『日本国紀』読書ノート(67) | こはにわ歴史堂のブログ

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67】江戸の外食産業の発達にはワケがある。

 

「江戸文化で特筆すべきことの一つは、世界に類を見ない外食産業の繁栄である。」(P195)

 

と説明され、その理由として、

 

「江戸には各地から様々な食材が集まったため、それらの材料にして、高級料理屋から安い居酒屋や屋台まで、市中に多くの飲食店ができた。」

 

ということがあげられています。

 

「文化年間(一八〇〇年代初頭)の頃には、江戸の料理店は七千を超えていた。この数は同時代のパリやロンドンを断然圧倒し、世界一であった。」

 

まず、世界に類を見ない外食産業の繁栄、とありますが、これはそういうわけでもありません。

日本の文化の良さを伝えるために、世界との比較をよく百田氏は出されますが、そのためにかえって、誤りが強調されてしまいます。

国際的な都市であった唐の長安などの繁栄は『西遊記』などの記述にも描かれています。もちろん元に原形ができて、明代の小説ですから、唐の時代の都市の説明にはなりませんが、つまりは、元代・明代の都市の様子をもとに描かれていると推察されます。同様に『水滸伝』などを読めば、居酒屋や外食産業が栄えていた都市の描写も出てきます。百歩譲って小説だから架空だとしても、宋代の開封、南宋の諸都市では外食産業が発展し、河川の港町には店舗が並んでいました。

 

江戸時代の料理店の数はわりと正確に把握されています。というのも、火を扱うことがあり、火事の原因となることから、かなり町奉行所は料理屋を正確に調べていました。

文化年間の初頭、1804年の記録では6165軒、1811年には居酒屋2186、茶屋188、茶漬一膳飯屋472軒、料理茶屋466、うどん・そば屋718、鰻屋237、すし屋217、団子屋・イートインの菓子屋2912あったことがわかっています。(『食類商売人』)

 

「同時代のパリやロンドンを断然圧倒し、世界一」(P195)と説明されていますが、根拠や出典が不明です。

たとえばロンドンは産業革命に入ってから、女性も子どもも労働者となり、そのために家庭での食事の習慣が急速に減りました。フィッシュ・アンド・チップスなどのように、自分で調味料を用いて味付けして食べる様式が生まれ、ファスト=フードが生まれています。

当時の絵や後にできたロンドンの写真などには露店としての「貝売り」「いちご売り」のほか、屋台で魚を食べさせる店、ジンジャービア売りなどもみられました。

 

江戸・上方の外食産業の発展、というのは、世界というか、日本の中でも特殊な状況でした。

江戸は、実は人口の2/3が男性で圧倒的に「男余り」社会でした。

女性は手に職を持つ人が多く、男性初婚、女性離婚歴アリ、という夫婦が多かったのです。

それから日本の都市は武家地・町人地など身分によって住む地域が分けられ、町人の人口密集度がかなり歪でした。

江戸の食生活に大きな変化をもたらしたのが、P196197のコラムでも紹介されている「火事の多発」です。

明暦の大火後、かなりの期間、各家庭自炊が不可能になりました。外食店の第一号(といっていいか難しいところですが)は浅草の奈良茶飯(お茶で芋などを似た雑炊?)と言われています。

そして再建のために大量に大工をはじめとする労働者が流入し、彼らの食事は外食に依存せざるをえなくなります。

外食産業発展のきっかけは「江戸には各地から様々な食材が集まったため」ではなく、「明暦の大火の再建に男性労働者がたくさん集まったため」です。

幕府は、火災の発生にかなりの注意を払うようになり、元禄二年(1689)ですから徳川綱吉の時代、例の鶴字法度が出された翌年、火を使って調理することを禁止・制限するお触れを出します。

江戸で風呂屋が栄えるのは、各家庭での火の使用を極端に制限し、家に風呂を設けることを禁止していたからです。

また綱吉は生類憐みの令を出しましたが、殺生による「血のけがれ」を避けることから、なんと江戸城内で魚を捌くことも禁止しました。このため、城外で魚をさばくことになって魚屋のお仕事が活性化します。

 

さて、綱吉の政治の元禄年間、といえば、荻原重秀が貨幣の改鋳をおこない、インフレが発生していた時期。これが庶民の家計を直撃します。家庭燃料の「薪」が高騰し、食材も単品購入では、独身男性の自炊は食費がかかりすぎます。

こうして大量に調理し、しかも目の前の江戸湾でとれる魚を用いて、安価に手軽に提供できる寿司屋・煮売りが生まれます。

また、火事対策として、幕府は江戸の各地に「日よけ地」を設けました。そこでは恒久的店舗の建設は禁止されていましたが、移動式の屋台での出店は可でした。

街中で火が使用しにくい、建設業を中心とする男性労働者が多い、安価で大量の食材が目の前の江戸湾でとれる、屋台を出せる立地がある…

こうして江戸の外食産業は発展したのです。

 

どうです? 話がすべて繋がったでしょう?

 

通史は、ネタフリとオチが重要であると言いました。

歴史は、さまざまなベクトルで方向がきまる因果の連続です。

せっかくのネタが後で何も繋がらなくては、オチはありません。

 

「嵐の中を船で紀州から江戸までみかんを運んで大儲けしたエピソードで有名な紀伊国屋文左衛門も元禄時代を代表する豪商だが…」(P189)

 

とありますが、彼が「みかん」を運んだ話はフィクションです。ほんとは材木を江戸に運んで儲けたんですよ。

? わかるでしょ? ここで「みかん」じゃなくて、「材木」だよ、とネタフリしておけば、後でオチがついたのに、ということです。

せっかく色々な話をされているのに、繋げなくては、因果でまとめなければもったいないです。