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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

99】「大政奉還」は14日だが諸藩が知ったのは13日。

 

「薩摩藩の大久保利通は、公家の岩倉具視と組んで、天皇に『討幕の密勅』を出させることに成功した。…薩摩藩に出されたのが慶応三年(一八六七)十月十三日(新暦十一月八日、長州藩に出されたのが十月十四日(十一月九日))である。」(P267)

「ところが薩長にとって思いがけないことが起こる。慶応三年(一八六七)十月十四日(新暦年十一月九日)に、徳川慶喜が大政奉還をすると上表(天皇に対して書を奉ること)したのだ。つまりこの日を以て、二百六十五年続いた江戸幕府の統治が突然終わりを告げた。」(P267)

「ところで、偽勅旨が出た翌日に慶喜が大政奉還を言い出したというのはあまりにタイミングが良すぎる。私の想像だが、朝廷か薩長に徳川の内通者がいたものと思われる。」(P267P268)

 

まず、江戸幕府の統治は突然終わりませんでした。

 

これ、よく間違うんです。

大政奉還を申し出ても慶喜は征夷大将軍をやめていませんし幕府も無くなっていません。引き続き政治をおこなっています。なにより24日には天皇が改めて各藩への軍事指揮権を持つ将軍および幕府を勅許しているんです。

だからこそ、薩長は王政復古の大号令というクーデターを実施しなくてはならなかったんじゃないですか。大政奉還で幕府が滅びて徳川の政治が終わっていたなら王政復古の大号令は不要です。

なんのことはない、慶喜が大政奉還したら、すぐにまた大政委任されたわけで、実際、諸外国に対しても江戸の開市、新潟開港の延期通知を幕府として実行していますし、ロシアとの改税約書調印も幕府がおこなっています。

 

それから、「討幕の密勅」が出された(13)翌日14日に、大政奉還を言い出したというのはあまりにタイミングがよすぎる、とおっしゃっていますが、誤っています。

 

慶喜が大政奉還を言い出したのは13日です。

まさか、百田氏は、教科書によく出ている絵(二条城に大名が集まっている絵)が「大政奉還」で、1014日の様子だと思っているのではないとは思うのですが…

「あの絵」は大政奉還の絵ではなく、大政奉還をするので諸藩の意見を聞きたい、と、申し渡している絵なんです(しかも実際は慶喜ではなく老中が文書を回覧しています)

 

あれが実は1013日。つまり「討幕の密勅」と同じ日…

その翌日に「大政奉還」しているのです。

 

朝廷か薩長に幕府の内通者がいたかも知れませんが、この段階では何の役目も果たしていません。なぜなら13日の段階で大政奉還するよ、ということは40の諸藩に知れ渡っていますし、それどころか薩摩藩も土佐藩も、その場にいました。

薩摩藩の代表は小松清廉(帯刀)

文書回覧後、慶喜に面会してすぐに大政奉還するべきです、と訴えています。

タイミングが良すぎると考えた百田氏の想像は、残念ながら、このことを知らないことからくる勘違いにすぎません。

坂本龍馬の説明って、通史では難しいんですよね。

 

「…しかし日本で初めての株式会社である『亀山社中』を作った龍馬は、外国との取引を禁じられていた長州藩に、薩摩藩名義で購入した最新式の西洋の武器を売るという奇策を用いて、両藩を近づけた。そして自らが仲介役となって、慶応二年(一八六六)一月、薩摩藩と長州藩の同盟を成立させた。」(P263)

 

と説明されています。

前にお話ししたように、「日本で初めての株式会社」というのはやはり誤りです。単に商社、と言いたかったことを間違えられただけだと思います。株式会社の要素は皆無です。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12436655428.html

 

ところで、最近の幕末史の研究では、「亀山社中」の評価はかなり変わってきました。

そもそも「社中」という言葉は、単なる集まり、仲間、という意味です。「集団」、グループという語感で、薩摩藩から委託されて売買する組織、というような感じです。

 

このような組織、実はすでに長州藩では組織されていました。

 

「越荷方」

 

という組織です。大学入試でも出てきます。

他藩が大坂に運ぼうとしている積み荷を買い取り、その一部を保管して相場の値動きにあわせて売る、または積み荷を担保にして資金の貸し付けなどをおこなう、というものです。

 

坂本龍馬は、これを、薩摩藩を対象に、しかも長崎の輸入品でおこなっていた、というのが「亀山社中」である、という考え方です。後には土佐藩も対象となります。

ついつい「坂本龍馬」の虚像が膨らむ中、過大に評価されてきたのではないか、というのが現在の見方です。

薩摩藩が亀山社中に委託して買い取らせていた長崎の武器を亀山社中が保管し、高値で長州に転売する…

他にも長州藩で買い取った米を、相場の高値がついた薩摩藩に売る…

こうして薩摩藩にも長州藩にも坂本龍馬はコネを持つようになった、というわけです。

ですから、百田氏がおっしゃるような「奇策」というわけではありませんでした。

 

「一方、長州藩と薩摩藩を結び付けた坂本龍馬は武力による討幕には反対だった。それは龍馬の師匠である勝義邦の考えだった。」(P266)

 

これは1990年代くらいまで、よく小説や大河ドラマで説明されたり設定されたりしてきたことです。(とくに相手が死去して他の記録で確認できない勝の回想は、やや誇張があり、信用性が低いと言われています。)

坂本龍馬は、大政奉還が実現しない場合は倒幕、ということをしっかり考えていて、後に土佐藩に西洋式銃を大量に売りつけ、倒幕計画・準備を同時に進めています。

また後藤象二郎から大政奉還論を聞いた小松帯刀もこれを認め、「薩土盟約」を結んでいます。

薩摩藩の場合は、さらに一歩進んで、大政奉還を求めても幕府は拒否するであろう、よってそれを理由にして倒幕を進める、という考え方でした。

 

坂本龍馬の評価は、振り子のように揺れ動いてきました。過大評価に振ったり過小評価に振ったり… 現在は過大評価を改める方向に動いていて、高校教科書から坂本龍馬を削除する、という動きもこの一端です。

さらに振り子が過小にも振り始めていて、「船中八策」は虚構ではないか、という検証も始まっています。(実際、大正時代の造語ではないかと考えられています。坂崎紫瀾の小説の影響か?)

ただ、龍馬自筆の「新政府綱領八策」は一次史料と言われているので坂本龍馬が「大政奉還」という考え方をしていたことは明確です。

 

「大政奉還」についてはまた次回、ということで。

98】「四侯会議」を誤解している。

 

「長州征伐の最中に急死した将軍の家茂には子供がなかったため、将軍後見職の一橋慶喜が将軍に推された。」(P265)

 

と、ありますが、誤りです。

まず、後継は実は田安家の亀之助が指名遺言されていました。単純に子供がなかったから慶喜が将軍に推されたのではありません。大奥などの勢力は慶喜就任に反対し、なにより水戸藩(慶喜の実家といってもよい)からも慶喜就任の反対の声が出ていました。

これが慶喜将軍就任を固辞した背景でもあります。

それから前にも説明しましたが、「将軍後見職の一橋慶喜が将軍に推された」というのは誤りです。

1862年の文久の改革で将軍後見職となりましたが、1864年に禁裏御守衛総督に任じられてから将軍後見職を辞任しています。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12437223019.html

 

「長州征伐で敗れた後、多くの藩が離反していく中…」(P265)

 

と、ありますが、これも誤っています。

まず、第2次長州征討を停戦したのは孝明天皇でした。「停戦」の和議が結ばれたものの、長州藩は「朝敵」のままです。

後年、明治新政府が、「この第2次長州征討の失敗で、多くの藩が幕府から離れた」と説明するようになったために流布された考え方で、実際は長州藩と薩摩藩に幕府が干渉できなくなったということ、幕府の軍事力が前近代的な状況にあることが露呈したこと、この征討で明らかになったことでした。

 

朝廷における幕府の影響力はまだ強く、薩摩藩と岩倉具視(洛北の岩倉村に蟄居謹慎中)は、これをきっかけに朝廷内での反幕府派公家を復権しようと画策し、さらに朝廷の主導力を示そうと、24の諸侯に参内を呼び掛けたにもかかわらず集まったのは藩主代理を含めても9名だけで、むしろ幕府の力を実感することになってしまいました。

それどころか慶喜が公卿の会議に参列するようになり、親長州・薩摩の公家のほうが処罰されたのです。

1866年の「薩長同盟」の目的の一つであった「長州藩の朝敵指定を解除する」というのはとても実現できるような状況ではなくなりました。

長州征討には負けましたが朝廷内の主導権争いは慶喜が勝ちました。

 

「…(慶喜が)二十九歳で徳川十五代将軍となった。その二十日後、攘夷論者ではあったが公武合体派で親幕府でもあった孝明天皇が三十五歳の若さで急死する。これにより幕府は大きな後ろ盾を失い、朝廷では倒幕派が台頭していく。」(P265P266)

 

「孝明天皇の死」で、幕府の後ろ盾が無くなった、というも現在では断言的に説明しません。「四侯会議」が開催されたのも明治天皇の時ですし、この会議では慶喜が主導権を握りました。さて、その「四侯会議」ですが…

 

「翌年五月、京都において、『四侯会議』が開かれた。これは将軍の徳川慶喜と島津久光(前薩摩藩主)・山内豊信(容堂・前戸津藩主)・松平慶永(前越前藩主)・伊達宗城(前宇和島藩主)の四つの雄藩の指導者による国政会議である。しかし会議が始まると同時に、慶喜と久光が長州の処分について真っ向から対立し、会議そのものが成り立たなくなった。これ以降、薩摩は武力による倒幕に舵を切ったといわれる。」(P266)

 

「四侯会議」を誤って理解されている、というか、小説や大河ドラマの演出に惑わされていると思います。

 

まず、明確な誤りが一つあり、島津久光は、藩主になったことはありません。前藩主斉彬の弟で現藩主の父。ですから「前薩摩藩主」ではなく「現薩摩藩主の父」です。

それから「四侯会議」は徳川慶喜と摂政二条斉敬の諮問会議で、「2+4」で構成されているので、メンバーが一人抜けています。

 

さて、この会議は全部で8回開催されています。

「会議が始まると同時に」徳川慶喜と島津久光が対立した、と説明されていますが、ありえません。

第1回会議の5月4日の会議には慶喜は出席しておらず、島津・松平・伊達・山内の4人だけだからです。

 

第2回は5月6日で、二条斉敬の邸宅で行われました。やはり慶喜はいません。

今回は摂政二条斉敬との面談。今回「会議が始まると同時に」ケンカとなったのは摂政二条斉敬と島津久光です。

朝廷の人事で、薩摩派の公家の復活を要求するのですが二条が反対し、激論となりました。

 

第3回は5月10日。やはり二条邸でおこなわれましたが容堂が欠席しました。

そして第4回は5月13日、土佐藩邸で開催され、次回は慶喜をまじえて二条城で開きましょう、と決まりました。

 

第5回が5月14日。小説や大河ドラマ、そして百田氏がイメージされている慶喜と久光の「対立」の会議はおそらくこの日の会議だと思われます。

この日は、慶喜が四侯を引見する形で会議が進められました。

いまだ朝敵のままである長州藩を許すか許さないか、兵庫開港の問題、どちらを優先するか、が議論となります。

久光は長州問題を、慶喜は兵庫開港問題を、それぞれ優先課題として主張します。

結局、折り合いがつかず懸案事項となって持ち越されますが、この時、「記念撮影」がおこなわれているんですよ。実際は、わりと穏やかな会議だったかもしれません。

 

第6回は土佐藩邸で開催され、第7回が二条邸で開催されています。

 

第8回は、5月21日。二条城で開催されました。兵庫開港の期限が迫っていたこともあり、慶喜は天皇の勅許を得ることに全力をつくしました。そして慶喜がこの会議で長州藩の朝敵解除も天皇に進言することを求めたのです。

こうして慶喜主導で、すべてが決まり、薩摩藩は主導権を失ったために「武力による討伐に舵を切った」のです。

 

さて、以下は蛇足ですが…

 

「…孝明天皇の死は討幕派勢力による暗殺ではないかという説も根強い。」(P266)

 

と説明されていますが、孝明天皇暗殺説が否定されて久しいことをご存知なかったようです。

もともと天皇など、やんごとなきお方の病状や死の原因は、「あいまい」にされるもので、「表向き」の発表が通常です。しかし、これが、政治などが混迷している時期や権力争いの時期に重なると、ついつい「陰謀説」の温床になりやすい…

明治天皇の母で孝明天皇の典侍慶子へ容態を詳しく記した手紙がみつかり、暗殺説は終息しています(というかもともと「説」でもなかったのですが)

 

幕府にとってタイミングが悪い、と、よく言われますが、長州系や薩摩系の主な公家がいない段階で天皇が崩御して幼帝が立つと、摂関など主要公家のほとんどが幕府派でしたから、ますます朝廷における幕府方の主導権が強まります(事実、四侯会議など慶喜が主導できました)

つまり、倒幕派のほうが、タイミングが悪かった、とも言えます。

 

足利義満、島津斉彬、孝明天皇…

「暗殺説が根強い」と百田氏はよくコメントされていますが、いずれも「説」でも「陰謀」でもなく、戦前くらいから続く「噂話」にすぎません。

97】イギリスとフランスは幕末、共同歩調をとっていて対立はしていない。

 

これ、「幕末誤解」の一つなんですが…

 

イギリスとフランスが、日本を植民地化しようとしていた。

イギリスとフランスが、どちらが日本を支配するかで争っていた。

イギリスは薩長を支援して、フランスは幕府を支援して、それぞれ対立していた。

 

え? そうじゃないの? 教科書にも書いているよ!

て、言う人は、よ~く教科書を読んでみてください。そんな話は出てこないんです。

 

「この頃からイギリス公使パークスは、幕府の無力を見抜き、天皇を中心とする雄藩連合政権の実現に期待するようになった。薩摩藩は、薩英戦争の経験からかえってイギリスに接近する開明政策に転じ、西郷隆盛・大久保利通ら下級武士の革新派が藩政を掌握した。一方、フランス公使ロッシュは、あくまでも幕府支持の立場をとり、財政的・軍事的支援を続けた。」(『詳説日本史B』・山川出版P256~P257)

 

いやいや、フランスは幕府支援、イギリスは薩長支援、みたいな感じで書いているやんっ

 

と、ツッコミ入れられそうですが…

 

「この頃から」、が実はポイントなんです。1866年以降、つまり最後の約1年間の話…

 

まず、イギリスもフランスも、日本を植民地化することはまったく考えていませんでした。これはイギリスやフランス側に残されている史料(議会・政府の資料)から明かなことです。

日本側が勝手にそう思い込んでいただけでした。

イギリスは、「相手をみて」外交政策を展開しています。

産業革命を成功して、「世界の工場」となっていたイギリスは、世界を原料供給地と市場に世界を色分けしています。

日本は、鎖国によって国内産業が発達し、また購買力の高い住民、消費生活を謳歌する文化を持っている国でした。当然、列強の色分けは「市場」でした。 

ですから、「不平等条約」を結び、さらなる有利な条件として「改税約書」に調印させたのです。

 

イギリスとフランスは、「どちらが日本での主導権を狙うかで争っていた」というのも、実は錯覚です。

 

イギリス本国は、1850年代~1860年代にかけて、明確に「内政不干渉」の原則を日本に適用していました。

1863年、下関で長州藩が砲撃事件を起こしたときも、「日本との全面戦争」が起こることを極力回避しようとしています。翌年の下関戦争に関しても、実はイギリスは公使オールコックに中止命令を出していました。その命令が届く前に戦争が始まり、オールコックはその責任をとる形で、パークスと公使の交代を命じられています。

 

イギリスとフランスの195060年代は、世界史では「共同歩調の時代」なんです。

 

1853年のクリミア戦争で、イギリス・フランスは、オスマン帝国をめぐるロシアの南下政策に対抗していて、いわば同盟国。

むしろ当時、ロシアがイギリス・フランスの敵対国で、ロシアの使節プゥチャーチンは、日本でロシア艦船が英仏に捕縛されたり争ったりすることを恐れていました。

下関戦争の「四ヵ国」、関税率改定要求での「四ヵ国」に、ロシアが入っていない所以です。

世界史の知識があれば、この幕末のイギリス・フランスの行動は、なんの不思議もなく説明がつきます。

 

フランス公使ロッシュの前任者はベルクールで、彼は日仏修好通商条約(1858)調印以来、総領事などを歴任しています。61年から公使に昇格し、以来、イギリスの公使オールコックは常に共同歩調をとってきてました。

ヒュースケン殺害事件でも、イギリスとともに抗議行動をしていますし、薩英戦争の時の鹿児島攻撃もベルクールは支持しています。

イギリス人を殺傷した生麦事件の賠償交渉は、実はフランス海軍の軍艦セミラレス内でおこなわれていて、イギリス公使代理ニール・イギリス海軍提督キューパーの他、フランス公使ベルクール、フランス海軍提督ジョレスも同席しています。

 

日本史の教科書で、イギリスが、フランスが、と記されていても、ほとんどが単独ではなく、「英・仏」はもちろん「米・蘭」が加わった共同歩調が原則でした。

 

この時期、フランスもイギリスと同様、本国政府は、中国やヨーロッパでの紛争・外交(アロー戦争後の処理・イタリア統一の動き)から、極東アジアでの国際紛争をのぞんでおらず、本国政府はベルクールの日本での活動を抑制しようとしていました。そして、それが原因の一つとなって、ロッシュと交代になります。

 

つまり、イギリスもフランスも「共同歩調」・「内政不干渉」が本国政府の外交基調で、その方針を徹底するためにイギリスはパークス、フランスはロッシュを公使に派遣したのです。

 

「弱体化する幕府に援助を申し出てきたのはフランスだった。その理由は、イギリスが反幕府路線をとる薩摩藩や長州藩と接近したことによる。」(P264)

 

というのは、百田氏の想像でしかありません。

そもそも、援助を願い出たのはフランスではなく幕府のほうでした。

186412月8日、幕府はロッシュに製鉄所と造船所の建設協力を願い出ています。

翌年には横須賀造船所が着工されました。また、1865年には横浜仏語伝習所も設立しています。

ロッシュの幕府への接近は、知日家の通訳カションとその弟子で幕府側の役人塩田三郎の影響があったと思います。(カションは琉球や蝦夷地でのキリスト教布教の経験があり、箱館奉行とも良好な関係を築いていました。)

日仏修好通商条約の日本側の全権大使であった外国奉行水野忠徳とも面識を持ち、水野も日本語が流暢なカションに驚いています。

幕府側にけっこうコネを持っていたんですよね。

そのカションが帰国してしまった後は、フランス語の通訳が塩田三郎しかいなくなってしまい、どうしても幕府側とのつながりが深くなってしまいました。

 

「両国は『日本を開国させるという目的』では共通していたが、植民地獲得競争では常に対立していた。そのため日本での利権をめぐって水面下で争っていたのだ。」(P264)

 

という説明も、イギリス・フランスに対する百田氏の誤ったイメージでの説明にすぎません。

1858年の開国後、1864年の下関戦争を経て、改税約書調印、1866年まで、イギリス・フランスは共同歩調をとり、両国とも現地公使には不干渉・戦争回避を要求しつづけ、それにふみこむような態度を公使がとった場合は、オールコックもベルクールも交代させているのです。

「植民地獲得競争では常に対立していた」というのは、18世紀から19世紀初めのナポレオン戦争期、19世紀後半の帝国主義時代の話で、18501860年代はこれに該当しない時代です。

この時期、イギリスとフランスは「日本での利権をめぐって水面下で争っていた」という事実はありません。

 

さて、改めて、教科書の説明を見てください。

 

「この頃からイギリス公使パークスは、幕府の無力を見抜き、天皇を中心とする雄藩連合政権の実現に期待するようになった。薩摩藩は、薩英戦争の経験からかえってイギリスに接近する開明政策に転じ、西郷隆盛・大久保利通ら下級武士の革新派が藩政を掌握した。一方、フランス公使ロッシュは、あくまでも幕府支持の立場をとり、財政的・軍事的支援を続けた。」

 

パークスの説明では、「~期待するようになった」という表現、ロッシュの説明では、「あくまでも…」という表現が使われていますよね?

 

そうなんです。イギリスは、不干渉・局外中立を保ち、パークスは「期待していた」ことは当時の史料からわかりますが、具体的な肩入れはしていません。「期待していた」だけ。

 

「あくまでも」という表現は、実は1850年代以来のイギリス・フランス・オランダ・アメリカの姿勢、つまり「政府はあくまで幕府」、「外交交渉の対象はあくまでも幕府」という「従来の姿勢」を崩していない、という意味なんです。

 

いや、フランスは1866年に600万ドルの対日借款、さらに1867年に軍事顧問団も幕府につけているぞ、と指摘される方もおられると思います。

そうなんです。これは実は、ベルクールと同じく、ロッシュ個人のフランス政府の意向に反した「肩入れ」だったんです。よって、フランス本国政府は、600万ドルの借款を停止し、ロッシュを解任しているんですよ。

ただ、その解任の命令が届いたときには、鳥羽・伏見の戦いがすでに始まっていたときでした。

 

教科書の「意味ありげな」表現の理由には、それなりに意味があることなんです。

 

96】条約の勅許を得たとき、一橋慶喜は将軍後見職ではない。

 

「いずれにしても、この二つの賠償金によって、幕府の財政はさらに苦しいものとなった。欧米列強はそんな幕府の混乱に乗じ、条約に書かれた兵庫開港の遅れを理由に、慶応二年(一八六六)、幕府に改税約書に調印させる。」(P262)

 

まず、改税約書の経緯については、前にお話しいたしましたので、添付しておきますのでよければお読みください。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12435563481.html

 

さて、ちょっと不思議な説明がみられました。

 

「条約は安政五年(一八五八)に結ばれていたが、朝廷の勅許がなく、幕府はイギリスなどから勅許を求められていた。兵庫は京都に近いということで、朝廷が開港を認めなかったのだ。将軍後見職の一橋慶喜は、『朝廷が勅許を出さなければ、欧米列強が京都に攻めこんでくる。』と半ば脅しのような言辞で、勅許を取った。」(P263)

 

これ、いったい何の話でしょうか…

 

日米修好通商条約では、5つの港が開かれました。

そりゃ貿易をするんですから貿易港は必要です。しかも、やる以上は日本中でやりたい。よってグルっと日本を囲むように、北海道に一つ、日本海側に一つ、九州に一つ、瀬戸内に一つ、太平洋側に一つ…

条約では、「下田・箱()館に加えて、新潟・長崎・兵庫(神戸)・神奈川(横浜)、を開港する」と定められました。

小・中学生くらいだと、ついついこの条約締結と同時にこれらが開港されたと思いがちなんですが、開港時期は後年に設定されていました。

神奈川(開港後半年後に下田は閉鎖)・長崎は1859年。新潟は1860年。兵庫は1863年。

しかし、孝明天皇が、京都に近い兵庫の開港を断固として認めず、幕府は開港・開市の一部延期を求めて使節団を派遣しました(文久遣欧使節団)

イギリスは、これに応えてくれました。

覚書が交わされ、兵庫は1868年1月1日開港と決定されます。

 

ところが1863年に長州藩が無謀な砲撃事件を起こし、さらに翌年、下関戦争となってしまいました。多額の賠償金を支払うことになり、外交的に四ヵ国(米・英・仏・蘭)がいろいろな要求ができる環境ができてしまうのです。

イギリスは、賠償金よりも貿易の拡大のほうが、はるかに利益が大きいとソロバンを弾き、開港の2年前倒しを要求しました。

 

1865年、列強は艦隊を兵庫沖に派遣し、大坂城にいた将軍家茂に圧力をかけます。

これに対応したのが老中阿部正外と松前崇広でした。

列強の強い要求(直接京都に乗り込んで朝廷と交渉するという)に二人は屈して、無勅許で開港を決めようとしました。

これに待ったをかけたのが、京都から急ぎ駆けつけた一橋慶喜です。

 

「無勅許での開港は断じてならん!」

 

将軍家茂の前で、老中たちとの激論になりました。

 

「そんなことになれば、諸外国が京都に直接乗り込みますぞ!」

 

と、「半ば脅しのような言辞」を述べたのは老中たちです。

 

そして、このケンカを沈静したのは、なんと家茂。

老中たちと慶喜の激論に圧倒されて泣き出したそうです。

 

こうして慶喜が、とにかく勅許を得るまでの間、交渉を延期するべきだ、と主張し、若年寄を派遣して諸外国を説得させました。

こうして10日間の猶予を得て、この間、朝廷との交渉を進めることに成功します。

慶喜はこの間、孝明天皇の怒りをしずめるために苦労しています(孝明天皇は二人の老中の切腹まで要求しました)。

結局、将軍家茂の将軍辞職願と江戸への帰還の姿勢に驚いた孝明天皇が、条約の勅許と、以後の幕政への口出しをしないことを約束することになります。

勅許を得たものの、兵庫開港の前倒しだけは、孝明天皇は認めませんでした。

こうして、この見返りとして、改税約書を調印させられることになるのです。

(結局、兵庫開港の前倒しの話は無くなりました。)

 

これらの経緯は、

『幕末の将軍』(久住真也・講談社選書メチエ)

『長州戦争』(野口武彦・中公新書)

に詳しくて、おもしろいです。

また史料としては、

「陸奥国棚倉藩主・華族阿部家資料」(学習院大学史料館収蔵)

『白河市史・近世』(白河市)

などがあります。

 

「将軍後見職の一橋慶喜は、『朝廷が勅許を出さなければ、欧米列強が京都に攻めこんでくる。』と半ば脅しのような言辞で、勅許を取った。」

 

と説明されていますが…

そもそもこの時、一橋慶喜は将軍後見職ではありません。

 

1862年の文久の改革で、一橋慶喜は将軍後見職に任命されましたが、1864年、慶喜は「禁裏守衛総督」に任命され、同時に将軍後見職は廃止されています。

どうやら百田氏は、家茂が死去するまで一橋慶喜が将軍後見職だったと思い込まれていたようで、交渉は老中がおこなっていることをご存知なかったようです。

また、慶喜は「朝廷が勅許を出さなければ、欧米列強が京都に攻めこんでくる。」などという「脅し」を朝廷にかけたことはなく、老中阿部正外の言葉と混同されているのでしょう。慶喜は一貫して「兵庫の無勅許開港は認めない」という姿勢でした。

(ちなみに、慶喜が兵庫開港の勅許をとったのは15代将軍に就任してからの1867年6月で、このときは、孝明天皇はすでに崩御されています。)

 

「このことに薩摩藩は怒り、反幕府の意思を固める。」(P263)

 

という付加説明については意味不明です。

「このこと」とは、「勅許をとった」ことに対してでしょうか、それとも朝廷を「脅し」たことでしょうか。

ちなみに慶喜が兵庫開港の勅許を得たのは1867年6月ですから、薩長同盟もすでに成立していますし、とっくの昔に薩摩藩は反幕府の意思を固めていました。

1865年の条約勅許の話だとしても、第2次長州征討の前年ですから、すでに薩摩藩は密かに長州藩を支持する態度をとっていました。

 

徳川慶喜に対するお話しを以前させていただいたので添付しておきます。よければお読みください。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-11833645521.html

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-11834032316.html

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-11834862320.html