生徒たちに、
「徳川幕府は15代、室町幕府も15代、では鎌倉幕府の将軍は何代続いたでしょう?」
という問いをすると、「3代です」と回答する子が多いのです。
おそらく、実朝が暗殺されて
「源氏の将軍は3代で絶えました」
という教科書の記述から誤解してしまったのでしょう。
よくある「教科書にそう書いていると思い込んでいる誤解」の一つです。
コヤブ歴史堂でも以前に
「平賀源内はエレキテルを発明していない」
という話をしたときに多くの方が驚かれ、出演者のみなさんも「教科書にそう書いている!」とおっしゃっていましたが、実は
「平賀源内。江戸の発明家」と紹介されているだけで、エレキテルの写真が掲載されていることから、「発明した」と誤解してしまった、というものです。
これと同じで、「源氏の将軍」が「3代で絶えた」だけで、幕府の将軍は9代続いているのです。
四 藤原頼経
五 藤原頼嗣
六 宗尊親王
七 惟康親王
八 久明親王
九 守邦親王
です。
北条氏は、彼ら「将軍」の代わりに政治をする「執権」として幕府を運営していたのです。
自分の言いなりにならなくなった四代頼経を京都に追放してその子の頼嗣を立てたのですが、この頼経が北条氏が政治を独占していたことに反感を感じた有力御家人、三浦氏と手を組んで乱を起こします(宝治合戦)。
が、失敗…
執権北条時頼は、反北条勢力に担ぎ上げられた藤原頼経・頼嗣を追放しました。
さてさて、次の将軍をどうしよう…
京都では、天皇家の“相続”問題が起こっていました。
後嵯峨天皇には次期天皇候補となる(母が違う)「三人の子」がいました。
ふつうなら兄が継ぐはずだったのですが、この兄の母は弟よりも身分が低かった…
よって弟の一人が天皇になってしまいます。これが
後深草天皇
です。
このタイミングで、北条時頼が後嵯峨上皇に「皇子さまを征夷大将軍にむかえたいのですが…」と申し出てきました。
「おお! よい子がいるよ!」と、天皇になりそこねた、長子を推薦します。
これが第6代将軍、宗尊親王です。
おれって、考えたらすごいよなぁ~ と、後嵯峨天皇は喜びます。
長男は征夷大将軍
次男は天皇
父は上皇
え? ひょっとして、武家にうばわれていた政権、おれが統合したりなんかして??
たしかに「形」の上ではそういうことになります。
後嵯峨上皇は、自分の子に「天皇」をまわりもちさせます。
後深草は上皇となり、その弟が亀山天皇です。
そしてこのタイミングで後嵯峨上皇が亡くなってしまう…
後深草上皇の子が天皇となるのか、亀山天皇の子が天皇となるのか…
天皇家が二つに分かれてしまいました。
後深草上皇の系統を「持明院統」
亀山天皇の系統を「大覚寺統」
と呼びます。
そしてここがポイントになるのですが…
後の後醍醐天皇は大覚寺統。
そして、鎌倉幕府の第8代将軍は後深草上皇の子の久明親王、そして第9代将軍は久明親王の子である守邦親王…
後醍醐天皇が「幕府を倒すのだ!」というのは、けっきょく「持明院統を倒すのだ!」という宣言と同じであった、ということです。
いつも思うのですが…
上皇や天皇、そしてそれをとりまく貴族たち…
鎌倉時代、室町時代、そして江戸時代を通じて、ず~っと壮大な勘違いをしてきたんではないかな、と思うんですよ。
武家の世の中になっても「自分たちが武士に命じて政治をしているのだ」と…
承久の乱も、後醍醐天皇の倒幕運動も、どこかでこういう勘違いがないとできないような気がします。
時代を少し前にもどしますが、1221年の承久の乱。
後鳥羽上皇は、「源氏の将軍絶えたし、次の将軍はおれの息子の誰かに任命して、公家と武家の世界、両方支配しちゃおうかな~」くらいの考えだったような気がします。
後嵯峨上皇も、「おれは上皇、子どもは征夷大将軍と天皇、これで昔にもどったよな」とご機嫌だったような気がします。
御醍醐天皇も「天皇が大覚寺統なんだから、幕府の将軍も、持明院統から大覚寺統に変えちゃえ!」くらいに考えていたとしたら…
そりゃまぁ、武家の思惑と公家の思惑はすれ違っちゃいますわな~
このあたりの詳しい経緯は拙著『超軽っ日本史』に詳しく説明しています。ちょっと南北朝の争乱は詳しく書いているので興味のある人は是非お読みください。
源頼朝・足利尊氏・徳川家康の三人には、思わぬ共通点があります。
足利尊氏は、北条氏が起こした乱(中先代の乱)を鎮圧するために兵を率いて関東に向かいます。
そうして足利尊氏がいなくなったところで新田義貞が兵をまとめて関東にむかう…
徳川家康は、上杉氏が起こした乱鎮圧するために兵を率いて関東に向かいます。
そうして徳川家康がいなくなったところで石田三成が兵をまとめて関東にむかう…
わざとクーデターを起こさせて、そのクーデターを鎮圧して実権を掌握する。
これを“カウンタークーデター”といいます。
天下をとるきっかけとなった出来事は、尊氏・家康はよく似ており、嫌われ者、「君側の奸」としてとらえられている点では石田三成と新田義貞はよく似た役回りを歴史的に与えられています。
源頼朝は挙兵したものの、石橋山の戦いでやぶれて房総半島へ逃亡しました。
しかし、かえって人気が出て、関東地方の武士を再編し、大軍を得て鎌倉に入りました。
足利尊氏は京都に入ったものの、北畠顕家らの攻撃を受けて九州へ逃亡しました。
しかし、かえって人気が出て、九州地方の武士を再編し、大軍を得て京都に入りました。
敗北は、時流の一断面にすぎず、それが次なる勝利の準備となる…
頼朝が房総へ逃亡したことが次なる飛躍となったように、尊氏が九州へ逃亡したことが次なる飛躍となりました。
九州は、基本的に鎌倉時代から、三つの有力者による“勢力バランス”が保たれてきました。
そして、この三勢力こそ源頼朝が“移植”したものだったのです。
西国はとくに平氏の勢力が強い地域で、頼朝は平氏を壇ノ浦で倒した後、西国支配の強化のために、自分のもっとも信頼している「部下」を九州に派遣しました。
それらが、少弐氏・大友氏・島津氏です。
彼らは、「元寇」のときに活躍したものの(とくに少弐氏)、戦後の恩賞に不満が残ります。
それどころか、新たに鎮西探題が博多に設置され、九州の政務や裁判を統括するようになると、もともと鎮西奉行として九州をしきっていた少弐氏や大友氏の立場は微妙なものとなります。
この鎮西探題が、北条一族によって占められていたことから、少弐も大友も島津も、「反北条」の空気が強く漂うようになります。
九州の三つの勢力は、反北条ということで「一つ」になっていたのです。
「共通の敵ができると団結ができるの法則」です。
こういうときは、精神的な支え、ということも大切になります。
執権北条氏の専制政治に対抗する意識…
「島津は、何をかくそう、頼朝公の末裔なのだっ 北条氏なにするものぞっ」
そもそも、島津の祖、忠久なのですが…
母は源頼朝の愛人だった人物で、しかも有力豪族比企能員の妹、
「丹後局」
です。
よって、忠久は頼朝公の隠し子であった、という説が島津家に伝わっています。
「そんなのウソだ」
と、言ってしまうのは簡単で、実際、偽説であるというのが歴史学では定説です。
でも…
わたしは、「~の御落胤」「~の子孫」という話は、それが事実か否かが重要なのではなく、それがそう信じられることによって、そう信じる人の言動、思想を
「規定」
する、ということがはるかに意味があることだと思うのです。
島津は頼朝公の御落胤である。よって「反北条」、北条氏の支配する鎌倉幕府を倒すことに与するのだ、ということを意識させるのです。
島津の一族・郎党には「われわれは源氏なのだ」という意識が浸透していきます。
さらに、大友氏の祖、能直なのですが…
母は源頼朝の愛人だった人物で、
「利根局」
です。
よって、能直は頼朝公の隠し子であった、という説が大友家に伝わっています。
「そんなのウソだ」
と、言ってしまうのは簡単で、実際、偽説であるというのが歴史学では定説です。
でも、先ほどの話と同じです。それはそう信じる人の言動、思想を
「規定」
するのです。
そのようにふるまう、ということをさせるわけで、島津と同様、大友の一族・郎党には「われわれは源氏なのだ」という意識が浸透していきます。
少弐氏の祖、武藤資頼なのですが、その父、武藤頼平は、なんと大友能直のおじさんにあたるのです。(武藤家は平将門を倒した藤原秀郷を祖先である称していました。)
さて、後年のことです。
頼朝の隠し子たちによる“源氏精神ネットワーク”が九州に張り巡らされていたわけですから、この網の上に落ちてきた足利尊氏を受け止めたのはある意味当然でした。
『梅松論』にあるように、
「九州では、宮方(後醍醐天皇)に味方する者は、最初、武家方(足利尊氏)の何十倍もありましたが、内心では、尊氏に心をよせていた者がほとんどでした。」
という記述は、この“源氏精神ネットワーク”の“空気”を示すものだったのです。
足利尊氏は、北条氏が起こした乱(中先代の乱)を鎮圧するために兵を率いて関東に向かいます。
そうして足利尊氏がいなくなったところで新田義貞が兵をまとめて関東にむかう…
徳川家康は、上杉氏が起こした乱鎮圧するために兵を率いて関東に向かいます。
そうして徳川家康がいなくなったところで石田三成が兵をまとめて関東にむかう…
わざとクーデターを起こさせて、そのクーデターを鎮圧して実権を掌握する。
これを“カウンタークーデター”といいます。
天下をとるきっかけとなった出来事は、尊氏・家康はよく似ており、嫌われ者、「君側の奸」としてとらえられている点では石田三成と新田義貞はよく似た役回りを歴史的に与えられています。
源頼朝は挙兵したものの、石橋山の戦いでやぶれて房総半島へ逃亡しました。
しかし、かえって人気が出て、関東地方の武士を再編し、大軍を得て鎌倉に入りました。
足利尊氏は京都に入ったものの、北畠顕家らの攻撃を受けて九州へ逃亡しました。
しかし、かえって人気が出て、九州地方の武士を再編し、大軍を得て京都に入りました。
敗北は、時流の一断面にすぎず、それが次なる勝利の準備となる…
頼朝が房総へ逃亡したことが次なる飛躍となったように、尊氏が九州へ逃亡したことが次なる飛躍となりました。
九州は、基本的に鎌倉時代から、三つの有力者による“勢力バランス”が保たれてきました。
そして、この三勢力こそ源頼朝が“移植”したものだったのです。
西国はとくに平氏の勢力が強い地域で、頼朝は平氏を壇ノ浦で倒した後、西国支配の強化のために、自分のもっとも信頼している「部下」を九州に派遣しました。
それらが、少弐氏・大友氏・島津氏です。
彼らは、「元寇」のときに活躍したものの(とくに少弐氏)、戦後の恩賞に不満が残ります。
それどころか、新たに鎮西探題が博多に設置され、九州の政務や裁判を統括するようになると、もともと鎮西奉行として九州をしきっていた少弐氏や大友氏の立場は微妙なものとなります。
この鎮西探題が、北条一族によって占められていたことから、少弐も大友も島津も、「反北条」の空気が強く漂うようになります。
九州の三つの勢力は、反北条ということで「一つ」になっていたのです。
「共通の敵ができると団結ができるの法則」です。
こういうときは、精神的な支え、ということも大切になります。
執権北条氏の専制政治に対抗する意識…
「島津は、何をかくそう、頼朝公の末裔なのだっ 北条氏なにするものぞっ」
そもそも、島津の祖、忠久なのですが…
母は源頼朝の愛人だった人物で、しかも有力豪族比企能員の妹、
「丹後局」
です。
よって、忠久は頼朝公の隠し子であった、という説が島津家に伝わっています。
「そんなのウソだ」
と、言ってしまうのは簡単で、実際、偽説であるというのが歴史学では定説です。
でも…
わたしは、「~の御落胤」「~の子孫」という話は、それが事実か否かが重要なのではなく、それがそう信じられることによって、そう信じる人の言動、思想を
「規定」
する、ということがはるかに意味があることだと思うのです。
島津は頼朝公の御落胤である。よって「反北条」、北条氏の支配する鎌倉幕府を倒すことに与するのだ、ということを意識させるのです。
島津の一族・郎党には「われわれは源氏なのだ」という意識が浸透していきます。
さらに、大友氏の祖、能直なのですが…
母は源頼朝の愛人だった人物で、
「利根局」
です。
よって、能直は頼朝公の隠し子であった、という説が大友家に伝わっています。
「そんなのウソだ」
と、言ってしまうのは簡単で、実際、偽説であるというのが歴史学では定説です。
でも、先ほどの話と同じです。それはそう信じる人の言動、思想を
「規定」
するのです。
そのようにふるまう、ということをさせるわけで、島津と同様、大友の一族・郎党には「われわれは源氏なのだ」という意識が浸透していきます。
少弐氏の祖、武藤資頼なのですが、その父、武藤頼平は、なんと大友能直のおじさんにあたるのです。(武藤家は平将門を倒した藤原秀郷を祖先である称していました。)
さて、後年のことです。
頼朝の隠し子たちによる“源氏精神ネットワーク”が九州に張り巡らされていたわけですから、この網の上に落ちてきた足利尊氏を受け止めたのはある意味当然でした。
『梅松論』にあるように、
「九州では、宮方(後醍醐天皇)に味方する者は、最初、武家方(足利尊氏)の何十倍もありましたが、内心では、尊氏に心をよせていた者がほとんどでした。」
という記述は、この“源氏精神ネットワーク”の“空気”を示すものだったのです。
あ、それは聞いたことがある、という人もいるかもしれません。
一時、
「聖徳太子はいなかった」
という学説が話題になりました。
まず、最初に申し上げておきますと、小学校の教科書にも、中学の教科書にも、聖徳太子の記述は明確に書かれています。
けっして「消えたもの」ではありません。
が、しかし、高校の教科書からは「聖徳太子」という語句は消えつつあります。
「聖徳太子」ではなく「厩戸王」という語句になり、場合によっては「厩戸王(聖徳太子)」というような書き方になっています。
おそらく近いうちに「厩戸王」という表現だけになるかもしれません。
ただ、「聖徳太子はいなかった」という関連の本や論文を読めばわかりますが、聖徳太子がまったくの架空の人物である、というものは少数派で、かつ「聖徳太子は実在しない」という説は、現在では否定されているものです。
中には、しっかりと厩戸王の業績が書かれているにもかかわらず、題名は「聖徳太子はいない」みたいなものになっているものあります。
ようするに、これは出版社の意向が大きく反映されていて、「そう書いたほうが売れる」という意味もあるからです。
高校の教科書から「聖徳太子」という書き方が消えたのは、「聖徳太子」が歴史上の人物であることを越えて、信仰の対象となってしまっているので、
信仰の対象 =「聖徳太子」
歴史上の人物=厩戸王
ということを明確に区別するためにそういう表記にするようになった、ということが第一の理由です。
小学校の教科書や中学の教科書で「聖徳太子」が消えない理由は、やはりはじめて知る歴史上の人物も教科書には多いことから、親しみのある、学校で習う前にどこかで聞いたことのある名称を使用(利用)しようとしているからです。
そして、何より、やはり正史の『日本書紀』に書かれている内容を否定する、というのは、それなりの反証と傍証と労力が必要なわけで、聖徳太子の存在を架空のものであると言うために『日本書紀』そのものが捏造だ、とまで言わなくてはならない、というのはかなりの無理がある、ということです。
「聖徳太子」はいないが、厩戸王は実在している、ということが現在では定説。
また、「十七条憲法」や「冠位十二階」の制度などもなかった、「摂政」という表現も当時もなかった、と言ってしまうのも暴論です。
十七条憲法について言えば、当時のモノは、後世に書かれているような“表現”ではないだけの話です。「役人の心得」を説いたモノが確実に存在していて、奈良時代に表現を今のように変えられただけで、「飛鳥時代には存在しない表現で書かれているからそれはなかった」としてしまうのは明らかに変です。
現在の小学校の教科書に、五ヶ条の誓文の第一項は、
「広く会議を開いて話しあいで決めよう」
と書かれていますが「こんな表現は明治時代にはしていない、だから五ヶ条の誓文などなかったのだ」と言い張っているのと同じくらい変です。
『日本書紀』が書かれた奈良時代、「聖徳太子の地位は今でいったら摂政だよね」として「摂政」と記されているだけで、「当時、摂政という表現はなかった。だから聖徳太子はいない」という言い方はやはりおかしいといわなくてはなりません。
上杉謙信は武田信玄に塩をおくっていない。
上杉謙信と武田信玄は川中島で一騎打ちをしていない。
だから、上杉謙信も武田信玄も実在があやしい。
という飛躍した理論に似ています。
「冠位十二階」にいたっては、中国の『隋書』倭国伝の中で、日本に来た裴世清が、しっかりとその存在を記録しているので、日本の記録にも中国の記録にもあるモノです。
推古天皇-厩戸王-蘇我馬子
の時代に、それまでにはない新しい「改革」があったことは間違いありません。
聖徳太子“伝説”も、ありえない話しだからウソだ、と、説明するのはかえって科学的判断ではありません。「伝説にはそれが伝説となるそれなりの理由がある」ということです。
たとえば、「十人の話を聞き分けた」という話があります。
そんなわけね~だろっ と言ってしまえば終わりですが、たとえばこう考えてみてはどうでしょう。
当時の難波は、国際貿易港でした。
飛鳥時代は、朝鮮や南北朝時代の中国から仏教や仏像、すぐれた文化が伝来した時代です。
中国からも人が来ていたでしょうし、朝鮮半島からは百済の人も高句麗の人も新羅の人も来ていたかもしれません。場合によっては、シルクロードを通じて西域の人やペルシア人も来ていたかもしれません。
だとすると、「十人の話を聞き分けた」という伝説の意味はわかりませんか?
そうなんです。
「いろいろな国の言葉が理解できた」
と、考えてみてはどうでしょう。
国際的な飛鳥時代にふさわしい解釈になるとは思いませんか?
でも、「聖徳太子はいなかった」という学説が投じた意味は大きかったと思います。だから、より等身大の、そして虚飾の無い「業績」を残した、歴史上の人物「厩戸王」の輪郭をはっきりと浮かび上がらすことができたからです。
一時、
「聖徳太子はいなかった」
という学説が話題になりました。
まず、最初に申し上げておきますと、小学校の教科書にも、中学の教科書にも、聖徳太子の記述は明確に書かれています。
けっして「消えたもの」ではありません。
が、しかし、高校の教科書からは「聖徳太子」という語句は消えつつあります。
「聖徳太子」ではなく「厩戸王」という語句になり、場合によっては「厩戸王(聖徳太子)」というような書き方になっています。
おそらく近いうちに「厩戸王」という表現だけになるかもしれません。
ただ、「聖徳太子はいなかった」という関連の本や論文を読めばわかりますが、聖徳太子がまったくの架空の人物である、というものは少数派で、かつ「聖徳太子は実在しない」という説は、現在では否定されているものです。
中には、しっかりと厩戸王の業績が書かれているにもかかわらず、題名は「聖徳太子はいない」みたいなものになっているものあります。
ようするに、これは出版社の意向が大きく反映されていて、「そう書いたほうが売れる」という意味もあるからです。
高校の教科書から「聖徳太子」という書き方が消えたのは、「聖徳太子」が歴史上の人物であることを越えて、信仰の対象となってしまっているので、
信仰の対象 =「聖徳太子」
歴史上の人物=厩戸王
ということを明確に区別するためにそういう表記にするようになった、ということが第一の理由です。
小学校の教科書や中学の教科書で「聖徳太子」が消えない理由は、やはりはじめて知る歴史上の人物も教科書には多いことから、親しみのある、学校で習う前にどこかで聞いたことのある名称を使用(利用)しようとしているからです。
そして、何より、やはり正史の『日本書紀』に書かれている内容を否定する、というのは、それなりの反証と傍証と労力が必要なわけで、聖徳太子の存在を架空のものであると言うために『日本書紀』そのものが捏造だ、とまで言わなくてはならない、というのはかなりの無理がある、ということです。
「聖徳太子」はいないが、厩戸王は実在している、ということが現在では定説。
また、「十七条憲法」や「冠位十二階」の制度などもなかった、「摂政」という表現も当時もなかった、と言ってしまうのも暴論です。
十七条憲法について言えば、当時のモノは、後世に書かれているような“表現”ではないだけの話です。「役人の心得」を説いたモノが確実に存在していて、奈良時代に表現を今のように変えられただけで、「飛鳥時代には存在しない表現で書かれているからそれはなかった」としてしまうのは明らかに変です。
現在の小学校の教科書に、五ヶ条の誓文の第一項は、
「広く会議を開いて話しあいで決めよう」
と書かれていますが「こんな表現は明治時代にはしていない、だから五ヶ条の誓文などなかったのだ」と言い張っているのと同じくらい変です。
『日本書紀』が書かれた奈良時代、「聖徳太子の地位は今でいったら摂政だよね」として「摂政」と記されているだけで、「当時、摂政という表現はなかった。だから聖徳太子はいない」という言い方はやはりおかしいといわなくてはなりません。
上杉謙信は武田信玄に塩をおくっていない。
上杉謙信と武田信玄は川中島で一騎打ちをしていない。
だから、上杉謙信も武田信玄も実在があやしい。
という飛躍した理論に似ています。
「冠位十二階」にいたっては、中国の『隋書』倭国伝の中で、日本に来た裴世清が、しっかりとその存在を記録しているので、日本の記録にも中国の記録にもあるモノです。
推古天皇-厩戸王-蘇我馬子
の時代に、それまでにはない新しい「改革」があったことは間違いありません。
聖徳太子“伝説”も、ありえない話しだからウソだ、と、説明するのはかえって科学的判断ではありません。「伝説にはそれが伝説となるそれなりの理由がある」ということです。
たとえば、「十人の話を聞き分けた」という話があります。
そんなわけね~だろっ と言ってしまえば終わりですが、たとえばこう考えてみてはどうでしょう。
当時の難波は、国際貿易港でした。
飛鳥時代は、朝鮮や南北朝時代の中国から仏教や仏像、すぐれた文化が伝来した時代です。
中国からも人が来ていたでしょうし、朝鮮半島からは百済の人も高句麗の人も新羅の人も来ていたかもしれません。場合によっては、シルクロードを通じて西域の人やペルシア人も来ていたかもしれません。
だとすると、「十人の話を聞き分けた」という伝説の意味はわかりませんか?
そうなんです。
「いろいろな国の言葉が理解できた」
と、考えてみてはどうでしょう。
国際的な飛鳥時代にふさわしい解釈になるとは思いませんか?
でも、「聖徳太子はいなかった」という学説が投じた意味は大きかったと思います。だから、より等身大の、そして虚飾の無い「業績」を残した、歴史上の人物「厩戸王」の輪郭をはっきりと浮かび上がらすことができたからです。
わたしのおじは、平家贔屓でした。
あの時代のインテリは「平家」に滅びの美学を感じていたのかもしれません。
ともにまいろう平の家
おれがおれがの源の家
平家は一族みんなで栄えよう、というところがあるが、源氏はおれが主役だっ というやつが多い…
と、よく言うておりました。
まったくの偏見とは承知のうえですが、わたしも、
手に手をとりあう平氏
足を引っ張り合う源氏
というイメージがぬぐえません。
むろん平氏も内輪もめ、というのはありました。でも、なんというか… 自己完結的なんですよね。
平清盛の後継者は平重盛。しかし、父より早くに死んでしまいました。重盛には維盛、資盛という子がいましたが、維盛が平氏の棟梁にはならず、重盛の弟の宗盛が後継者となります。
むろん年齢の問題もあったのでしょうが、重盛と宗盛は兄弟ながら、母親が違う… 重盛の母の家柄と宗盛の母の家柄では実は後者が格が上… 死んでいる前妻の孫維盛と生きている後妻の子宗盛、という違いも大きかったと思います。
維盛はいわば軍司令官として源氏と戦うものの、富士川の戦い、倶利伽羅峠の戦いで敗北し、A級戦犯のような扱いを受けて、平氏の中ではやや立場を失ってしまいます。そして平氏の都落ちの際、自殺… その弟の資盛は、朝廷・院との和解工作を進めますが不調に終わり、都落ちした平氏軍に合流します。
(もし源氏なら、宗盛が継ぐか維盛が継ぐかの争いが起こっていたと思いますよ。)
そして最後は、一族ともに手に手をとって壇ノ浦の水底へと消えていく…
南北朝の争乱の、中心的な二人の人物、新田義貞と足利尊氏。
この二人の“確執”と“怨念”の水源は、かれらの共通の祖、源義国にありました。
新田も足利も、源氏の一流なのです。いわば同族。
源氏の一門にとって、もはや“神君”とでもいう伝説の人物が“八幡太郎義家”源義家です。
義家の子、義親と義国なのですが、この義親の子が為義、その子が義朝、そしてその子が頼朝ということになります。
で、義国の子が義重と義康。
義重の子孫が新田義貞。
義康の子孫が足利尊氏。
ということになります。
しかし、長男であるはずの義重は、足利庄(栃木県)を出て新田庄(群馬県)にうつり、「新田」を名乗り、弟の義康が「足利」の名を継ぎます。
義重は義国の前妻の子、そして義康は後妻の子…
後を継ぐのはおれやろっ
そうじゃないなら出ていったるっ
「おれがおれが」の源氏の気質と申しましょうか…
義重はそんな気持ちが濃厚にあったような気がします。
実際、源頼朝が挙兵したときのことでした。
足利は一族をあげて頼朝のもとにはせ参じたにもかかわらず、新田義重は、
「おれはおれで平氏を倒してやるっ うちだって義家さまの末裔だっ」
と、平氏打倒のための独自路線をとることを選択し、頼朝のもとには行かなかったのです。
時流を完全に読み間違えました。
関東の武士たちはこぞって頼朝のもとに結集したにもかかわらず、新田一族だけがぽつんと孤立してしまいます。
結局、頼朝のもとに行くことになるのですが、「いまごろ何だ」という空気になりました。
いや、実は、新田家のこの後の冷遇・不振は頼朝の「個人的な」心情もあったはずです。
実は新田義重の娘が、頼朝の兄、義平に嫁いでいたのですが、これが絶世の美女だったようです。
義平の死後、新田の家にもどっていたのですが、そのことを知った頼朝が、いわば「兄嫁」に求愛します。
「おれの愛人にならないか?」
頼朝は、まことに“女好き”で、妻の北条政子の目をぬすんでは、各地に愛妾をもうけておりました。
新田義重は「これはやばい」と考えました。頼朝の妻、北条政子の嫉妬は、背景に北条氏の権勢と軍事力があります。
義重は、その娘をさっさと再び嫁に出してしまいました。頼朝は怒ります。
「むかつくっ 遅参したうえ、せっかくのおれの厚情を無にするのかっ」
その後、新田氏は幕府の要職につくことなく、足利氏との「差」は大きくなってしまいました。
思えば、新田・足利の確執、南北朝の争乱は、頼朝のこの“浮気”が原因?であったかもしれませんね…
あの時代のインテリは「平家」に滅びの美学を感じていたのかもしれません。
ともにまいろう平の家
おれがおれがの源の家
平家は一族みんなで栄えよう、というところがあるが、源氏はおれが主役だっ というやつが多い…
と、よく言うておりました。
まったくの偏見とは承知のうえですが、わたしも、
手に手をとりあう平氏
足を引っ張り合う源氏
というイメージがぬぐえません。
むろん平氏も内輪もめ、というのはありました。でも、なんというか… 自己完結的なんですよね。
平清盛の後継者は平重盛。しかし、父より早くに死んでしまいました。重盛には維盛、資盛という子がいましたが、維盛が平氏の棟梁にはならず、重盛の弟の宗盛が後継者となります。
むろん年齢の問題もあったのでしょうが、重盛と宗盛は兄弟ながら、母親が違う… 重盛の母の家柄と宗盛の母の家柄では実は後者が格が上… 死んでいる前妻の孫維盛と生きている後妻の子宗盛、という違いも大きかったと思います。
維盛はいわば軍司令官として源氏と戦うものの、富士川の戦い、倶利伽羅峠の戦いで敗北し、A級戦犯のような扱いを受けて、平氏の中ではやや立場を失ってしまいます。そして平氏の都落ちの際、自殺… その弟の資盛は、朝廷・院との和解工作を進めますが不調に終わり、都落ちした平氏軍に合流します。
(もし源氏なら、宗盛が継ぐか維盛が継ぐかの争いが起こっていたと思いますよ。)
そして最後は、一族ともに手に手をとって壇ノ浦の水底へと消えていく…
南北朝の争乱の、中心的な二人の人物、新田義貞と足利尊氏。
この二人の“確執”と“怨念”の水源は、かれらの共通の祖、源義国にありました。
新田も足利も、源氏の一流なのです。いわば同族。
源氏の一門にとって、もはや“神君”とでもいう伝説の人物が“八幡太郎義家”源義家です。
義家の子、義親と義国なのですが、この義親の子が為義、その子が義朝、そしてその子が頼朝ということになります。
で、義国の子が義重と義康。
義重の子孫が新田義貞。
義康の子孫が足利尊氏。
ということになります。
しかし、長男であるはずの義重は、足利庄(栃木県)を出て新田庄(群馬県)にうつり、「新田」を名乗り、弟の義康が「足利」の名を継ぎます。
義重は義国の前妻の子、そして義康は後妻の子…
後を継ぐのはおれやろっ
そうじゃないなら出ていったるっ
「おれがおれが」の源氏の気質と申しましょうか…
義重はそんな気持ちが濃厚にあったような気がします。
実際、源頼朝が挙兵したときのことでした。
足利は一族をあげて頼朝のもとにはせ参じたにもかかわらず、新田義重は、
「おれはおれで平氏を倒してやるっ うちだって義家さまの末裔だっ」
と、平氏打倒のための独自路線をとることを選択し、頼朝のもとには行かなかったのです。
時流を完全に読み間違えました。
関東の武士たちはこぞって頼朝のもとに結集したにもかかわらず、新田一族だけがぽつんと孤立してしまいます。
結局、頼朝のもとに行くことになるのですが、「いまごろ何だ」という空気になりました。
いや、実は、新田家のこの後の冷遇・不振は頼朝の「個人的な」心情もあったはずです。
実は新田義重の娘が、頼朝の兄、義平に嫁いでいたのですが、これが絶世の美女だったようです。
義平の死後、新田の家にもどっていたのですが、そのことを知った頼朝が、いわば「兄嫁」に求愛します。
「おれの愛人にならないか?」
頼朝は、まことに“女好き”で、妻の北条政子の目をぬすんでは、各地に愛妾をもうけておりました。
新田義重は「これはやばい」と考えました。頼朝の妻、北条政子の嫉妬は、背景に北条氏の権勢と軍事力があります。
義重は、その娘をさっさと再び嫁に出してしまいました。頼朝は怒ります。
「むかつくっ 遅参したうえ、せっかくのおれの厚情を無にするのかっ」
その後、新田氏は幕府の要職につくことなく、足利氏との「差」は大きくなってしまいました。
思えば、新田・足利の確執、南北朝の争乱は、頼朝のこの“浮気”が原因?であったかもしれませんね…
え… 「十二単」は、教科書にものっているよ。古典でも習ったはず…
その通りです。ただ、現在の教科書では
「平安時代の貴族は、男子は衣冠束帯、女子は十二単…」
と表記しなくなりました。では、なんと表記しているかというと、
「女房装束」
です。「にょうぼうしょうぞく」と読みます。
「十二単」は、実は服装の名称ではなく、袿(うちき)を重ね着した“姿”“様子”を示す言葉だったのです。平安時代前期から中期にかけては、十二単という言葉そのものも記録にはみられません。
貴族の女性の服装=十二単
というイメージが広がり、ついには、もともとの「五衣唐衣装」という服装そのものを「十二単」だと人々に思い込ませてしまいました。
ちなみに、平安末期から鎌倉にかけて「十二単」という言葉を用いるようになった(それでも服装を意味する言葉ではなく)のは、
『平家物語』『源平盛衰記』
の「ある記述」が誤解の始まりであったろうと言われています。
壇ノ浦の戦いの最後の場面。(「建礼門院徳子の入水の段」)
弥生の末の事なれば
藤がさねの十二単の御衣を召され
これだけ読むと、あたかも「十二単」という衣装があるかのようにも思えてしまいます。
それから、中学生くらいだと、「十二単」を、12枚の衣装だと思っている子もいるのですが、もともとは、「単(ひとえ)」に「袿(うちき)」を12枚着ている、ということになるので実際は13枚、ということになります。
より正確には、小袖・単・袴をはいて、上に重ねる、ということです。
そもそも「十二枚」も重ねるのは、当時では「過ぎたること」として奢侈をいましめる禁令の中で控えるように通達が出され、平安末期では5枚くらいが一般的でした。
「十二単」の重量は20キログラムを越える、と、説明する場合ももちろんありますが、あくまでも現在の繊維材料でつくられた衣装の場合で、実際はもう少し軽量であったかもしれません。
というようなわけで、教科書には“俗称”ではない「女房装束」という表現に変えられるようになり、「十二単と呼ばれた…」というようなややぼやかした表現が補足される、というようなものになっています。
高校でははっきりと「十二単は俗称だ」と説明される先生もおられ、小学校の教科書でも「十二単」という表現はなくなりつつあります。
その通りです。ただ、現在の教科書では
「平安時代の貴族は、男子は衣冠束帯、女子は十二単…」
と表記しなくなりました。では、なんと表記しているかというと、
「女房装束」
です。「にょうぼうしょうぞく」と読みます。
「十二単」は、実は服装の名称ではなく、袿(うちき)を重ね着した“姿”“様子”を示す言葉だったのです。平安時代前期から中期にかけては、十二単という言葉そのものも記録にはみられません。
貴族の女性の服装=十二単
というイメージが広がり、ついには、もともとの「五衣唐衣装」という服装そのものを「十二単」だと人々に思い込ませてしまいました。
ちなみに、平安末期から鎌倉にかけて「十二単」という言葉を用いるようになった(それでも服装を意味する言葉ではなく)のは、
『平家物語』『源平盛衰記』
の「ある記述」が誤解の始まりであったろうと言われています。
壇ノ浦の戦いの最後の場面。(「建礼門院徳子の入水の段」)
弥生の末の事なれば
藤がさねの十二単の御衣を召され
これだけ読むと、あたかも「十二単」という衣装があるかのようにも思えてしまいます。
それから、中学生くらいだと、「十二単」を、12枚の衣装だと思っている子もいるのですが、もともとは、「単(ひとえ)」に「袿(うちき)」を12枚着ている、ということになるので実際は13枚、ということになります。
より正確には、小袖・単・袴をはいて、上に重ねる、ということです。
そもそも「十二枚」も重ねるのは、当時では「過ぎたること」として奢侈をいましめる禁令の中で控えるように通達が出され、平安末期では5枚くらいが一般的でした。
「十二単」の重量は20キログラムを越える、と、説明する場合ももちろんありますが、あくまでも現在の繊維材料でつくられた衣装の場合で、実際はもう少し軽量であったかもしれません。
というようなわけで、教科書には“俗称”ではない「女房装束」という表現に変えられるようになり、「十二単と呼ばれた…」というようなややぼやかした表現が補足される、というようなものになっています。
高校でははっきりと「十二単は俗称だ」と説明される先生もおられ、小学校の教科書でも「十二単」という表現はなくなりつつあります。