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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

78】江戸幕府と朝廷の関係の説明がほとんどない。

 

江戸時代の説明で、百田氏がほとんど触れていないのが「朝廷と幕府」の関係です。

 

「江戸時代においては政治の表舞台にまったく登場しなかった『天皇』だが、祭祀を司るだけの存在だけでなかった。」(P230)

 

という表現にそのことはよくあらわれていると思います。

江戸時代を通じて、漸進的に朝廷の権威は高まり、幕府も朝廷も相互に利用しながら、(朝廷はある意味したたかにふるまい)、朝廷は幕府の政治に影響を与えました。

その流れの中で、朝廷の中に幕府・反幕府の派閥が生まれ、尊王攘夷思想が朝廷の中に一定の「信奉者」を生みます。

前から言うように、通史は「ネタフリ」が大切です。

 

「海の向こうから『夷狄』が現れ、日本が未曾有の危機を迎えた時」、突如「『天皇』の偉大さ」を知ることになったわけではないのです。

 

まず、幕府による統制ですが、実はそのルーツは鎌倉幕府にあります。

頼朝の時代から貴族が「関東申次」という役割を与えられ、関東-朝廷の連絡役のようなものでした。窓口が一本化されることになり、後に西園寺家が世襲することになります。

関東申次は、摂家以外の新しい「権威」をつくることになり、摂家にしては気に入らない存在で、朝廷内の対立のもとになりました。

江戸幕府が、鎌倉幕府とは比較にならないくらいの力関係で朝廷に対して優位となったとき、今度は摂家が主導権を握ろうとして幕府に近づきます。

変な話なのですが、ほんとのところ、幕府は、朝廷をあんまり「統制」していないみたいなんです。統制を関白・三公にまかせているようなんですよね。

 

「徳川幕府は、朝廷には『禁中並公家諸法度』を定めて管理した。」(P167)

 

と説明されていますが、『禁中並公家諸法度』を読めばわかりますが、なんというか「服務規程」みたいな感じで

その点、十七条憲法的で、摂家が朝廷を運用する「手引き書」みたいな感じです。実際、17ヵ条ですし

ですから、最近の教科書は、そのあたりをくみ取って

 

「摂家がなる関白・三公に朝廷統制の主導権を持たせ…」

「禁中並公家諸法度を制定し、朝廷運営の基準を明示した。」

 

という表現に変わっているんです。

 

「長らく特権階級だった公家まで『法度』という法律をもって管理下に置いた支配者は家康が初めてだった。」(P167)

 

という百田氏の説明を読んだとき、ああ、やっぱり昔の考え方の説明だな、と感じたのはこのためです。

 

さて、幕府と朝廷の関係で抜けている話は以下のものです。

 

①「綱吉の時代」

霊元天皇の強い要請で、大嘗会は221年ぶりに、賀茂葵祭が192年ぶりに再興されています。その他の儀式もたくさんこの綱吉の時代に復興されました。

これは以前にもお話ししましたので、改めてご確認ください。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12422849155.html

 

朝廷の儀式は、多くが中断され、また再興され、としているものです。

にもかかわらず、新嘗祭が「アメリカ占領軍の政策により、宮中祭祀・国事行為から切り離され、『勤労感謝の日』という意味の異なる名称に変えられ、古代からの歴史のつながりを断たれてしまった。」(P15)と説明されています。

別に古代からの歴史のつながりを断ったのは、「アメリカ占領軍の政策」ではありません。

また、12章のお話でも詳しく説明しますが、GHQの担当民政官・軍人の回顧録や史料は豊富にあり、情報公開も進んでいます。GHQ関係者のほとんどは、独立後は憲法も改正し、再軍備にも着手すると「予測」していたことがわかります。百田氏が「憎悪」するほどのことは何もなく、GHQは「独立後の日本」に関してはむしろ無関心でした。

 

さて、綱吉の復古的な朝廷政策で、「勅使下向」の儀式もいっそう重視されました。(その中で「赤穂事件」が起こっています。)

朝廷の権威を高めて(幕府がそれを利用して)、その朝廷から政治の大権を委ねられた幕府の支配は正統なものである、という後の思想の萌芽を綱吉の政策が準備しました。

また、このころ、水戸家が朝廷との取次のような役目もしていること,水戸光圀による『大日本史』の編纂を開始したこと、などから「尊王」重視する水戸家の風も生まれることになります。

 

②「正徳の治」

新井白石は、将軍個人の人格よりも「将軍職」の地位とその権威を高めるために、将軍家継と2歳の皇女との婚約をまとめています。

また、すでに説明したように、閑院宮家を創設し、天皇家との結びつきを強めています。2代秀忠の娘が後水尾天皇に入内し、生まれた娘が明正天皇となっていることとあわせて、ここにも幕末の「公武合体」のモデルが先取りされています。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12432167050.html

 

③「田沼時代」

1758年、「宝暦事件」が起こっています。

これは国学者の竹内式部が京都で公家たちに「尊王論」を説いた事件ですが、背景に、幕府から朝廷の政治をまかされていた摂家(関白・三公)に対する他家、若手貴族たちの不満がありました。

将軍家重から将軍職を取り上げる倒画も進行します。これに対して関白一条道香が事態を収拾し、京都所司代に訴えて関係公卿を処罰、幕府は竹内式部を追放しました。

さらに1767年には「明和事件」も起こります。

山県大弐が「尊王斥覇」を説いて幕府の腐敗を批判して謀反を企てた事件です。

これらから、将軍が天皇の委任によって政権を預かっている、という考え方が定着し、朝廷を尊ぶことによって幕府の権威を守ろうとする考え方が広まります。

この前提があるからこそ、幕末の「大政奉還」という考え方が成立するんです。

また、1779年、後桃園天皇が急死する事件が起こりますが、閑院宮家から天皇が迎えられ(光格天皇)、皇統の断絶の危機も回避されました。

 

④「寛政の改革」

1789年、朝廷の問題が幕府の政治に大きな影響を与えることになります。

光格天皇は、閑院宮家から天皇として迎えられましたが、実父は健在でした。ややこしい話ですが、父は閑院宮典仁親王で、父でありながらも「親王」であるため、朝儀なとでは臣下の関白・三公より格下に扱われてしまいます。

この「ねじれ」を解消しようと、天皇は典仁親王に「太上天皇」の称号を宣下したい、と、幕府に同意を求めました。

ところが話がややこしいことになりました。

老中松平定信は、これを拒否するんです。理由は朱子学における先例主義で、「皇位になかった者が太上天皇の称号を得たことはない」と…

でも、そんな例が無いわけではなかったんですよね。なにしろ定信の父、田安宗武は国学・歴史学にも精通していた人物ですから定信も知らないわけではありませんでした。

ややこしい、というのはここからで、実は、将軍家斉も一橋家から養子になる、という形で将軍となっていました。で、父の一橋治済は健在。将軍の父でありながら、御三卿なので、臣下の親藩尾張・紀伊よりも格下になってしまう…

そこで「大御所」の尊号を贈ろうとしていたんです。

しかし、定信にとって一橋治済は、かつて自分を田安家から白河藩へ異動させて将軍になれないようにした政敵でした。

「大御所」の尊号を拒否して「太上天皇」の尊号を認めるわけにはいかないし、「太上天皇」の尊号を認めたら「大御所」の尊号も認めなくてはならなくなる…

このため、両方、認めない、ということを強行しました。

これで松平定信と将軍徳川家斉の対立が深まり、松平定信が引退することになったのです。

田沼意次のように「失脚」ならば、チーム田沼が解散されたのと同じように、チーム定信も解散されたはずですが、定信一人の辞任でチームはそのまま温存され、25年間、改革は続けられました。ですから、定信の場合は「失脚」とはいえず、教科書では「田沼は失脚」、「定信は辞任」と明確に説明を変えているのです。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12432842435.html

 

『日本国紀』の特徴の一つに、「世界史」および世界との関係の歴史が浅薄である、あるいは誤りが散見できる、ということです。

『日本国紀』が「日本の歴史」とはいえ、近現代はとくに「世界史の中の日本」そのものですから、世界史の知識が無いと、すべての説明の信頼性が低下します。

2020年の大学入試改革はもちろん、日本史と世界史の横断的な学習がこれからの歴史教育の中で重要な意味を持つようになりました。)

 

さて、細かいことが気になるぼくの悪いクセ、なのですが。

 

「ヨーロッパ諸国はすべて君主制だったので、フランスの市民革命が自国に広がるのを抑えようと、革命政府をつぶしにかかったが、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がそれらの国を打ち破った。」(P212)

 

まず、当時のヨーロッパ諸国はすべて君主制ではありません。

それからナポレオンが「革命政府をつぶしにかかった」国を打ちやぶった、とありますが、イタリア軍派遣司令官としてオーストリア軍を破ったのは1796年です。

それまでは、パリの民衆と全国から集まった義勇兵が革命政府を守って戦い、ヴァルミーの戦いでプロイセン軍を撃退しました。

(ちなみに、最初にオーストリアに宣戦布告したのはジロンド派のフランス革命政府のほうで、オーストリア皇帝は革命の拡大というよりも、「ピルニッツ宣言」からわかるように最初は妹マリ=アントワネットと夫ルイ16世を救う、という意図のほうが強かったのです。)

革命の拡大を危惧したのはイギリスで、ルイ16世の処刑とフランス軍のベルギー侵攻を受けて、首相ピットが1793年、第1回対仏大同盟を結びました。

その後、革命政権を主導していたロベスピエールを中心とするジャコバン派がクーデタにより失脚し、穏健な共和政府(総裁政府)が成立しました。この中でオーストリア軍を破ったナポレオンが名声を得て、さらに敵国イギリスとインドの連絡を絶ってイギリスに打撃を与えるためにエジプト遠征をおこないます。

これに対抗して、イギリスが第2回対仏大同盟を結びました。

 

「ナポレオンは、一時は西ヨーロッパの大半を支配し、フランス皇帝の座に就いた。」(P212)

 

これは誤りです。

ナポレオンは1799年、クーデタで政権を握った後、1802年にイギリスと和解しています。そして国内諸政策を充実させて後、国民投票によって1804年に皇帝に選ばれました。

これに対して翌年、第3回対仏大同盟が結成され、三度イギリスとの対立が深まります。ネルソン提督率いるイギリス海軍がフランス海軍をトラファルガーの海戦で破り、ナポレオンのイギリス本土上陸は阻止されました。

しかし、陸上での戦争では、ナポレオンは有利に戦いを進めます。1805年、アウステルリッツの戦いでオーストリア・ロシア連合軍を破り、1806年、フランスの保護下に南西ドイツ諸国を併せてライン同盟を結成させます。これにより10世紀以来の神聖ローマ帝国は滅亡し、翌年、苦戦の後、プロイセン・ロシアの連合軍を破ってティルジット条約を結び、ポーランドにワルシャワ大公国を建てます。

ナポレオンは、自分の兄弟をスペイン王・オランダ王につけています。

 

西ヨーロッパの大半を支配してから皇帝となったのではなく、皇帝になった後、戦いを続けて西ヨーロッパの大半を支配したのです。

 

1800年代、こうしてオランダはフランスの傘下に入ることになります。国王はナポレオンの兄弟ですからね。よって、イギリスにとってはオランダも敵国になります。

しかし、これはイギリスにとっては海外での植民地拡大の口実に利用できました。

つまりオランダに宣戦布告することでオランダの海外植民地を奪うことができるからです。

 

これが背景となって、P214215にかけての説明にある「フェートン号事件」につながるのです。

 

「イギリスの軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げて長崎に入港し、同国人と思って出迎えたオランダ商館員を拉致した事件である。」(P214P215)

 

とありますが、なぜイギリスがこんな事件を起こしたのか、なぜイギリスが東南アジアや東アジアに19世紀に進出してきたかの背景が、これだけではサッパリ伝わりません。せっかくナポレオンの話をしているのだから、こんなに細かく説明しなくても、

「ヨーロッパを征服し、スペインやオランダを支配した。」とネタフリしておけば、「フェートン号事件」でオチをつけられたのに残念です。

(大学入試でも、フェートン号事件が起こった国際的な背景を説明せよ、という問題があります。)

フェートン号はナポレオン戦争中でしたので、オランダの船を拿捕しようと長崎に来ました。そして長崎港に停泊している船にオランダ船がいないか「捜索」もします。

 

「十六日、イギリス側は人質を一人解放し…」とありますが、長崎奉行松平康英は、時間をかせぐために、今用意できるのはこれだけだ、と、わざと少しの水しか与えず、

翌日にたくさんの水・食料を渡すとして人質一人を解放することに成功します。

なかなか有能な官吏で、ネゴシエーターとしての才能があったようです。

 

以下は蛇足ながら。

細かいことが気になるぼくの悪いクセ、なんですが。

 

「十七日未明に大村藩から兵隊が長崎に駆けつけたが、フェートン号はすでに去った後だった。」(P215)

 

と、ありますが不正確です。大村藩は藩主自ら兵を率いて駆け付け、松平康秀らと「反撃」の準備をしていたのですが、その間にフェートン号は出港してしまったのです。大村藩が駆け付けた後、フェートン号が去ってしまったのです。

 

77】定信が失脚しても25年間は「寛政の改革」が続いていた。

 

「定信が失脚した後は、将軍家斉も贅沢三昧な生活を送り、社会も再び活性化する。」(P211)

 

と説明されていますが、誤っています。

家斉が将軍在位50年のうち、1787年から1793年の六年間、松平定信が老中をしていましたが、その後、1818年までは、「寛政の改革」のスタッフがそのまま残留し、老中松平信明が松平定信の政策を引き継いで政治をしていました。

これ、よく受験生でも誤解するんですよね。

 

1818年から、つまり「文政年間」に入って、老中が水野忠成に代わってから品位の劣る貨幣を大量に流通させ、例によって「出目」を稼ぐ通貨政策をとりました。

加えて、「寛政の改革」の本百姓体制再編の効果が10年間で表面化し、連続して豊作となります。

このため、幕府は約550万両もの利益あげたのです。

 

「化政文化」を生む背景には、「寛政の改革」の地道な成果もありました。

物価が高くなっても、江戸を中心とする町人文化が栄えたのは、七分積金や町会所などの福祉政策によって「将来の不安」や「日々の不安」が解消されて庶民の間に「消費への活力」が生まれていたからです。

前にも申しましたように、通史は「ネタフリ」があって「オチ」に続くのです。

寛政の改革での農村政策と都市政策をちゃんと説明していたならば、文化文政期の景気回復の話に繋がったのに残念です。

 

定信が失脚した後も、寛政の改革は25年間続いていました。

家斉は、松平定信と対立しましたが、その改革まで否定したのではなかったのです。

政治・経済とは別の対立でした。

これが、また百田氏が江戸時代を通じて、すっかり抜かしてしまっていることと深く関係しているんです。

 

「定信の理想主義は現実とは乖離したもので、将軍家斉との対立もあって、寛政五年(一七九三)に失脚し、改革は六年ほどで終わった。」(P209)

 

と説明されていますが、定信の政策はすでにお話ししたように現実とは乖離もしておらず、「改革が六年ほどで終わった」のでもなく、松平定信の老中在任が六年ほどで終わっただけで、改革は1818年まで続いているのです。(しかも松平定信は「失脚」ではない。)

 

そして百田氏が抜かしてしまっている「家斉との対立」についてなのですが、これはまた次回にじっくり説明させていただきたいと思います。

76】「寛政の改革」があまりに一面的な説明である。

 

まず、読者が誤解を招かないように説明すると、松平定信は将軍家斉の時代の老中ですが、この百田氏の説明だと、将軍家斉の「逸話」から入ってしまうので、家斉が浪費し、「…多額の出費をしたために、財政が苦しくなった。」ので松平定信が改革を始めたように思われてしまいかねません。

田沼意次の政治が失敗し、家治が死去して、家斉が年少で将軍となり、松平定信が老中に任じられました。家斉の「多額の出費」や「膃肭臍将軍」の逸話は定信の引退後ですから念のため。

 

さて、「寛政の改革」の半分の話も記されていません。

それから、「評価」も一面的です。

 

「理想主義者で潔癖症の定信」「定信の理想主義は現実とは乖離したもので…」(P209)

 

理想主義の定義が難しいところですが、視点を変えれば、田沼意次のほうが、成長してきた前期資本主義、商業の発達をふまえて、それまでとは違う改革に着手したと考えられるので「理想主義」ともいえます。

「潔癖症」という比喩も、あまり適切とはいえません。

 

「現実とは乖離したもので」というのはかなり無理があります。

百田氏が、松平定信の改革を十分説明していない(現実的な政策の説明をしていない)だけです。

 

そもそも田沼派の失脚は、当時の杉田玄白がその理由を明確に記しています。

 

「もし今度の騒動なくば御政事改まるまじなど申す人も侍り」(『後見草』)

 

つまり1787年5月に起こった「天明江戸打ちこわし」にはじまり、全国に広がった打ちこわし、一揆が契機となって田沼意次一派が失脚したのです。

かつてない凶作・飢饉、全国的な一揆・打ちこわしが示す幕藩体制の弱体化、これらをどのようにして打開するのか、が、「寛政の改革」の目的です。(『松平定信』藤田覚・中公新書)

 

幕藩体制の基盤は、村落共同体の小農経営、いわゆる本百姓体制です。

くずれつつある町と村の再建が寛政の改革の第一の目的です。

しかし、百田氏はこれを無視して「寛政の改革」を説明しています。

高校の教科書にも説明されている「囲米」「七分積み金」「人足寄場」などの説明が一切ありません。

 

「経済中心の田沼意次の政治を憎み、祖父の吉宗が行なった米と農業を基本とした政治を目指し、様々な改革を行なった。」(P209)

 

これは1970年代の説明でよくみられました。

昔の「まんが日本の歴史」の一場面を思い出します。「老中の理想の政治は?」と問われて「吉宗さまの政治だ。」というセリフを吐く定信…

 

「享保の改革」では倹約を中心とする財政支出を抑える政策と定免法の採用による年貢増徴策がとられましたが、「寛政の改革」では年貢増徴をおこなえる状況ではなく、「小農経営を中核とする村の維持と再建」に力が注がれたのです(『近世の三大改革』藤田覚・「日本史リブレット」山川出版)

吉宗を理想とする、と、言いながら、改革の内容はかなり違います。

 

 農村救済には公金貸付を大規模に実施し、「間引き」などによる人口減少を食い止めるために、小児養育金を支給しています(15万両を拠出)

商品作物も、別に禁止したわけではなく、むしろ換金性の高い綿花・菜種の生産にしぼらせています(商人の都合で様々な商品作物を栽培させられ、安く買いたたかれていたので)

 

商業政策も、株仲間を抑制しましたが、これは天明の飢饉の際に商人らが米の買い占めや隠匿をし、本来の目的であった物価の抑制や商業の統制の機能を果たさなかったからです。

松平定信は江戸の両替商らを「勘定所御用達」に登用し、かれらの資金と経験を活用して、なんと物価の調節にあたらせているんです。

松平定信の政策は、農業だけを重視した保守的・復古的である、というのはイメージにすぎません。

 

凶作が起こると飢饉となる、すると米価が高騰して一揆や打ちこわしとなる…

松平定信の改革はこの流れを断ち切ることでした。

飢饉対策として、大名1万石につき50石の米を備蓄させ、江戸の町の対策としては「七分積金」と町会所の囲米をおこなわせています。

ここでは倹約令に実効性を持たせました。

町の運営費を節約し、節約してできた余剰の70%を積金にさせます。町会所は、この資金で困窮者への低利融資、病人や高齢者の救済をおこないました。

現在でいうところの社会福祉・保険制度のようなものです。

実際に天保の飢饉のとき、江戸では打ちこわしが起こらなかったのはこの制度のためです。

理想主義どころか現実的対応をし、さらに結果を出す改革をしています。

 

「前述のように昌平坂学問所では蘭学も廃止されていたため、幕府はヨーロッパ諸国の情勢に疎くなった。」(P209)

 

昌平坂学問所は、もともとは林家の儒学の私塾で孔子廟を設けていました。5代綱吉が湯島に移築させて講堂・学寮を整備したものが前身です。

さて、もうこのルーツからおわかりだと思いますが、「蘭学」は、廃止するも何も、昌平坂学問所とは無関係です。よくわからない説明です。

 

「『海国兵談』で国防の危機を説いた林子平を処罰した。田沼意次がやろうとした蝦夷地開拓やロシアとの貿易計画も中止した。」(P209)

 

と説明されていますが、1792年にはロシアの使節ラクスマンが根室に来航していて、松平定信はこれに対応した政策をとっています。

実は、これより先の1789年、国後島のアイヌの蜂起があり、幕府はアイヌとロシアの連携を危惧しています。

「海外の情勢に疎くなった」と説明されていますが、ロシアと蝦夷地に関しては、かなり関心を高めています。これを背景に江戸湾だけでなく蝦夷地の海防の強化を諸藩に命じました。

 

百田氏の説明は内政・経済・外交いずれも不十分で、「定信の理想主義は現実とは乖離したもので」と断言できないものだと思います。

 

【参考】

『体系日本国家史3』「幕藩制改革の展開と階級闘争」難波信雄・東京大学出版会

『岩波講座日本歴史近世4』「寛政改革」竹内誠

『松平定信』藤田覚・中公新書

『寛政改革の都市政策』安藤優一郎・校倉書房

『幕藩制改革の展開』藤田覚編・山川出版社

 

 

 

 

 

75】田沼意次の政策は、評価されていないことはない。

 

「この政策はあまり評価されていないが、私は画期的なことであったと思う。」(P206)

 

おっしゃる通り、かれこれ20年近く前から、田沼意次の政治は評価されています。

だいたい現在40歳以上の方々は、田沼時代は賄賂政治など「マイナスイメージ」で語られていた時代の教育を受けていると思います。

「あまり評価されていない」というのは、もう昔の話です。

 

ただ、田沼意次の政治を誤解されているところがあります。

 

「幕府の財政を立て直すため、それまでの米中心の経済から、商業振興策へと転換を図った。」(P206)

 

というのは少し誤解があります。

やっぱり「米中心の経済」であることには違いありません。

 

「江戸幕府が開かれて百五十年以上、どの将軍も老中も思いつかなかったことだ。」(P206)

 

と説明されていますが、すでに指摘したように、徳川吉宗は株仲間を公認しています。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12432461444.html

 

百田氏は「株仲間」のことをあまり詳しくご存知ないようです。

そもそも1648年から1670年の間に、幕府は「株仲間」を禁止する法令を何度も出しています。株仲間は早い時期に存在していました。

高校の教科書などでも出てくる大坂の二十四組問屋、江戸の十組問屋は株仲間です。

徳川吉宗は、株仲間を公認し、冥加金を納めれば販売権の独占を認めていきました。

ですから、田沼意次が最初に始めたことではありません。

 

細かいことが気になるぼくの悪いクセ、なのですが、

 

「彼は商品流通を行なうための株仲間(幕府から営業の独占権を与えられた商人の集まり)を結成し、そこから冥加金を取った。これは現代の事業税に近いものがある。」

 

株仲間は、自主的に結成された株仲間(願株)と、幕府が命じて作らせた株仲間(御免株)の二つがあり、百田氏の説明は「御免株」のことになります。

それから、「冥加金」は、許認可税で、結成を願い出た場合、許可された場合に支払うものです。ですから、「現代の事業税に近いもの」は「冥加金」ではなく「運上金」、ということなります。

 

「積極的に商業振興策をとったことで、幕府の財政は大いに改善され、社会の景気もよくなった。」(P207)

 

と説明されていますが…

まず、株仲間から得た運上・冥加が幕府の収入に占める割合がどれくらいだったか、あまりわかっていないのです。

前に説明しましたように「小物成」といっしょに扱われて計上されていました。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12432595760.html

 

逆に言えば、農業外の雑収入扱いで、新しい税、という認識は少なかったかもしれません。

幕府の財政が回復したことはトータルな対策、つまり、田沼意次が、税収が増えることならなんでもやったから、です。

専売制もその一つです。銅座・真鍮座・人参座・朱座を設けました。

金・銀・銭3貨を金に一本化した貨幣制度を導入し、秤量する必要が無い南鐐二朱銀を発行しました。

上方は銀、江戸は金が主要通貨でしたから、日々の相場で金・銀が交換されていたのを、銀貨に「二朱」と記して、レートにかかわらず二朱、と定めて交換させたものです。初めての計数銀貨を通用させました。

 

さて、ここに「田沼マジック」がありました。

南鐐二朱銀は、銀純度98%という超高品質の銀貨でした。

16朱=1両ですから、南鐐二朱銀は8枚で1両です。

一方、「金1両=丁銀60匁」が幕府の江戸時代の公定レートでした(これ、おぼえておいてくださいよ。)

 

さぁここから算数の世界です!

南鐐二朱銀の重量は1枚=2.7匁。8枚つまり1両分は21.6匁。純度98%ですから銀の実質量は21.1匁になります。

 

「南鐐二朱銀8枚=銀21.1匁=1両」

 

です。

さて、さきほど「金1両=丁銀60匁」が公定レートだといいました。

徳川吉宗は元文の改鋳で、金銀の質を落とした貨幣を発行した、という話、おぼえていますか?

元文丁銀の純度は、な、な、なんと46%

あれ? つまり… 丁銀60匁に含まれている銀は 27.6匁 になっちゃいます。

元文丁銀を南鐐二朱銀8枚に直すごとに、27.621,6=6匁。つまり1両ごとに6匁の「出目」が出ます。

市中に出回っている元文丁銀を鋳つぶすたびに南鐐二朱銀10枚以上作ることができていきます。

これこそ百田氏の好きな「通貨政策」のはずなのに、なぜかまったく触れられていません。

荻原重秀がケインズの先取りとか宗春のインフレ政策とかの話なんてどうでもいいので、ここで「通貨供給量増加」による良質なインフレの話をしてほしかったところです。

 

田沼意次の評価、かつて説明された「三大改革」、などが教科書で現在ではどう説明されているかを以前にお話しさせていだいたので、添付しておきます。

よければ参照してください。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-11869688567.html

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-11834929548.html