5円玉持って岡南神社(八十路を生きる)

5円玉持って岡南神社(八十路を生きる)

車に乗れなくなった。歩くしかない。歩き始めはまず岡南神社。そこからはあちこち。
その間、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚など五感中心の感覚器官からの情報が、
感情・思考をもたらす。ちょこちょこメモにしてみた。

「あらたにす」は、「新’s」(ニュース)がテーマであるが、「あらたにん」には特定のテーマがない。いわゆる「つれづれなるままに」になりそうである。

大相撲の途中で家を出た。今日は負けたが、やはり炎鵬が面白い。あの小さな身体で、大きな人を倒す動きには感心する。炎鵬の相撲自体が面白い。横綱2人の休場優勝争いが面白くなった。隠岐の海の連勝がいつまで続くか、優勝争いに絡むのか、同じ島根県出身のバーバ興味深深のようだ。

 

あけぼの公園

鉄棒にぶら下っていたら、後から来た初老のおじさんが、隣の低い方の鉄棒足のストレッチを始めた。鉄棒が終わると、「お元気ですねぇ」と言われた。矢張り、八十路は八十路だじいさんだということを改めて自覚した。

 

神社に向う。グランドを走り回って居た3才位の女の子とお母さん、さらに、さっきのストレッチおじさんも来た。「可愛いねぇ」とストレッチおじさん。「リンリン鳴らしておいで」と自分。バイバイすると一生懸命バイバイする。ほんとに可愛い。「一期一会」

 

大げさだが、人間としての種族保存の本能が、可愛いと感じさせるようになっているのだろう。

 

しかしながら、東アジア地域の人口は、日本にしても、韓国にしても、台湾にしても、まだ顕在化してはいないが中国にしても、これから減少していく。(アフリカは増加)

 

日本の場合、現在の1億2千万人が、予測によると、2070年頃には7千万人位になる。終戦後、自分が小学校に入学した頃の人口だ。

 

韓国の場合、合計特殊出生率(1人の女性が出産可能とされる15歳から49歳までに生む子供の数の平均)は、昨年 0.981を切った。日本よりも減少傾向は大きくなる可能性がある。(日本1.4

 

ダーウインの進化論が正しければ、明らかに東アジアの各民族は自然淘汰されつつあるということになる。

 

自然淘汰されつつある韓国と日本が、お互い喧嘩しあえば、更に自然淘汰を促進させる可能性が大きい。

 

神様は、「愚かな事よのう」苦笑いされているかも知れない。

しかし、それが「神様の思し召し」なのかも知れない。馬鹿なことでもやむをえないか?

 

ハピータクン 魚売り場

岡山産が並んでいた。

左はタイ、中央は赤ゲタ(イヌノシタ)、右は黒ゲタ(コウライアカシタビラメ) 小型底びき網漁業や刺網などで漁獲される。

 

バーバは、匂いが苦手で、あまり魚は食べないが、ゲタだけは、喜んで食べる。食べ易いからかも知れない。特に黒ゲタは美味い。

 

珈琲館 おおねえちゃんとちいねえちゃん

金甲山がスッキリ日曜日なので駐車場の車も多い。

 

この時間、お客さんは少ない。禁煙になって増えるかなと思っていたがそうでもないようだ。

 

おおねえちゃんにも、若い男の人に対する「なるほど」「有難う」論

「余計な一言」をしゃべっていたら、勘定をするのを忘れていた。

おおねえちゃんに言われて、払って、おつりをもらったのに、それも忘れて催促した。少々、ボケが来たかな? 誤解を受けねばいいが・・・・!

だからどうした。それがどうした。

◎ 昭和31年(1956年) (17歳 烏城高校2年ー3月まで 4月ー18歳 烏城高校3年)

 

  実質経済成長率 6.8%

 

  原子力委員会設置。日本原子力研究所設置。ソビエト連邦と国交回復、日ソ共同宣言・国際連合加入。

 

働く 竹内歯科商店3年目

家が改築され、お店の2階に広い部屋が出来、さんちゃんと自分はその部屋に移った。お店から上がってすぐの部屋には、テレビ(白黒)も置かれた。(洗濯機もこのごろだったと思う。)「三種の神器」

テレビもそうだが、何よりも自分たちにとって画期的だったのは、オートバイを導入してくださったことだった。

さんちゃんにはヤマハ125cc。自分にはスズキコレダ125ccが割り当てられた。

 

もう2人とも大興奮である。早速に原付2種の免許を取り、仕事に使い出した。

月曜日 倉敷市内(岡山のお店から倉敷へ)

火曜日 総社(倉敷駅の自転車預かり屋さんから総社往復)

水曜日 連島・水島(倉敷駅の自転車預かり屋さんから水島往復)

まだ水島コンビナートが形成される前で、田んぼや畑も多かった。(自分の住んでいる岡山市の岡南地帯もそうだが、水島の変わりようは、とんでもなく凄い!

倉敷紡績倉敷工場・岡山工場・日本紡績総社工場など繊維工業が盛んな時代(軽工業中心時代)。水島では新三菱重工業(現在の三菱自動車)オート三輪を作っていた。星野仙一さんのお母さんが寮母をしておられたのはこの頃?)(烏城高校にも紡績工場で働いている人も来ていた)

木曜日 倉敷市内(2度目)

金曜日 西阿知・船穂・玉島駅周辺(倉敷駅の自転車預かり屋さんから玉島駅の自転車預かり屋さん)

土曜日 玉島・勇崎・黒崎(玉島駅の自転車預かり屋さんから玉島を廻って岡山のお店へ)


この日程も「ラン ラン ラン!」である。坂道なんぞ「スイ スイ スイ!」。とんでもなく楽になった。雨が降っても、濡れている時間は以前の半分か3分の1。廻る時間もグッと短縮。少々の長話のゆとりも生まれた。

春夏秋のオートバイは快適だったが、はとんでもなく寒かった。(気候温暖化の進んだ現在に較べて、当時の冬は寒かった。虫明でも雪が降り、雪合戦などした思い出がある。)。ジャンパーの下に新聞紙を入れて寒さをしのいだ。

 

服装も変わった。学生服から、生まれて始めてのジャンパーへ。

学生帽も被らなくなった。

丸坊主から長髪へ、散髪屋さんでパーマを当ててもらったが、じぶんの写真を見て、「なんだこれは」 格好良くないじゃないかと1回だけでやめ、七三に分けるようになり、ポマードなどというものも付けるようになった。

少年から青年へ。田舎の素朴な子供から町の若者へ、といった感じになっていった。

学ぶ

学年ごとの科目・内容・教えてくださった先生方など覚えてはいるが、さだかでない。16日(月)に同級生だった岩田さん岡山県職員として長年勤務)と藤原の忠さん(烏城高校の紹介で山陽新聞社に入社、退職後も関連業務に携わっている)と3人で会い、あれこれ確かめあうことになった。

だからどうした。それがどうした。

自宅から出てすぐのところに用水がある。用水に沿って200m位歩くが、その岸辺が季節を感じさせてくれる。枯草が目立ち始めた。昼はまだ暑いが、朝夕はぐっと涼しくなり、こおろぎもうるさくなり始めた。空に入道雲(積乱雲)がまだ残っているが、とにかくを感じさせてくれだした。やはり、四季のある日本はいい。晴れの国 岡山はいい。

あけぼの公園

4組の人たちが居た。3人はソフトボールのバッティング。この間「ボールをにらみつけて打ってごらん」といった男の子のグループだ。お父さんでなく、おじいさんがピッチャーをしていた。ボールが高目だ。この間は打てるようになっていたのに、今日は空振りばかりだった。「にらみつけていない」、目がすぐボールから外れる。でも今日は余計な一言は言わなかった。その内当たるようになる。あせるな、あせるな。

 

外野の方では2人がゴロ取りの練習をしていた。小3位だったが、こっちは巧い。「うまいなぁ!」と言った途端、後ろへそらした。余計な一言だった。

砂場ではお母さんと3才ぐらいの男の子。かわいいねぇ!

もう一組はおじちゃん3人組、ジャングルジムに座っていた。

お参りを済ませて、バス道へ出、ハローズへ。

バーバが、4割引のバナナをよく買ってくるお店だ。

朝、ヨーグルトバナナ、缶詰のミカン(缶切役は自分。バーバは左利きなので缶切は苦手。自分は天満屋ステーションパーラーのバイトの時、行って直ぐの仕事が、ミカン缶と桃缶の缶切役だった。)、林檎の薄切りを入れたフルーツヨーグルトを毎日、パンと一緒に2人で食べる。

だから、バナナが直ぐ無くなる。バーバ野菜果物が好きなので、見る楽しみも含めて、ハローズへも来る。

魚類は加工したものが多く、生魚は少ない。

ハローズ(24時間営業)の出発点は、府中スーバーマーケットである。府中市は広島県の内陸部で、そういったことも影響しているのかも知れない。(その後、本社は広島県福山市→広島県深安郡神辺町→岡山県都窪郡早島町)

ハローズサツマイモ(鳴門金時)だけを買い、ジョイフルへ。

涼しくなったからか、沢山のお客さんだった。お客さん係りは、1人だけ、これは大変だろうに。

喫煙席もいっぱい。「珈琲館」「ガスト」禁煙になった。その分、ここへ流れてきたのかも知れない。遅かれ早かれ、ここもその内禁煙になるだろうが・・・。

これだけ多くなると話も賑やかだ。前のおじさん2人も、しきりに話しこんでいる。特に隣の4人のおばさんたちは凄まじかった。笑いも含めて豪快に喋りまくっている。人間だけ言葉を持つて会話をする。人間だからこそだ。いいことなんだ。頑張れ!

だからどうした。それがどうした。

以前、車に乗っていたとき、ガソリンスタンドが、Tカードを作ってくれた。大分前なので、真ん中辺りが折れてきた。

 

ツタヤで使えていたので、持って行って、新しいカードを発行してもらった。(108円 無料かと思っていたが、そうでは無かった。甘い。)

 

一時、ツタヤのレンタルDVDを利用していたが、(「剣客商売」・「鬼平犯科帳」など日本の時代劇・渡瀬恒彦主演の「十津川警部シリーズ 」など。 イ・ビョンフン監督の韓国時代劇「チャングム」「イサン」「トンイ」など。 )プレイヤーが故障して、利用しなくなった。

ネットで同じ動画が無料で見えるということがわかったことも大きい。

 

イ・ビョンフン監督の作品は、ほぼ同じパターンで、下層階級(特に女性)から、艱難辛苦を乗り越え、上流階級へという物語である。

 

どこの国でもこういう例は多くあるが、韓国社会特有の体質も伺える。

(参考 ウィキペディアさん 「朝鮮の儒教」内の「儒教的習慣による問題」 )

納得。なるほど、そういうことも、現在の「反日騒動」に関係しているのかと思った。

いずれにせよ、「憎悪」を掻き立てて、政治利用しようとするのは、間違っている。永続するはずが無い気の毒に!

 

カード作成後、ハピーへ(火曜日は、「パンの日」(3割引))。

 

魚売り場

岡山産の「赤メバル」「シズ」が、美味しそうに並んでいた。

「シズ」は、味は好き好きだが、珍しい

「赤メバル」は、白身がポロっと取れて、食べやすく美味しい。身の部分が少ないが、身を食べた後、頭や骨にお湯を掛けて飲むと、いいだしが出て、これも美味しい。

 

珈琲館

今日はちいねえちゃんとニューねえちゃん。平日で、時間的にもお客さんが少ない時間なので、ゆっくりししている感じ。

 

例の如く、「レギュラー」(420円)。特に言わなくても、心得て、持ってきてくださる。「どうもどうも」である。

 

お客さんが居られなかったので、コーヒーを持ってきてくれたちいねえちゃんに、また余計な一言を言った。

 

「男の人は、「なるほど」と「ありがとう」という言葉に、価値を置く。

女の人は、言いにくいだろうけど若い男の人に言って、反応を確かめてみて。おそらく目が優しくなるはずです。それが、3番目の幸せの条件だと思います。」と。

このじいさん、変なことを言うなあ、と思われただろうが、お客さんということで聞いてくれた。試してみてくれるかな???

 

コーヒーについて調べてみた。

○苦味重視で飲みたいとき

マンデリン(インドネシア) ジャバロブスタ(ジャワ) ベトナムロブ

(どんなコーヒーでも、深炒りすると苦くなる)

○酸味重視で飲みたいとき

キリマンジャロ(タンザニア) ハワイコナ モカ・マタリ(イエメン)

モカ(エチオピア)

(どんなコーヒーでも、浅炒りすると酸味が増す。)

○バランス重視で飲みたいとき

フラジルサントス コロンビア

だからどうした。それがどうした。

    昭和30年(1955年)(16歳 烏城高等学校1年ー3月まで 4月ー17歳 烏城高等学校2


実質経済成長率(1970年基準)8.8

自由党と日本民主党が合同して自由民主党、右派と左派が合併した日本社会党の成立(55年体制、保守合同・社会党再統一)。神武景気。原子力基本法成立。紫雲丸事故。トヨタ・クラウン発売開始。

 

働く 竹内歯科商店2年目

植月先輩が卒業され、新しく奄美大島出身で烏城同級生の主島君が、共に働くことに成った。

主島君は、松田先輩岡山市内担当になり、さんちゃんは、西大寺・邑久・牛窓・虫明・鶴海・片上・日生・和気・吉永・三石など東部方面担当。自分は、倉敷・総社・水島・西阿知・船穂・玉島など西部方面の担当になった。(全員、自転車)

 

自分の日程は、

月曜日 倉敷市内(岡山のお店から倉敷へ)

火曜日 総社(倉敷駅の自転車預かり屋さんから総社往復)

水曜日 連島・水島(倉敷駅の自転車預かり屋さんから水島往復)

木曜日 倉敷市内(2度目)

金曜日 西阿知・船穂・玉島駅周辺(倉敷駅の自転車預かり屋さんから玉島駅の自転車預かり屋さん)

土曜日 玉島・勇崎・黒崎(玉島駅の自転車預かり屋さんから玉島を廻って岡山のお店へ)

だった。

自転車の荷台に、歯科材料の入った長方形の二段重ねの箱を括り付けて、歯医者さんを廻る。

 

父の魚の行商と同じ形態なので、そんなに抵抗感は無かった。坂道の押し歩き、土砂降りの中の雨合羽など、うっとうしいこともあったが、色んな所へ行ける楽しさ、一人前の大人扱いされている誇らしさの方が、気持の上で勝っていた。

高梁川の岸辺で、奥さんが作って下さる白米のお弁当の美味しかったこと。忘れられない。虫明の実家にいる時は、いつも麦飯だったし、お弁当など作ってもらうことは、ほとんどなく、昼食時間は、いつも家に帰って食べていた。往復40分位。

 

岡山市内周りの時に較べて、商品についてや、四方山話なども、少しは出来るようになっていた。

 

ほとんどの先生が、何か一つは買ってくださった学生服ではあるし、自転車で遠くから来ている、ご苦労さんという感じだった。有り難かった。少しはお店の役に立てているような気がした。

 

うっかり長話をすると、学校に遅れる。結構、あわただしかった。

 

学ぶ

どちらかと言えば、仕事に重点がある感じで、学校は息抜き的な感じだった。しかし、授業は真面目に受けた。

だからどうした。それがどうした。

日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期は、1954年(昭和29年)12(日本民主党の第1次鳩山内閣)から1973年(昭和48年)11(自民党の第2次田中角栄内閣)までの19年間である。この間には「神武景気」や「岩戸景気」「オリンピック景気」「いざなぎ景気」「列島改造景気」と呼ばれる好景気が立て続けに発生した。(ウィキペディアさん)
 

◎「神武景気」

1954年(昭和29年)12月から1957年(昭和32年)6月までに発生した好景気の通称。
 

日本初代の天皇とされる神武天皇が即位した年(紀元前660年)以来、例を見ない好景気という意味で名づけられた。

1950年(昭和25年)~1953年(昭和28年)における朝鮮戦争中、朝鮮半島へと出兵したアメリカ軍への補給物資の支援、破損した戦車や戦闘機の修理などを日本が大々的に請け負ったこと(朝鮮特需)によって、日本経済が大幅に拡大されたために発生した。
 

この好景気によって日本経済は戦前の最高水準を上回るまでに回復し1956年(昭和31年)の経済白書には「もはや戦後ではない」とまで記され、戦後復興の完了が宣言された。
 

また、好景気の影響により、耐久消費財ブームが発生、三種の神器(冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビ)が出現した。
 

1956年(昭和31年)末には景気が大幅に後退し、結局日本経済の上部だけを潤しただけということから「天照らす景気」と呼び変えられたが、この名前は一般的なものとはならなかった。

 

この好景気が終わると1年間のなべ底不況に陥っているが、その後には42ヶ月続く岩戸景気と呼ばれる好景気が発生している。(ウィキペディアさん)

 

「金の卵」

日本の昭和時代(戦後期)に高度経済成長を支えた若年(中卒)労働者のことをいう。1948年(昭和23年)に新制中学が誕生した際に小学校卒業までであった義務教育の期間が中学校卒業までの9年間に延長された。この学制改革を契機に、昭和20年代から戦後の「金の卵たる中卒者」が誕生した。

 

戦前の高等小学校(基本は2年制)が1948年に新制中学として義務教育化されたことで、中学卒業後すぐに社会に出る若者が生まれ、彼らが「金の卵」と呼ばれた。

 

高度経済成長を支えた「金の卵」であったが、学力が高いにもかかわらず家庭の経済的理由で全日制高校進学が困難となった若者も多く、公立中学校卒業後に企業で働きながら定時制高校・通信制高校に進学することも多かった。さらに大学の夜間学部・通信教育部に進学するものもいたが、逆に仕事はあくまでも単純労働であったことと、仕事と学業の両立が難しいことから、定時制高校のみならず、仕事も(1522%の高確率で)やめるものもいた。中卒・高卒の男女は大卒と比べ給与が低く、社宅など福利厚生の面でも大きな差があった。

 

1964年(昭和39年)「金の卵」の言葉が流行語となった。(ウィキペディアさん)

 

◎生活環境

公共職業安定所からも農村や地方の中学校に求人を出していた。求人倍率も3.3倍前後の高倍率であり人手不足であった。企業側から出向いて勧誘を行い、賃金や厚生施設を充実させ、また高度な技術を習得させた。

 

職種としてはブルーカラー(特に製造業)サービス業(特に商店や飲食店)での単純労働が主体であり、男子の中卒労働者の統計結果は工員が過半数を占め、次に多いのは職人であり、次に多いのは店員の順番であり、女子の中卒労働者の統計は工員が4で最多であり、次に多いのは店員であり、続いて事務員の順で多かった。男子とは異なり、女子はほとんどが25歳までに結婚退職する時代であったため、工場での補助作業や事務などといった補助的な職種に就く者が多かった。

 

労働条件や生活環境もかなり厳しく、離職転職者も多かった。各種の理由から勤続後の独立開業が困難であったため、戦前のいわゆる丁稚よりも厳しい環境であった。

 

若くして故郷から遠く離れ、孤独感や郷愁にかられることの多かったと考えられる地方出身者たちは、同様の境遇に置かれた者同士の交流を切望し、「若い根っこの会」に代表される各種のサークル活動が見られた。(ウィキペディアさん)

   昭和29年(1954年)(15歳 裳掛中学校3年ー3月まで 4月ー16歳 烏城高等学校1年

12日二重橋事件、31日にビキニ環礁で水爆実験が行われ、第五福竜丸の乗組員が被爆。洞爺丸事故。
 

○中学卒業が近くなり、進路に悩んでいた。父の手伝いをすればいいのだが、出来れば高校へ行きたかった。全日制の邑久高校へ行くには自転車が要る(約13km3里強)。授業料など学費も要る。家の状況を考えれば、とても無理な感じだった。

 

そんな状況の時、ビックリするような話が飛び込んできた。(神様の思し召し。ご縁。)(時代の中の人生。神武景気時代の「金の卵」の一員としての人生だということ。その頃は、そんな時代だったからなど、分かる筈もなく、個別の事象としての理解しか、出来ていなかった。)

 

「住込みでお店に勤め、定時制高校に行かないか」という話だった。お店は竹内歯科商店。話を進めてくださったのは数学の横山先生、お父さんが横山薬局というお店を運営されていた。裳掛診療所の歯医者さんを通じてかも知れない。そのあたりは定かでないが、とにかく飛び付いた。

 

遊び友達だった長島のさんちゃんと一緒に、4月から岡山市の野田屋町にあったお店住み込み(月給2千円)岡山県立烏城高等学校に入学した。(当時は、岡山県立朝日高等学校と同じ敷地内にあった。)

校門 向って右側が岡山県立烏城高等学校 左側が岡山県立朝日高等学校 の門札 背景は操山。

 

校舎敷地

右側が烏城 左側が朝日の校舎 共用の教室も多かった。

グランド右上のお家に、谷八十八教頭夫妻が住んで居られた。(生涯を定時制教育に尽くされた)

(詩吟部の生徒達がよく押掛けていた)

竹内の奥さんが、一番下の茂和君をおんぶして、天満屋バスステーションに迎えに来て下さったシーンを、未だにハッキリ覚えている。)

 

お店の家族は、ご主人、奥さん、おじいさん、おばあさん、ご主人の妹さん、小学校高学年の長女はるえちゃん、低学年の次女ひろこちゃん、幼子の長男茂和君の8人だった。細長いおうちで、一番奥の3畳間に自分とさんちゃん。次の間におじいさん・おばあさん。その次の間にご主人の妹さん(中国電力にお勤めだった)とはるえちゃん・ひろこちゃん。トイレとお風呂場・台所があって、その次の間(お店から上がってすぐの間)にご主人と奥さんと茂和君という配置だった。

 

おじいさんは、元中国電気工事に勤めて居られ、その頃の話などいろいろ話してくれた。おばあさんは、小柄だったが、しっかり者といった感じで、時々おじいさんがたしなめられたりしていた。女の子2人も、茂和君も可愛かった。4年間お世話になって、妹・弟のような感じになっていった。

 

ご主人も奥さんも、自分たちを大切にして下さった。ほんとに家族、或いは家族以上に大事にして下さる感じだった。(一度も叱られた覚えはない。奥さんも子供は叱っても、自分とさんちゃんには、小言など一言もなかった。)

とにかく、一番大変だったのは、奥さんだったろうと思う。幼子を育てながら、10人の大所帯の世話をするのだから。食事の支度・薪を焚いてのお風呂沸かし・子供の世話、お店番、買い物(すぐ近くに岡ビル百貨店があり、便利ではあったが)、とにかくやらねばならぬこと一杯、という感じだった。

「お母さんはえらい。」自分の母・さださん・亡き妻・今お世話になっているバーバも含めて、つくづくそう思う。

 

仕事はまずお客さん(岡山市内の歯医者さん)廻り(自転車)。

 

自分とさんちゃん別々に、ご主人或いは先輩(烏城高校の先輩でもあった4年生の植月さん又は3年生の松田さん)に連れられ、2手に分かれて歯医者さんを廻った。しばらくは先輩と一緒だったが、その内、それぞれ一人で廻るようになり、4人のうち、1人は店番をするようになった。(4人とも出ている間は、ご主人か奥さんが店番をされていた。)店番は、自分かさんちゃんが多かった。商品を覚える必要があったからである。

 

松風・GC・もりた・よしだ・おさだなどのメーカー。人口歯・レジン・印象剤・ワックス・石膏・研磨材などなどうっすらと覚えている。中でも印象に残っているのは金だ。当時5グラム3100円だった(徳力)(現在は3万円位かな?)。金など見たことも無い。注文を受けて持って行く時、気を使った。(無くすと大変ということで)

 

1人で廻るようになると大変だった。何をしゃべっていいのか分からない。植月さんは上手だった。とにかく話がうまい。注文もたくさん取って来ていた。自分は、「竹内です。何か御用はありませんか」、後はボーッと立っていた。商売とは難しいもんだ、とつくづく思っていた。(お店にはご恩返しがしたかったが、無理だった。今でも役に立ったんだろうか、あんまり役には立たなかったんじゃないかと申し訳なく思っている。)

 

4時半か5時ごろ、仕事を終え、登校する。野田屋町から城下を通り、岡山城の前を通って、公会堂(現在は県庁)の側を抜け、旭川に掛かっている相生橋を渡り、烏城高校(朝日高校)へ。校門近くになると、下校中の朝日高の生徒さん達とすれ違う。同じ角帽を被っているが、なんとなく複雑な気持だった。

 

自転車置き場では、おじちゃんがパン(木村屋?)を売っていた。お金が無いので、いつもというわけにはいかないが、時々買って食べた。美味かった。(1個10円?だったと思う)

 

1年生は、3クラス。同級生だった岩田さんによると、1クラス43人で、学年全体129人だったそうである。

2年生までは3クラスだったが、3年・4年は2クラスに減っていた。40人以上が辞めて行った事になる。

働きながら、勉強することの大変さをその数字が物語っている。

 

自殺する人も何人か居た。竹内歯科商店の近くの小児科病院に勤めていた一年下の感じのいい看護婦さんも自殺した。ショックだった。同級生にも居た。辛かった。戦後ほどでは無かったが、まだまだ、生き抜くこと自体、苦しいことが多い時代でもあった。

 

1年生の担任は数学の佐藤先生・世界史の木村先生・化学の山本先生。(自分は佐藤先生)

中学までは小学校1年からの同じ顔ぶれだったが、高校からガラッと変わった。さんちゃん以外、知らない顔ぶればかりである。必然、授業に集中するしかない。真面目に勉強した。

だからどうした。それがどうした。

あけぼの公園

例の如く、鉄棒ブラ下がりをしていると、男の子2人が、隣の鉄棒によじ登ってきた。同じようにブラ下がりをしたかったようだが、ブラ下がりの横棒にまで行けない。

「何年生?」「小学校3年生。」

「もう少し大きょうなったら、出来るようになるよ。」でも悔しそうだ。

 

「ぼく129センチで、背は高い方じゃけー」 もう1人の子も「お父さんは180センチじゃけーど。」 とにかく、今、出来るようになりたいらしい。

「危ねーけー、無理したらいけん。大きょうなったら、出来るようになるけえ、じゃ、又な。」

その向こうには、お母さんと2才ぐらいの男の子が、お花畑で遊んでいた。

みんな、こうして大きくなるんだ。あせるな、あせるな。

岡南神社お参り

手水舎でお清めを済ましたタイミングで、男の子(小学校低学年?)と女の子(保育園?)が、お清めに来た。

男の子は、慣れた手付きで、作法通りやり終えた(一口、水を飲んだかな?)。女の子は途中までは、同じようにしていたが、水を口に含むところで止めてしまった。)

お母さんは先に拝殿へ行っていた。2人もあわてて拝殿へ行き、鈴を鳴らして、お母さんに言われながら、二礼二拍手一礼した。

また、余計な一言が出た。

「元気で賢いお子さん達ですねぇ。お母さんは、きっと幸せに成られるでしょう。」(お世辞でもなんでもない。ほんとにそう思えたからだ。おそらく間違いないだろう。)

お母さんは、ニッコリして、帰っていかれた。

 

ハピー 大倉庫市は終わり、秋物の衣服がぶら下っていた。更に、16日の敬老の日を意識したような商品(椅子・隕石の飾り物など)が出ていた。

 

どんな商品に重点を置くか、企画の人が、毎日頭をひねっているのだろう。いつも感心するたくさん売れますように!

ネットでのモノの動きも、大きくなってきている。実店舗側も大変だ。)

 

魚売り場

せい・ハモ・ハモの子など地元産のものが目立っていた。

 

写真を撮る許可を、担当の人にお願いして、撮らせてもらったが、さてアップの仕方が分からない。

 

普通はケーブルでつないで、ファイルを開けば使えるのだが、スマホとPCをつないでもファイルが開けない。使用不許可になる。???

 

(分かってみれば、なんだそうだったのか、ということなんだろうが、分からなければ、どうにもならない。しばらく、あれこれ悩みそうだ。)

 

メールに添付して送ろうとしても、旨くいかない。

ガラケイの時は簡単だったのに。スマホは機能が有り過ぎて面倒だ。

 

とかなんとか、1人でブツブツ言いながら、あれこれやっていたら、出来た。良かった。分かった。

 

珈琲館

おおねえちゃんが1人で頑張っていた。9月1日から禁煙になって、お店の空気もきれいになったようだ(今まで自分が、汚していたくせに。スミマセン!)。灰皿の手間も無くなって、その点も良くなっただろう。

 

タバコを吸わないせいか、コーヒーが旨かった。じっくり、味わった。

 

今まで座ったことの無かった窓側の席に座ったら、店内全体が見渡せた。

おおねえちゃんと近くのお客さんにことわって、写真を撮らせて貰った。この写真もアップできない。⇒出来た。良かった。分かった。

まったくもって「無知を嘆くばかりである。」⇒出来た。良かった。分かった。

だからどうした。それがどうした。

 1951年(昭和26年)サンフランシスコ講和会議
 

セイロン代表ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナは、戦争中の空襲を指摘した上で、責任の所在・謝罪・反省を受け入れて、心の問題としての憎しみの連鎖が戦争に成る事を戒めた
 

憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む」
 

という仏陀の言葉を引用して、日本に対する賠償請求を放棄する演説を行った。(ウィキペディアさん)
 

現在の日韓関係は、まさしく「憎悪は憎悪によって止むことはない」状況です。

 

第二次世界大戦後の大韓民国の歴史教育は、「憎悪」を掻き立てることによって、国民を一つにまとめようとするが、強くあったように思います。

 

世界が、資本主義グループ(西)共産主義グループ(東)に分かれ、その対立の最前線となった朝鮮半島は、同じ民族でありながら、南と北に分断されました

 

日本だと名古屋辺りを境に、西日本と東日本が別々の国になったようなものです。(関が原の戦い的状況)考えただけでもゾッとします。

 

北朝鮮の人も、南朝鮮の人も、基本的には一つの国になることを望んでいるだろうと思われます。

 

在寅(ムンジェイン)大統領も生まれは北朝鮮です。

 

1953124日に巨済島慶尚南道巨済郡、現・巨済市)の巨済面明珍里南井村で二男三女の長男として生まれた。1949生まれの姉が1人、1955生まれと1957生まれの妹が2人、1959生まれの弟が1人いる。両親(父・1920生まれ、母・1928生まれと姉は鮮戦争最中の195012月に現在の北朝鮮の咸鏡南道咸興市興南区域(当時は興南市)から興南撤収作戦の際に、米国の貨物船「メレディス・ヴィクトリー号」に乗り脱北した避難民。祖父母は北に残したままだった。父は巨済島捕虜収容所で労働者として働き、母は鶏卵売りの行商をした。(ウィキペディアさん)

 

文大統領の理想は、北朝鮮と仲良くし、出来れば半島統一に向けて進み、中国やアメリカとも仲良くしたい。(どちらかと言えば、中国寄り。)ということのようですが、北朝鮮の金正恩さんは否定的なようです。

 

北朝鮮の政治体制は、人民民主主義をうたってはいますが、君主制と同じです。南の資本主義(財閥経済ですが)の考え方、未熟ながら選挙制度のある民主主義の考え方が入ってくると、自分の政治基盤が危なくなってきます。

経済制裁の緩和、外貨の獲得など自分に利することがあれば、仲良くする姿勢は見せるでしょうが、基本的には南と仲良くすることはないでしょう。

 

文大統領の方向は、「反日」も含めて、現実的ではないということになります。

 

経済状況の悪化(株価下落)が進めば、退陣せざるを得ない状況になるものと思われます。

 

韓国経済輸出依存度および貿易依存度非常に高く、その一方で内需に乏しいために世界経済の影響を受けやすい傾向にあり、これが過去のアジア通貨危機における経済危機の主因となった。貿易依存度盧武鉉大統領の時代は5060%であったが、リーマン・ショック後に更に高まり、2011には96%となっている。ちなみに日本は27%アメリカは25%中国は40%ドイツは60%である。輸出は相手国との政治的な要因によって上下動する傾向があるため、内需の拡大こそが安定した経済基盤を作るという主張が国内でなされているが実現に至っていない。(ウィキペディアさん)

 

大韓民国の少子高齢化

 

韓国統計庁の発表によると、総人口は早ければ2019年の5165万人をピークに減少に転じ、人口に占める65歳以上の高齢者の割合は、65年に46%に達する。

 

2018年の合計特殊出生率は、0.98世界で最低だった。(日本は1.42

だからどうした。それがどうした。

 

少し、涼しくなって歩き易くなった。

あけぼの公園

おじいちゃん?外野、お父さんピッチャー、お兄ちゃんキャッチャー、小1僕バッターで、ソフトボールをしていた。

小1僕ちゃんが、一生懸命バットを振るが、当たらない。ボールの下を振っている。つい、余計なお節介癖が出た。

「ボールを、にらみつけて、振ってごらん」。

効果はすぐ出た。に当たったピッチャー返し。それ以後、ほとんど、空振りは無くなった。

お父さんが、嬉しそうに言った。「1年生で、それだけ打てたら、すごいぞ!」

お節介屋さんも嬉しかった。が、ボールから早く離れる。小さい子にありがちだ。

「にらみつけて」で、防げるかも知れないと思ったのだが、小さい子は素直だ。当たるまで、ボールを見てくれた。ありがとさん!

 

嬉しい気持ちで、鉄棒ブラ下がり

神社に行く途中では、お母さんと少女二人、バトミントンをして居り、そこへさっきの小1僕が、走ってきた。

スポーツ一家の感じ。幸せ感を、分けてもらった。

 

お参りを済ませて、郵便局へ。

 

土日祝日用の窓口だが、20人位並んでいた。1台の機械で、一人の女性が大奮闘である。郵便物受取だけだったが、小一時間待たされた。(人件費節約、経費節約なんだろうが、まだ官的体質が残っているような気がした。民間程、お客様本位ではないような気がする。

仕方が無いことは仕方が無い。郵便局がどうなるかは、神様の思し召し。しばらくは、現状変わらず、待たされることが、当り前世界だろう。

ハピーへ。大倉庫市が賑わっていた。魚・惣菜売場は、いつも通り。

 

28日(水曜日)調べだが、表示されている魚の産地をメモしてみた。

 

サーモン=スコットランド・チリ・ノルウエー

きはだまぐろ=ソロモン

ブラックタイガー=スリランカ

バナメイエビ=メキシコ

やりいか=インド

 

さんま=北海道・宮城

ちりめん=静岡・広島

いしもち=兵庫

きす丸干し=島根

めばる=広島

たちうお・さわら・たい・しらす=愛媛

まさば=福岡

ぶり・ししゃも=大分

ぶり=宮崎

剣先いか・まあじ=長崎

あかいか=沖縄

 

あこう・あなご・わたりがに・まだこ・はも・赤げた・たい=岡山

 

とんでもなく広域である。(世界規模)

 

子供の頃の虫明魚市場は、虫明湾近辺の内(うち)海漁(小型・中型漁船 建網=定置網・刺し網)、小豆島近くまでの外(そと)海漁(大型船 引き網)などで、.採れたものを扱っていた。

魚種

アイナメ 赤シタビラメ(ゲタ)赤メバル(カサゴ)アジ アナゴ イカナゴ イボダイ(シズ)ウマズラハギ オコゼ カタクチイワシ(イリコ) カワハギ キジハタ(アコウ)=高級魚 キュウセン(ギザミ又はベラ)黒ウシノシタ(ゲタ)黒メバル クロダイ(チヌ)コウイカ コチ サッパ(ママカリ)サヨリ サバ サワラ スズキ(セイゴ→ハネ→スズキ)=出世魚 

タチウオ ニベ ハモ ヒラ ヒラメ メイタガレイ マイワシマコガレイ マダイ(桜ダイ) マナガツオ オキアミ ガラエビ シャコ ワタリガニ(ガザミ)イイダコ テナガダコ ベイカ(ベカ) マイカ ナマコ(赤ナマコ・青ナマコ)(このわた・このこ・ホシコ=珍味)マダコ 

サルボウ(貝)タイラギ(貝柱)マガキ(カキ)など多岐に渡っていた。

 

現在は、最後のマガキ(カキ)に集中している。隔世の感がある。

だからどうした。それがどうした。

日本の戦後復興期(自立期)が中学校時代

第二次世界大戦後の日本における「戦後復興期」は、大戦で敗北し、の影響力が大きかった民主政国家からそれを排した民主政国家に生まれ変わった直後の「戦後混乱期」(占領期)困難な時代を経て、その後に続く時期である。
 
具体的には、朝鮮戦争による特需景気(朝鮮特需)を機会に、混乱から脱出する1950年(昭和25年)頃から、1954年(昭和29年)の高度成長期が始まる頃までの期間となる。時の首相(総理大臣)は、その時期の大部分を吉田茂が占めた。(第3次吉田内閣ー第5次吉田内閣)。
 
そして1956年(昭和31年)には、国民所得第二次世界大戦前の最高水準である1940年(昭和15年)レベルに達し、(「もはや戦後ではない」)、戦後復興は一定の成果を得ることができた。
したがって、第二次世界大戦後の日本における本格的な戦後復興期は、一般的に朝鮮戦争が開戦した1950年(昭和25年)6月25日から1954年(昭和29年)11月30日までの期間を指す。(ウィキぺディアさん)

 

◎昭和26年(1951年)(12歳 裳掛小学校6年ー3月まで 4月ー13歳 裳掛中学校1年

 

サンフランシスコ講和条約(9月8日調印、翌1952年4月28日発効 連合国の占領が終わり、日本が主権を回復した。ソ連は署名せず、朝鮮民主主義人民共和国・大韓民国は、参加を許されなかった。現在の徴用工問題などとも関連している。) 日米安全保障条約調印。 ラジオの民間放送開始。

 

○担任 武内先生

小学校6年での変化は、そのまま、中学校に入っても、受け継がれた。要するに、優等生的になっていった。

5年生頃までの遊び中心、家の手伝い当り前生活が、勉強中心、読書当り前生活になっていった。

 

もう一つは、部活である。我が家のすぐ上に、姉と同級(つまり3年生)の,森のしげちゃんが住んでいた。男兄弟ばかりで、喧嘩も派手だった。

お母さんも気が強く、自分の父と同様、魚の行商をしていた。戦後の混乱期・復興期初期は,食糧不足時代、農業・漁業は、よい立場の産業だった。行商でも、需要は多かった。

 

そのしげちゃん(現在は東京在住。息子さんは、プロ野球の審判をされている)が、陸上競技部を創設しており、自分も入部した。

 

身長普通の1年生3人=自分はこの中=短距離(100m)校内では早い方だったが、郡大会に出たら、ビリだった。)

身長高めの1年生2人・2年生1人・3年生1人 中距離(400m)身長普通の3年生2人(しげちゃんはここ) 長距離(1500m)

という構成だった。

 

普段は優しかったが、部活になると、しげちゃんは厳しかった

軍隊式で、練習がタラタラしていると、「全員並べぇ」と整列させ、全員が、ビンタされた。

上級生下級生を、強く意識した時期でもあった。

 

◎昭和27年(1952年)(13歳 裳掛中学校1年ー3月まで 4月ー14歳 岡山市立丸の内中学校2年

 

 トカラ列島が本土復帰。日米行政協定が締結される。李承晩ラインが引かれる。主権回復。インドと平和回復(後にインドネシア・ビルマも平和条約締結。)

 

○姉と自分にとっては、とんでもない環境変化の年だった。

 

中学を卒業し、岡山市南方の油豆屋さんに就職した。

一緒に自分も、岡山市の丸の内中学校(現在は岡山県立図書館になっている。)に転校することになった。

 

その頃、19年生まれの妹23年生まれ=団塊世代=の弟が居た。生活が苦しく、口減らし的な措置だったのだろう。も、特に母親がつらかっただろうと思う。)

 

最初の住まいは、血縁ではなかったが、縁戚になる夕刊岡山の新聞記者さん(新婚さんだった)の借家に、同居させてもらった。

岡山市柳川交差点近くで、あまり広くないバラック的な平屋だった.。(住宅大工さん主体で、都会では、まだまだ建築が進んでいなかった。

 

親元を離れての、初めての都会生活でもあり、切なく、悲しい思いが強かった毎日、だったように思う。泣きはしなかったが、姉と慰め、励ましあったことを覚えている。

 

1ヶ月近く経った頃、岡山に早くから出ていた従兄弟(父の兄の長男 肇さん)方に、ご厄介になることになった。

 

肇さんは、裳掛高等小学校卒業後、水産乾物のお店住込みで就職し(いわゆる江戸時代の小僧さん・丁稚さん的な働き方)、辛抱強く働いて、当時は岡山水産乾物株式会社の社長になっていた。

 

その奥さん(さださん)が、「年端も行かない子供だけで、しかも新婚さんと一緒だなんて、とんでもない、うちにつれてこられー」と父に言い、お世話になることになったのである。(新婚さんと一緒だったらなぜいけないのか、当時はよくわからなかった。)

 

新しい生活が、また始まった。

食べる心配は、無くなった。しかし、家に居る頃に比べると、気を使うことが多くなった。

肇さんの子供は、きみちゃんよしのちゃんという姉妹だった。きみちゃんは、自分より1学年下よしのちゃんは、妹と同じ5才下だった。

女の子ばかりのところへ、急に男の子が入り込んで来たのだから、二人とも戸惑ったろう。(自分は自分なりに気を使ったが、二人もあれこれ気を使ったことだろうと思う。)

 

新しい丸の内中学校での生活には、すぐ慣れた。勉強はそれなりに付いていけたし、何より、友達が出来た。丸中表八ヶ町に近く、商店の子弟が多かった。商売人は、気さくで、人当たりがいい。子供たちもそんな感じで、すぐ仲良しになれた。

 

上ノ町藤井君とは、下校の方向も同じだったので、特に親しくしていた。(お店は今でもあるが、商品は変わっている。当時は果物屋さんだった)(中華そばのやまとさんを知ったのも、このころ)

元気かなあ!(1年足らずだったから、覚えていないかも知れないが)

 

そういった有難い毎日であったが、続かなかった。自分馬鹿なことをしたからである。

 

3学期に入って、里心が出たのか、新しい冒険がしたかったのか、「家出」をしたのである。(この時の心理状態は、未だに自分でもよく分からない。多感な思春期だった故、かも知れない)

 

とにかく、岡山駅に行き、山陽本線の上り列車に乗った。相生辺りであったろうか、車掌さんが検札に来て、あれこれ質問された。

泣きながら家出をしたことを話すと、次の駅で降ろされ、下りの列車岡山駅まで連れ戻され、迎えに来てくれていたおばちゃんや姉と一緒に家に帰った。

その後、自分は虫明に帰り、都会の丸の内中学校での生活は、1年間で終わった。(しかし、今から思うと、貴重な体験だった。)

は、家事見習いの形で、そのまま肇さんかたに、お世話になった。 、

◎昭和28年(1953年)(14歳 丸の内中学校2年ー3月まで 4月ー15歳 裳掛中学校3年

 

 テレビ本放送開始。奄美諸島が本土復帰。韓国に竹島が占拠される。

 

○担任 正富先生

元の裳掛中学校に帰り、懐かしい級友達との生活が、また始まった。始まった途端、どこでどう決められたのか、生徒会の副会長にならされた。(名誉職のようなもので、実質的な仕事は、特に無かった)

 

岡山の丸の内中学校から帰ってきた、ということが、影響したのかも知れない。

 

家の手伝い妹・弟達と共復活である。(が居ないのが、寂しかったが・・・)

陸上競技部は、森のしげちゃんが卒業してから、活動していなかったので、卓球をするようになった。(子供の時の遊びの延長、とにかく何か運動を必要とした)

 

この期に大きかったのは、読書である。学校からの帰り道に公民館があり、その中に図書室があった。吉川英治の三国志を見つけて読み始めたら、虜になった。14巻ぐらい有っただろうか、夢中で読んだ。

 

読み終えた後、同じ吉川英治の「宮本武蔵」も、全巻読み終えた。

三国志振り仮名付で、宮本武蔵振り仮名無しだったが、ほとんどの漢字が、読めるようになっていた。読む速度も速くなった。

 

結局、これが、その後の自分に大きく影響した。たいていの本なら読める(意味が分からなくても、字は読める。)。これは大きかった

 

今は予備校やら、学校でも補習などで受験勉強をするのが、当り前に成っているが、当時は、まして田舎の学校では、そんな概念はなかった。

 

高校へいく人も少なかった。ほとんどの人は、農業・漁業・商業などの家業に従事した。高校へ行くのは、官舎の子(愛生園・光明園に勤めていた人の子弟)が、ほとんどだった。(同級生でも1割、5人位

 

日本の戦後復興期(朝鮮戦争時)、自分の中学校時代は、そんな形で過ぎていった。

だからどうした。それがどうした。