『日本国紀』読書ノート(102) | こはにわ歴史堂のブログ

こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

102】来日外国人は一様に民衆の正直さと誠実さに感銘を受けているわけではない。

 

『日本国紀』の人物紹介の一つの特色が、来日外国人による「日本の感想」の紹介です。

わたしも、外国の方から、日本の良さを教えてもらうと、たいへんうれしいですし、外国に行っても、外国人の方にお会いしても、「日本の良さ」をちょい混ぜしながら、日本の文化財の紹介や歴史の話をします。

 

さて、P278P280にかけて、四人の人物の逸話を紹介されています。

そして、「…しかし彼らが一様に感銘を受けていることがある。それは日本の民衆の正直さと誠実さである。」として、シュリーマン、オールコック、バード、モースの話が出てきます。

 

シュリーマンは『旅行記・清国・日本』(講談社学術文庫)

バードは『日本紀行』(講談社学術文庫)

モースは『日本その日その日』(平凡社)

 

ちなみに、オールコックの愛犬はトビー、といいます。

熱海の温泉でヤケドを負って死んでしまいます。熱海に墓があって、経緯が書かれたものを読んで、マジか、こんな話あったんか… と驚いた記憶があります。

 

まぁ、それぞれ読んでいただけたら、いろいろわかります。おもしろいですよ。

前にも説明しましたように、やっぱり日本の当時の治安は悪く、窃盗や強盗、スリ、は横行していました。

旅館も、安宿の相部屋などでは盗難がしょっちゅうありました。一人で泊まるような高級旅館と庶民の宿は同等に語れません。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12431503397.html

  

まず先に。

 

「長州との下関戦争の後、高杉晋作と交渉した人物」とオールコックのことを紹介していますが、オールコックではなく、レオポルド=キューパーの誤りです。

 

さて、この四人の来日時期をみると、シュリーマンとオールコックは1860年代の幕末の日本、バードとモースは1870年代以降、と大きく二つに分けられます。

 

バードは1878年の6月~9月が東京・日光・新潟・東北、11月に神戸、京都、伊勢、大阪を旅行しています。

百田氏は、「一様に感銘を受けている」こととして「正直さと誠実さ」と説明されていますが、バードは、イギリスの地理学会員で世界各地の旅行記を記しているいわば地理学者ともいえる人です。

読めばわかりますが、大部分は日本の風土・習俗を客観的に評価していて、日本人評はあまり出てきません。出てきてもバランスの良い記述がなされています。

ネット上で彼女の話が引用されるときは、たいていその「良い話」を切り取って紹介されるのが常です。

『日本紀行』における日本人の「総評価」はなかなか厳しいですよ。

 

「日本人の多くと話し、さまざまな見聞をした結論として、道徳レベルはかなり低く、生き様も誠実でもないし、純真とも言えない。」

 

と記しています。

バードご本人は、百田氏の例とは「真逆」の評価を結論しています。

 

モースも『日本その日その日』の中では、良い面、悪い面、両方併記して説明しています。

 

また、1870年代以降の来日外国人としてはベルツもあげられます。

彼の日記は『ベルツの日記』として知られています。彼の記述も、日本の良い点、悪い点をちゃんと両論併記しています。「礼儀正しく穏やか」である反面、「極端に高慢になりのぼせあがる国民性」と記しています。

 

一部つまみ食いよりも、著者の意をくんでバランスよく理解する必要があります。

読めば、賢愚・道徳不道徳、平凡でしたたかで醜くて美しさを「そのまま」持った日本人の、ありのままの生活が感じられます。

「ああ、やっぱり、そりゃそうだね」となります。

 

ベルツ、バード、モースの話をよく読むと、シュリーマンやオールコックの「日本人評」とは、ちょっと違いを感じるんですよ。つまり60年代と70年代の差…

 

そうなんです。前回の私の話。

 

わたしね、案外と「保守派」なんです

この変化の前後で、「それまでの日本的なモノやコト」、破壊されなかったのでしょうか

明治の「廃仏毀釈」で失われた文化財の数は、はかりしれません。

「欧化政策」で、野蛮と蔑まれた日本の慣習や文化、ありましたよね。

大日本帝国憲法って、あれ、日本的ですか? ドイツ帝国や第二帝政期フランスの政治制度や法律、導入していますよ。

大日本帝国憲法発布の際の絵、あれ、日本の宮廷ですか? ヨーロッパのどこの国?と思いませんか?

それまでの「日本的なモノ・コト」をかなぐりすてた明治維新の側面、否定できませんよね?

 

ベルツは、日清・日露戦争後の社会の様子を指摘して、「極端に高慢になりのぼせあがる国民性」を指摘しています。

インドの元首相ネルーも『父が子に語る世界歴史』(みすず書房)の中で、「日露戦争がアジアの人々にもたらした希望はやがて大きな失望に変わった」と記しています。

「帝国主義諸国の仲間を、新たに一つ増やしただけだった」と。

大正時代の、外国人のみた日本人、は、1860年代の日本人より、はるかに「劣化」しているように思います。

大正時代、鉄道利用のマナー改善をうったえたパンフレットに書かれていること、なかなかおもしろいですよ。

 

「無理無体に他人を押しのけ、衣服を裂いたり、怪我をさしたり、誠に見るに堪えない混乱を演ずるのが常である。」

 

当時はお年寄りや体の不自由な人に席を譲る、という発想がありません。酒や牛乳の瓶、ゴミが車内に残されたまま…(『写真週報』206)

窓から投げられた弁当箱や瓶で駅員がケガを負う事件の記録もたくさんあります。

 

戦後の教育、社会の変化を通して、公共マナー、整列乗車、交通法規の順守などが進みました。みんなすっかり忘れているだけ。「昔はよかった」なんてのはかなり割り引かなくてはならないんですよ。(『昔はよかったと言うけれど 戦前のマナー・モラルから考える』大倉幸宏・新評論)

 

占領軍は、「日本の伝統と国柄を破壊しようとした」(P408)と説明されていますが一面的な批評です。

違う側面から見れば、戦後の社会の変化、人権意識の向上、平和を愛する気持ちを通じて、日露戦争後の帝国主義的風潮、対外戦争を通じてベルツの指摘した「極端に高慢になりのぼせ」あがった国民性を矯正し、イザベラ=バードが指摘した、低下した道徳レベルを高め、失っていった誠実さや純粋さを取り戻した、とも言えるんですよ。

 

以下は蛇足ながら。

 

オールコックは『大君の都・幕末滞在記』の中で、愛犬トビーのことも書いています。

熱海の伝承もまじえて話しますと…

熱海の間欠泉で熱湯を浴びてヤケドをおったトビー。

熱海の人々が心配し、多くの人が治療に力を貸してくれたようです。トビーは快方に向かうようにみえたのですが、残念ながら死んでしまいました。

哀しみにくれていると宿の主が、なんとお坊さんを呼んで、熱海の人々が「葬儀」をしてくれました。好物が大豆だったみたいで、ちゃんと大豆までお供えしてくれたそうです。

オールコックはたいへん感動しました。そしてこう記しています。

 

「日本人は、支配者によって誤らせられ、敵意を持つようにそそのかされない時は、まことに親切な国民である。」