『℃LUTCH』 -2ページ目

人の心を試す


そうそう、書き忘れていたことがあった

ゲイバーMで働きゲイバーEでお世話になる

少し前、同じフロアに新店舗Nがオープンすることになり、そこで僕は働きはじめていた

その時は実家から通っていたこともあり

営業後は店泊することが多かった

ある日、明日も営業だし

ママの家で休みなさいってことで

泊まりに行くと、朝方…


モゾモゾと動く手が

僕の股間にあった、、、


Nママの手だった


それに気づいた僕は

僕「彼氏もいて店子に手を出すとか

ほんと、キモいしありえないから!」

Nママ「ごめんね」

僕「そんな店で働くの無理だし

今すぐ辞めます!」

Nママ「…」



そこからE店のママに事情を話し

居候させてもらいゲイバーEで

働かせてもらっていた。


そのビルは共同トイレしかなく

同じフロアだから

時より廊下でNのママとすれ違い

気まずそうにしているNママに

僕は横目に無視していたっけ。笑



話しが変わり…


Mがワーキングホリデーに

行く日が近づいていく…

僕はMの気持ちを試すかのように

帰ってくるまでは待てないからと

別れ話を切り出す


本心はMが僕に対する気持ちは変わらない

それでも待っていてほしいと言う

言葉をあの時、聞きたかったんだと思う

ほんと人の気持ちを試すとか

我ながら気持ちが悪い行為だよね。笑


でもそれに対してのMの返事は

「わかったと、謝罪と感謝」の言葉だった…


僕はMに連絡もせず、無我夢中にMの住む

帯広に向かい

Mの仕事を終わる時間を待っていた

仕事を終えた時間に

僕はMに連絡した


M「どうしたの?」

僕「帯広に来ちゃった」

M「えっ?何処にいるの?」

僕「よくわからないけど、近くに〇〇があるよ」

M「今、行くから待ってて」

そして僕は

素直な自分の気持ちをMに話す

でもMの別れる気持ちは変わらなかった

それはMの優しさだったんだと…

うつ病で不安定なのも知っていた

Mだったからこそ

離れ離れになった後の自分のことを

思ってくれていたんだと思う


二人して泣いていた


別れ際、僕は当時身につけていた

KOHSHIと刻まれた

ハワイアンジュエリーを

御守りに持って行って欲しい

次に会う時、笑顔で会おうね

その時に御守りは返してくれたらいいからと

Mに渡し、Mと別れた…


その後、Mはワーキングホリデーから

そのまま労働VISAを取得

シドニーで働き

そこで出会った日本人男性と同性婚し

シドニーで暮らしていた

それから10年以上経った頃だったか

Mは彼と別れ、日本に戻って来ていた

そして、札幌帰省中の僕と再会


「御守り、ありがとう」と

ハワイアンジュエリーを返してくれた

今でも、たまに帰省する時は

連絡しては会う仲になっている…


話しは戻り…


Mと別れた後

暫くその場から動けずにいた

ずっと涙がとまらなかった


そして気持ちが落ち着いてきた頃

mixiにログイン

ちょうど帯広に住んでいた

友人Nがこれから札幌に行くと言う

日記を見て僕は、駄目元でNに連絡

Nは次いでだから全然いいよと

言ってくれて車に乗せてもらい

札幌へ…


ことの経緯をNに話す

Nは黙って話を聞いてくれていた

あとあと御礼も兼ねて

その話しをNにしたけど

全然、覚えていなかったけど、、、笑


新たな動きと出逢い


さっぽろレインボープライド


インディアンハットに

手作りで作ったポンチョ姿

トラックの荷台に乗り

札幌の街を練り歩く

そして地元ニュースに登場


そのゲイパレードでMと出会い

しばらくして付き合いはじめる

Mは帯広に住んでいて

月に2回くらいだったか

仕事が休みの前夜に仕事を終えた

Mは、そのまま車を走らせ

帯広から僕が待つ

札幌(実家)まで

会いに来てくれていた…


Mの無邪気に笑う笑顔が印象的で

Mが発する言葉

ひとつひとつに優しさと愛があった


今でもそうなんだけど

時より、ほんと時よりだけど

僕は誰かが何気なく発した言葉や

会話中の相手の表情やチョイスした言葉に

敏感に反応する時がある

たとえ、その言葉に深い意味はなくても

一瞬の表情や言葉の意味を

自分の中で勝手に

いや身勝手にかな?

それを心意として

受け止めてしまうんだ、、、



それからゲイナイトでは

ドラァグクィーンの

バックダンサーやクィーンを肩に担ぎ

ステージを練り歩いたりもしたっけ。笑


そもそも20代前半の頃

安室奈美恵やMAXの振りを真似ては

友達と踊ってたくらいで

全くダンス経験がなかったから

振りを覚えるのに

必死だったのが懐かしい記憶


その後、仙台のゲイイベントから

出演オファーがあり

イベントボーイとして

Mと二人で出演したことも…


Mと一緒に過ごした時間は

あっという間に過ぎて行った


ある日、Mがシドニーへ

ワーキングホリデーに

行くことが決まってから

また僕は精神的に崩れていった…






強がっていた



世間ではSNSのmixiが流行し

多くの人が

コミュニケーションツールとして

利用していた


当時、交友関係が浅く広かった僕は

その分、mixi内の友達も

600人だったか、人一倍多かった…



実家に居づらかった僕は

母親と距離を置くかのように

夜な夜なネットカフェに行っては

mixiにログインして

時間を潰していた


そして、いつからか

日記の内容も

どんどん病んでいった、、、


それに対して心配や慰めのコメント

否定や誹謗中傷のコメントもあった

でも僕は強がり

自分のページだからと

その時々の、心の叫びを

日記に書き殴っていた


やがて、他のゲイ専用

ネットページには

僕のスレッドが立ち

多くの誹謗中傷の言葉が

数多く更新されていた…


それを、わざわざ

教えてくる人もいてね…


僕も見なくていいのに

スレッドの内容を見ては

病んでいたっけ…


この時期だっか

僕は精神科に通院しなくなり

ゲイバーHで働きはじめる


何故、行くのを辞め

精神安定剤も飲まなくなったのか

多分、僕はあの時

うつ病じゃない

俺は正気だと、強がることしか

出来なかったのかもしれない、、、



そしてGOGO BOYだった友達Tと

お店のパーティーだったか

Tと一緒にイベントに立ち

GOGO BOY KOHSHIとして参加した


そして、今は亡き

20才の真崎航と出会い、付き合う…


彼と付き合った期間は短かったけど

とても思いやりのある優しい人だった…


その後、彼はいつのまにか

ゲイビデオ男優としてデビュー

GOGO BOYやモデルとしても

活躍していたが、2013年5月18日

29才の若さで旅立ってしまった…


亡くなる数週間前

偶然、新宿二丁目で再会して

一緒に乾杯したね、、、




それから働いていたゲイバーHを辞め

僕は別のゲイバーMで働きはじめる


Mのママと姉妹店だった

ゲイバーEのママが付き合っていて

実家に居場所がなかった僕は

二人の家に居候させてもらい

働かせてもらっていた


この頃は、精神的に

とても落ち着いていたが

人によっては口調がキツめで

言いたいことは

口(言葉)にしていたっけ…笑