前・太平記(1)頼朝の浮気 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

わたしのおじは、平家贔屓でした。
あの時代のインテリは「平家」に滅びの美学を感じていたのかもしれません。

ともにまいろう平の家
おれがおれがの源の家

平家は一族みんなで栄えよう、というところがあるが、源氏はおれが主役だっ というやつが多い…
と、よく言うておりました。
まったくの偏見とは承知のうえですが、わたしも、

手に手をとりあう平氏
足を引っ張り合う源氏

というイメージがぬぐえません。
むろん平氏も内輪もめ、というのはありました。でも、なんというか… 自己完結的なんですよね。

平清盛の後継者は平重盛。しかし、父より早くに死んでしまいました。重盛には維盛、資盛という子がいましたが、維盛が平氏の棟梁にはならず、重盛の弟の宗盛が後継者となります。
むろん年齢の問題もあったのでしょうが、重盛と宗盛は兄弟ながら、母親が違う… 重盛の母の家柄と宗盛の母の家柄では実は後者が格が上… 死んでいる前妻の孫維盛と生きている後妻の子宗盛、という違いも大きかったと思います。
維盛はいわば軍司令官として源氏と戦うものの、富士川の戦い、倶利伽羅峠の戦いで敗北し、A級戦犯のような扱いを受けて、平氏の中ではやや立場を失ってしまいます。そして平氏の都落ちの際、自殺… その弟の資盛は、朝廷・院との和解工作を進めますが不調に終わり、都落ちした平氏軍に合流します。
(もし源氏なら、宗盛が継ぐか維盛が継ぐかの争いが起こっていたと思いますよ。)
そして最後は、一族ともに手に手をとって壇ノ浦の水底へと消えていく…

南北朝の争乱の、中心的な二人の人物、新田義貞と足利尊氏。
この二人の“確執”と“怨念”の水源は、かれらの共通の祖、源義国にありました。
新田も足利も、源氏の一流なのです。いわば同族。

源氏の一門にとって、もはや“神君”とでもいう伝説の人物が“八幡太郎義家”源義家です。

義家の子、義親と義国なのですが、この義親の子が為義、その子が義朝、そしてその子が頼朝ということになります。
で、義国の子が義重と義康。

義重の子孫が新田義貞。
義康の子孫が足利尊氏。

ということになります。
しかし、長男であるはずの義重は、足利庄(栃木県)を出て新田庄(群馬県)にうつり、「新田」を名乗り、弟の義康が「足利」の名を継ぎます。
義重は義国の前妻の子、そして義康は後妻の子…

後を継ぐのはおれやろっ
そうじゃないなら出ていったるっ

「おれがおれが」の源氏の気質と申しましょうか…

義重はそんな気持ちが濃厚にあったような気がします。
実際、源頼朝が挙兵したときのことでした。
足利は一族をあげて頼朝のもとにはせ参じたにもかかわらず、新田義重は、

「おれはおれで平氏を倒してやるっ うちだって義家さまの末裔だっ」

と、平氏打倒のための独自路線をとることを選択し、頼朝のもとには行かなかったのです。
時流を完全に読み間違えました。
関東の武士たちはこぞって頼朝のもとに結集したにもかかわらず、新田一族だけがぽつんと孤立してしまいます。
結局、頼朝のもとに行くことになるのですが、「いまごろ何だ」という空気になりました。

いや、実は、新田家のこの後の冷遇・不振は頼朝の「個人的な」心情もあったはずです。

実は新田義重の娘が、頼朝の兄、義平に嫁いでいたのですが、これが絶世の美女だったようです。
義平の死後、新田の家にもどっていたのですが、そのことを知った頼朝が、いわば「兄嫁」に求愛します。

「おれの愛人にならないか?」

頼朝は、まことに“女好き”で、妻の北条政子の目をぬすんでは、各地に愛妾をもうけておりました。

新田義重は「これはやばい」と考えました。頼朝の妻、北条政子の嫉妬は、背景に北条氏の権勢と軍事力があります。
義重は、その娘をさっさと再び嫁に出してしまいました。頼朝は怒ります。

「むかつくっ 遅参したうえ、せっかくのおれの厚情を無にするのかっ」

その後、新田氏は幕府の要職につくことなく、足利氏との「差」は大きくなってしまいました。

思えば、新田・足利の確執、南北朝の争乱は、頼朝のこの“浮気”が原因?であったかもしれませんね…