こはにわ歴史堂のブログ -38ページ目

こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

「豪商の出現」(P189P190)のところで、三井高利の話が紹介されています。

唐突に「財閥解体」に話が飛ぶのですが…

 

「三井一族は明治維新後、世界有数の大財閥となった。しかし大東亜戦争後、進駐軍によって解体され、二百七十三年の歴史に幕が下ろされた。三井一族は全財産の九割を財産税で没収された上、私産の大部分を占める株式を一方的に処分された。」

 

これは何と言ってよいか…

財閥は、進駐軍によって解体されたのではありません。非常に誤解をまねく表現です。

進駐軍あるいはGHQは一方的な処分をしていません。

まず財閥解体は、GHQが命令を下して解散させたものではなく、「日本の手による解体」を促したものです。

これはGHQ全体の政策にみられる統治形式で、いわゆる間接統治というものです。

財閥解体については、他の改革とは少し、特徴的な展開を見せます。

政府は財閥解体に消極的な姿勢を示しますが、三井財閥側から、GHQの対日方針第4章B項を受けての「三井」の解体論を出したのです。また「安田」は具体的に三つの方針を示します。

 

①安田一族の役員辞任

②安田の解散

③株式の公開

 

財閥側からの動きが先で政府が後、なんです。

そして、そこでアメリカが日本の自主的な解体に期待するが、うまくいかない場合は積極的関与することを表明します。

そうして、政府は「安田3項」を叩き台にして、4財閥と協議を進め、これをもとに財閥解体案をマッカーサーに提案します。

「農地改革」のときは、かなり積極的にGHQは介入し、やりなおしを命じますが、「財閥解体」は、ほぼ政府提案のまま実行にうつされたのです。

第1次指定、第2次指定と進み、第3次指定の段階で、三井物産・三菱商事の傘下の企業の指定を外そうとして、GHQに対してロビー活動をおこないましたが、これがかえって反発を受け、この2社はさらに厳しい整理措置を要求されてしまうことになります。

 

後に(P410)で、「占領政策は狡猾で、表向きはGHQの指令・勧告によって日本政府が政治を行なう間接統治の形式をとったが,重要な事項に関する権限はほとんど与えなかった。」と説明していますが、農地改革などはむしろ表面的に済ませようとしてやり直しを命じられたり、財閥解体もロビー活動をおこなったりして進展をくいとめようとしています。GHQが狡猾であった、とは一方的には言えません。

 

「農地改革」と「財閥解体」は、「立ち直れないほど大きなダメージを蒙った」(P410)日本を立て直し、後の経済成長の礎となった政策であることは明確です。

「日本人を打ちのめしたのは、敗戦ではなく、その後になされた占領だった」(P408)のではなく、「打ちのめされた日本人が、もう一度立ち上がる準備ができたのが占領だった」と、すくなくとも「経済」に関しては明確に言えると思います。

 

65】荻原重秀は、ケンイズを二百年以上も先取りしていた、とはやっぱり言えない。

 

まずは、細かいことが気になるぼくの悪いクセ、なのですが…

 

「戦国時代から江戸時代初期までの日本は、世界有数の金銀銅の産出国だった。…しかし江戸初期に鉱山産出量のピークが過ぎ、収入が減った中期以降は財政が苦しくなった。」(P180)

 

「鉱山産出量のピークが過ぎ」とありますが、これは不正確です。ピークを過ぎたのは金と銀。

17世紀後半になると金銀の産出量はたしかに減少しましたが、かわって銅の産出量は増加しています。これが背景となり、銅は拡大する貨幣の需要に応じられるようになり、長崎貿易の最大輸出品になりました。

これは教科書にも明示されていて、大学入試の正誤問題でも狙われるポイントです。

 

「そこで幕府は元禄八年(一六九五)、貨幣の金銀含有量を減らす改鋳を行なった。」(P180)

 

と説明されていますが、貨幣の改鋳は「鉱山の産出量のピークが過ぎ」「収入が減った」ことを背景とはしていますが、最大の理由は「明暦の大火」後の江戸城及び市街地の再建費用、寺社造営費用が大きな支出となったことです。

 

さて、百田氏は「荻原重秀」の再評価を提唱されています。

実は、わたしも荻原重秀の再評価派なのですが…

 

「だが、この元禄の改鋳は見方を変えれば、江戸時代の日本が世界に先駆けて近代的な管理通貨制度を採用した画期的な出来事だったといえる(ただし完全ではない)。」

「この時、改鋳前の一両と改鋳後の一両としての価値は変わらず、むしろ市中に多くの貨幣が出回ったため、インフレにはなったものの景気はよくなった。これは現代の経済用語でいえば、『金融緩和政策』である。」(P180)

「貨幣改鋳による金融緩和政策で、元禄期に好景気をもたらしたのは、勘定奉行の荻原重秀である。」(P184)

 

と、説明されています。そしてさらに、重秀の言葉として、

 

「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以てこれに代わるといえども、まさに行うべし。」

 

というものを紹介されています。

 

これ… 実は、誤解なんです。

経済学者の方や金融アナリストの方などが、これを荻原重秀の言葉と信じて飛びついてしまい、現代的に解釈して、「政府に信用がある限りその政府が発行する通貨は保証される。したがって通貨が金や銀である必要はない(瓦礫でも代用できる)」という現代に通じる「固定信用貨幣論」を打ち立てた、と、説明しちゃったんですよ…

ネット上の説明も(Wikipediaなども)そう説明してしまっています。

 

この言葉、実は荻原重秀の言葉かどうかあやしいのです。

例の、ゴシップ書『三王外記』に記されたもので、貨幣の金銀含有率を下げて質の悪い貨幣を改鋳させた荻原重秀を皮肉った、というか、揶揄したというか… 例の「隆光がイヌを大切にしたら後継者が生まれます。」と言った話と同じように、『三王外記』の作者が類推して荻原重秀がこう言った、と記したものなのです。

貨幣の質を下げた下げた、とうるさいんじゃ! 貨幣なんて瓦礫でもええわ! と愚かにも言いました、という話になっているんです。

もし、仮に本当に荻原重秀が言ったとしても、意味は、書いてあるそのまま。

 

10年くらい前に一時、よく言われた(『勘定奉行荻原重秀の生涯』村井淳志・集英社新書)のですが、現在では荻原重秀の言葉では無いと考えられていて、荻原重秀の貨幣改鋳については、概ね出目稼ぎが目的で、物価高をもたらした、と理解されています。「教科書に書かれない」のは、ちゃんと理由があってのことです。

 

何度も申し上げますが、現在の価値観で、当時の人の言動を判断してはいけない、というのはまさにこのことです。

 

それから「目的」と「効果」を誤解してはいけません。

たとえば、「参勤交代で交通が発達した」と説明してもよいですが、「交通を発達させるために参勤交代を始めた」としたら誤りですよね?

荻原重秀は財政難にあたって「出目」(質を下げてできた金の差益)を稼ぐために実施しました。「金融緩和」が目的でも「ゆるやかなインフレを発生させて景気をよくする」のが目的でもありませんでした。

検地、佐渡金山の再生、東大寺大仏殿再建、代官の官僚化、という実績は高く評価できますが、経済政策については「ケインズより二百四十年も早く」マクロ経済を先取りしたとはいえません。

 

64】5代「綱吉像」は誇張と虚構で誤解されている。

 

徳川綱吉は、時代劇ドラマなどでずいぶんと誇張されてしまい、誤解されています。

 

実は、天災・疫病などが起こると「仁政」を敷く、というのは古来からあり、たとえば光明皇后による社会福祉も、当時の天然痘の流行の関係などから説明する場合もあります。

大きく取り上げられないだけで、「殺生」を禁ずるお触れ、というのは歴史上、度々出されていたようです。

人口が増え、都市に人口が集中し、中世とは比較にならないくらい大都市が形成されるようになると、「世論」というのも江戸時代に生まれるようになりました。

一連の「仁政」に関するお触れをまとめて「生類憐みの令」とくくって、批判してしまいますが、庶民に揶揄されたり、具体的な「迷惑」が発生してそれを皮肉ったりすることが中世に比べて表面化したのは、元禄文化の発達・町人の成長が背景にあったのです。

 

綱吉の「失政」を増幅した史料として二つのものがあげられます。

一つは新井白石による前政権批判の日記類です。

新井白石は、綱吉時代の政治をかなり嫌っていて、次の6代家宣の治世を持ち上げます。(後の8代将軍となる吉宗などは、そういう新井白石の姿勢を批判していました。)

その日記では、「生類憐みの令」がかなり庶民を苦しめていた、それを家宣さまが廃止された、家宣さま素晴らしい! みたいな感じに記されていて、これをもとに戦前の研究者たちは綱吉の政治をまとめてしまったので、戦前の教科書から戦後1980年代まで、「綱吉の治世」=「悪政」というイメージが定着しました。

 

さて、もう一つが『三王外記』というものです。

綱吉・家宣・家継の治世を記した「歴史書」、というように扱われていた時があったのですが、これ、実は当時の「ゴシップ集」なんです。誇張・虚構をとりまめとめた話がたくさん出ていて、現在ではここに記された記事だけで当時の説明をする近世史家はいません。

 

綱吉の母、桂昌院が隆光という僧から、「綱吉公は戌年生まれだからイヌを大切にすれば後継者が生まれます。」と言われて、綱吉に「イヌを大切にしなさい!」と告げたために生類憐みの令が出された、みたいな話を聞いたことありませんか?

あれ、『三王外記』だけにしかみられない話で、かんじんの隆光もそんなことをいっさい記録にも残していません。

それどころか、綱吉はイヌ好きじゃなかった、というのがわかりつつあります。

大奥の女性たちの中で「狆(ちん)」というイヌが愛好されてブームになっていたこともあり、それとどうやら混同されて庶民の間に広がったようです。(芸術家でもあった綱吉は、たくさんの絵画を残しています。しかし、イヌを描いた絵が一枚もないんですよね…)

 

コラムで紹介されている「能狂い」・「鶴字法度」に関しても、『三王外記』と同じような誇張がありました。

 

綱吉の長女鶴姫は、紀伊の徳川綱教と結婚します(1683)。ところがその後、綱吉の長男徳松が病死してしまいました(1685)

このため、鶴姫の夫綱教が次期将軍候補となり、鶴姫が次期「御台所」となるわけです。

当時、「避諱」という考え方があり、高貴な人の名前の一字を避けて使わない、という慣習がありました。そこで高貴な身分に格上げされた鶴姫にも「避諱」が適用されることになり、「鶴」という文字を避ける、ということになったのです。

娘を溺愛するあまり「鶴の字を使うな!」という話は、ちょっと割り引いて考えないといけません。

もし、ほんとに溺愛して「鶴」という字を使うな、となれば、生まれた時から、あるいは婚姻が決まった時からでもよかったはずです。

ちなみに、伊達政宗の名前の一字「宗」が「避諱」とされ、仙台藩で「宗」という字を避けられた、という話もあります。また、後に幕府が朝鮮に送った手紙の中に、朝鮮国王の「諱」が使用されていた、という抗議を受けたときに、新井白石が「そっちだって家光公の諱の一字『光』を使っているぞ」と言い返していたりします。

 

現代の価値観や感覚で、当時の人々の言動を評価してはいけない、ということを申しましたが、このあたりにそれがよく出ていると思います。

 

「綱吉の馬鹿げた法律は『生類憐みの令』だけではない。『鶴字法度』というものもある。綱吉は長女である鶴姫を溺愛するあまり、鶴姫が十一歳の時、庶民が『鶴』の字を使うことを禁止したのだ。…ここまでくると、完全なバカ殿である。」(P178)

「綱吉は自ら舞うだけでなく、側近や大名にも強制した。貞享三年(一六八六)に江戸城において能の大きな催しが行われたが、錚々たる大名が綱吉の命を受け、慌てて稽古に励んで能を舞っていたという。まるで落語の世界である。」(同上)

 

鶴の字の避諱も、貞享三年の能会も事実ですが、「落語の世界」ではなく「江戸のゴシップ記事」に記された「誇張の世界」であったことも忘れてはいけません。

 

綱吉については、朝日放送『コヤブ歴史堂』でも取り上げて、しかも「鶴字法度」のお話しもさせていただきました。

以前にまとめた話があるので以下に添付しておきます。よければお読みください。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-11753679423.html

 

63】江戸時代の身分制度は、やっぱりあまりフレキシブルではない。

 

江戸時代の研究は2000年代以降、かなりの成果が出てきて、1960年代の学校教育とは大きく乖離しています。

『日本国紀』での百田氏の記述は、ものすごく「落差」があります。

ある部分は、戦後の歴史教育での説明のまま、ある部分は80年代、そしてある部分は最新の、と、新旧のパッチワークのようです。

江戸時代の身分制度のお話は、たいへん「新しい」ものです。

 

現在、「士農工商」は教科書から消えつつあります。

 

教科書からの「消え方」は三通りで、

 

①小・中・高、一斉に消える場合

②高→中→小、と上から下へ消えていく場合

③小→中→高、と下から上へ消えていく場合

 

ということになります。

①は、誤っていたことが明白となった場合です。

②③は、新しい研究でわかったことで、子どもの発達段階・理解度から考えて、まず小学校から変えていく、か、高校から変えていく、か、ということになります。

③の場合は、小学校で習ったことと違う、中学校で習ったことと違う、となっていく場合です。

人名の表記などは②のケースが多いですね。「ルーズベルト」は高校生では「ローズヴェルト」と表記されています。「リンカーン」も「リンカン」になっています。

「聖徳太子」も、小学校では「聖徳太子」ですが、高校生では「厩戸王」です。

まずは高校生から変えてだんだん下におりていく…

「鎖国」「士農工商」「慶安の御触書」などなど、ある段階で消えてしまいました。

 

「士農工商」は小学校の教科書から消え、中学で消え、高校で消えつつあります。

ただ、正確には「教え方」が変わっているんですよね。

古代インドのヴァルナのように(カースト制のように)、「士」「農」「工」「商」というように上からの階級を示すものではない、という説明になりました。

百田氏の指摘通り「士」と「農工商」の身分差があるだけです。

ただ、ここからが実は「振り子」で、

 

「このように江戸の身分制度はきわめてフレキシブルであり、部分的にはある意味、近代的な感覚を備えたものだ。」(P175)

 

というようにいったんは振りましたが、現在はまた、少し戻すようになっています。

やっぱり、江戸時代二百六十余年は、なかなかに厳しい身分の差がありました。

元禄文化の近松門左衛門の「心中物」があれほど売れたのは、やはり人々の日々の生活の中で感じる封建的身分制度アルアルを「共感」したからでしょう。

化政文化で、大名を上から見下ろすハリボテの「浮世絵」(歌川国芳・『朝比奈小人嶋遊』)や権力を揶揄し皮肉る狂歌や川柳が庶民のうさばらしになるのは、やっぱり人々が超えられない身分制度や封建制度があったからです。

身分の売買や苗字・帯刀の買収は、江戸時代後期・幕末に一部みられた現象です。

 

徳川吉宗の「享保の改革」は、18世紀の政治ですが、えた・非人などに関する封建身分の再編強化が進んだ時代です。『公事方御定書』に「切り捨て御免」が成文化されたのもこれが背景なのですが…

 

「実際には町人を斬り殺して処罰を免れる例は少なく…」(P175)

 

これは、私も授業では説明します。ただ、江戸の町奉行所の記録上、ということで、地方の大名領では別でした。

後でも指摘させてもらいますが、「江戸」などの大都市の生活・出来事だけで江戸時代全体を説明してしまうと誤解されてしまいます。

 

以前に、ビジネスジャーナルさんの依頼で『日本国紀』の書評を書かせてもらったときに、「通史」のポイントを五つあげましたが、そのうちの一つが、

 

「全体」で「一つ」を疎かにしない。

「一つ」で「全体」を語らない。

 

です。

江戸時代の説明は、いろんな条件を付帯して慎重に説明しないといけません。

 

教科書に書かれていて『日本国紀』に書かれていない日本史… て、何でしょうか。

 

けっこういろいろ抜け落ちているのですが、江戸時代ではまず、「禁教政策」がほとんど書かれていません。

「鎖国」の目的の二つの大きな柱の一つ、キリスト教の禁止、がたいへん希薄です。

 

鎖国の目的は、「一国平和主義」という術語(当時ありもしない概念)が目的ではなく、キリスト教の禁止と幕府による貿易独占にありました。

寺請制度、宗門改め、そして寺檀制度にふれなければ、現在の日本の文化や慣習の話、さらには明治の廃仏毀釈などの話につながらないように思います。世界遺産の指定された「潜伏キリシタン」などもこれでは素通りになってしまいます。

あれだけたくさんの宣教師のお話を紹介されているのに、サン=フェリペ号事件の話はあるのに、元和の大殉教の話など、キリシタンの弾圧の話、「絵踏」の話が出てこないのはなぜだったんでしょう。

 

初期の外交の説明も、たくさん抜けているところです。

糸割符制度の話は、ポルトガルの生糸独占を打破することを目的としたもので、江戸幕府の初期外交・姿勢をよく示した例なのですが…

朝鮮出兵後の朝鮮との国交回復の話も出てきません。

「徳川の平和」は、内戦の平定だけではなく、東アジア諸国との平和外交によって実現したものです。

己酉約条、そして朝鮮通信使の話も出てきません。

これがネタフリになっているからこそ、新井白石の朝鮮通信使接待の簡素化、「易地聘礼」の話、さらに後の明治になって中国()と対等条約を結ぶ日清修好条規や、江華島事件を契機に締結された日本に有利な対外不平等条約の日朝修好条規の話が活きてきます。

東アジアにおける日本の国際的地位を高める動きを段階的に説明できる機会なのにこれを百田氏が逃しているのも不思議な感じがします。

 

蝦夷と琉球の話もかなり希薄です。

 

現在の教科書は「日本の歴史」という視点をたいへん重視している書き方をするようになりました。

 

そのため、二つのポイントがあります。

一つは「中央の歴史だけでなく地方の歴史もしっかりと捉える」ということ。

あたりまえですよね。「日本の歴史」なのですから。

上方や江戸の文化だけを紹介するのではなく、その時の地方の文化を紹介する。

もう一つは、「蝦夷の歴史」も「琉球の歴史」も「日本の歴史」である、という視点です。

続縄文文化、貝塚文化の話などから教科書は始まり、中世の蝦夷・琉球の話も教科書はかなり細かく描くようになっています。

江戸時代で言えば、「シャクシャインの戦い」、「慶賀使・謝恩使」の話も紹介してほしかったところです。

 

帯には「私たちは何者なのか」と問いかけていますが、『日本国紀』よりも現在の教科書のほうが、より多くの人々を「私たち」の中に含んでいると思います。

 

それからもう一つ。

 

「江戸時代においては政治の表舞台にまったく登場しなかった『天皇』だが…」(P230)

 

と説明されていますが、現在の教科書は、しっかりと江戸時代の「天皇」の存在を評価し、幕末にむけてのネタフリをちゃんとしているのです。

むしろ『日本国紀』における各時代の「天皇」が、現在の教科書よりも「低い」評価になっているところが散見されます。

この点はまた改めて詳しく…