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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

82】幕府の19世紀前半の外交政策は「右往左往」していない。

 

「幕末夜・明治夜明け」というのは、明らかに戦後の歴史教育でよく見られた論調で、1960年代から80年代の学校教育や教科書を否定的に説明されているわりには、百田氏の歴史観もそこに止まっているように思えます。

 

「右往左往する幕府」(P216)

 

という題名でP216P218にかけて説明がされていますが…

幕府の19世紀前半の外交政策は「右往左往」していません。

 

18101820年代のイギリスの対外政策は、当時のイギリス国内の状況を理解しているといろいろなことがわかります。

かんたんにいうと、産業革命以来の「生産過剰」によって、不況に突入しました。

1825年にはその頂点として最初の「恐慌」に突入します。これは実はアメリカも同様で、恐慌、とまでは言いませんが不況に陥ります。

 

民間レベルでは、この「生産過剰」を海外での交易によって、つまり輸出を振興して解決をしようという動きになっていました。

よって、「交易相手」を模索するようになります。

「文政の薪水給与令」を、ロシアに対しては撤回しながら、他の異国船については適用し、大津浜事件についても、幕府の役人が「侵略行為ではない」と判断して、薪・水・病人対応をしているのは、案外と世界の動きに適応している行動でした。

企まざる「正しい対応」だったのです。

 

1825年に幕府が「無二念打払令」を出しましたが、このとき、イギリスは最初の大恐慌まっただなかで、内政・経済問題が最優先でした。

 

それから30年代に入って、イギリス国内で政治的変化が生まれます。

第一回選挙法改正によって、産業資本家たちが選挙権を得て、政府は彼らの意見をくみ取った政治を行うようになります。

ここからイギリスは、従来とは違う目的の海外進出を行うようになりました。

「原料供給地」としての植民地、製品を売買する「市場」、に、世界の諸地域を色分けてしていったのです。

そして、その「色分け」に従わない国は、武力を行使していきました。

原料供給地として必要なところは軍事力で制圧して植民地にします。そこにある政権そのものをつぶし、一次産品が提供できる地域に「改造」します。

市場価値のあるところは、「自由貿易」を押しつけて武力で「開国」させ、交易に有利な条約を結ばせるのです。

「武力」の使い方も二通りでした。

アヘン戦争は、イギリスの自由貿易を押しつける手法で、植民地にする目的ではなく市場開放させるための戦争でした。

ですから、1842年に天保の薪水給与令を出したことは、正解なんです。

企まざる「正しい対応」をここでもしたのです。

 

「ところが天保一三年(一八四二)年にアヘン戦争で清帝国がイギリスに負けたことを知った幕府は、今度はイギリスおよびヨーロッパ列強の強さに怯え、同年、それまでの政策を転換して『異国船打払令』を廃し、遭難した船に限り給与を認める『天保の薪水給与令』を発令した。まさに右往左往の政策である。」(P217P218)

 

別に幕府は「怯え」などしていません。そんなのは大河ドラマや小説の一場面にすぎません。

冷静に考えればわかりますが、文政の無二念打払令(1825)年から1842年の天保の薪水給与令まで17年もの間があります。

17年間続けた方針を世界状況の変化の中で変えたことは、右往左往していると果たして言えるのでしょうか。

錯覚、誤認、イメージで19世紀前半の幕府の政策が説明されてしまっています。

81】「大津浜事件」と「宝島事件」は「異国船打払令」のきっかけなのか?。

 

「大津浜事件」や「宝島事件」が異国船打払令(文政の無二念打払令)をきっかけとする、という考え方ですが、現在では違う見方に変わり、これらは教科書では一切触れません。

 

「文政七年(一八二四)、『大津浜事件』が起きた。これはイギリスの捕鯨船の乗組員十二人が水戸藩の大津浜(現在の茨城県北茨城市大津町)に上陸した事件である。…この時、大津浜に上陸したイギリス人たちは、船に壊血病の患者が出たので、新鮮な野菜と水を求めてやってきたのだった。水戸藩士が彼らを捕らえたが、事情を聞いた幕府役人は、水と野菜を与えて釈放した。」(P216)

「しかし水戸藩では、この幕府の対応を手ぬるいと非難する声が上がった。」(P217)

 

この事件は、かつては外国船の威しに屈した幕府役人が、ことなかれ主義からイギリス人を釈放した、という解釈がなされました。とくに明治維新後、安政の大獄で弾圧された人や、尊王攘夷派の人々の「名誉回復」が図られる中、幕末の幕府の「対応」を「腰抜け」と批判する「現政権による前政権批判」の材料の一つとなっていたものです。

 

水戸藩士たちは上陸した外国人を捕らえて監禁するなど、かなりムチャな対応をしました。イギリス船からは砲撃(空砲)もおこなわれたようです。

幕府の役人が調べたら、薪・水を求めていること、船内に病人がいることがわかり、「薪水給与令」にしたがってイギリス人を釈放しました。

「違法行為」は水戸藩側にあり、幕府役人の対応のほうが当時の「合法的」措置です。

これに怒ったのは水戸藩ではなく、藤田幽谷です。

彼は子の藤田東湖に異人を斬ってこい、と命じて送り出そうとしますが、その時はもうイギリス人は釈放された後でした。

が、しかし… この話、ちょっといわくがありまして…

 

この話は、 1844年の藤田東湖の『回天詩心』の「三度死を決して而も死せず」の「一回目の死の決心」で回顧されている話で、これが1840年代、さらに明治時代にこの事件を「再評価」させた理由なのです。

この頃(1842)、従来の打払令を止め、「天保の薪水給与令」が出されていました。幕府の弱腰外交に水戸藩は苛立っていた時。

20年前にあった「大津浜事件」を回顧して、「あの時もこうだった」として大津浜事件が再度クローズアップされたのです。

 

さて、幕府が1825年に「異国船打払令」を出すきっかけとなったのは、「大津浜事件」ではない別の「視点」がありました。

幕府の鎖国の目的は、「幕府による貿易独占」がその一つです。

ところがこの「大津浜事件」と同じ1824年、水戸藩の漁民たちが、沖合にあらわれていたイギリスの捕鯨船団と「交流」し、いろいろな「商取引」をしていたことがわかったのです。

水戸藩の一部が問題視したのは「大津浜事件」でした(しかもこの事件が再認識されたのは1844)が、幕府が問題視したのは水戸藩の漁民による「私交易」(抜け荷)でした。

 

各地の沿岸に現れていた捕鯨船や商船と、沿岸漁民、一部商人はすでに「交流」を始めていたのです。

2016年にハーバード大学のハウエル教授が「えげれす人がやってきた!-ペリー来航前夜」と題した講演を日本で行っていて、大津浜に上陸したイギリス人が漁民と交流している記録について明らかにしています。1822年以降、小笠原諸島など近海に捕鯨船が多数現れて、漁民との交流・交易があったことを指摘しています。)

これを「途絶」するのが異国船打払令(文政の無二念打払令)の主な目的であった、という考え方に現在では変わってきました。(『蛮社の獄のすべて』田中弘之・吉川弘文館)

「大津浜事件」や「宝島事件」は、幕末・維新「武勇伝」としての色合いが強いために、現在ではトーンダウンした評価に変わっています。

(「宝島事件」に至っては、これは薩摩藩内部の問題です。)

 

教科書に採用されない事件には、「それなりの」理由があり、現在の教科書はできるだけ一次史料に基づき、多くの研究者の評価に耐えたものが選ばれるようになっているのが現状です。

 

以下は蛇足ですが…

吉村昭の小説『幕末軍艦「回天」始末』の中に『牛』という題名の短編小説が附録されています。これ、「宝島事件」を扱ったものです。機会があれば読まれてみてはどうでしょうか。

 

80】ゴローウニン事件の「評価」が誤っている。

 

「文化八年(一八一一)年には『ゴローニン事件』が起きる。これは国後島でロシア軍艦の艦長ゴローニンら八人を、南部藩士が捕まえた事件である。日本からすればロシアが行なった樺太や択捉島での略奪の報復だったが、ロシアと日本の間に軍事的緊張が高まった。」(P215)

 

と説明されています。

「ロシアが行なった樺太や択捉島での略奪」とは、前にお話しさせていただいた「文化の露寇」のことです。(ちなみに艦長の名前「ゴローニン」は昔の教科書に見られた表記で、現在では「ゴローウニン」と表記しています。)

 

例によって、細かいことが気になるぼくの悪いクセ、なんですが

以下ゴローウニンの体験談『日本俘虜実記』・『ロシア士官の見た徳川日本』(講談社学術文庫)、リコルド『対日折衝記』()に基づいて説明しますと…

 

ゴローウニンの指揮する軍艦はディアナ号といいました。一行は、まず択捉島に上陸し、松前奉行所の役人と接触します。理由は薪・水を求めるためでした。

「文化の露寇」以後、老中から大目付に文書(ロシア打払令)が出されていましたが、この役人は「親切に」択捉島にある会所へ行くように指示し、わざわざ一筆したためてくれました。

現場は、ロシアに対して柔軟に対応していたことがわかります。

ところがゴローウニンは、択捉島から離れて国後島に進んでいきます(もともとの目的が探検だったからでしょうが、この理由が腑に落ちないところもあります)。おりからの時化を避けるように国後島の泊港に入りました。

ここには松前奉行管轄の陣屋があり、「打払令」に基づいて砲撃を行いました。

このとき、幕府は、各藩に北方警備の「役」を分担させていたのですが、当時の担当は南部藩でした。ですから正確には、「南部藩士が捕まえた」のではなく「警固の任にあった南部藩士が砲撃した」ということになります。

捕まえたのは松前奉行の役人でした。と、いうか正確には捕まえていません。ゴローウニンが薪水の補給を受けたいと申し出をしたところ(役人からもらった手紙を送った)、国後の陣屋は砲撃を止めて面会に応じました。それどころか食事の接待も受けています。

礼節をもって、とまでは言えませんが、紳士的な対応であったと思います。

日本の役人は「薪と水を与えてよいかどうか松前奉行の許可をとりたいのでしばらく待ってほしい」という回答をします。

ここから松前奉行側の記録とゴローウニンの記録の相違が出てくるのですが、松前奉行側は逃亡した、と記録していますし、ゴローウニン側は人質を要求されたのでいったん船に戻ろうとしたら捕まえられた、と、なっています。

ともあれ、ここからが「事件」となりました。

 

「日本からすればロシアが行なった樺太や択捉島での略奪の報復だったが…」と説明されていますが、「報復」目的で艦長を捕まえたわけではありません

副艦長は、この事態に、艦砲射撃で艦長の返還を要求しました。

なんと泊港で、砲撃戦がおこなわれたのです。

リコルドは、艦砲射撃を続けてかえって艦長に危害が加えられてもだめだと考え、救援を求めてオホーツクに向かいました。

軍管区の海軍大佐に事態を報告し、軍隊の出撃を要請するため、首都サンクトペテルブルクに向かおうとします。

(ロシアは極東にまとまった軍隊を常置していなかったことがわかります。)

ところがリコルドの要請は却下されました。

ロシアはナポレオンとの戦争の危機にあり(1812年がロシア遠征)、兵力を極東に回している場合ではなかったのです。

 

「ロシアの副艦長は本国に戻り、ゴローニン救出のために遠征隊を出すように要請するが…」(P215)

 

とありますが、リコルドは厳密には本国には戻っていません。戻る途中で許可が出ないことがわかり引き返したのです。

リコルドの考えたことは、「人質交換」でした。

「文化の露寇」で捕虜になっていた日本人を連れて、ゴローウニンとの交換を要求することを思いつきます。

一方、ゴローウニンは、箱館(現在の函館)に連行されて尋問を受け、松前に送られていました。

松前奉行自らが取り調べをしますが、現場と奉行所の感覚がここで相違していました。

現場は、ゴローウニン一行が薪・水を要求したが、取り調べ中に脱走し、砲撃事件に発展した、と考えていたのですが、松前奉行は、「文化の露寇」の延長にあると考えていて、前回の「文化の露寇」の「犯人」を捕まえた、という認識でした。

ゴローウニンは、それは誤解であると申し立て、全く関係が無い、ということを説明しました。

「現場-松前奉行-幕府」で、それぞれこの事件の理解の温度差・事実認識が違っていて、「上」に行くほど事件が大げさに解釈されていたことがわかります。

松前奉行は、取り調べの過程で、ゴローウニンと「文化の露寇」は無関係である、と理解し、釈放を決定して幕府にそれを願い出ました。

なかなか話のわかる男です。

江戸時代、現場の役人は、なかなか優秀な人物が多かったように思います。

 

ところが、幕府からの回答は、「拒否」

松前奉行も、この判断を気の毒と思ったようで、最初は牢獄に入れられていたのですが、武家屋敷にお預け、になり、さらには外出の許可も出されるくらいの待遇に変化しました。

ところが、ゴローウニンは、焦ってしまいました。このままでは永久に帰れないのではないか… 

で、なんと脱走を図ってしまい、山中をさまよって飢えているところを村人に見つかり、再度捕まって投獄されてしまいました。

 

一方、副艦長のリコルドは、ほぼ「走れメロス」状態です。

交換する人質を連れて国後に来たものの、すでに函館へ艦長は送られた後 人質の交換を要求しますが、なんと日本側は人質を受け取ったものの、ゴローウニンはすでに処刑された、と言います。

なかなかリコルドは賢明な男だったようで、この役人の話をウソと見破り、別の方法を模索します。

リコルドは非常手段に出ます。

このとき、国後島沖を航行していた日本船を拿捕し、乗っていた人々をオホーツクに連行しました。この連行された人物の一人が、高田屋嘉兵衛です。

リコルドは事情を説明し、「交換の人質」というより「仲介人」として嘉兵衛を遇します。

高田屋嘉兵衛は、リコルドとは交流を深め、ロシア語などを学びます。

リコルドからゴローウニン事件の経緯と解決策を相談されていた嘉兵衛は、「文化の露寇を公式に謝罪すれば、ゴローウニンは解放されるに違いない」と説きました。

リコルドは再び国後に向かい、国後の陣屋と交渉を開始しました。

高田屋嘉兵衛がこの仲立ちに日露間を往来します。

幕府側も、これ以上ロシアとの問題がこじれるのを恐れて、「文化の露寇を侘びればゴローウニンを釈放する」という文書を出します(『魯西亜船江相渡候諭書』)。

こうしてリコルド、高田屋嘉兵衛の「奔走」でようやくゴローウニンは釈放されて事件は解決をみました。

 

この「交渉」は、かえって日露の関係を接近させ、ロシアは「国交樹立と国境画定」の話し合いをしたいという旨を幕府に伝え、回答は一年待つ、としました。

幕府は、国交については拒否しましたが、なんと国境画定協議には応じると回答することを決めたのです。

その内容は、択捉島までを日本領、得撫島を中間地帯としてどちらも立ち入らず、新知島までをロシア領とするものでした。

ところがその回答が届く直前、リコルドとゴローウニンは、かつてのレザノフと同じことになるのではないか、と懸念し、期限の一年も経過した、ということもあり、いったんロシアへ退去してしまったのです。

結局この交渉は、1853年のプゥチャーチンの来航に持ち越されるのですが、日露和親条約で速やかに国境画定ができたのは、この「交渉」と「国境原案」がこの段階ですでにできあがっていたからです。

幕府は、ロシアとの関係が改善されたことをうけて、直轄地にしていた蝦夷地を1821年、松前藩に還付しています。したがって、

 

「これにより日本とロシアの関係が改善されたわけではなかった」(P216)

 

というのは誤りです。

 

79】日本は、列強の、最後に残されたターゲットではなかった。

 

やはり、世界史に関する説明や、語句に対する使い方が正確ではありません。

 

「日本が鎖国政策をとり、世界に背を向けて『一国平和主義』の夢をむさぼっている間に、世界はヨーロッパ人によって蹂躙されていた。」(P213)

 

前にも申しましたが、べつに鎖国の目的が世界に背を向けるためでもなく、ましてや当時も今もありもしない概念「一国平和主義」などというものが鎖国の目的ではありませんでした。

 

鎖国は、キリスト教の禁止と幕府による貿易独占が目的でした。

世界に背を向けていたのではなく、16世紀から17世紀にかけての世界情勢が日本の鎖国政策と(偶然に)重なりあったからです。

まず、オランダの独立、イギリスとの対立からスペインやポルトガルが力を失い、すでにあったアジアのスペインやポルトガルからの拠点では、商業活動とその現状維持がせいいっぱいでした。

かわってオランダが進出してきますが、一次産品が豊富にある地域は軍事力で占領して「原料供給地」としますが、人口も多く、住民に一定以上の文化や購買力がある地域は「市場」としました。イギリスも同様で、なんでもかんでも植民地化していったわけではありません。

この世界の状況の中で、貿易の制限をおこないながら、スペイン船の来航を禁止し、ポルトガル船の来航を禁止し、長崎の出島でのオランダとの交易体制へと繋げていきました。巧みな「外交」だったといえます。

 

そもそも日本は「鎖国」という保護貿易の中で、自国の産業を発展させ、260余年の中で開国したときには世界に通用する(国際競争力の高い)製品を作り出せたのです。

19世紀にアジア地域が列強の「原料供給地」にされていった中で、植民地化をまぬがれたのは、この鎖国による経済力の向上の成果だったともいえます。

 

「…その後、イギリス・オランダ・フランスがそれに続き、十八世紀までに、世界のほとんどを植民地化していた。」(P213)

 

細かいことが気になるぼくの悪いクセ、ですが…

 

たぶん「十八世紀まで」ではなく「十九世紀まで」の誤りだと思います。

いや、「十九世紀まで」だとしても、世界のほとんどは植民地になっていません。

世界史の教科書などでも、地図が出ていますが、18世紀の半ばでも、まずアフリカはほとんど植民地になっていません。

西海岸はセネガルやベニンなど面というよりほぼ拠点的に植民地となっているだけです。南アフリカも現在の南アフリカ共和国の半分くらいの地域しかオランダの植民地になっていません。

東海岸ではマリンディ・モンバサ・キルワの3港市しかポルトガルの植民地(植民市)になっていません。

西アジアはオスマン帝国がありましたし、インドでは、フランスはシャンデルナゴル・ポンディシェリ、イギリスもカルカッタ・マドラス・ボンベイという都市しかおさえられていません。ほとんどはムガル帝国です。

スリランカ、ジャワ島はオランダ、フィリピンはスペイン、マラッカはポルトガルでしたが、アジアの大半、オーストラリアなどのオセアニアなどもまだ植民地ではありません。

あまりにも百田氏のイメージだけで1617世紀の世界が語られすぎだと思います。

 

「ヨーロッパから見て極東に位置する日本は、最後に残されたターゲットであった。」(P213)

 

とありますが、「ターゲット」であったとしても、捕鯨基地や薪水給与地、あるいは巨大な中国市場の貿易拠点としての利用くらいで、植民地化の可能性はかなり低かったといえます。

 

「家光が『鎖国令』を出した頃は、日本はヨーロッパの国々も簡単には手を出せない国力(武力)を持っていたが…」(P213)

 

と説明されていますが、17世紀は、べつに日本に軍事力があったから植民地化をまぬがれたわけでもなく、鎖国で世界に背を向けていたわけでもありません。

19世紀に開国しても植民地化されなかったのは、江戸時代に培われた経済力・市場価値が、当時の日本の独立に大きく寄与していたからです。

 

以前に「鎖国」が現在、教科書や学校での授業でどのように説明されているかをお話しいたしました。

また添付しておきますのでよければご覧ください。入試もこの枠組みで出題されるようになっています。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-11844170594.html

 

北方領土や、ロシア(後のソ連も含めて)に関する『日本国紀』の説明に少し違和感をおぼえています。

また、後ほど詳しく説明したいとは思うのですが…

とりあえず江戸時代について。

 

「…十四年後の寛政四年(一七九二)、ロシア遣日使節が根室にやってきて、再び通商を求めると、幕府は長崎への入港の許可書を退去させる。」(P214)

 

この時来航したラクスマンのことはまったく触れられていません。

むろん百田氏の自由なのですが、人物の歴史を軸に語られる通史としての特色を持つ『日本国紀』にしては不思議なところです。

でも、それにしてもあまりにも色々な情報を省略しすぎです。

ラクスマンは、ロシア皇帝エカチェリーナ2世から派遣され、漂流民の大黒屋光太夫を届けてくれました。大黒屋光太夫からの聞き取りで、いろいろな情報を幕府は得ました。

彼はロシアに滞在し、エカチェリーナ2世とも謁見しています。帰国後は、桂川甫周や大槻玄沢と交流し、蘭学の発展にも寄与しましたし、何より桂川は光太夫からのロシアでの生活・見聞を聴取し、『北槎聞略』をまとめています。

幕府は光太夫からの情報を得て、樺太・千島の「防衛」を企図するようになります。

このころロシアは択捉島に入り、現地のアイヌとの交易を始めていました。

幕府は1798年、近藤重蔵・最上徳内に択捉島探査をさせ、「大日本恵登呂府」の標柱を立てさせ、択捉・得撫間をロシアとの境界とする構想を立てています。

すでに江戸時代から択捉島は日本の領土であったことを示す根拠なのに、なぜかこの話も『日本国紀』からは抜けています。

1800年には八王子千人同心100人を蝦夷地に入植させ、1802年には東蝦夷を幕府直轄にし、さらには居住しているアイヌを「和人」とする同化政策を開始しました。

日本の風俗を強制し、首長を「名主」としていきます。

『日本国紀』は、一貫して琉球やアイヌの話が希薄な印象を受けます。

 

さらに、1804年のロシア使節レザノフも紹介されていません。

 

「十二年後の文化元年(一八〇四)、ロシアは長崎に来航して通商を求めるが、幕府は半年以上も回答を引き延ばした末、翌年、拒否する。これに怒ったロシアは樺太や択捉島で略奪や放火を行なった。そのため、幕府はそれまでのロシアの漂着船には水や食料を支給して速やかに帰らせる『ロシア船撫恤令』を出していたが、この事件以降、蝦夷地を直轄地とし、東北諸藩に出兵を命じ、蝦夷地沿岸の警備を強化するとともに、文化四年(一八〇七)、『ロシア船打払令』を出す。」(P214)

 

1804年に長崎に来航したのは、ロシア使節レザノフです。

長崎では、ラクスマンに手渡した許可書を持っての来航であるし、礼節をもって遇するべし、と考えていましたが、当時の老中土井利厚が強硬派で、結局はレザノフを長く軟禁したうえ、帰らせています。

(ちなみに、このときの長崎奉行は、遠山景晋。「遠山の金さん」で知られる後の江戸町奉行遠山景元のパパです。レザノフを取り調べた役人の一人が大田南畝でした。)

1805年に「文化の薪水給与令」を出します。これが「ロシア撫恤令」と百田氏がおっしゃられているものです。

レザノフは武力で開国させるしかないという判断をしたようで、部下に対してその話をしています。ここで、齟齬が生じました。レザノフはカムチャッカにもどった後、アラスカからカリフォルニア(当時スペイン領)にまでいき、交易を模索しています。

レザノフの「武力開国」提案は本国から拒否され、レザノフが撤回したにもかかわらず、その命令がまだ生きていると「誤解」した部下のフヴォストフが単独で、蝦夷地を攻撃する行動に出てしまいました。

日本側の記録では年号をとって「文化露寇」として残っている事件(1806)です。

樺太の松前藩の居住地を襲撃し、さらには択捉島に駐屯していた幕府軍にも攻撃をしかけてきました。

これを受けて、1807年、幕府は蝦夷地を直轄地にし、松前奉行の支配下に置き、同年、前年の撫恤令を改めて、ロシアは打ち払うように老中から大目付に文書を発給しています。これが百田氏のおっしゃっている「ロシア打払令」です。

当時、ヨーロッパではナポレオンの台頭で、ロシアは極東情勢にかまっていられない時でした。なんと皇帝がこの事件に不快感を示し、1808年、ロシア軍の撤退命令を出し、一時的な両国の緊張は回避されました。

 

なぜ1800年代の日露の関係の中で、北方領土が日本固有の領土である、という話のネタフリをされなかったのか、不思議です。百田氏は現行教科書にはずいぶんと批判的な説明をされているのですが、現行教科書には「北方領土」が日本固有の領土であるネタフリは随所に出てきます。コラムなどで日露和親条約の話(P237~P238)は出てきますが、1800年代の幕府、近藤重蔵や最上徳内、間宮林蔵などの活躍が北方四島の帰属をはっきりさせたのです。

 

それから、日ソ中立条約を破ってソ連が参戦した話が、あまりに希薄です。アメリカに対してはハーグ条約違反を詳細に説明して批判し、空襲・原爆などをふまえて「悪魔のごとき」とまで批判的論調で書かれているのですが、それに比べて、北方四島不法占拠については、説明があまりに希薄です。

 

「二発目の原爆が落とされた八月九日、ソ連が『日ソ中立条約』を破って参戦した。」(P403)

 

という1行のみ。(ちなみにソ連侵攻の後、長崎に原爆が投下されています。ソ連侵攻が先で原爆投下が後なので念のため。)

ポツダム宣言受諾後もソ連と日本軍が北方領土で戦っているのですが、その話も詳しく説明してほしかったところです。

それにしても、「北方領土」の話があまり出てこないのが不思議な感じです。