もしも右翼の父がユニオンに入って左翼の息子を糾弾したなら | あべこう一(阿部浩一) Official Blog

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シンガーソングライター

 今から25年前、45歳で亡くなった私の父。職業はバーテンダーで料理の腕も一級品でした。和食に洋食、懐石料理からパーティーのオードブルまで、ありとあらゆる料理の名人。釣りが趣味で自分が釣ってきた魚がよく食卓に上りました。よくいろんなものをつくって食べさせてくれました。

 

 当時は当たり前のように感じていましたが、今となっては本当にぜいたくでした。私が今でも食いしん坊で、何があっても食事の時間だけはゆるがせにしたくないと考えるのは、きっと父の教育(?)の賜物だと思います。

 

 父は私が子どもの頃、地元の国立大学にあった釣り同好会の名誉顧問を務めていました。当時の釣りが好きな学生たちが父の勤務していたクラブ(接待飲食店)でアルバイトしていて、意気投合して請われての就任だったようです。私は釣りのことはよくわかりませんが、父は大きなチヌを釣り上げて、その魚拓とともに釣り雑誌の誌面を飾ったこともあります。

 

 父は1946(昭和21)年12月31日生まれで、戸籍上は翌日の元旦が誕生日。ほぼいわゆる“団塊の世代”。戦争から帰ってきて酒浸りとなっていた父親の下、貧しい家庭に育ちました。息子の私と違って子どもの頃から小柄だったようですが、やんちゃでケンカが強かったそうです。

 

 中卒で集団就職の列車で大阪へ。就職先はすぐに辞めてヤクザの構成員になります。銃刀法違反(日本刀の不法所持)で検挙されるなどした後に組織を離れ自衛隊へ。自衛隊を辞めた理由を父は生前、体を壊したからだと言い張っていましたが、亡くなった後に母が笑いながら、本当は上官を殴って辞めたのだと教えてくれました。その上官が昭和天皇を冒涜するような発言をしたことが許せなかったのだそうです。私の父はそういう人でした。

 

 その後、バーテンダーに。検定試験にも合格した本格派で、その筋のエライ方から組への“転職”の勧誘もあったようですが断って、亡くなるまでバーテンダーを全うしました。

 

 私が物心ついたとき、もう父は堅気のバーテンダーでしたが、博打好きで私の家には花札やサイコロ、甲子園のシーズンには賭博が開帳されるのは春夏の風物詩でした(笑)。父親としてはいたって真面目なパパでしたが、周囲にはいろんな方がいました。私も「ぼん」などと呼ばれてかわいがってもらったものです。

 

 今でこそ普通の若者がタトゥーを入れるのも珍しくありませんが、子どもの頃に父と一緒にお風呂へ入ったとき、彫り物に刃物か何かで傷つけたミミズ腫れの後があったのを思い出します。

 

 昨年末に68歳の母と電話で、父が生きていたら70歳だねと話しました。父が亡くなったとき、私はまだ16歳でしたが、いま父子でコラボレーションして父の料理の腕前が活かせるようなお店を地元の山口で開いたら面白かっただろうねと言うと、母も同じようなことを考えていたそうです。

 

 「まだ70歳になった俺を働かせる気か!」と文句を言われるかもしれませんが。オーナーの私にこき使われてどちらかといえば右翼思想の持ち主だった父がユニオンに駆け込んで、左翼の私を糾弾して、団交を申し込んできたら笑えるなぁと、くだらないことを思いました。

 

夜泣きする私(3ヵ月)を深夜に帰宅してあやす父(29歳)

 

私(数日後に1歳)、父(30歳)のお正月。この年(1977年)の7月に妹が誕生