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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

103】薩摩藩は庄内藩に恨みを持っていないし、私闘を演じたのは長州藩である。

 

「次に新政府は、会津藩と庄内藩の討伐のために東北に軍隊を送った。」

「新政府は長州藩と薩摩藩から成り立っていたが、この二藩は会津藩と庄内藩には遺恨を持っていた。」

「長州藩は『蛤御門の変』で会津藩に京都から放逐された恨みがあり、薩摩藩は江戸でテロ活動をした際に庄内藩に藩邸を焼き討ちされた恨みがあり、両藩はこの機に乗じてそれらの仇を討とうと考えたのだ。」(P283)

 

これらの説明にはたいへん誤解と事実に反した部分があります。

 

まず、「新政府は長州藩と薩摩藩から成り立っていたが…」とありますが、実は王政復古の大号令のときに、ようやく長州藩が「朝敵」から解除されたばかりで、意外に思われるかもしれませんが、最初の段階で長州藩から新政府には誰も参加していないのです。

「いや、この説明は長州藩と薩摩藩が中心だったという意味だ」と、解釈したとしてもやはり無理があります。

 

「三職」は、「総裁」・「議定」・「参与」から成り立っていましたが、1868年3月の段階でようやく長州藩も本格的に新政府に参画できるようになりました。

「議定」は、皇族5名、公家12名、大名は、島津茂久・徳川慶勝・浅野長勲・松平慶永・山内豊信・伊達宗城・細川護久・鍋島直正・蜂須賀茂韶・毛利元徳・池田章政。

「参与」は薩摩藩9名、長州藩5名、福井藩5名、尾張藩5名、佐賀藩3名、土佐藩3名、広島藩3名、宇和島藩2名、岡山藩2名、鳥取藩2名、その他8名の諸藩士・国学者から構成されていました。

 

新政府の中で、薩摩・長州が中心的存在となるのは、1871年の「廃藩置県」で公卿・諸侯が一掃されてからの話…

ある意味、「廃藩置県」は公卿・諸侯排除するためのクーデターのようなもので、いわゆる「藩閥政府」の体制はこれ以後のことです。

ここでは「参議」が実質上の新政府の中核となり、1869年から副島種臣、前原一誠、大久保俊充、広沢真臣、1870年から佐々木高行、斎藤利行、木戸孝允、大隈重信らが担うようになります。

 

「新政府は長州藩と薩摩藩から成り立っていたが…」というのは百田氏の「新政府」に対するイメージ、思い込みの説明にすぎません。

 

それから長州藩はともかく、薩摩藩は庄内藩に「恨み」を持っていません。

 

「薩摩藩は江戸でテロ活動をした際に庄内藩に藩邸を焼き討ちされた恨みがあり、両藩はこの機に乗じてそれらの仇を討とうと考えたのだ。」(P283)

 

いったい百田氏は、何をもとにこんな話をされているのでしょう…

 

「庄内藩による薩摩藩邸焼き打ち」というのは、小説や大河ドラマでよく演出されるものですが、これらはウソとは申しませんが誇張やドラマ独特のフィクションなんです。インターネット上の説明でも、これに準拠した説明が見られます。

 

指揮官は庄内藩家老石原倉衛門ですが、「討ち入った」のは庄内藩兵だけではなく、鯖江藩、上山藩、岩槻藩の4藩で、薩摩側からみれば、「幕府軍」というイメージで、個々の藩に対しての「恨み」を思わせる史料もありません。

なにより、庄内藩は鳥羽・伏見の戦いに参加していませんし、1868年1月に新政府が発表した「朝敵名簿」に庄内藩は入っていません。

後に庄内藩が戦うことになるのは、あくまでも奥羽越列藩同盟の一つになってからです。

 

「奥羽越列藩同盟討伐は、一分の正義もないものであった。徹底抗戦を宣言した相手ならともかく、恭順の意を示した相手を討伐する理由はない。敢えていえばまったく日本的でない。これは長州と薩摩による私闘に他ならず、無益な戦いであるばかりか、この後の日本にとってマイナスをもたらす以外の何ものでもない内戦であった。」(P284)

 

賛同できる説明もあるのですが、「長州と薩摩による私闘」というのが不思議な説明です。実は、庄内藩に対して、征討軍の司令官だった西郷隆盛はあくまでも奥羽越列藩同盟の一つの藩としか理解しておらず、戦いの後も、黒田清隆に城受け取りをまかせています。

庄内藩は、すでに戦死している石原倉右衛門を「首謀者」として申告し、黒田清隆もこれをみとめ、西郷隆盛は「もう戦いも終わっているのだから恭順の意を示している相手に過酷な処置をする必要は無い」と、なんと庄内藩のそのまま領地安堵を決定したのです。

ところが、これに異を唱えたのが長州藩でした。

とくに大村益次郎は強硬に庄内藩の処罰を要求し、西郷隆盛も閉口したようです。

その場にいた土佐藩の佐々木高行は、「公明正大西郷、有陰後暗長州人」という感想を残しています。

戊辰戦争中の長州藩の行動は、幕末の尊王攘夷運動のように過激で、これは庄内藩に対してだけではありません。とにかく朝敵の責任者を処罰したがりました。

ですから、「長州と薩摩による私闘」というのは誤解をまねく説明です。

長州藩の苛烈な「私闘」こそ、「日本的」ではなく「この後の日本にとってマイナス」をもたらした、と言うべきで、「薩摩」を共犯扱いするのはどうかと思います。

 

庄内藩では、結局長州の意見に押された新政府の苛烈な処分を受けるのです(後年領地を回復します)が、寛大な処分決定を感謝し、現在でも庄内では西郷を尊敬する雰囲気が残っています。

 

102】来日外国人は一様に民衆の正直さと誠実さに感銘を受けているわけではない。

 

『日本国紀』の人物紹介の一つの特色が、来日外国人による「日本の感想」の紹介です。

わたしも、外国の方から、日本の良さを教えてもらうと、たいへんうれしいですし、外国に行っても、外国人の方にお会いしても、「日本の良さ」をちょい混ぜしながら、日本の文化財の紹介や歴史の話をします。

 

さて、P278P280にかけて、四人の人物の逸話を紹介されています。

そして、「…しかし彼らが一様に感銘を受けていることがある。それは日本の民衆の正直さと誠実さである。」として、シュリーマン、オールコック、バード、モースの話が出てきます。

 

シュリーマンは『旅行記・清国・日本』(講談社学術文庫)

バードは『日本紀行』(講談社学術文庫)

モースは『日本その日その日』(平凡社)

 

ちなみに、オールコックの愛犬はトビー、といいます。

熱海の温泉でヤケドを負って死んでしまいます。熱海に墓があって、経緯が書かれたものを読んで、マジか、こんな話あったんか… と驚いた記憶があります。

 

まぁ、それぞれ読んでいただけたら、いろいろわかります。おもしろいですよ。

前にも説明しましたように、やっぱり日本の当時の治安は悪く、窃盗や強盗、スリ、は横行していました。

旅館も、安宿の相部屋などでは盗難がしょっちゅうありました。一人で泊まるような高級旅館と庶民の宿は同等に語れません。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12431503397.html

  

まず先に。

 

「長州との下関戦争の後、高杉晋作と交渉した人物」とオールコックのことを紹介していますが、オールコックではなく、レオポルド=キューパーの誤りです。

 

さて、この四人の来日時期をみると、シュリーマンとオールコックは1860年代の幕末の日本、バードとモースは1870年代以降、と大きく二つに分けられます。

 

バードは1878年の6月~9月が東京・日光・新潟・東北、11月に神戸、京都、伊勢、大阪を旅行しています。

百田氏は、「一様に感銘を受けている」こととして「正直さと誠実さ」と説明されていますが、バードは、イギリスの地理学会員で世界各地の旅行記を記しているいわば地理学者ともいえる人です。

読めばわかりますが、大部分は日本の風土・習俗を客観的に評価していて、日本人評はあまり出てきません。出てきてもバランスの良い記述がなされています。

ネット上で彼女の話が引用されるときは、たいていその「良い話」を切り取って紹介されるのが常です。

『日本紀行』における日本人の「総評価」はなかなか厳しいですよ。

 

「日本人の多くと話し、さまざまな見聞をした結論として、道徳レベルはかなり低く、生き様も誠実でもないし、純真とも言えない。」

 

と記しています。

バードご本人は、百田氏の例とは「真逆」の評価を結論しています。

 

モースも『日本その日その日』の中では、良い面、悪い面、両方併記して説明しています。

 

また、1870年代以降の来日外国人としてはベルツもあげられます。

彼の日記は『ベルツの日記』として知られています。彼の記述も、日本の良い点、悪い点をちゃんと両論併記しています。「礼儀正しく穏やか」である反面、「極端に高慢になりのぼせあがる国民性」と記しています。

 

一部つまみ食いよりも、著者の意をくんでバランスよく理解する必要があります。

読めば、賢愚・道徳不道徳、平凡でしたたかで醜くて美しさを「そのまま」持った日本人の、ありのままの生活が感じられます。

「ああ、やっぱり、そりゃそうだね」となります。

 

ベルツ、バード、モースの話をよく読むと、シュリーマンやオールコックの「日本人評」とは、ちょっと違いを感じるんですよ。つまり60年代と70年代の差…

 

そうなんです。前回の私の話。

 

わたしね、案外と「保守派」なんです

この変化の前後で、「それまでの日本的なモノやコト」、破壊されなかったのでしょうか

明治の「廃仏毀釈」で失われた文化財の数は、はかりしれません。

「欧化政策」で、野蛮と蔑まれた日本の慣習や文化、ありましたよね。

大日本帝国憲法って、あれ、日本的ですか? ドイツ帝国や第二帝政期フランスの政治制度や法律、導入していますよ。

大日本帝国憲法発布の際の絵、あれ、日本の宮廷ですか? ヨーロッパのどこの国?と思いませんか?

それまでの「日本的なモノ・コト」をかなぐりすてた明治維新の側面、否定できませんよね?

 

ベルツは、日清・日露戦争後の社会の様子を指摘して、「極端に高慢になりのぼせあがる国民性」を指摘しています。

インドの元首相ネルーも『父が子に語る世界歴史』(みすず書房)の中で、「日露戦争がアジアの人々にもたらした希望はやがて大きな失望に変わった」と記しています。

「帝国主義諸国の仲間を、新たに一つ増やしただけだった」と。

大正時代の、外国人のみた日本人、は、1860年代の日本人より、はるかに「劣化」しているように思います。

大正時代、鉄道利用のマナー改善をうったえたパンフレットに書かれていること、なかなかおもしろいですよ。

 

「無理無体に他人を押しのけ、衣服を裂いたり、怪我をさしたり、誠に見るに堪えない混乱を演ずるのが常である。」

 

当時はお年寄りや体の不自由な人に席を譲る、という発想がありません。酒や牛乳の瓶、ゴミが車内に残されたまま…(『写真週報』206)

窓から投げられた弁当箱や瓶で駅員がケガを負う事件の記録もたくさんあります。

 

戦後の教育、社会の変化を通して、公共マナー、整列乗車、交通法規の順守などが進みました。みんなすっかり忘れているだけ。「昔はよかった」なんてのはかなり割り引かなくてはならないんですよ。(『昔はよかったと言うけれど 戦前のマナー・モラルから考える』大倉幸宏・新評論)

 

占領軍は、「日本の伝統と国柄を破壊しようとした」(P408)と説明されていますが一面的な批評です。

違う側面から見れば、戦後の社会の変化、人権意識の向上、平和を愛する気持ちを通じて、日露戦争後の帝国主義的風潮、対外戦争を通じてベルツの指摘した「極端に高慢になりのぼせ」あがった国民性を矯正し、イザベラ=バードが指摘した、低下した道徳レベルを高め、失っていった誠実さや純粋さを取り戻した、とも言えるんですよ。

 

以下は蛇足ながら。

 

オールコックは『大君の都・幕末滞在記』の中で、愛犬トビーのことも書いています。

熱海の伝承もまじえて話しますと…

熱海の間欠泉で熱湯を浴びてヤケドをおったトビー。

熱海の人々が心配し、多くの人が治療に力を貸してくれたようです。トビーは快方に向かうようにみえたのですが、残念ながら死んでしまいました。

哀しみにくれていると宿の主が、なんとお坊さんを呼んで、熱海の人々が「葬儀」をしてくれました。好物が大豆だったみたいで、ちゃんと大豆までお供えしてくれたそうです。

オールコックはたいへん感動しました。そしてこう記しています。

 

「日本人は、支配者によって誤らせられ、敵意を持つようにそそのかされない時は、まことに親切な国民である。」

わたしの「読書ノート」も気がつけば100を越えました。

ようやく近現代の入り口…

 

「黒船来航から大政奉還までの十四年間はとてつもない激動の時代といえるが、本当の意味の激動は大政奉還後の十年であった。」(P282)

 

これは、多くの方の異論の無いところでしょう。

ベストセラー作家の百田氏に及ぶべくもありませんが、わたしもこの視点で「幕末史」を著したことがあります。

http://www.achibook.co.jp/books/1161/

 

「日本史上において、これほど劇的に国全体に変革が起きたことは、これ以前にもこれ以後にもない。」(P282)

 

これに関しては、正直、「わからない」としか言いようがありません。

たとえば、「大化の改新」から「壬申の乱」を経て「平城京」遷都までは、「政治史」的には明治維新に比定できるかもしれません。

というか、現代に近い出来事ほど、「変化」は細部にいたるまで実感しやすいものですから、古代や中世の「激動」は、「伝わっていない」だけかも知れません。

 

でも、「以後にもない」というのはどうなんでしょう。第12章の冒頭、

 

「日本という国の二千年余の歴史の中でも、未曾有の大敗北であった。」

「戦争と敗戦が日本人に与えた悲しみと苦しみは計り知れない。」

「明治維新以来、七十七年の間に、日本人が死に物狂いで築き上げてきた多くのインフラ施設のほとんどが灰燼に帰したのだ。」

「しかし、本当の意味で、日本人を打ちのめしたのは、敗戦ではなく、その後になされた占領であった。」

 

「日本の敗戦と戦後」は「明治維新の前後」よりも「劇的」でもなく、「国全体に変革が起きた」ことでもないのでしょうか…

 

「他国による侵略以外で、短期間にこれほどまでの変容を遂げた国は、世界史上でも類を見ない。」と説明されているので「敗戦と戦後」はこの説明には含まない、ということなのでしょうか。

 

さて、

 

「幕末の日本と明治の初期の日本を見ると、とても同じ国とは思えない。」

 

と、説明されていますが、これは誤解です。

 

たとえば人口の84%を占めている農民と、彼らが暮らす農村の風景は、明治の初期ではあまり変化はみられません。太陽暦が採用されても、農村ではまだ太陰暦に従った生活が続いていました。逆に都市部では、幕末にすでに文明開化が進んでいたので、これもまた劇的な変化はみられません。

何度も申し上げますが、かつては教科書の章立ても、明治維新からが「近代」でしたが、現在ではペリー来航からが「近代」です。

 

「激変」というのは「イメージ」が占める部分が多いようです。

 

戊辰戦争も、「内戦」としては、あまりにも規模が小さいといえます。

戦死者数で比較するなら、南北戦争は60万人、パリ=コミューンは20万人。戊辰戦争は千数百人です。世界史的には「政権交代」の内紛レベルです。

 

「他国による侵略以外で、短期間にこれほどまでの変容を遂げた国は、世界史上でも類を見ない。」(P282)

 

あくまでも百田氏の知見の範囲での話です。

地中海世界でのフェニキア人、ギリシア人の活動や、イスラーム世界の拡大は、「戦争」ばかりではありません。イスラーム商人の活動などによって、平和的にイスラーム教を受容して変化した国・地域はたくさんあります。交易を通じた東南アジアのインド化もそうでしょう。

ヨーロッパでも宗教改革やルネサンスなどもそうでしょうし、大航海時代がもたらしたヨーロッパの商業革命・価格革命も1020年でヨーロッパの経済構造を劇的に変化させています。個々の国・地域の歴史に言及していけば、キリがありません。

 

「変革を求める国民(民衆)のエネルギーが、前例なきものを認めない幕藩体制によって押さえ込まれていたところへ、黒船が来航し、その重い蓋にヒビが入った。そして、その裂け目から蒸気が一気に噴き出すようにして、重い蓋を吹き飛ばしたのだ。」(P282)

 

これもどうでしょうか…

「明治維新」はアメリカ独立運動やフランス革命、それ以前のイギリスでのピューリタン革命とも違うような気がします。民衆運動や、国民運動によって幕府は倒されたのでしょうか…

「変革を求める国民(民衆)」ではなく、幕藩体制で、政権運営に携われなかった勢力の一部による「政権交代」にすぎなかったのではないでしょうか…

 

「明治の大変化は、本来、二百六十五年をかけて漸進的に行なわれるはずだった改革と変化がわずか十年で起こった現象と見るべきであろう。」(P282)

 

わたしね、案外と「保守派」なんです…

この変化の前後で、「それまでの日本的なモノやコト」、破壊されなかったのでしょうか…

明治の「廃仏毀釈」で失われた文化財の数は、はかりしれません。

「欧化政策」で、野蛮と蔑まれた日本の慣習や文化、ありましたよね。

大日本帝国憲法って、あれ、日本的ですか? ドイツ帝国や第二帝政期フランスの政治制度や法律、導入していますよ。

大日本帝国憲法発布の際の絵、あれ、日本の宮廷ですか? ヨーロッパのどこの国?と思いませんか?

それまでの「日本的なモノ・コト」をかなぐりすてた明治維新の側面、否定できませんよね?

 

「占領軍は、かつて有色人種に対して行なったように、伝統と国柄を破壊しようとした。幸いにしてそれらは不首尾に終わったが、日本人の精神を粉砕することには成功した。」(P408)

 

この説明、大部分、「明治維新」にスライドできませんか?

違うのは主語が「占領軍は」ではなく「一部の自国民は」によって、というところです。

 

近現代史の振り返り…

 

「明治維新以来、七十七年の間」に築き上げてきたモノやコト…

これが「伝統と国柄」である、とする視点があるならば、

「終戦以来、七十五年の間」に築き上げてきたモノやコト…

これもまた「伝統と国柄」である、とする視点もあるはずです。

 

どちらを否定してもそれは「私たちの日本」の否定。

どちらもありのままに捉えて止揚する、というのが大切だと思います。

 

101】旧幕府は、国際的に承認された政府としての地位を失っていない。

 

「薩摩側は慶喜との対決を前に、朝議を開き、『慶喜の武装上洛を止める』という決定を取り付けた。」(P272)

 

と、説明されています。最初は、これは徳川と薩摩の私闘にすぎない、として松平春嶽らが朝廷の中立を示そうとしました。しかし、ここで岩倉具視が「活躍」し、根回しをして、またまた形勢を逆転して、「新政府と旧幕府」の対決という形をつくることに成功しました。(ただ、誤解の無いように申し添えますと、慶喜追討の命令が出る前に、戦いは始まっていました。)

 

「数では圧倒していた旧幕府軍だったが、西洋の最新式武器を装備した新政府軍を前に苦戦を強いられた。」(P273)

 

と、説明されていますが、戦術的には、装備の問題よりも「作戦上」の不備が旧幕府側に目立ちました。(旧幕府軍も近代装備でした。)

まず数が多すぎたにもかかわらず、鳥羽・伏見の狭い地域・街道で作戦を展開してしまったこと、近世封建型の戦い、つまり指揮系統が一つではない戦いをしてしまったこと、が大きな敗因です。

「装備の近代化」よりも、新政府軍のほうは、「戦闘の近代化」ができていました。

 

さて、「錦の御旗」です。

 

「朝敵を討つ時の旗印である『錦の御旗』(錦旗)を掲げると、多くの藩が『朝敵』となることを恐れ、次々に新政府軍に加わった。」(P273)

 

とありますが、これは前線にいた田中光顕の証言によるものでしょう。

実は「錦の御旗」はこの戦いを前に、岩倉具視と薩摩藩が「発注して」製造したもの(長州は錦をもらって長州で製作)で、岩倉具視(の側近の国学者玉松操)がデザインしたものと言われています。

「伝説」の「錦の御旗」を再現したもので、朝廷が宮中の奥深くに秘していたものではありません。

そもそも、「錦の御旗」は、天皇が、戦いを命じた者に「作らせた」ものでした。

では見たこともない(存在しない)「錦の御旗」になぜ諸藩は恐れをなしたのでしょうか。

「朝廷の敵」になることが、「もっとも避けなくてはないこと」という「恐れ」など徳川二百六十年の中で、忘れ去られていました。

ところが皮肉なもので、幕府が、長州藩を「朝敵」に指定し、その「不利益」がどれほど大きいかを幕府自身が示してしまったんです。

旧幕府軍の武士たちが「慄いた」のは、ごく最近、「朝敵」という概念に実体ができたばかりだったからでした。

 

「…旧幕府軍は…大坂を放棄して江戸や自国へと帰還し、戦いは新政府軍の圧勝という形で終わった。これを見て、欧米列強は局外中立を宣言し、旧幕府は国際的に承認された日本政府としての地位を失った。」(P273)

 

と、説明されていますが…

実はインターネット上の説明(Wikipedia)にも同じような説明が見られます。

 

「列強は局外中立を宣言し、旧幕府は国際的に承認された唯一の日本政府としての地位を失った。」

 

これ、誤りなんです。どうしてこんな説明をされてしまったのでしょうか。

 

まず、「王政復古の大号令」が186712月9日に出されたのですが、欧米列強は、明治新政府を新政府として承認していません。条約の開港も、改税約書の調印も、すべて幕府がやってきたことです。

同年1216日、慶喜は、アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・イタリア・プロイセンの6か国の公使を大坂城に呼び寄せ、「今後に起こるであろう展開」に対して「内政不干渉」を約束させ、それどころか幕府に外交権があることを6か国に承認させました。

鳥羽・伏見の戦い後に、列強が局外中立を宣言したのは、内政干渉しないと幕府と約束している、だから新政府を相手にしない、という宣言です。

旧幕府が日本政府としての地位を失った、という意味ではありません。

鳥羽・伏見の戦いに新政府が勝ったとしても、我々は新政府をまだ日本政府として承認しない、中立だ、という宣言です。

 

これは江戸城の無血開城の前でも変わりません。

こういう記録が残っています。

 

長州藩士の木梨精一郎が、西郷隆盛の命令を受けてイギリス公使のパークスのところに行きました。要件は、江戸城攻撃についてでした。

新政府軍の兵士が負傷した場合、その兵士の手当・治療を横浜にあるイギリスの病院で治療させてほしい、と申し出ました。

パークスは、あっさりと「拒否」します。精一郎の記録では、

 

「今日の政権は徳川にあり。王政維新になったといえどもいまだ外国公使への通報もなし。われわれはどこまでも前条約を以て徳川政府を政府とみなすものなり。」

 

と、パークスに言われた、というのです。

あわせて、「横浜にいる軍も艦上に引き揚げさせるつもりはない。自国民の安全がおびやかされないように治安を維持する。」とも説明しています。

(また、アーネスト・サトウの当時の日記などでも、戊辰戦争中の列強の「中立」と幕府をまだ条約上・外交上の政府と認識していることが読み取れます。)

どうやらこれを西郷は、「江戸を攻撃することは、イギリスは許さない」と解釈したのかもしれません。(新政府の最初の外交案件といわれた1868年2月に起こった神戸事件後でも、実際はこうでした。)

 

ですから、鳥羽・伏見の戦い後、「列強は局外中立を宣言し、旧幕府は国際的に承認された唯一の日本政府としての地位を失った。」という説明は誤りです。

100】西郷隆盛は「短刀一つあれば済む」とは言ったのか?

 

岩倉具視について、ちょっとこの機会にお話ししておきたいと思います。

1860年代の岩倉具視の「居場所」をついつい誤解してしまうので。

 

彼は1862年から蟄居させられていて、王政復古の大号令後、宮中にようやく参内が許されました。正確には、67年の王政復古の大号令後からが、彼の「維新の功績」の始まりです。それ以前の「暗躍」は、明治新政府成立後の、維新の功労者特有の、「盛られた話」も含まれている、と割り引いたほうがよいところもあります。

 

岩倉具視は、もともと公武合体派でした。しかし、宮廷で尊王攘夷派が台頭し、「幕府にこびへつらう奸臣」として、1862820日に、辞官させられ、出家もしています。岩倉の処分は苛烈で、尊王攘夷派は岩倉への「天誅」を公言して憚らず、洛中に住むことすら禁止され、事実上の「追放」となり、洛北の岩倉村に蟄居します。

ここから五年間、ずっとこの地に住んでいました。

いろんな「文書」を書いたり、薩摩藩にそれを送ったりするようになったのが1865年から。よって62年~64年までの朝廷の活動には関与していません(というかできません)

じゃあ65年から「関与」できていたのか、というと、現実、宮中には参内できずに洛北の岩倉村にいたのですから、関与できたことには限りがあります。

 

「薩摩藩の大久保利通は、公家の岩倉具視と組んで、天皇に『討幕の密勅』を出させることに成功した。」(P267)

 

と説明されていますが、なんでもかんでも岩倉具視の「暗躍」ではありません。

中山忠能・正親町三条実愛・中御門常之と組んで、大久保利通が「密勅」を出させることに成功したんです。

もちろん、密勅は岩倉の側近で国学者の玉松操が起草していると言われ、「岩倉具視の骨折りがあった」と正親町三条実愛が明治時代に回想していますが、これは密勅の作成のことであって宮廷工作は蟄居中の岩倉には当然できません。

 

「そうなっては面白くないと考えた岩倉具視を代表とする討幕派の公家や薩摩藩は…」「慶喜派の公家を締め出し…『王政復古の大号令』を発した。」(P270)

 

と、ありますが、岩倉具視は、慶喜派の公家が締め出された後、ようやく宮中に参内しています。五年ぶりの宮中回帰です。岩倉具視が宮中にいて指示していたわけではありません。

 

ところで、

 

「同じ日(1867129日の王政復古の大号令が出された日)、新たに設置された三職(有栖川宮熾仁親王、中山忠能、岩倉具視、大久保利通、松平慶永、山内豊信、後藤象二郎、徳川慶勝)の間で小御所会議が開かれた。」(P270)

 

と説明されていますが、小御所会議での三職は「有栖川宮熾仁親王、中山忠能、岩倉具視、大久保利通、松平慶永、山内豊信、後藤象二郎、徳川慶勝」の8名だけではありません。

 

この時、小御所会議に参加した三職は、総裁は1名で有栖川宮熾仁ですが、議定だけでも10人参加しています。参与は16(あるいは15)名です。

 

「山内豊信(前土佐藩主)・松平慶永(前越前藩主)・徳川慶勝(前尾張藩主)は慶喜の『辞官・納地』に断固反対していたが、それを知った討幕派の西郷隆盛(薩摩藩士で当日は御所の警備をしていた)が三人の暗殺を示唆したところから、会議の空気が変わったという。西郷は『短刀一つあれば済む』と言ったといわれる。山内豊信らは暗殺を恐れたのか、自説を引っ込めた。」(P270)

 

まず、細かいことが気になるぼくの悪いクセ、なのですが… 

徳川慶勝は「前尾張藩主」ではなく「元尾張藩主」です。14代が慶勝で、安政の大獄で弟の茂徳に藩主の座を譲ります。1863年に茂徳が隠居し、実子の義宜が16代藩主になりました。

 

実は、小御所会議では、「藩士でありながら特に参加をゆるされた者」として薩摩藩から西郷隆盛、大久保利通、岩下方平の3人が参加していて末席に座っています。西郷が警備担当でその場にいなかった、ということはありません。

ですから、「短刀一つあれば済む」云々の話は俗説で、小説や大河ドラマでの演出でよくみられるものです。

『丁卯日記』『大久保利通日記』『嵯峨実愛手記』『徳川慶喜公伝』『明治天皇紀』などには一切記述がありませんし、それを臭わすような記載もありません。

(出所は1937年に記された『浅野長勲自叙伝』の中のエピソードです。『岩倉公実記』を読むと、休憩中に岩倉具視と岩下方平がずいぶん根回ししていたことがわかります。この「根回し」で武力を薩摩藩が使用する、ということをほのめかしたようです。短刀一つどころか藩兵一軍、だったようです。)

 

岩倉具視の「活躍」はまさにこの時から。

蟄居中の「暗躍」は少々割り引いて考えたほうがよいようです。