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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

95】水野忠徳による「小笠原領有をめぐる外交」を誤解している。

 

P260で、水野忠徳が取り上げられていてちょっとうれしかったです。

幕府の「良吏」は、もっと多くとりあげられてもよいな、と、個人的には思っています。

 

水野忠徳は「屏風の忠徳」と呼ばれていました。

屏風の後ろから「ささやいて」上役を支える…

なんだか大臣の答弁の後ろで、メモを渡す官僚みたいな感じで、この点、いつの時代でもよく似ているのかもしれません。

 

「彼は領土・領海の持つ価値と重要性を十分理解していた。だからこそ島に乗り込み、領有権を確保したのだ。」(P260)

 

と、説明されていますが、ちょっと「後世の近代的領土観」から彼の行動を説明しすぎだと思います。

まず、水野忠徳は「命じられて」小笠原に行きました。彼の意思で「島に乗り込んだ」わけではありません。

意思がないからやる気がなかったわけではありません。勘定奉行も経験していた水野は、「探検」はすなわち「検地」、つまりは測量ということをよく理解していました。そして小笠原の地図を作成します。

このことは領有を主張していたはずの他国がやっていなかったことで、これが後にたいへん大きな意味を持つことになります。

 

「…イギリス、ロシア、フランスの間を巧みに渡り歩き、列強同士の居住していた島だったにもかかわらず、その領有権を欧米諸国に認めさせたのは超一流の外交手腕である。この時、したたかな交渉を支えたのが通訳のジョン万次郎だった。」

 

とありますが、不正確な説明です。

ロシアは1828年にリュトケがセニャービン号で父島に来航しましたが、領有を宣言していませんし、居住もしていません。1853年にはプゥチャーチンが小笠原に立ち寄っていますが、「興味を示した」という感じです。

フランスは遙か前、1817年に、林子平の著した『三国通覧図説』の記載にある「無人(ぶにん)島」の地図をフランス・アカデミーに提出していますが、領土獲得の野心をみせてはいません。

 

「一八五〇年代には、ペリーが寄港してアメリカ人住民の一人を小笠原の植民地代表に任命している。同じ頃、イギリス、ロシアが諸島の領有権を主張、アメリカもフランスも領有権を主張する。」(P260P261)

 

と説明されていますが、ロシアとフランスは関係がありません。明治時代の話と混同されているようです。

 

当時の小笠原領有の問題の関係国は、イギリスとアメリカでした。イギリス人が南洋諸島の人々を連れて入植し、その後、「入植者」間の争いがあって、アメリカ人がリーダー的な存在になっていました。

ペリーが浦賀に来航する前に実は小笠原に寄っているんですが、ここに石炭供給基地などを設け、「島民」であったアメリカ人のリーダーを植民地代表に任命しました。

さて、この時、イギリスと一悶着がありました。

イギリスが小笠原の領有を主張したのです。ところがペリーは、平然と、「いや、ここは日本の領土だ。」と説明し、なんと林子平の『三国通覧図説』を示して国際法上、イギリスのものでもアメリカのものでもない、と主張してイギリスの領有権を退けたのです(このことは、ペリー自身が『遠征記』に記しています)。

 

イギリスは、案外あっさりと引き下がりました。

実はアヘン戦争前は、イギリスは小笠原を対中国貿易拠点としようと計画したのですが、アヘン戦争で1842年に勝利してホンコンを手に入れてからは、その戦略的価値を感じなくなっていたんです。

一方、ペリーは、小笠原領有を本国に打診しているのですが、アメリカでは政権交代が起こっていました。

ペリーを派遣し、国書を持たせた共和党のアメリカ大統領フィルモアは、大統領選挙で民主党のブキャナンに敗れたのです。

対外進出に積極的なフィルモアから、内政重視のブキャナンに政権が交代してしまい、この段階ではアメリカも小笠原諸島に興味を無くしていました。

 

1850年代、小笠原は「外交的空白地帯」となって、どの国も「実効支配」に至らなかったのです。

それが、クローズアップされるのは、通商条約の締結後です。

 

さて、水野忠徳は、小笠原へ出発する前に、イギリスとアメリカに小笠原を開拓する、という通告をしました。

 

イギリスの場合…

対応したのは公使オールコックでした。

当時、ロシア軍艦ポサドニック号が対馬の芋崎を占領する、という事件が発生していました。幕府は小栗忠順を派遣して対応させるとともに、イギリス側も軍艦を派遣して威圧し、ロシアを撤去させる、ということをして協力しました。

これが日本の小笠原への開拓を有利にする結果になったのです。

国際的に当時日本への領土的進出を控えようという空気が列強にありました。極東の対立が国際的対立へ発展することを避けて現状維持をしようという空気があったからです。(当時、ヨーロッパではクリミア戦争が終わり、アメリカでは南北戦争が起こり、中国ではアロー戦争後の進出を列強は模索しているところでした。)

対馬へのロシア進出を牽制しているのに、小笠原諸島にイギリスが進出するのは外交的に矛盾がありました。

ですから、オールコックは、水野に「イギリスは小笠原に領土的野心は無い」と回答したのです。

 

それからアメリカの場合…

対応したのはハリスでした。

当時、南北戦争中でもあり、本国に報告するから、回答は後日にする、と伝え、小笠原にいる住民の保護を要請しました。

 

つまり、「うまいタイミング」で小笠原に水野は行くことができたのです。

 

「イギリス、ロシア、フランスの間を巧みに渡り歩き、列強同士の対立を利用しながら、小笠原諸島の領有権が日本にあることを認めさせたのだ。」

 

というのは、誇張しすぎで不正確です。とくに「渡り歩いて」いませんし、「対立を利用して」もいませんし、「認めさせて」もいません。投げたボールをイギリスもアメリカもちゃんと返せなかっただけです。

 

ですから、「したたかな外交を支えたのが通訳のジョン万次郎だった。」と説明されていますが、ジョン万次郎の活躍の場は、列強との外交ではなく、現地での「住民への説明」でした。

 

アメリカは南北戦争中でしたし、イギリスも領土的野心は無い(つまり住民を保護しない)という状況です。

「幕府が責任を持って居住民を保護する」と、親身に友好的に説明した水野忠徳とジョン万次郎を、代表ナサニエル=セラヴァリーや住民たちがたのもしく思い、信用したのも当然でした。

とくに水野忠徳と同行した小花作助は住民たちと親しく交流し、その後も父島に残り、住民の世話を続けています。

 

この後、同じような開拓通告(領有通告)を、フランス・ロシア・ドイツなど駐日ヨーロッパ諸国の代表にもしたのですが各国は黙認することになりました(当時、外交で無回答は承認を意味します)。

 

こうして、列強に軍事力で劣る日本がとった「住民友好外交の手法」は、明治時代に、再びイギリスが小笠原の領有を主張したときにも有効に機能します。

 

生麦事件でイギリスとの関係が悪化し、幕府も内政問題(安藤信正の失脚や尊王攘夷運動の激化)などから小笠原開拓を中止し、日本人移民も全員引き上げてしまいました。

こうして明治維新をむかえてしまうのですが、島民がアメリカへの帰属を本国に要請し、イギリス公使パークスも、明治政府が小笠原を放置するならイギリス領とする、と通達してきました。

これはまずい、と考えた明治政府は迅速に反応します。

 

しかし、明治政府がとった方式は、イギリスのような軍艦派遣ではありませんでした。

小笠原「回収」のために派遣されたのは、「明治丸」という高性能灯台巡視船。

これに武器ではなく、ワイン・ウィスキー・ジンという酒類、それに大量の砂糖を積み込み、小笠原に出航させました。

明治丸を迎えたのはナサニエル=セイヴァリーの息子ホレースでした。

そして、明治丸に乗り込み、酒と食料を用意したのが、なんとあの小花作助でした。

彼は明治新政府で工部省の役人となっており、再び小笠原の地を訪れたのです。

ホレースは小花に父の死を伝え、「小笠原の恩人」を歓迎し、日本人との再会を喜びます。

 

その二日後、イギリスが軍艦で小笠原に乗り込んだのですが、住民の意思は日本への帰属でした。

こうしてイギリスは国際法にのっとり、「住民の意思」に基づく小笠原の日本領有を承認しました。

 

「奇跡の二日間」と呼ばれている逸話です。

水野忠徳・ジョン万次郎・小花作助が蒔いた平和外交のタネが開花した結果でした。

 

「彼は領土・領海の持つ価値と重要性を十分に理解していた。だからこそ島に乗り込み、領有権を確保したのだ。」という勇ましい説明は「水野外交」にはふさわしくありません。

小笠原の人々は、領土・領海ばかりに気をとられて軍事力にモノを言わせたイギリスよりも、そこに住む人々のことを親身に考えてくれた日本を選択してくれたのだと思います。

 

94】徳川慶喜の行動に一貫性が無い、勇気と決断力に欠ける、とは言えない。

 

P276P278にかけて「徳川慶喜という男」という項があります。

 

ここでも、「事実」よりも「想像」を優先された説明がみられ、いずれも明治維新期につくられた「幕府無能論」の枠組みの一つである「慶喜無能論」の影響を強く受けられていて、1980年代ころのドラマや小説に描かれた「慶喜像」で語られています。

 

「幕末の一連の事件の中での行動を見る限り、保身を第一とし、勇気と決断力に欠けた男に思える。」(P276)

 

あくまでも百田氏の「感想」です。ただ、前にも申しましたように、「否定」する場合は、やはり具体的な例を示された上でそう説明すべきで、

 

どのような時に、どのように「保身を第一」としたか

どのような時に、どのような「勇気と判断力に欠けた」行動をしたか

 

を、説明してほしかったところです。

こう言われてしまうと、ついつい「歴史弁護士」のようにふるまっちゃうのがぼくの悪いクセなのですが…

 

「天下を取り候て後、仕損じ候よりは、天下を取らざる方、大いに勝るかと存じ奉り候。」(『徳川諸家系譜』「水戸様系譜」より、父斉昭への手紙)

 

ありゃ… やっぱり保身の人なのか…

 

松平春嶽はこんな説明をしています。

 

「衆人に勝れたる人才なり。しかれども自ら才能あるを知りて、家定公の嗣とならん事を、ひそかに望めり。」(『逸事史補』)

 

どうなんでしょうか。慶喜さんご本人は、案外と将軍はしたくなかったのかも知れません。

 

「将軍職を固持したのも、火中の栗を拾いたくなかったからだ…」(P276)

 

と説明されていますが、これは実は史料がほとんどなく、固持した理由は現在のところ不明です。よってこのように断定してしまうのは誤解をまねきかねません。

 

「勇気と決断力に欠けた」というのも、1864年7月に起こった禁門の変(蛤御門の変)の戦いぶりをみると、明らかに不当な評価です。

御所守護軍を直接指揮し、長州がたてこもった鷹司邸への攻撃では、自ら白兵戦を

展開しています(その時、狙撃されて負傷しています)。

以後、尊王攘夷派に対する姿勢を改め、桑名藩・会津藩との連携を深めていきます。

これを背景として、「通商条約の勅許」を朝廷に迫りました。

長州藩に代表される安易な「攘夷」は、かえって「国体」を危地に陥れるものである、という、むしろ慶喜の尊王の強い意志を感じるところです(申し出が受け入れられない場合は「切腹」を示唆していました)

慶喜の「一貫性の無さ」を非難するなら、長州藩の「右往左往」ぶり、薩摩藩の「公武合体」から「倒幕」への「変節」も同程度に非難すべきでしょう。

 

慶喜の「敵前逃亡」は、確かによく言われることです。しかし、鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩軍に「錦の御旗」があがった段階で、諸藩の裏切りが続きました。

大坂城に立てこもっていても「次」の展開が見えないばかりか、包囲の危機にさらされます。幕府軍といっても、現状は諸藩の連合軍でしたから、むしろ「勇気と検断力」が必要な行動だったともいえます。

 

「大政奉還をあっさり受け入れたかと思えば、その後、家臣たちに押されて『討薩の表』を出したり…」(P276)

 

と説明されていますが、「大政奉還」は、「大政奉還」だけのプロジェクトではありませんでした。その後に、諸藩の連合をつくり、慶喜はその議長となってその後の政治も主導していく、という意図があっての、言わば「幕府の発展的解消」のはずでした。

それが「慶喜」抜きのクーデターともいえる「王政復古の大号令」によって覆されたのです。

「討薩の表」は漢文ですが、お読みになられたことがあるのでしょうか。

「朝廷の命を受けて上洛し、薩摩藩の非道を糺します。帝をとりまく奸臣どもを引き渡してください。誅戮を加えたいと思います。」というものです。

「大政奉還」と「討薩の表」は何も矛盾したものではありません。

 

「勝の非戦論は日本の将来を見据えたものだが、慶喜の場合は単なる怯懦であろう。」(P276)

 

という説明も、あまりに一方的です。

勝海舟の「評価」は、史実に基づいて、以前とは異なる評価がされるようになっています。

勝海舟についての「評価」は以前にまとめたことがあるので添付しておきます。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-11940400921.html

 

さて、不思議なのは徳川慶喜に対する百田氏の評価の低さです。いや、それは百田氏の勝手だ、というのはわかっているのですが、「不思議」というのは次の点です。

 

「しかし忘れてならないのは、小栗を重用し、存分に力をふるわせたのが徳川幕府であったということだ。近代化を成功させた明治政府に対して、『徳川幕府は頑迷固陋の体質を持っていた』と語られることが少ないが、必ずしもそうではない。徳川幕府もまた押し寄せる欧米列強の脅威を前に、懸命に近代化を進めていたのだ。」(P259)

 

と、説明されているところです。

この「小栗を重用し、存分に力をふるわせた」のは徳川慶喜だ、ということです。

百田氏が小栗忠順の「業績」として説明されている、横須賀製鉄所の設立、軍制の改革、「幕藩体制を改めて中央集権体制へ移行」(P259)することなど、一連の「慶応の改革」は、徳川慶喜が進めさせた「改革」なんです。

「小栗を重用し、存分に力をふるわせたのは『徳川慶喜』であった」と説明できる部分なんですよ。なのにどうして慶喜の評価が低いのか… 少し矛盾を感じました。

 

「勝の非戦論は日本の将来を見据えたものだが、慶喜の場合は単なる怯懦であろう。」(P277)

 

という説明がされていますが、 むしろ慶喜の「非戦論」によって、幕府の近代化の成果が温存された、と考えるならば、慶喜の非戦論は「単なる怯懦」とはいえず、むしろ「日本の将来を見据えた」決断であったともいえるはずです。

 

さて、「水戸家」について、も誤解に基づいて説明されています。

 

「水戸家」は御三家でありながら、尊王思想の強い藩であった、とありますが、実は徳川の御三家は、比較的朝廷との関係が良好で、水戸家にかぎらず「尊王」「親朝廷」の傾向がありました(尾張徳川家の徳川宗春のことは以前にお話ししました)

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12432652195.html

 

「また水戸家は幕府にとっても特別な家で、三百諸藩のうち、水戸藩士だけが定府(国許に帰らず、常に江戸屋敷に滞在)を命じられてきた。もしかしたら、幕府は水戸家の謀反を恐れていたのかもしれない。」(P276)

 

というのは完全に誤解です。

江戸定府を命じられていた藩は水戸藩だけではありません。「御三家の中では」と言うべきでした。(江戸定府大名は実はけっこうたくさんあります。)

「謀反を恐れていた」ということに関してはまったくの誤りです。

藩祖の頼房は、1603年に伏見城で生まれ、なんと3歳で大名になっちゃいますが、まだ幼少、家康が駿府からしばらく手放さなかったこともあり、領地はあるけど、就藩しない、という時期が長く続きました。しかも1636年まで、「徳川」姓は与えられていません。

そして2代秀忠は、子の家光に歳が近い頼房を、言わば家光の「ご学友」として近くにおいたことにより、これが慣例となって江戸定府となっただけです。

 

ところで、「水戸学」というのは、尊王思想ではありますが、幕府は天皇から大権を委任されている、という思想で、よって幕府の執政を正当なものとする、という思想なのです。

「徳川本家と朝廷が争うならば、朝廷に味方する」(P277)というのはネット上でよくみられる説明ですが、原文にもとづいた説明ではありません。

 

出典は『昔夢会筆記』だと思うのですが、

 

「…もし一朝事起こりて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことあらんか、我等はたとえ幕府に反くとも、朝廷に向いて弓引くことあるべからず。」

 

が原文です。「朝廷に味方する」ではなく「幕府の命に反しても朝廷とは戦わない」という意味だと思います。

 

幕府は朝廷から大権を委任されている、幕府の命に反しても朝廷とは戦わない…

「大政奉還」も「新政府に恭順」も、水戸学の思想及び父斉昭の遺訓に即した行動で、その意味では慶喜の「行動にまるで一貫性がない」(P276)、どころか、むしろ「頑なまでの一貫性」があったと思います。

 

「現代のように工科大学や理学部で専門教育を受けた人々ではない。にもかかわらず懸命に勉強して、ついに当時の最高のテクノロジーに追いついたのだ。」(P255)

 

職人には、工科大学の知識や専門教育はとくに必要ではありません。「熟練技術」は室町時代以来の産業の発達に加え、「鎖国」による保護貿易(当時の国際環境を含めて)の中で、極度に成長してきました。

よって金属加工、工芸細工、鋳造技術などはすでに高い水準にありました。

この下地があったからこそ、欧米の技術に接しても吸収・転用が可能でした。

だからといって、「当時の最高のテクノロジーに追いついた」わけではありません。

やはり、1880年代の殖産興業を待たねばなりませんでした。

「佐賀のアームストロング砲」も、アームストロング砲を手本に「自前に」製造したものであって、アームストロング砲そのものではありませんでした。

蒸気機関も「作った」といってもいわば「模型」のレベルで、武器も動力も、結局は輸入品の「転用・活用」です。

 

「日本独自」「日本で初めて」「世界の中でも」などなど、百田氏は日本の「特殊性」「独自性」を強調されるのが好きですが、誤解されているものが多々あり、これらの説明はむしろ無かったほうがよかったと思います。

かえって誤りやその方面での説明の甘さを露呈してしまい、その他の記述の信用性を著しく低下させ、説得力を失ってしまうからです。

 

「…日本で初めての株式会社である『亀山社中』を作った龍馬は…」(P263)

 

という部分でも、誤った内容を含んでいます。『亀山社中』は「日本で初めて」の株式会社ではありません。

おそらく、「総合商社」あるいは「貿易商社」と言いたいところを誤って説明してしまったのではないでしょうか。

龍馬は、グラバーなど早くからイギリスなどの商人との接触をおこなって取引をしていました。「商社」という概念を、経験で理解していたようにも思います。

ただ、私は、「商社」ですらないと思っています。

むしろ、現在の組織に単純におきかえられないもので、「私設海軍学校」「貿易商」「政治結社」の融合体のようなものでした。

下手な比喩よりも、ありのままの活動実態を並べて説明したほうがよかったように思います。

 

P257から「小栗忠順」の紹介がされていますが…

 

「意外に知られていないが、幕府もまた近代化に懸命に取り組んでいた。」(P257)

 

と説明されています。

「意外と知られていない」ということはまったくありません。そもそも今の教科書の章立ては、ペリー来航から「近代」です。

老中阿部正弘は、台場の建設、蕃書調所、海軍伝習所などをつくる「安政の改革」に取り組み、以後、幕府の「近代化」を進めていて、これらはすでに(10年以上前から)教科書にあきらかにされています。

それだけでなく、「文明開化」についても幕末からすでに開始されている、として「幕末の科学技術と文化」という単元が設けられています。

これらは「意外」でもなければ「知られていない」ことでもありません。

これは他の箇所でも言えることですが、現状の高等教育における日本史教育を少し調べてから記述されたらよかったのに、と残念に思います。

93】鍋島直正が近代化を図ったのはフェートン号事件で味わった屈辱からではない。

 

「直正がこれほどの情熱を持って西洋の技術導入を図ったのは、文化五年(一八〇八)のフェートン号事件で味わった屈辱からだった。軍事力がないばかりにむざむざとイギリス船に鼻であしらわれ、藩の家老が何人も切腹させられたことから、西洋に対抗するには近代的な科学技術が不可欠だと考えたのだ。」(P253)

 

「事実」よりも「想像」を優先させた説明です。

鍋島直正は、1815年生まれで、フェートン号事件が起こった時(1808)はまだ生まれていませんので、そもそもフェートン号事件で屈辱を味わえません。

鍋島直正の近代化は、「軍事力がないばかりにむざむざとイギリス船に鼻であしらわれたこと」がきっかけではもちろんありませんでした。

 

鍋島直正の近代化は、はるか後年の話。

それまでは、「軍事力」どころか「経済力」の立て直しに力を注いでいました。

 

少年藩主に影響を与えた人物がいます。それが、

 

古賀穀堂

 

です。穀堂は儒学者古賀精里の息子で、直正が6歳の時から御側頭として学問を教えました。

穀堂はとくに医学と蘭学の大切さを直正に説きました。直正が西洋技術に興味を持つことになったのは穀堂の影響です。

 

「文政十三年(一八三〇)、十五歳の若さで藩主となった直正は、まず破綻していた財政を立て直すため、役人を五分の一に削減し、磁器・茶・石炭などの産業振興に力を注ぎ、農民には小作料の支払いを免除し、農村を復興させた。」(P253)

 

と書かれていますが、十五歳の若さでこれらの改革を進めたのではありません。

 

「役人を五分の一に削減し…」とありますが、これはインターネット上の説明(Wikipedia)などではよくみられますが誤りです。

直正が整理した人員は400人ほどですから、全体の3分の1「を」削減しました。

「五分の一『に』削減」ではなく「五分の一『の』削減」ならまだわかるのですが…

 

「農民の小作料の支払い免除」(免除ではなく実は10年間の猶予)は、藩主になってから12年後の改革です。農村の復興は1850年代に成果が出ます。

 

「そして苦労の末についに西洋の最新式の大砲、アームストロング砲を日本人の手だけで完成させた。」(P253)

 

これ… 実はちょっと微妙なんです。司馬遼太郎の小説『アームストロング砲』を始め、『花神』の影響でこの話が広く流布されてしまいましたが、この時の大砲は、アームストロング砲というよりも、アームストロング砲から学んだ「佐賀砲」ともいうべき大砲なんです。

1860年代以降、アメリカでの南北戦争で武器がだぶつくようになると、中古武器が日本に大量に出回るようになりました。最新式の武器輸出は制限されていましたが、中古のアームストロング砲は、日本にも輸入されます。

佐賀藩は「独自の」大砲技術の開発を進めていたため、アームストロング砲の扱いにどの藩よりも習熟していました。

また、オランダ陸軍少将ヒュニンゲンの著書『大砲鋳造法』を入手して翻訳させています。

うまいぐあいに、直正の妹は、松江藩に嫁いでいて、松江藩は当時砂鉄の産地…

大砲製造の鉄もうまく融通してもらえるネットワークも確立していました。

 

幕末のアームストロング砲については、司馬遼太郎が説明しているようなものではありませんので「アームストロング砲を日本人の手だけで完成させた」とあまり強調しすぎないほうがよいところなのですが、大砲技術については、佐賀藩が秀でていたことは確かで、実際に当時の最新式の大砲が佐賀には装備されていました。

(ペリーを浦賀から長崎へ回航させようとした理由に「長崎に回して佐賀に打ち払わす」という計画もあったくらいです。)

 

「西洋の蒸気機関は同じ頃のアジアやアフリカの諸国民も見ているが、これを作り上げた国などどこにもない。」(P254)

こういう説明、百田氏はお好きなようですが、やはりこういう比較は、それぞれの発展段階をふまえて理解すべきだと思います。

「鎖国」を通じて、日本は国内産業が発達し、西洋の技術を再現する能力・経済力に達していたからこそできたことです。当時の職人や学者の努力には敬意を払えますが、平安時代や鎌倉時代に蒸気船を見ていても造ることはできませんでした。

その発達段階に無い国や地域の人々と比較するのは、あまり誇れる話ではありません。

 

「慶応元年(一八六五)、ついに日本で初の実用蒸気船『凌風丸』を完成させている。実際の蒸気機関を見たこともないのに、本と図面だけで同じものを作り上げたのだ。」(P253)

 

佐賀藩は、長崎の警備もしていますし、直正自身も、長崎に入港していた外国の蒸気船に乗っています。1853年のプゥチャーチンの長崎来航も佐賀藩士たちは知っています。学者や職人たちも長崎にはよく訪れていますし、「実際の蒸気船を見たことも無い」のに作り上げたわけではありません。

 

ところで、鍋島直正の近代化に必要な「資金」はどこから得ていたのでしょうか。

藩の財政を回復して、反射炉や大砲、蒸気船の製造ができたのでしょうか。

 

「この精錬方の事業には、膨大な費用がかかり、藩の重臣は経費節減のため廃止を主張し始めるが、直正は『これは自分の道楽だから制限するな』と言って、諦めずに研究開発を続けさせた。」(P243)

 

これは、史料的には確認しにくい逸話です。

実は、直正は、「打ち出の小槌」を持っていました。

鍋島直正は、当時の名前は、「直正」ではなく、「斉正」です。

これ、11代将軍家斉から一字を賜った名前…

彼の妻は、家斉の娘で、直正は妻の実家からお金を借りて、改革の費用としたのです。

徳川家から借りた金がなんと10万両。

つまり、幕府が「資金を出すから佐賀藩に長崎の海防は任せるね」、て、海防業務を委託されていたのです。

直正はけっして「道楽」で改革を進めていたのではありませんでした。

 

それにしても、カネとコネ、うまく直正は活用していました。

 

実は、わたし、鍋島直正のこと、けっこう好きなんです。

以前に直島の話をまとめたので、添付しておきます。よければこちらもお読みください。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-11827417457.html

 

 

 

92】高杉晋作を「魔王のようだ」と評したのはオールコックではない。

 

幕府のことを「右往左往」と評するならば、長州藩のほうが幕末、はるかに「右往左往」していたと思います。

にもかかわらず、長州藩の「右往左往」ぶりには言及がみられません。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12435226424.html

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12433912416.html

 

攘夷論は、大きく二つに分けられます。これは私の個人的な感覚ですが…

 

「科学的攘夷」と「空想的攘夷」

 

「科学的攘夷」は、いきなり近代的な諸外国を打ち払うのは無理。よって、まず近代化を図って富国強兵を進め、もって外国の侵略を阻止する。そのための方便として開国・通商を進める。佐久間象山などが明確にこの考え方を示していると思います。長州藩では長井雅楽などの考え方です。

 

「空想的攘夷」は、「鎖国」は国の祖法、日本が外国の脅威に屈するわけにはいかない。ゆえに外国人を排斥し、場合によっては「異人切り」も含めて諸外国を打ち払う、というもの。久坂玄瑞、高杉晋作、そして桂小五郎も最初はこの考え方でした。

 

実際、当時は前者を「大攘夷」、そしてその立場から批判的に後者を「小攘夷」と説明しています。

 

ペリーの来航、開国、さらにはハリスとの交渉、無勅許通商条約調印は、「小攘夷」を中心とする尊王攘夷論を沸騰させました。

井伊直弼は、「安政の大獄」を展開し、長州藩の吉田松陰も巻き込まれてしまいます。

これに対して、長井雅楽は、「開国し、外国の技術を導入し、よって富国強兵を図る」という「大攘夷」を藩論としました。

これを「航海遠略策」といいます。

 

しかし、久坂玄瑞と前原一誠がこれにキレます。

そして長井雅楽暗殺計画を進行させました。

長井は、当時の幕府の老中で「公武合体」を進める安藤信正・久世広周と接近し、長州藩を「大攘夷」でまとめようとしました。

しかし、坂下門外の変が起こると、久坂玄瑞・桂小五郎らの攘夷論が盛り上がり、都の貴族、岩倉具視と久坂玄瑞が手を組み、「大攘夷」論は朝廷を軽んずる考え方である、として長井は失脚することになります。

 

こうして藩論は、条約破棄・攘夷の考え方に大きく舵を切ることになりました。これを「破約攘夷論」といいます。

「小攘夷」派は、ただちに攘夷を決行しました。

1863年5月10日、馬関海峡を航行中のアメリカ・フランス・オランダの艦船を無通告で砲撃する暴挙に出ます。

6月、アメリカが報復に出ました。

南北戦争中で、大規模な軍事行動には出られませんでしたが、南軍の軍艦を追いかけてきていた北軍の軍艦ワイオミングが横浜に来航していたので、アメリカはこの軍艦を用います。

下関砲台の射程外から下関港を砲撃し、庚申丸を撃沈、癸亥丸を大破しました。

 

「…アメリカ軍艦が報復に来て、長州の軍艦を撃沈し、下関の町を砲撃した。」(P251)

 

と説明されていますが、撃沈されたのは庚申丸で、ワイオミングは「下関の町」ではなく「下関港」を狙って砲撃しています。

 

ところが、これでも長州藩は懲りずに、馬関海峡を通過する外国船を砲撃するかまえを崩しません。

諸外国、とくにイギリスは、幕府に対して、国際法に完全に違反している長州藩を処罰するように要求し、あわせて賠償金も請求しました。

しかし、幕府が依然として処罰できないことに業を煮やした四ヶ国は、長州藩を直接攻撃することにしたのです。

ですから、

 

「列強によるこの襲撃は、攘夷の急先鋒であった長州藩に西洋の力を見せつけ、攘夷が不可能であることを示す目的もあった。」(P251)

 

という説明は百田氏の推測にすぎません。そのような目的をイギリスも他国も説明していません。イギリス公使オールコックははっきりと、「幕府が長州藩を処罰しないから」と明言しています。

 

こうして四国艦隊による攻撃を受け、長州藩は、ほぼ軍事的に無力化されてしまいました。

長州藩の講和使節は高杉晋作でしたが、イギリス側の通訳アーネスト=サトウの記録によると、高杉晋作はイギリス側の要求をすべて受け入れた、とされています。

 

「驚くべきは、五十五歳のイギリス公使、ラザフォード=オールコックと交渉した高杉が満二十四歳であったことだ。この時、オールコックは高杉のことを『魔王のようだった』と評している。」(P252)

 

これは、いったい何の話のことでしょうか。

四国艦隊の旗艦ユーライアスに高杉は乗船して「談判」するのですが、相手は司令官レオポルド=キューパーでラザフォード=オールコックではありません。

オールコックが「魔王のようだ」と評している、とされていますが通訳のアーネスト=サトウと誤認されていると思います。

「ルシフェルのように傲然としていたが、イギリス側の要求はすべて受け入れた」(「ルシフェル」を魔王と訳してよいかどうかは微妙なところですが)と記録しています。

 

さて、1863年から1864年の説明を時系列に沿って整理させていただきますと、

 

1863年5月 長州藩外国船砲撃

   7月 薩英戦争

   8月 八月十八日の政変

1864年6月 池田屋事件

  7月 禁門の変・第1次長州征伐

   8月 四国艦隊下関砲撃事件

 

ということになるのですが…

 

「八月十八日の政変」の説明が抜けています。

 

5月に攘夷を実行した長州藩は、朝廷や薩摩藩から危険視され、攘夷派公家とともに京都から追放されました。

この後、新撰組によって京都に潜伏していた長州藩士たちが捕縛され、池田屋事件となります。これを不服に思った長州藩は、兵を率いて京都に攻め上り、禁門の変となりました。

久坂玄瑞などはこの時に戦死し、幕府も長州征伐を決定します。

そして8月に四国艦隊の攻撃を受けることになります。

 

まさにこの二年間に長州藩は大攘夷、小攘夷、大攘夷と藩論を「右往左往」させたあげく下関戦争で多額の賠償金を要求され、しかもそれは幕府が支払うことになり、結果、その支払いの滞りを理由にして1866年に「改税約書」に調印させられることになります。

それまで「不平等」じゃなかった通商条約が「不平等」なものにかわり(関税が20%から5%に引き下げられ)、日本は経済的に大きな損失を受けることになるんです。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12435563481.html

 

薩長を中心とする明治新政府は、たくみに、過去の自分たちの「失敗」を幕府の責任にすりかえてこの時期の説明をするようになり、戦後も1990年代くらいまでその枠組みで説明されてきました。

 

「彦島租借拒否」の話も、そもそもこの「談判」では出されていません。

確かに、交渉前の四ヶ国側の覚え書きには「賠償金が支払われるまでの担保として彦島をおさえては?」という記録があるようですが、伊藤博文が回顧している「租借」という概念は1870年代以降(アジアにおいては日清戦争後)の考え方です。

イギリスの要求を全面的に受け入れた屈辱的講和の「罪悪感」を緩和するためにつくり出されたフィクションであるか、伊藤博文の「記憶の混同」のどちらかです。