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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

70】「正徳の治」を誤解している。

 

「家宣は将軍になると、ただちに『生類憐みの令』を廃止した。そして学者の新井白石を侍講(政治顧問)に登用して、元禄時代に改鋳した貨幣の金銀含有量を元に戻した。これによって幕府の財政も悪化したが、同時に市中に出回る貨幣の流通量が減り、日本全体がインフレからデフレへ転換し、世の中は不景気となった。このあたりが経済の不思議なところである。」(P201)

 

「正徳の治」をまず、たいへん誤解されていて、誤りがあります。

百田氏は「正徳の治」の貨幣改鋳が2回行われていたことをご存知ないようです。

 

誤解① 家宣は貨幣の金銀含有量を元に戻していない。

 家宣が「正徳小判」を発行したと思い込まれているようです。「正徳小判」は「元禄小判」の前、すなわち「慶長小判」の金銀含有量にもどしたものですが、これは1714年の発行です。家宣は1712年に死んでいて、「正徳小判」は家継の代の1714年に出されました。

 

誤解② 家宣の経済政策の担い手は新井白石ではなく荻原重秀であった。

 家宣の時に貨幣改鋳をおこなったのは、実は勘定奉行の荻原重秀です(かれは「正徳の治」でも経済政策を担当をしていました。綱吉が死んで家宣になった段階で勘定奉行荻原重秀が解任されたと勘違いされているのではないでしょうか)。

1711年に出された「宝永小判」は金の量はさらに減らされ、しかも全体の重量は元禄小判の半分しかありませんでした。しかし、「元禄小判」だけではなく、この小判への交換は進まず、「慶長小判」は退蔵されつづけ、荻原重秀による通貨政策はここに完全に失敗したのです。

 

私は、荻原重秀を再評価している派ですが、それはあくまでも佐渡金山の再生や東大寺大仏の復興、元禄検地についての業績です。彼の経済政策はやはり失敗で、ましてや「金融緩和政策」などではありませんでした。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12431319509.html

 

元禄小判は「改鋳前の一両と改鋳後の一両の貨幣の価値は変わらず」(P180)と百田氏は説明されていましたが、「慶長小判」は死蔵されたままで交換が進まず、各藩が持っていた「慶長小判」を幕府は何とか引き出そうとしましたが藩は一切応じていないのです。グレシャムの法則の通り、「悪貨が良貨を駆逐する」というのは正しかったといえます。

『江戸の貨幣物語』(三上隆三・東洋経済新報社)

『近世銀座の研究』(田谷博吉・吉川弘文館)

 

それから、1707年には富士山の噴火による大被害が各地に出ます。荻原重秀はこの被害救済のために「増税」しました。

全国の大名に諸国高役金をかけ、100石につき金2両ずつ復興金を集めたのです。

集まった金は約49万両でしたが不思議なことに、復旧に使用されたのは6万3000両で、残りの40数万両は、ほかのことに流用されました。何かを名目として税を集めて、別の使徒に用いる、という経済政策だったことも忘れてはいけないところです。

 

さて、「宝永小判」は、金の含有量も少なく(「慶長小判」の金の量の半分)、おまけに全体の重量も半分であったため、「二分小判」と揶揄され、幕府の貨幣政策についての信用は著しく低下してしまいました。まさに『三王外記』が揶揄したように「幕府の貨幣は瓦礫同然」だったのです。

家宣が死の床にあったとき、新井白石はようやく荻原重秀を勘定奉行から解任し、1714年、「慶長小判」とまったく同じ「正徳小判」を発行し、「元禄小判」・「宝永小判」で混乱した貨幣流通を回復させました。

 

さて、「正徳の治」については百田氏の扱いはきわめて過小です。

通貨政策にしか言及しておらず(しかもその事実を誤認して説明している)、「長崎貿易」の制限にも触れず、「朝鮮通信使の接待簡素化」にも触れていません。

さらには「閑院宮家の創設」にも触れていません。

それまで宮家は、伏見・桂・有栖川の3家しかなく、多くの皇族が出家して門跡寺院に入室してしまっていました。

新井白石は費用を捻出し、閑院宮家を設立して4家とするのですが、のちに皇統断絶の危機が訪れるのですが、この閑院宮家から天皇が出ることになります。百田氏がこの話にまったく触れていないのは、不思議な気がしました。

やはり、「江戸時代においては政治の表舞台にまったく登場しなかった『天皇』」(P230)と説明されているように、江戸時代の幕府と朝廷の関係をかなり低く評価されていることがわかる部分です。

 

69】やっぱり「百姓一揆」と「農民」を誤解している。

 

歴史の説明の基本は、「いつの話か」「どこの話か」「だれの話か」です。

小学校の教科書は、この「型」を外してはいません。

 

「百姓一揆」や農民の生活を、「江戸時代」で一つにくくって説明するのは無謀です。

江戸時代は二百六十余年あります。

①いったい「いつの」時期の話なのか?

 

江戸時代は、「幕藩体制」で、藩ごとに法律も経済運営も違います。幕府の支配地域と大名の領地ではまったく異なることも起こっています。

②いったい「どこの」村の話なのか?

 

二百六十余年の歴史の中で、農民の社会構造も変化していきます。

「士農工商」の「農」は一つでは無く、本百姓・水呑百姓、田畑を失った小百姓など、農村内部でも身分の差・貧富の差がありました。

③いったい「だれの」話なのか?

 

まず、①の「いつの話か」ということで言うならば、「一揆」は時期的には4つに分けられます。

 

17世紀前半は、中世の名残があり、武力蜂起や逃散、というものがみられました。

江戸時代にも土一揆的な一揆は起こっていて、件数的には約160件みられます。

17世紀後半は、「代表越訴型」といいます。

代表者が、地元の代官の不正・厳しい年貢の徴収などをもう一つ上の組織・領主に訴える、というものです。

 

「江戸時代の一揆は、農民が集団で、あるいは代表を立てて、領主や代官と交渉するという形がほとんどである。」(P200)

 

と説明されていますが、これは「代表越訴型」の一面を示したものにすぎません。

これとて、首謀者は厳しく取り締まられました。下総の佐倉惣五郎、上野の磔茂左衛門のような「義民」伝説が生まれた背景はこれです。

 

17世紀末からは「惣百姓一揆」の段階に入ります。藩領全般にわたるものも多く(全藩一揆)1686年の信濃松本藩の嘉助騒動、1738年ま陸奥磐城平藩の元文一揆があげられます。

年貢の増徴や新税の停止、専売制の撤廃などを要求し、藩に協力している商人や村役人の家を打ちこわすなどの実力行動もとっています。

「武士と争うような一揆」(P200)はなくとも、商人や村役人に対してはかなり乱暴狼藉を働いています。

これに村内での争い(富農と小作人の争い)である「村方騒動」を入れると、「交渉する」という穏便なものとはいえず、村方騒動は1710年代以降、増加の一途をたどっています。

 

最終段階は、開国にともなう国内の混乱と諸物価高騰による一揆で、国学の尊王思想が地方にも拡大したことも背景にあり、一揆の中で(口実として)「世直し」が叫ばれるようになりました。これが「世直し一揆」というものです。

 

②の「どこの話か」というのも重要です。

百田氏の一揆の説明は、幕領での一部の状態です。

大名領の年貢率は大変高く、一揆も「暴力」をともなうものが多く、前述の四段階をふんで、とくに過激になっていきました。

ところが19世紀前半、安定していたはずの幕領にも変化があらわれます。

1836年、甲斐国の郡内や、三河国の加茂で一揆が起ったのです。

郡内では80ヵ村1万人規模の一揆、加茂では240ヵ村1万2000人の一揆でした。

これが幕府に与えた衝撃は大きく、翌年の大塩の乱とあわせて、天保の改革の契機となった、と教科書では説明します。

 

従来の一揆の「イメージ」を否定しながら、実は、別の「一部の時期の一部の場所の一部の農民のイメージ」で「一揆の全体像」を語ってしまっています。

「悲惨な農民のイメージは一種の印象操作」(P198)と指摘されていますが、これでは逆の印象操作に陥ります。

「時期・場所・階層」別に一揆をとらえないと、「一揆のイメージ」の振り子が逆に振っただけになってしまうのです

 

「江戸時代の農民は人口の約八割を占めていた。よく考えればわかることだが、収穫した米の半分を年貢で取るということは、残りの二割の人口でそれを食べていたことになり、それはあまりにも不自然である。また人口の八割がヒエやアワばかりを食べていたならば、日本のほとんどの農地がヒエ畑やアワ畑だったということになる。」

(P198)

 

というか、よく考えたらわかることですが、ムギは二毛作ですし、別に畑も農民は所有しているので家族が食する分のアワ・ヒエなどはちゃんと栽培できています。

 

寛政3年(1791)から三年間、上野国高崎藩の郡奉行が記録(『地方凡例録』)には当時の標準的農家の例が紹介されています。

 

[家族]5人(耕作者3人・幼老2人)

[耕作地]二毛作ができる水田4反・畑1反5畝

[収穫]米6石7斗2升

[裏作]麦2石4斗

[畑]ヒエ3畝7斗・アワ3畝6斗・イモ2畝3石2斗・小豆1畝1斗2升

残りで野菜類を生産しています。

[総収入]1532分銭34

ここから年貢・生活費を引くと1両1分37文赤字でした。

 

ヒエやアワばかりを食べていても、日本の耕地がヒエ畑やアワ畑になることはありません。

問題は、この「慢性的赤字」をどのようにして解消していたか、です。

高崎藩の場合は、農民たちは夜に養蚕に励み、タバコを作ったりしています。

また入会地の山林を利用して炭を作るものもいました。

富農の稲作・麦作を1日100文、馬を借りて労役をして200文、というようにアルバイトでまかなっていた者もいます。

「農民は着実に富を蓄え、休日を増やしたばかりか、村祭りなどの機会を利用して娯楽を享受するようになっていた。」(P199)

 

というのは、一面的な見方で、「富みを蓄えていた」のではなく、日々の赤字を補填するために、養蚕・たばこ作り・商品作物作りに勤しんでいたことがわかります。

江戸に近い北関東の農村ですから、まだなんとかなりますが、都市の発達していない地方の農村の窮状は容易に想像できます。

「休日を増やした」というのは何のことを言っているのかわかりませんし、村祭りによる娯楽というのは支配者が農民の不満をそらす、緩和するための行事、という側面もあったことを忘れてはいけません。

 

③の「だれの話か」という側面はより重要です。

「享保の改革」後、18世紀後半は、幕藩体制の大きな曲がり角になりました。

村では、一部の有力な農民が、村役人をつとめて貧しい農民を年季奉公人として使役するようになる地主経営がみられるようになります(「地主手作」)

農地の売買は禁止されていましたが、実は抜け道があり、困窮した農民にカネを貸し付け、返済不能になった場合、土地の「利用権」を質にとって事実上「買い集めた」のと同じような方法をとりました。

田畑を失った小百姓は小作人となるか、年季奉公や日雇いに従事し、江戸や大坂などの大都市に流入していくことになります。

 

田沼意次の政治を後に百田氏は絶賛されていますが…

 

「悪化していた幕府の財政を立て直すため、それまでの米中心の経済から、商業振興策へと転換を図った。」(P206)

「積極的に商業振興策をとったことで、幕府の財政は大いに改善され、社会の景気も良くなった。町人や役人の生活も、それまでの米を中心としたものから金銭中心となり、近代的な経済社会へと急速に近づいた。」(P207)

 

しかし、この商業の発達は、農村から流入した「安価な労働力」と貧しい農民の労働を利用した富農の商品作物栽培によって支えられていたのです。

人口の8割以上が農民で、その生活によって2割に満たない武士・町人の生活が米から金銭中心に変わっても「近代的な経済社会へと急速に近づいた」とはとても言えない状態でした。

68】江戸時代の農民は土地の「所有者」ではない。

 

「日本にはヨーロッパや中国で見られたような農奴は存在せず、また世界でも非常に珍しいことだが、古くから農民が土地を所有していた。諸外国では土地は封建領主のものであった。」(P199)

 

おそらく「農奴」という語句に「奴」という文字が入っているため、「農奴」という意味を誤解されているのかもしれません。

実は、日本の江戸時代の農民は、権利・義務の面からみればヨーロッパの「農奴」とあまり変わりません。

 

ヨーロッパでは、封建領主の持つ荘園は保有地と直営地に分けられます。

保有地、というのは農民に貸与された土地で、農民はそこに住みそこを耕し、生産物の一部を地代として納めました。これが「貢納」です。

直営地、というのは領主の土地で、農民はそこで労働して農作物を生産しました。そこで生産された農産物はすべて領主に納めました。つまりは、「働く」ということが税で、これが「賦役」です。ここから転じて封建領主は、領地内で農民を自由に使役できる、という特権が一般化します。

農民のうち、貢納と賦役の二つの義務を持ち、結果その土地からの自由な移動が認められていない状態の農民を「農奴」と表現します。

江戸時代の農民も年貢を課せられただけでなく、助郷役など労役も賦課されていました。旅行なども制限を受けて、移動の自由はありません。形式的には農奴とよく似ています。

ヨーロッパでは西欧の場合、直営地はすべて保有地になりますから、賦役から解放された分、中世後期には江戸の農民よりも独立性は高くなります。

 

ところで、日本の農民の歴史なのですが…

ちょっと雑ですが、できるだけ短く説明しちゃいますと。

 

もともとは日本の土地は「公地公民」で、農民は「口分田」を与えられ、そこ耕作しますが、その土地は死ねば返還しなくてはなりませんでした。これを「班田収授」といいます。そして農民は、税として「租庸調」を納めていました。

 

やがて10世紀になると班田収授が行われなくなり、口分田は返還しなくてもよくなってしまいました。

こうして農民は、その土地を世襲できる耕作者となりました。ここから農民は「()()」と呼ばれるようになります。

そしてその土地は、田堵の世襲した土地には違いありませんが、あくまでも「公領」。口分田とは呼ばれず「名田」と呼ばれるようになります。彼らは、税も今まで通り納めました。「租」は「官物(かんもつ)」と呼ばれる税となります。

今までは、戸籍を用いて「人」に税がかけられていましたが、班田収授が無くなりましたから、ここからは「土地」に課税されたのと同じになります。

死んでも返さなくてもよい口分田が「名田」で、それを耕して税(「官物」)を納める農民が「田堵」です。しかし、あくまでも土地は「公領」でした。

一方で、「荘園」にも農民はいました。基本的に構造は同じで、荘園領主から土地を預かって耕し、年貢を領主に納めるわけです。やはりここでも農民は土地の所有者ではなく耕作者です。

平清盛も源頼朝もこれら荘園・公領に家人を送り込みます。これが地頭。やがて国司や荘園領主に代わって税を取り立てて、国司や領主に納める徴税請負人となっていきます(地頭請)。が、その税の一部をピンはねするような者も出てきました。こうして領主は土地を二つに分けて、一方の地頭の支配を認めます。これが「下地中分」。

でも、「上」が変わっても農民は変わりません。土地を耕し、やっぱり年貢を納める…

つまり、農民は土地所有者ではなく、耕作者なのです。

 

そもそも、「太閤検地」の説明で、

 

「特に、課税対象者を、土地の所有者ではなく、耕作者にした点は出色だ。これによって長らく存在していた土地の中間搾取者が一掃され、同時に奈良時代から続いていた荘園制度がなくなり…」(P152)

 

と百田氏はハッキリおっしゃっています。

百田氏の頭の中では、いつから農民は耕作者で無くなり土地所有者になったのでしょうか。

 

農民が土地所有者となるのは、1873年の「地租改正」からです。

年貢を納めていた者に地券を発行して土地所有者とし、納税者としました。これにより、武士が年貢を受け取る「知行権」が否定されて封建制度が実質的に崩壊することになります。

ところが、土地所有の大転換となった「地租改正」の説明は、

 

「地租改正によって、江戸時代には禁じられていた田畑を売買することが許され(田畑永代売買禁止令解除)、また土地に税金が課せられることになった(地租改正条例)。」(P293)

 

というたったの二行で終わっています。P291P294の「驚異の近代化」の様々なものは、「地租改正」によって集められた税によって実現したのに、地租改正の中身も不明ですし、明治の近代化の原動力となった税の大変化が何もわかりません。

なにより、これで確立されることによる「寄生地主制」がさまざまな社会の弊害をもたらして後の日本史に大きな影響を与えるネタフリになるのに、これでは何も説明していないのと同じです。

 

ところで、「日本が世界でも珍しく農民が土地を所有していた」、という考え方はどこから生まれたのでしょうか。

これ、実は、小説や随筆の中で司馬遼太郎が述べていることの誤解なんですよね。

 

「武士という存在は不思議で、彼らは土地の所有者ではなく、その点、ヨーロッパの領主とは異なる。」

 

という言い方で、「知行権」を説明しているところがあります。

武士は、土地の支配権とそこに属する農民の支配権を持っているわけで(知行権)、農民や土地を私有財産のように扱うヨーロッパの領主とは違いますが、だからといって農民が土地の所有者であったとはいえません。

つまり、「武士が土地所有者ではない」と言えなくはないですが、だからといって「農民が土地所有者である」とも言えないのです。

 

変な話ですが…

現在の土地の権利関係・土地所有関係で説明するならば、江戸時代の土地は「だれのものでもなかった」となっちゃいます。

前から言いますように、ここでも「現代の価値観で当時のコト・モノを考えてはいけない」ということが言えるかもしれません。

 

以下は蛇足ながら…

 

家屋敷のある下の土地には、近世の場合、土地の所有権が認められていたようです。上の建物は火事などですぐに消滅するので家屋の所有概念は江戸時代には生まれにくかったようです。

その土地の「権利」を誰かに売る場合、町役人が相互に確認して書類がつくられました。これが、

 

「沽券」

 

です。買い取ったり担保としたりする場合、沽券が作成されて土地の値打ちが明らかにされました。ですから一度も売買されていない土地には「沽券」は存在しないので、現在のような権利書とも少し違いますね。

いうまでもなく、自分の土地の価値・値打ちの証明書みたいなもんですから、後に、

 

「沽券にかかわる」

 

という慣用表現が生まれました。

67】江戸の外食産業の発達にはワケがある。

 

「江戸文化で特筆すべきことの一つは、世界に類を見ない外食産業の繁栄である。」(P195)

 

と説明され、その理由として、

 

「江戸には各地から様々な食材が集まったため、それらの材料にして、高級料理屋から安い居酒屋や屋台まで、市中に多くの飲食店ができた。」

 

ということがあげられています。

 

「文化年間(一八〇〇年代初頭)の頃には、江戸の料理店は七千を超えていた。この数は同時代のパリやロンドンを断然圧倒し、世界一であった。」

 

まず、世界に類を見ない外食産業の繁栄、とありますが、これはそういうわけでもありません。

日本の文化の良さを伝えるために、世界との比較をよく百田氏は出されますが、そのためにかえって、誤りが強調されてしまいます。

国際的な都市であった唐の長安などの繁栄は『西遊記』などの記述にも描かれています。もちろん元に原形ができて、明代の小説ですから、唐の時代の都市の説明にはなりませんが、つまりは、元代・明代の都市の様子をもとに描かれていると推察されます。同様に『水滸伝』などを読めば、居酒屋や外食産業が栄えていた都市の描写も出てきます。百歩譲って小説だから架空だとしても、宋代の開封、南宋の諸都市では外食産業が発展し、河川の港町には店舗が並んでいました。

 

江戸時代の料理店の数はわりと正確に把握されています。というのも、火を扱うことがあり、火事の原因となることから、かなり町奉行所は料理屋を正確に調べていました。

文化年間の初頭、1804年の記録では6165軒、1811年には居酒屋2186、茶屋188、茶漬一膳飯屋472軒、料理茶屋466、うどん・そば屋718、鰻屋237、すし屋217、団子屋・イートインの菓子屋2912あったことがわかっています。(『食類商売人』)

 

「同時代のパリやロンドンを断然圧倒し、世界一」(P195)と説明されていますが、根拠や出典が不明です。

たとえばロンドンは産業革命に入ってから、女性も子どもも労働者となり、そのために家庭での食事の習慣が急速に減りました。フィッシュ・アンド・チップスなどのように、自分で調味料を用いて味付けして食べる様式が生まれ、ファスト=フードが生まれています。

当時の絵や後にできたロンドンの写真などには露店としての「貝売り」「いちご売り」のほか、屋台で魚を食べさせる店、ジンジャービア売りなどもみられました。

 

江戸・上方の外食産業の発展、というのは、世界というか、日本の中でも特殊な状況でした。

江戸は、実は人口の2/3が男性で圧倒的に「男余り」社会でした。

女性は手に職を持つ人が多く、男性初婚、女性離婚歴アリ、という夫婦が多かったのです。

それから日本の都市は武家地・町人地など身分によって住む地域が分けられ、町人の人口密集度がかなり歪でした。

江戸の食生活に大きな変化をもたらしたのが、P196197のコラムでも紹介されている「火事の多発」です。

明暦の大火後、かなりの期間、各家庭自炊が不可能になりました。外食店の第一号(といっていいか難しいところですが)は浅草の奈良茶飯(お茶で芋などを似た雑炊?)と言われています。

そして再建のために大量に大工をはじめとする労働者が流入し、彼らの食事は外食に依存せざるをえなくなります。

外食産業発展のきっかけは「江戸には各地から様々な食材が集まったため」ではなく、「明暦の大火の再建に男性労働者がたくさん集まったため」です。

幕府は、火災の発生にかなりの注意を払うようになり、元禄二年(1689)ですから徳川綱吉の時代、例の鶴字法度が出された翌年、火を使って調理することを禁止・制限するお触れを出します。

江戸で風呂屋が栄えるのは、各家庭での火の使用を極端に制限し、家に風呂を設けることを禁止していたからです。

また綱吉は生類憐みの令を出しましたが、殺生による「血のけがれ」を避けることから、なんと江戸城内で魚を捌くことも禁止しました。このため、城外で魚をさばくことになって魚屋のお仕事が活性化します。

 

さて、綱吉の政治の元禄年間、といえば、荻原重秀が貨幣の改鋳をおこない、インフレが発生していた時期。これが庶民の家計を直撃します。家庭燃料の「薪」が高騰し、食材も単品購入では、独身男性の自炊は食費がかかりすぎます。

こうして大量に調理し、しかも目の前の江戸湾でとれる魚を用いて、安価に手軽に提供できる寿司屋・煮売りが生まれます。

また、火事対策として、幕府は江戸の各地に「日よけ地」を設けました。そこでは恒久的店舗の建設は禁止されていましたが、移動式の屋台での出店は可でした。

街中で火が使用しにくい、建設業を中心とする男性労働者が多い、安価で大量の食材が目の前の江戸湾でとれる、屋台を出せる立地がある…

こうして江戸の外食産業は発展したのです。

 

どうです? 話がすべて繋がったでしょう?

 

通史は、ネタフリとオチが重要であると言いました。

歴史は、さまざまなベクトルで方向がきまる因果の連続です。

せっかくのネタが後で何も繋がらなくては、オチはありません。

 

「嵐の中を船で紀州から江戸までみかんを運んで大儲けしたエピソードで有名な紀伊国屋文左衛門も元禄時代を代表する豪商だが…」(P189)

 

とありますが、彼が「みかん」を運んだ話はフィクションです。ほんとは材木を江戸に運んで儲けたんですよ。

? わかるでしょ? ここで「みかん」じゃなくて、「材木」だよ、とネタフリしておけば、後でオチがついたのに、ということです。

せっかく色々な話をされているのに、繋げなくては、因果でまとめなければもったいないです。

 

 

 

66】江戸時代の治安がよい、というのはイメージである。

 

「驚くのは、江戸時代の治安の良さだ。強盗や山族はほとんどおらず、京都から江戸まで女性が一人旅できた。同時代のヨーロッパでは考えられないことである。」(P191)

「…まず驚き知るのは、当時の日本の津々浦々の治安がいかに良かったか、市井の人々がいかに暢気な優しさを備えていたかである。」(P192)

 

以前に江戸の犯罪事情を説明しましたから、そのあたりは添付しておきますので、またご確認ください。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12430631616.html

 

さて、江戸の人々は「内済」とって、現在でいうところの「示談」で多くの犯罪を共同体の中で解決しています。

とくに裁判になることをすごく恐れていました。

長屋の一人が奉行所にしょっぴかれようものなら、大家はもちろん、隣近所の者まで取り調べをうけ、事件によっては「連座」をまぬかれません。(『江戸の訴訟』高橋敏・岩波書店より)

 

「与力の付け届け三千両」という言葉があります。

江戸の町奉行所の与力や同心は、時代劇に出てくるような貧乏な者はおらず、茶屋や料亭での豪遊など、収入以上の「羽振りの良さ」でした。理由はかんたんで、有力な寺社、大名・旗本が、自分たちの身内や藩士が犯した(犯すであろう)罪をもみ消してもらえるように「付け届け」をおこなっていたからです。

「役人の子はよくにぎにぎ(賄賂)をおぼえ」という川柳も残されています。

 

さて、街道の整備の話がされ、コラムには「犬のお伊勢参り」の話が紹介されています(P191~192)。

むろんこれは18世紀後半以後の話。それ以前は、日本でもイヌが食用にされていましたから、イヌがウロウロしていたら確実に捕まえられて食われていました。

しかし、18世紀後半からはとくに治安が悪化していきます。

老中松平定信の「寛政の改革」の時、「鬼平」で有名な長谷川平蔵(ちなみに実在の人物です)の進言で「人足寄場」が設置され、失業による浮浪者、犯罪者の更生を図る施設ができました。

また、長谷川平蔵は「火付け盗賊改め」という役職にあり、凶悪犯罪専門の組織を担当しています。凶悪犯罪が増えていた証拠ですよね。

19世紀の初めには、江戸周辺の治安はさらに悪化しました。

これは産業の発達、農村社会の変化と深い関係があり、豪農・地主が力をつける一方、土地を失う百姓も多く発生して荒廃地域が増えていきます。無宿人・博徒らによる治安の悪化はひどく、幕府は「関東取締出役」(八州見回り役)を設けて、領主の区別なく逮捕ができる制度をつくりました。

 

一方で、有力な寺社では、とにかく「集客」のために修繕費や経営費を得るために、境内で縁日や御開帳、富み突きなどを催しました。

湯治や物見遊山など、庶民の旅も広がっていきます。

各地に名所が生まれ、民衆の旅が一般化すると、錦絵の風景画が流行し、葛飾北斎や歌川広重らの絵が描かれる背景となりました。

寺社がスポンサーとなって旅や名所の絵を絵師に描かせて、「宣伝」に利用する、という現代と代わらない「広告戦略」も生まれました。

日本最初の(ひょっとすると世界初の)「ツアー・ガイド」も生まれています。

「御師」がそれです。

これは、特定の寺院に属して、その寺社への参詣を促し、江戸時代には、なんと参拝案内だけでなく、宿泊の手配から宴会の世話までするようになりました。

お伊勢参りは、彼らによるプロデュースによって一大ブームを引き起こしました。様々な宣伝企画が行われました。司馬遼太郎は、「犬の伊勢参り」を御師による「企画」であってフィクションにすぎないと断言しています。

しかし、私は「犬のお伊勢参り」を、完全には否定しません。現代でも、若者が自転車に乗って一人旅、みたいな企画をテレビ番組がやりますよね。

それと同じで、「犬もお参りするよ!」「犬の参拝を見た!」などの見聞を集めて「案内」し、それに枝葉がついてできたお話だと思っています。企画CM的なものもあったでしょうし、ほんとうに犬が参詣した場合もあったと思います。

この話は、ヒトとイヌの長い歴史を通じて、特別な愛玩動物である犬が社会の中でヒトとどう交流し、どんな関係を築いたかを示した例であって(『犬の伊勢参り』仁科邦男・平凡社新書)、これをもって治安の良さの例には実はなりません。めずらしい話だからこそ記録にも残って話題となったのです。

「こっちおいでとカネをとり」というイヌの首につけられていた路銀を盗む話も同時に残っています。

治安も悪い、しかしそんな中でも活力をもって生き抜くしたたかな庶民の姿、そういう善悪道徳不道徳のるつぼが江戸時代の庶民の姿で彼らの歴史です。

プラス・マイナス、ありのままに描く、というのが庶民の通史でないといけないと思います。