時代と人生 5 「神武景気」1年目が、働きながら学ぶ烏城高校1年生(金の卵) | 5円玉持って岡南神社(八十路を生きる)

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車に乗れなくなった。歩くしかない。歩き始めはまず岡南神社。そこからはあちこち。感じたまま、思ったまま。子供の作文です。

日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期は、1954年(昭和29年)12(日本民主党の第1次鳩山内閣)から1973年(昭和48年)11(自民党の第2次田中角栄内閣)までの19年間である。この間には「神武景気」や「岩戸景気」「オリンピック景気」「いざなぎ景気」「列島改造景気」と呼ばれる好景気が立て続けに発生した。(ウィキペディアさん)
 

◎「神武景気」

1954年(昭和29年)12月から1957年(昭和32年)6月までに発生した好景気の通称。
 

日本初代の天皇とされる神武天皇が即位した年(紀元前660年)以来、例を見ない好景気という意味で名づけられた。

1950年(昭和25年)~1953年(昭和28年)における朝鮮戦争中、朝鮮半島へと出兵したアメリカ軍への補給物資の支援、破損した戦車や戦闘機の修理などを日本が大々的に請け負ったこと(朝鮮特需)によって、日本経済が大幅に拡大されたために発生した。
 

この好景気によって日本経済は戦前の最高水準を上回るまでに回復し1956年(昭和31年)の経済白書には「もはや戦後ではない」とまで記され、戦後復興の完了が宣言された。
 

また、好景気の影響により、耐久消費財ブームが発生、三種の神器(冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビ)が出現した。
 

1956年(昭和31年)末には景気が大幅に後退し、結局日本経済の上部だけを潤しただけということから「天照らす景気」と呼び変えられたが、この名前は一般的なものとはならなかった。

 

この好景気が終わると1年間のなべ底不況に陥っているが、その後には42ヶ月続く岩戸景気と呼ばれる好景気が発生している。(ウィキペディアさん)

 

「金の卵」

日本の昭和時代(戦後期)に高度経済成長を支えた若年(中卒)労働者のことをいう。1948年(昭和23年)に新制中学が誕生した際に小学校卒業までであった義務教育の期間が中学校卒業までの9年間に延長された。この学制改革を契機に、昭和20年代から戦後の「金の卵たる中卒者」が誕生した。

 

戦前の高等小学校(基本は2年制)が1948年に新制中学として義務教育化されたことで、中学卒業後すぐに社会に出る若者が生まれ、彼らが「金の卵」と呼ばれた。

 

高度経済成長を支えた「金の卵」であったが、学力が高いにもかかわらず家庭の経済的理由で全日制高校進学が困難となった若者も多く、公立中学校卒業後に企業で働きながら定時制高校・通信制高校に進学することも多かった。さらに大学の夜間学部・通信教育部に進学するものもいたが、逆に仕事はあくまでも単純労働であったことと、仕事と学業の両立が難しいことから、定時制高校のみならず、仕事も(1522%の高確率で)やめるものもいた。中卒・高卒の男女は大卒と比べ給与が低く、社宅など福利厚生の面でも大きな差があった。

 

1964年(昭和39年)「金の卵」の言葉が流行語となった。(ウィキペディアさん)

 

◎生活環境

公共職業安定所からも農村や地方の中学校に求人を出していた。求人倍率も3.3倍前後の高倍率であり人手不足であった。企業側から出向いて勧誘を行い、賃金や厚生施設を充実させ、また高度な技術を習得させた。

 

職種としてはブルーカラー(特に製造業)サービス業(特に商店や飲食店)での単純労働が主体であり、男子の中卒労働者の統計結果は工員が過半数を占め、次に多いのは職人であり、次に多いのは店員の順番であり、女子の中卒労働者の統計は工員が4で最多であり、次に多いのは店員であり、続いて事務員の順で多かった。男子とは異なり、女子はほとんどが25歳までに結婚退職する時代であったため、工場での補助作業や事務などといった補助的な職種に就く者が多かった。

 

労働条件や生活環境もかなり厳しく、離職転職者も多かった。各種の理由から勤続後の独立開業が困難であったため、戦前のいわゆる丁稚よりも厳しい環境であった。

 

若くして故郷から遠く離れ、孤独感や郷愁にかられることの多かったと考えられる地方出身者たちは、同様の境遇に置かれた者同士の交流を切望し、「若い根っこの会」に代表される各種のサークル活動が見られた。(ウィキペディアさん)

   昭和29年(1954年)(15歳 裳掛中学校3年ー3月まで 4月ー16歳 烏城高等学校1年

12日二重橋事件、31日にビキニ環礁で水爆実験が行われ、第五福竜丸の乗組員が被爆。洞爺丸事故。
 

○中学卒業が近くなり、進路に悩んでいた。父の手伝いをすればいいのだが、出来れば高校へ行きたかった。全日制の邑久高校へ行くには自転車が要る(約13km3里強)。授業料など学費も要る。家の状況を考えれば、とても無理な感じだった。

 

そんな状況の時、ビックリするような話が飛び込んできた。(神様の思し召し。ご縁。)(時代の中の人生。神武景気時代の「金の卵」の一員としての人生だということ。その頃は、そんな時代だったからなど、分かる筈もなく、個別の事象としての理解しか、出来ていなかった。)

 

「住込みでお店に勤め、定時制高校に行かないか」という話だった。お店は竹内歯科商店。話を進めてくださったのは数学の横山先生、お父さんが横山薬局というお店を運営されていた。裳掛診療所の歯医者さんを通じてかも知れない。そのあたりは定かでないが、とにかく飛び付いた。

 

遊び友達だった長島のさんちゃんと一緒に、4月から岡山市の野田屋町にあったお店住み込み(月給2千円)岡山県立烏城高等学校に入学した。(当時は、岡山県立朝日高等学校と同じ敷地内にあった。)

校門 向って右側が岡山県立烏城高等学校 左側が岡山県立朝日高等学校 の門札 背景は操山。

 

校舎敷地

右側が烏城 左側が朝日の校舎 共用の教室も多かった。

グランド右上のお家に、谷八十八教頭夫妻が住んで居られた。(生涯を定時制教育に尽くされた)

(詩吟部の生徒達がよく押掛けていた)

竹内の奥さんが、一番下の茂和君をおんぶして、天満屋バスステーションに迎えに来て下さったシーンを、未だにハッキリ覚えている。)

 

お店の家族は、ご主人、奥さん、おじいさん、おばあさん、ご主人の妹さん、小学校高学年の長女はるえちゃん、低学年の次女ひろこちゃん、幼子の長男茂和君の8人だった。細長いおうちで、一番奥の3畳間に自分とさんちゃん。次の間におじいさん・おばあさん。その次の間にご主人の妹さん(中国電力にお勤めだった)とはるえちゃん・ひろこちゃん。トイレとお風呂場・台所があって、その次の間(お店から上がってすぐの間)にご主人と奥さんと茂和君という配置だった。

 

おじいさんは、元中国電気工事に勤めて居られ、その頃の話などいろいろ話してくれた。おばあさんは、小柄だったが、しっかり者といった感じで、時々おじいさんがたしなめられたりしていた。女の子2人も、茂和君も可愛かった。4年間お世話になって、妹・弟のような感じになっていった。

 

ご主人も奥さんも、自分たちを大切にして下さった。ほんとに家族、或いは家族以上に大事にして下さる感じだった。(一度も叱られた覚えはない。奥さんも子供は叱っても、自分とさんちゃんには、小言など一言もなかった。)

とにかく、一番大変だったのは、奥さんだったろうと思う。幼子を育てながら、10人の大所帯の世話をするのだから。食事の支度・薪を焚いてのお風呂沸かし・子供の世話、お店番、買い物(すぐ近くに岡ビル百貨店があり、便利ではあったが)、とにかくやらねばならぬこと一杯、という感じだった。

「お母さんはえらい。」自分の母・さださん・亡き妻・今お世話になっているバーバも含めて、つくづくそう思う。

 

仕事はまずお客さん(岡山市内の歯医者さん)廻り(自転車)。

 

自分とさんちゃん別々に、ご主人或いは先輩(烏城高校の先輩でもあった4年生の植月さん又は3年生の松田さん)に連れられ、2手に分かれて歯医者さんを廻った。しばらくは先輩と一緒だったが、その内、それぞれ一人で廻るようになり、4人のうち、1人は店番をするようになった。(4人とも出ている間は、ご主人か奥さんが店番をされていた。)店番は、自分かさんちゃんが多かった。商品を覚える必要があったからである。

 

松風・GC・もりた・よしだ・おさだなどのメーカー。人口歯・レジン・印象剤・ワックス・石膏・研磨材などなどうっすらと覚えている。中でも印象に残っているのは金だ。当時5グラム3100円だった(徳力)(現在は3万円位かな?)。金など見たことも無い。注文を受けて持って行く時、気を使った。(無くすと大変ということで)

 

1人で廻るようになると大変だった。何をしゃべっていいのか分からない。植月さんは上手だった。とにかく話がうまい。注文もたくさん取って来ていた。自分は、「竹内です。何か御用はありませんか」、後はボーッと立っていた。商売とは難しいもんだ、とつくづく思っていた。(お店にはご恩返しがしたかったが、無理だった。今でも役に立ったんだろうか、あんまり役には立たなかったんじゃないかと申し訳なく思っている。)

 

4時半か5時ごろ、仕事を終え、登校する。野田屋町から城下を通り、岡山城の前を通って、公会堂(現在は県庁)の側を抜け、旭川に掛かっている相生橋を渡り、烏城高校(朝日高校)へ。校門近くになると、下校中の朝日高の生徒さん達とすれ違う。同じ角帽を被っているが、なんとなく複雑な気持だった。

 

自転車置き場では、おじちゃんがパン(木村屋?)を売っていた。お金が無いので、いつもというわけにはいかないが、時々買って食べた。美味かった。(1個10円?だったと思う)

 

1年生は、3クラス。同級生だった岩田さんによると、1クラス43人で、学年全体129人だったそうである。

2年生までは3クラスだったが、3年・4年は2クラスに減っていた。40人以上が辞めて行った事になる。

働きながら、勉強することの大変さをその数字が物語っている。

 

自殺する人も何人か居た。竹内歯科商店の近くの小児科病院に勤めていた一年下の感じのいい看護婦さんも自殺した。ショックだった。同級生にも居た。辛かった。戦後ほどでは無かったが、まだまだ、生き抜くこと自体、苦しいことが多い時代でもあった。

 

1年生の担任は数学の佐藤先生・世界史の木村先生・化学の山本先生。(自分は佐藤先生)

中学までは小学校1年からの同じ顔ぶれだったが、高校からガラッと変わった。さんちゃん以外、知らない顔ぶればかりである。必然、授業に集中するしかない。真面目に勉強した。

だからどうした。それがどうした。