を可決。

 

すると、世界中の国が、報復措置を取りはじめます。そして、わずか1年半25ヶ国が、アメリカ製品に対する関税を引き上げたのです。

 

アメリカが、自由貿易をやめ自国だけで経済をまわす「ブロック経済」に入ると、他の国も、自分の国を守るため貿易をなくしました。

 

当時、植民地を含めて世界の国の四分の一を占めていたイギリスも世界経済から脱退。

 

世界中が大不況にみまわれます。

 

このような世界経済の中、資源の少ない日本は、「自給自足圏を作って大不況を乗り切ろう」と考えます。

 

そして、日本と満州を一つの経済圏とする日満ブロック政策を打ち出します。

 

一方、第一次世界大戦で敗れたドイツでは、更に悲惨な状況に。

植民地を失い、巨額の賠償金を払い続けていたドイツは、貿易を封じられ、ハイパーインフレと大量の失業者を出してしまいました。

これを解決するといって現れたのがヒトラーだったのです。

ヒトラーは、賠償金の支払いを放棄し自給自足可能な国家をつくるために戦争に備えます。

 

また、資源を持たないイタリアでも、同様に国家社会主義化がおこります。

 

こうして、資源を持つ国は、「ブロック経済」で、貿易を遮断し、自国を守ろうとし、貿易できず大不況に苦しむ国、戦争により状況を打開しようと動き始めます。」

 

と、わかりやすく、書いてくれていました。その通りだと思います。

 

1929年(昭和4年)から、1945年(昭和20年)まで16年間世界(日本)の歴史はその方向でした。

 

1937年(昭和12年)1月1日に、姉が、お母さんのお腹から飛び出しました。

(お母さんはえらい! 全てのお母さんは、皆えらい!)

(口には出しませんが、男は、みんなそう思っていると思います。)

 

1937年(昭和12年)7月、日中戦争( 盧溝橋事件から)が、始まります。

 

その2年後の1939年(昭和14年)2月24日に、お母さんのお腹から私が飛び出しました。

 

最初の男の子(兄)を、3才で亡くしていたので、(亡くなった後、母は、雨が降ったら、傘を差しにお墓へ行ったそうです。) 私の誕生は、両親にとって大きな喜びだったようです。

 

1941年(昭和16年)12月 太平洋戦争(真珠湾攻撃から)が、始まりました。

 

つまり自分は、戦中時代生まれ、ということになります。

 

ゼロ才から6才(1945年(昭和20年)8月15日)まで、戦争中心の日本(裳掛村虫明)社会で、生活をしていたということです。

 

その中での断片的な記憶を、時代と関わらせながら、次の機会に、拾い出したいなと思っています。

だから、どうした。それがどうした。

あけぼの公園

さるすべりのピンクの花が、咲いていた。

 

子供の頃、家の裏庭にさるすべりの木があり、座敷から飛び付いて登ることが出来た。あのつるつるの木の感触が、蘇ってきた。

 

70年以上も前のことなのに、なにかのきっかけで、急に思いだす。

 

これも何かの理由があるに違いない。部品のひとつである脳のガタと関連があるのかも知れない?

 

「年を取ると、子供に還る。」 よく聞くことばだが・・・。

 

人間 基本的には、子供のころと、そんなに変わらないのではないか とさえ思えてきた。

 

神社にお参りし、ハピーへ。お盆関連がたくさんでていたが、いつものように、魚売り場、惣菜売り場、パン売り場をのぞき、二階へ。

 

珈琲館は、おおねえちゃん(調理)と、前にも見たことがある若いお兄ちゃん(接客)が、テキパキ働いていた。

 

お兄ちゃんに聞いてみると、西大寺店から、応援に来たのだということだった。

そういえば、ホームページスタッフの募集をしていた。

 

アベノミクス(超金融緩和)で、お金とモノの廻り方が良くなり、求人が求職を上回り、建設業界・外食業界などが、人手不足になっている。

この近辺でも、東南アジア系の人にあうことがよくある。(国が違っても、子供はやっぱり可愛い。

 

そういった社会状況が、こんな形で、出てきているのだろう。

 

おおねえちゃん・お兄ちゃんたちスタッフは、人不足・仕事量オーバーの中で頑張っている。

 

前もそうだったが、あらためて、お兄ちゃん・おおねえちゃんテキパキさ、接客態度に感心さされた。

 

珈琲館本部経営陣のおじさんたちわかってくれえー!

(待遇改善をしてあげてくれい!)

 

窓から見える金甲山は、くっきりとした稜線を描いていた。

科学的な説明のブログがありました。
「世界の子育て」ブログさんです。
 
要約ですが
 
「なぜ赤ちゃんを可愛く感じるのか」
 
1、おっぱいをあげるから
 
赤ちゃんがおっぱいを吸う刺激が、母親の脳に伝わると2種類のホルモンが出てきます。
 
ひとつは、プロラクチン。もうひとつはオキシトシン
 
こっれらのホルモンの主な働きは、プロラクチンは、母乳を作ること、オキシトシンは、母乳を押し出すことなのですが、実はこれ以外にも重大な働きがかくされているのです。
 
オキシトシンは、別名「愛情ホルモン」とも呼ばれています。
このホルモンが出てくると、母親はどうしても子供に愛情を感じてしまうのです。
WHO(世界保健機関)のガイドラインにも、「オキシトシンは心理状態を穏やかにし、ストレスを減らす」とあり、そのリラックス効果が認められています。また、「母と子の愛情を強め、結び付きを促進する」とあります。
 
同じくWHOによると、プロラクチンには、母親をリラックスさせ、眠くさせる効果があるそうです。
母親が夜中に何度も起きて授乳するのは、本来なら相当辛いことです。
でも、プロラクチンのおかげで、むしろゆったりとして、幸せな気分になっているのですね。
 
赤ちゃんには、母親を愛で満たすホルモンを、母親の体内に、一日のうちに、何度も量産させる力があるわけです。
そうやって、母親にとって紛れもなく、一番可愛い存在になっていくのですね!
 
2.肌が触れ合うから
 
うちは粉ミルクなんだけど!と思ったお母さん。
母乳をあげていなくても、オキシトシンやプロラクチンは、分泌されているんです。
実は、これらのホルモンは、肌のふれあいによっても、分泌されるものなのです。
母乳育児じゃないママでも赤ちゃんを抱っこしたり、お世話したりで、四六時中、触れ合っていますよね。
そうやって、愛情のホルモンが、母親の体内にドバドバ出てきているのです。
 
3.赤ちゃんの匂いに魅惑されるから
 
「ドーパミン」って、たまに聞きますよね。ご存知のとおり、快楽物質です。
新生児の匂いによって、女性の脳内にドーパミンが分泌されることが、実験で確認されたそうです。(ドイツ、カナダ、スウェーデン、アメリカの研究者チームにより、生後2日の赤ちゃんに対する実験)
出産後の母親は、まるでドラッグに依存してしまったかのように、赤ちゃんを求めてやまなくなってしまうのです。
 
ということでした。
「種の保存」のために、人間を含めて、「雌雄異体」の動物たちは、長い歴史をかけて、そのような能力を発達させてきたのだろう、と思われます。(勝手な解釈ですが)
だからどうした。それがどうした。
 
○ この中の動画の赤ちゃんが、たまりません。(下のバナー)
オーストラリア商品のお店なので、オーストラリアの赤ちゃんなのでしょう。
同じような日本の赤ちゃんの動画も見たいものです。
子育てブログを、いくつか探してみましたが、画像はあっても、赤ちゃんの動画はありませんでした。
 
ブログにこだわり過ぎました。YouTubeに可愛い赤ちゃんの動画がいっぱい有りました。
 
 

公園でも、ハピーでも、歩いている時でも、子供によく会う。

文句なしに可愛い。

 

年を取るほど、可愛さが強くなってきたような気がする。

なんでだろう?

 

ハンク・グリーンさんのブログによれば

「赤ちゃんには、次の世代を行き抜く遺伝子がつまっています。

その大切な赤ちゃんを、何年もかけて守り抜くためには、守り抜こうという意欲を起こさせるものが必要。それが「かわいさ」なのです。

人間の赤ちゃんを育てるには、大変長い時間がかかりますが、「かわいさ」があるからこそ、長い時間をかけて育てることが出来るのです。

 

つまり、進化論的に言えば「種の保存」のために、本能的「可愛く感じられる」ように、脳やその他の器官が出来上がっているということになる。

 

このあたりのことは、「幸せ論」とも関連がありそうだ。

だからどうした。それがどうした。

 

○ 赤ちゃん関連のアフィリエイトバナーを、貼らせていただきました。

写真を見るだけでも、「かわいい」ので。

あけぼの公園 盆踊り会場 本日開催準備完了

帰り道、会場に向かう浴衣姿のおばちゃん達(トータル20人位)とすれちがった。

(楽しい時間になりますように・・・・)

 

曲目が書かれていた。(8曲)

 

炭坑節

備前太鼓うた

備中松山踊り

児島湖花回廊音頭

河内おとこ節

ちびっこ音頭

東京音頭

やとさ

 

炭坑節・河内おとこ節・東京音頭は、全国区。

備前太鼓うた・児島湖花回廊音頭・ちびっこ音頭は、岡山市。

備中松山おどり・やとさは、高梁市。

おおまかな地域区分は、そんなところかな、と勝手に分類した。

地域版の

備前太鼓うた・児島湖花回廊音頭・ちびっこ音頭・備中松山踊り・やとさ

は、どんな歌詞なんだろう。わかる範囲で調べてみた。

 

備前太鼓うた(こちゃえ)

備前岡山 西大寺町 大火事に

今屋が火元で 五十五軒 コチャ

今屋が火元で 五十五軒 コチャエ コチャエ

 

京橋へんの魚売り 鯛や鯛

はもや きすごや 蛤や コチャ

はもや きすごや 蛤や コチャエ コチャエ

 

お前は浜の御奉行様 潮風に

吹かれて お色が真っ黒け コチャ

吹かれて お色が真っ黒け コチャエ コチャエ

 

べっぴんさんに もろおた 手ぬぐいを 川端の

柳の小枝に ちょっとかけて コチャ

柳の小枝に ちょっとかけて コチャエ コチャエ

 

出石(いずし) 三町(さんちょう) 小畑町(おばたまち)

裏は川

広瀬を上ばす(のばす) 高瀬舟 コチャ

広瀬を上ばす(のばす) 高瀬舟 コチャエ コチャエ

 

児島湖花回廊音頭 

まだ一般化されていないのか、ネットの検索では、出てこなかった。

 

(岡山)ちびっこ音頭

「岡山市 岡山ちびっこ音頭」で検索したら、YouTubeの動画があった。歌詞が、よく聞き取れない。

こんな感じ?

「でっかーい空には~  夢がある~

だ~か~ら ぼ~くたち~ 上を見る

あいうえ おかやま ちびっ子だ~

おかやま ちびっ子 いちにのさん

てをとり わになれ だいしゅうごう

ちびっ子おんどで と~んとこ とんでけ~」

 

備中松山踊りやとさ

 (また、ウィキペディアさんにお世話になる。)

 

地踊り

。代表的な歌詞を挙げる。 七、七、七、七調を基本(七、七、七、五調や七、五、七、五調もある)とし、長い物語調ではあるものの同様の形式の歌詞が繰り返される。上句と下句の間に「チョイト」、各節の最後に「ハアーリャサー ヨーイヤサ」という囃子唄を挟む

備中高梁 松山踊り(チョイト) 月の絵になる お城の矢場で(ハアーリャサー ヨーイヤサ)

ちょいと小粋な 姉さん冠り(チョイト) かけたたすきは 夜目にも紅い(ハアーリャサー ヨーイヤサ)

ヤトサ

詞型は地踊りと同じである。上句と下句の間に「ドッコイショー」、各節の最後に「ハーヤトサーコラサー ドショカーイナ」という囃子唄を挟む。代表的な歌詞を挙げる。

備中高梁 松山踊り(ドッコイショー) ハイ 月の絵になる お城の矢場で(ハーヤトサーコラサー ドショカーイナ)

ちょいと小粋な 姉さん冠り(ドッコイショー) かけたたすきは 夜目にも紅い(ハーヤトサーコラサー ドショカーイナ)

ヤトサは地踊りの曲に比してテンポが速い。終演前数コーラスはテンポを速めて高揚感を出すなど工夫される・

 

ということらしい。

 

浴衣のおばちゃんたち、元気な子供たち、お父さん・お母さんたち、おじいちゃんも、楽しめたかな!

だからどうした。それがどうした。

 

○年金だけでは、生活が苦しいので(4割引商品活用でも)、下のA8netで、アフィリエイトを始めました。

 

クリックに、時間を取られるのは、おいやでしょうが、もし、宜しければ、ワンクリック頂ければ幸甚です。(1円になります。気が遠くなるような話ですが・・・。)

 

珈琲館の従業員さんが、「幸せになるだろう」との根拠を、二つ挙げた。
 

一つは「立っていることが多い仕事」であるということ。

 

 簡単に言えば、年を取っても丈夫に過ごせるだろうということである。(ごく常識的だが、八十路の実体験・実見聞から来たものでもある)

 

もう一つは、「お客さんを相手にする仕事」であるということだが、これも重要だ。

 

「人間を知る」ことが出来るからである。

 

自分も人間だから、それなりに判っている。しかし、全ての人が、自分と同じわけではない。

 

同じではない、それぞれに特徴を持つ人に、多く接する言葉を交わす。

 

人を理解し、人とのコミュニケーションのより良い方法を考え、身に付けていく。

 

「幸せになるだろう」という二つ目の根拠の、八十路なりの理由である。

 

このことは、同じような仕事をしている人に、全て通ずる。ただ幸せの条件は、この二つだけではない。

 

生きていくのに必要なモノ、安定的に、将来にわたって、手に入れられるかということも、極めて重要な「幸せ」の条件である。

 

ほとんどのモノ、お金を仲立ちに手に入る。(つまり、将来にわたっての安定的な収入が、極めて重要な「幸せ」の条件ということになる。)

 

(そんなことは常識だ。誰でもそう思っているわい。)

 

ただ、このことのためにも、上の二つの条件は、有効だろうと思われる。

 

仕事の中で培われた「健康・元気・丈夫」と、「いろんな人の理解・さまざまな人とのコミュニケーション能力」は、安定的収入を得るのに、きっと役立つだろうと思われるからである。

 

ただ、この3番目の条件は、時代・社会環境によって、大きく影響を受ける。

 

若い時には、良くわかっていなかったが、今になってみると、なるほどそうだったのか、個人の努力だけでは、どうしょうもないことが、一杯あったんだなあということに、気がつき出した。

 

いい例が、就職氷河期だ。その時代に遭遇した若者たちは、安定的収入が、得にくい一生になっている人が多い。

 

個人の努力では、どうしようもない経済・社会環境だったからだ。

 

自分の一生も、時代に振り回されている

 

いつか、時代の流れとあわせながら、これまでの人生を振り返ってみたくなった。

だからどうした。それがどうした。

あけぼの公園  盆踊りのやぐら準備完了

鉄棒 今日もブラ下がり2回と簡単足ストレッチ

「一期一会」(ご縁)

4人の小学生男子(木に登りかけたり、おしゃべりやらブランコ)と中学生のお姉ちゃん(スマホで電話していた)向こうの桜の木の下に、おじちゃんが二人。

 

ハピー岡南店惣菜売場 4割引さんありがとう!

カレイ中華あんかけ380円 ジャンボ骨無フライドチキン258円 カキフライ398円 総計×0.6=669円 購入。

夕食では、カキフライだけで充分だった。(手作りのキュウリもみなどと共に)

お陰で、今日も熱中症にならず、一日の生をいただいた。「神様の思し召し」に感謝。

 

珈琲館岡南店入口

「一期一会」(ご縁)

今日は珍しく、ちいねえちゃんおおねえちゃんの二人だけだった。

例の如く、コーヒー一杯

メモ帳を引っ張り出して、ゴチョゴチョあれこれメモ。

お客さんは、おっちゃん一人に大阪弁のおばちゃん二人(賑やかおしゃべり)。

 

ところで、ちいねえちゃん、おおねえちゃんだけでなく、他のスタッフの人にも、余計なことだが、「幸せになるよ」ということを言う。

 

根拠は、二つだ。

一つは、立っていることが多い仕事である、ということ。

もう一つは、お客さんを相手にする仕事である、ということである。

 

立っていることが多いということは、足腰が鍛錬されているということである。直立歩行する人間は、基本的に無理をしている。地球の重力に逆らっている度合いが、他の動物より大きい。

 

年を取ってくると、立っているために必要な足・腰その他の骨・筋肉などの部品ガタが来る。

 

立っていることが多い仕事をしてきた人は、そのガタが来るのが遅くなる。

 

小さい時に、山や野原、川や海を走り回っていた人も、同じであろう。

 

あけぼの公園で、2才の女の子が、暑い中を走り回っていた。

「この子は、きっと幸せになるだろう」と勝手に断定した。

この理由からである。

 

「幸せとは何か?」ということについては、人それぞれに違いがあるかも知れない。

 

しかし、身体がついつい前かがみになり易くなった八十路からすると、部品のガタが遅い身体という事が、「幸せの第一条件」に思えてくるのである。

 

長くなった。二つ目の根拠は、次の機会に。(既に、ご推察かも知れないが・・・。)

だからどうした。それがどうした。