先生という存在 | 歌うCHAOS ~ 線維筋痛症で末梢神経障害で脊椎側彎症で性同一性障害な声楽家♪こーへー♪の徒然なる混沌

歌うCHAOS ~ 線維筋痛症で末梢神経障害で脊椎側彎症で性同一性障害な声楽家♪こーへー♪の徒然なる混沌

線維筋痛症を始め複数の難病と共に育ったが故に『痛い・辛い』が当たり前の生活をしながら、声楽家としては恐らく前例が無いであろう、性同一性障害で成人してからホルモン治療を開始した男声ソプラノの遠吠え記。さぁ、大いに笑い給へ♪


本日は長文イズビニーチェ(すみません)。


新年度になり、通学路のあちこちに小学校の先生が立って引率している姿が見受けられる。それ自体は単なる風物詩でどうという事はないんだが、子供たちのこれからの人生を指導し左右する存在としての先生たる大人が、それはまぁ素行の悪い事。
まず、仕事せぃ!と後ろから頭はたきたくなる様な、子供そっちのけで桜を見上げてボケーッとしておる輩。それも道のど真ん中に突っ立って、周りに一切注意を払わずである。朝の通勤帯とも重なり、子供のみならず出勤途中の一般人もおるわけである。その中に車椅子のオレもおる。周りを見ずだらだらと動き、従ってオレにぶつかりそうになる。こっちが注意する。「あぁ、」だけで憮然として謝りもせん。
他に言う事あるやろが!!(#`д´)。



(本文とは全然関係ありませんあしからず)


最近の教師すべてがそうと言いたくはないが、それでも我々の子供時代の先生方とは明らかに志の違いが見受けられるし、人間そのものの育ちが明らかに残念になっておる。教師になる年齢の大人が大人として成長しきってないのがあからさまで情けなくなってくるのは、小生だけではあるまい。昭和ふた昔を懐かしんでおるワケではない。

そんな昭和時代のぼくの先生は~~嵐こそ巻き起こされなんだが、それはそれはよく生徒の事を見ておられたなぁと今になって感心する。小6の時、2者面談の後であったか、担任の先生方にこう言われた。
 

「アンタの(母)親ちょっとおかしいから、家でなんかあったら親に言わんと先生に言いにおいでや。別に先生(担任の先生自身)でなくても職員室の誰先生でも構へんからな。アンタ、家で大丈夫か?」「うん!大丈夫やで(^^♪」「悩み事とかないか」「うん!全然ないー♪」


当時小生、学校大好き・先生と仲良しなハッピースクールライフを堪能しまくっておったゆゑ、悩むという事の意味すら理解しておらん程に能天気で(今以て大して変わらんが)、何で先生がそう言われるのか意味は解らなんだ。でもまぁ、家は嫌い親も嫌いで学校・先生大好きであったので、単に嬉しかった記憶はある。先生方には何時でも何処でも可愛がって頂いた記憶しかない。

うちの親は(大人になってから知った事であるが)所謂ネグレクトと云うやつだそうな。ある意味育児放棄状態の家庭で育ったワケである。病院に連れて行ってもらえなんだし、自分ひとりで行けぬよう保険証も隠されておった。「アンタに保険証なんか持たせたら何されるか判らへんゎ」ってその言い分の方が判らんのですけど。余所でどんだけオレの自慢してきてどの口で言うか┐(´д`メ)┌。
そんな無法状態のせいで治らなんだ症状がいくつもあり、未だ後遺症がある。知らずに育つって怖いなぁそれが当たり前やもんな( ̄д ̄|||)。

――時代が時代ならあんたなんか生んでなかったのに、要らんのに出来てしまったら生まなしゃーないやろ、あの時代(昭和40年代)に中絶なんかしたら私が世間から後ろ指さされて「あそこの子は」とか言われるから生まな仕方ないし、産んだら育てなまたあの親はとか言われるの私やんか。そやからしゃーなし育てたってんねんから役に立ってもらわな割に合わへんわ。そやのになんで病院なんか連れて行かなアカンの不経済やわ――

…と物心つくかつかんかの頃から耳タコになるくらい暗記するくらい言われて育った。どの口が物言うかホンマに。流石にオレも大学生にもなったらえぇ加減聞き飽きてアホらしいなって、「結婚してるからってヤるなら計画的にヤれよ」と返した事もあるが(この時小生まだバリバリおなごw)、高校生で妊娠するような奴の言い訳みたいな事を言われて、こいつやっぱりアカンゎと失笑した記憶がある。
…ぃや実は齢5歳で既に親の事見切ってたりしてたんですけどな<コワイ子供w(゜д゜;)

オレは親のステータスアイテムでその為のピアノでありその為の習字そろばんでありその為のスイミングであり塾であったワケだが、たまたま音楽にやたら頭角を現してしまったワケで、そこに目を付けられたようなもんである。結局オカンにとってはピアノも学校の成績も自分の自慢のためのステータスでしかなく、オレ自身も中学くらいでそれに気付いてきたので、反抗期とは別の意味で完全に無視し、自分の音楽の道(クラブ活動にピアノに作曲に)に没頭するようになったんだが、そこでもやはり学校の先生が見透かし味方になってくれはった。
やっぱり言われた事にゃ「アンタのお家ちょっと変やから、なんか相談事あったら先生にしぃな。お友達でもいいし、他の先生でもいいから、お家の人に言うたらアカンよ、何言われるか解らへんから」

あれ、どっかで聞いてはりました? 誰かから申し送りありました? なんか見えてますのん? なんでそなぃ同じ事言われんのコワイゎ~…と思いながらもやっぱりピンと来てないところもあったりする、能天気街道まっしぐらなオレであった。音楽に没頭してたと云うのが大きいかとは思う。
スゴイゃねぇ、2者面談で数分喋っただけでこれでっせ? 高校でも結局同じ現象でどん退いた記憶がある。或いはそれだけうちの親が、相当ヤバい奴オーラ発しておかしな事言うてたんやろうなぁ。


我々が子供の頃の学校の先生には、強さがあった。威厳があった。毅然とした自信があった。はっきりと物を言い親を堂々と叱ってはった。その上で、生徒を自分の子供みたいに親身になって育ててくれてはったなぁと。高校に行っても同じ事で、オレの音楽の才能(と言う程でもないが、一応学年3本指の1人)を認めてくれはった音楽の先生や担任の先生方が、こぞって親から守ってくれはった。時には説教なんぞもかましてはったな。部活の友達も、オレが親によぉ云わん事を率先して言うてくれたり、みんなで育ててもらったような気がする。
大学に行ってもそれはやはり変わらずで、「アンタ一人では何もでけへんから、あたしらがやったらなあかんなぁ♪」とか言いながら友達が色々と世話焼いてくれたし、恩師にもやっぱり同じ事を言われた。大学院に上がる事を強く勧められ(まぁオレもホンマは行きたかったんだがな)、終には卒業演奏会の場で恩師がオカンに直接説得されたそうな。オカンからは直後「ナニあの先生云々(以下アホらしいて情けなぁて聞いてない)」とぶぅたれられたが、後日恩師から言われた事にゃ、「君のお母さんに直接説得してみたんだがね。君の親は君の事をちゃんと解ってないし、本気で考えてくれてないようだね」と半分怒っておられた。そこまでしてくださった恩師には申し訳なさしか浮かばなんだが、先生、大学院は無理でもお金貯めて専科戻ってきますから!! 絶対戻ってくるから待っててくださいね!! その時はまたお世話になりますよ!! と約束して出たものの、いざ戻るという時にもう専科はなかった上に、恩師は生徒を取っておられなんだ(_ _|||)。哀しき哉大学再編成の煽り。
それでも余所で稽古をつけていただいたり、たまに大学に押しかけてレッスンしていただいたりと、何かと後々も可愛がっていただいた。そんな恩師に、ホルモン治療後久し振りにお逢いした時は流石にお説教食らうかとちょっとビビっておったら(だってなぁ、声楽家が声変わりするような治療普通受けんゎな)、開口一番「どうだい、筋肉着いたかぃ?」とニコニコしながら肩をもみもみされた…あれ? 先生こんなキャラやったっけ?wwσ(^_^;)


思い返すに、兎に角オレは先生に恵まれた。ピアノの先生も、幼子相手に結構本気出して教えてくださった。お陰で今のオレがあると言うても過言ではあるまい。確か小学4年か5年の時、ハノンの調性のドイツ語を見て「先生これナニ?」って聞いたのが始まりで、そこからドレミはすべてツェーデーエー、長調・短調はドゥアー・モールになった。中学生でバッハのインベンションと平均律をやらせてもらった(まぁ当時は難儀で難解で嫌いであったが)。ショパンのワルツ集を弾かせてもらった。高校ではドビュッシーをやらせてもらった。
小さい頃から、ピアノはまーるく弾くのよー(指の円運動)と教わった。ピアノという物理的なお稽古だけではなく、音楽や演奏に対する姿勢そのものを教えて叩き込んでくれはった。ピアノを弾くということは、お行儀を身に付けることです、と。


見た目小3のような11歳。




あれ、エライ脱線したしたσ(^ω^;;)。まぁ、朝の出来損ない教師の話からエライ発展しましたな。
お疲れ様でした。




 

===============================================================♪===
ブログランキング・にほんブログ村へ にほんブログ村 に参加中。
どちらかに指圧をお願いします。
にほんブログ村 病気ブログ 難病(特定疾患以外)へ
にほんブログ村 病気ブログ 線維筋痛症へ
にほんブログ村 病気ブログ 脳・神経・脊髄の病気へ
===♪===============================================================