あたりをはらうオーラについて | 中村教授の愉快な毎日

中村教授の愉快な毎日

ブログの内容は筆者の個人的な見解であり、明治大学とは無関係です。



30年ぐらい前、東京日仏学院でラテン語とギリシャ語を習っていた。


受講者が、間違った解釈をもとに頓珍漢な質問をしたら、C'est une faute catastrophique!  破滅的な間違い!と講師のリッシュブール先生が言ったので驚いたことがある。そこまで言うか?と。


受講者たち(中年女性が多かった)は、絶対構文を取り違えないように細心の注意を払い、フランス語に訳して来ている。


大学と違って、自分でも何を言っているかわからない訳文を言うことなど許されない厳しい雰囲気だった。


それは、この本場の先生、リッシュブール先生(「ノルマリアン」と呼ばれる、超エリートの高等師範学校卒で、しかも「アグレガシオン」という「教授資格試験」を通っている)の、本物の教養によるものだろう(しかし、破滅的な誤訳をしたからといって国が滅びることはない)。


話は変わるが、やはり、先生のもつ雰囲気は大きい。わたしの太極拳の先生(羅競老師)などは、背は低いのだが、そこにいるといないのでは、部屋のオーラがガラッと変わる。


いつか、先生が不在で練習をしたことがあるが、スカスカな雰囲気でとても練習にならなかった。


そこに老師がいるだけで、見られているかもしれないと感じ、身が引き締まる。


だから、部屋に入ってきただけで、学生が緊張するぐらいの教員になりたいと思うこともある。


しかし、大学院の時、大した業績はないのに、緊張だけさせるという教授がいて、こういうのはやめようと決意したこともあった。悩ましいところである。


桁違いの業績がある教授(風間喜代三教授)が、べらんめえ調の下町言葉で、ぜんぜん気取っておらず、この路線でいこう、と思ったものだ。


それは、24、5歳のころだった。もちろん業績は先生の1000分の1にも及んでいない。


これから追いつくことももはや不可能だ。