昭和ビンボー。 | ポンコツ人間まつながの【こじあけ雑記帳】

ポンコツ人間まつながの【こじあけ雑記帳】

大阪で生まれ育って、のんきに生きるポンコツ人間のブログ。
ライブハウスのブッキングマネージャーを経て、
2018年に大阪から徳島へ移住し、小さな飲み屋を立ち上げた。が、しかし、7ヶ月で閉店。
ただいま、和歌山県の白浜にて、のんびり【人生の立て直し】中。

2024年。


私は今年、46歳になる。

なかなかいい大人である。


脳みそは、まだ子供であったりする。


つまり、コナンくんの逆である。笑




この歳になって、改めて思うことがある。


『身体が丈夫なことはありがたい!』と。




私が育った家庭は、割とビンボーであった。

大人になってわかった原因は、2つ。


父親が好奇心旺盛な野心家で、自信家だったこと。

そして、母親は、天然で楽観主義にも関わらず、

気丈な節約家だったこと。




THE昭和な価値観の家庭では、

稼ぎ頭の父に尊厳がある。


父を立てて表舞台へやり、

母は父を支え、裏方のような立ち回りをする。



父は田舎から出てきて、色んな職業に就いたと聞いている。

おそらくそれは、父が好奇心旺盛ゆえのことだと思っている。

きっと、色んなことに興味を持ち、色んなことを経験したかったんだろう、と。



逆に母自身は、母の母(私の祖母)からの助言もあり、

『これからは女性でも手に職をつけた方が良い』ということで、

田舎から出て、洋裁の仕事に就いた。

そして、祖母のアドバイスを守るべく、真面目にそれ一筋で家計を支えた。



まぁ、こんな2人が織りなす家庭というもんは、

幼少期の記憶を辿ると、毎日が夫婦喧嘩だった。



一定の期間を経て、その場でこれ以上の収穫が期待できないと判断した父は、

何の前触れもなく仕事を辞めて帰宅する。


一応、一家の主人という自覚はある様で、

次の仕事は決めた上で辞めて来たらしいのだが。



とはいえ、自分も手に職をつけ、家計を支えつつ、

家事に育児にと追われている母からすれば、

どんな事情があれ、次の職を決めて来たにせよ、

父の決断や行動は理解できなかったのだろう。



喧嘩の始まりはだいたい『お金問題』だ。



母の言い分では、

『次の仕事にありつけたとはいえ、積み上げて来た経験を買われての給料と、新天地での給料では格差があるだろ!』

ということらしい。


つまるところ、父の行動に対して、

『昇給したと思ったら、

また初任給レベルに下がるではないか!』

というのが母の怒りの根源なのだ。



まぁ、そうやわな。笑


とはいえ、腐っても昭和な家族。


最終的には父の決断を受け入れて、

やってくしかないわけだ。



すると何が起こるかと言えば、

【万年ビンボー】な生活。



子供は成長とともに、お金がかかる。

けど、稼ぎ頭の父の給料は一向に上がらない。

働けど働けど、生活は楽にはならんのだ。



そんなわけで、9つと7つ上の兄を持ち、

末っ子に生まれた私は、待望の女児であったにも関わらず、

我慢を強いられることが多かった。



服は、基本的にお兄ちゃんのお下がりか、

近所のお姉ちゃんたちのお下がり。

よそ行きの服は、母の洋裁の技術を活かして、手作り。


おもちゃの類は、これまた近所のお姉ちゃんたちから頂いた。


周りの友達が新しいリカちゃん人形を振り回している最中、

私は10年落ちのどこの国の何という名前かわからない人形で遊んでいた。笑



幼少期に『これが欲しい!』と言って買ってもらえた試しなんてないのだ。笑



そんな感じで、我が家は、

常に節約に継ぐ節約の嵐だったのだ。



この節約気質は、

『何かを購入するということ』

だけには留まらなかった。



たとえば、体調不良を起こした時も同じ。


子供が熱を出したり、怪我をしたら、

病院に連れて行くのが当たり前。

の、はずだ。


だがしかし、我が家では少し違った。


私が幼少期に病院に行った記憶は極めて少ない。



記憶には無いところでは、

歩行器に乗ったまま階段から転げ落ちて、

頭を打った時はすぐに病院に連れて行ってくれたらしい。



物心ついてから病院に行ったと言えば、

水疱瘡になった時、

極度の便秘で腹痛を訴えた時、

初めて喘息の症状が出た時、

田んぼに落ちて足を切った時。



そのくらいだ。


多少の熱では、病院に行くことはない。

『寝とけば治る!』で済まされていた。笑




ちなみに保育園に通っていた時のこと。


通園中に母の自転車と、対向して来た自転車が接触し、

母の後ろに乗っていた私は、接触の衝撃で、

身体が宙に舞い、地面に叩きつけられたことがある。


その直後、いつもの様に保育園に連れて行かれた。



そして、いつもの様に保育園で給食を食べると

すぐさま嘔吐し、高熱が出て、

結局、母のお迎えで帰宅した。



その時の母は、

『なんでやろ?なんか悪いもん食べさしたかな?』

くらいの感じで、結局、病院には行かずだった。



それからしばらく、私は毎夜毎夜、

寝ながらにして嘔吐する日々を過ごしたのだった。


普通のご家庭なら、最低でもこの時点で病院へ行くはずなのだけれども、

まぁ、松永家はある意味、変わっていたのだろう。笑




嘔吐の原因がわかったのは、その数年後だ。

小学校に上がり、初めての胸部X線検査を受けた時だった。


検査技師の方に、


『肋骨を骨折したことがあるのね?』


と言われた。


まだ小さい私は、肋骨という言葉すら知らない。

骨折という診断を受けた記憶もない。


なので、ハッキリと『ないです。』と答えた。


すると、あろうことか技師が、こう放ったのだ。



『いや、折れた跡があるよ。今はもうくっついてるけど。』と。



衝撃の事実である。

でも、技師の言葉とともに忘れかけていた記憶が蘇った。


『あの時かっ!』



先に書いた、アレである。

保育園の通園時に起きた、あの事故である。


自転車の荷台から吹っ飛んで、胸を打ちつけた、

あの時である。



熱出たもんなぁ。吐きまくったもんなぁ。笑


朝起きたら吐いてる、そんな日々が永遠に続くのかと錯覚するほどだったもん。



母は、それでも病院には連れて行かなかったのだよ。笑

今のご時世、虐待と言われても仕方ない。


そんなことも、普通だったのだ。うちの家では。笑



それも、ビンボーゆえ。

要は、病院に罹るお金がもったいないからだ。



『多少の病気は寝たら治る!』で育ち、

『多少の怪我は、アロエクリーム塗っとけ!』で育った結果が、今である。



そんな家庭で育った人間がどうなったか。


結果、病院に罹ることがなくなった。笑



当たり前の様に、

『この程度で病院に行ったらお金がもったいない』という思考になり、

ギリギリまで耐え忍び、高熱が出ても、自力で対処するようになってしまった。

(もちろん、自力で対処できない範囲に到達すると、

病院を頼るけれども。)



そんなことを繰り返したおかげで、

めちゃくちゃ免疫力がついたと思われる。

私の体は、抗体もたくさん持ってそうだ。


自然治癒の能力は相当高いはずだと自負している。笑



実際、歯に痛みを感じて歯医者さんを訪れると、

だいたい手遅れだったりする。

神経近くまで虫歯が進行していることが多い。


医師に

『ここまで進行しているのに今まで痛くなかったんですか?』

と驚かれることもある。



まぁ、今まで痛くなかったから来なかったわけで、

痛みを感じたから、来院したのだが。


と毎回、心でつぶやく。



歯科医曰く、

『免疫力が高すぎると虫歯の痛みに気づきにくい』

らしい。



免疫力が高いのも、良し悪しだな。と思う。笑




とは言え、数年続いたコロナ禍を、

ワクチンも打たずに耐え抜いたのだから、

やはり、身体は丈夫なんだろう。


これは、ありがたいことである。



私くらいの年齢になると、やはり、

どこかしらにボロが出て来るものだし、

少しのことでも、大病に繋がりかねない。



健康であれば、医療費はかからないのだから、

体が丈夫で健康であることは、生きる上で、

1番の節約術だと思う。




あの家に生まれて、いろんな我慢を強いられながら育った結果としては、

なかなかの収穫だな、と大人になった今では思っている。


(あくまでも運良く生き延びただけなので、良い子の皆さんはマネしないでね。笑)