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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

 

91】「戊午の密勅」の意味を間違えている。

 

「水戸藩主の徳川斉昭ら幕政改革派(一橋派)は一橋慶喜を推したが、大老の井伊直弼ら幕府保守派(南紀派)が推す紀伊徳川家当主の慶福(家茂)が継嗣となった。家茂は将軍となったが、政治の実権は引き続き大老の井伊直弼が握っていた。」(P238P239)

 

と説明されていますが、一橋派が「幕政改革派」で、南紀派が「保守派」という分類はしません。斉昭は「改革派」でしょうか。井伊直弼は「保守派」でしょうか。

政治信条的には、斉昭は攘夷を志向していましたし、井伊直弼は開国・通商派で、しかももともと無勅許反対派でもありました。

「一橋派」「南紀派」というのは、将軍の継嗣問題における派です。

 

「尊王攘夷の志士たちが京都に集まり、井伊直弼を打倒するための謀議に及び、孝明天皇は、井伊直弼を排斥する密勅(天皇が出す秘密の勅命)を水戸家に下した。これを知った井伊直弼は密勅に関係した人物や、自分の政策に反対する者たちを次々と処罰していく。これを『安政の大獄』という。」(P239)

 

まず、「戊午の密勅」を誤って理解されています。

「密勅」は別に「秘密の勅命」ではありません。関白の参内無し(関白を通さず)に出すものです。(また関白の添え書き付きで幕府にも「遅れて」届きました。)

内容は漢文ですが、百田氏はお読みになったことがあるのでしょうか。

「井伊直弼を排斥する」内容は書かれていません。

 

内容は、「勅許を得ずに調印したのはけしからん、理由をちゃんと説明せよ」、ということ、それに「御三家やその他の藩は一体となって幕府に協力せよ」、そして「幕府は攘夷をおこなう体制改革をせよ」、ということです。

井伊直弼を排斥せよ、など一言も書かれていません。(「公武御合体」という表現もみられます。)

 

それから、「安政の大獄」は、「戊午の密勅」があってから始まったのではありません。さらに厳しくなった、と説明するべきです。

「安政の大獄」は、無勅許調印、将軍継嗣問題で「不時登城によって御政道を乱した」理由で、徳川慶勝・松平慶永・徳川斉昭らを隠居・謹慎させたことから始まります。

(吉田松陰は、事情聴取の際に、老中暗殺計画を自身で「暴露」したことから刑を受けることになりました。)

 

桜田門外の変についても「俗説」に触れられています。

 

「この時、彦根藩の行列には護衛の藩士が六十人いたとされるが、わずか十八人の刺客に藩主の首をとられている。」 

「当日は季節外れの雪で、彦根藩の侍たちは刀の柄に袋をかぶせていたために抜刀するのに手間取った…」」

「そもそも雪から守るために柄袋をかぶせるなど、何のための刀かという、間抜けな話だ。」(P240)

 

ちなみに当時の大名行列の伴の武士たちは、天候にかかわらず、「柄袋」をつけています。

雪から守るために柄袋をしていた、というのは俗説です(昔、ドラマの『花の生涯』でそのような「演出」がみられました)

また、護衛の藩士は60人ではありません。26人が護衛の藩士で、他は小者・足軽で彼らは武器を持たない荷物運びでした。「襲撃と同時に少なくない藩士が逃走した」というのは小者・足軽のことです。

不意打ちで、しかも銃撃され、雨具に身をつつんで動きがとりにくい状況でしたから、18人と26人ならば、藩主を打ち取られても仕方がありません。

 

以下は細かいことが気になるぼくの悪いクセ、ですが…

 

「新たに老中になった安藤信正(磐城平藩主)と久世広周(関宿藩主)は、早急に幕府の威信を回復させなくてはならなかった。」(P241)

 

とありますが、安藤信正も久世広周も「新たに老中になった」のではありません。

安藤信正は桜田門外の変の前から老中ですし、久世広周は「再任」です(阿部正弘が老中のときに老中をしていた)

 

ちなみに安藤信正が、「坂下門外の変」で幕府の威信を低下させた理由で罷免された、というのは表向きの理由です。変後も、外国公使と面談などし、政務を執っていましたが、女性問題や収賄容疑で責任をとらされました。

90】日露和親条約で「北方四島の帰属」が決まったのではない。

 

ロシアの提督プチャーチンが下田に現れた折、安政大地震が起きた。下田の町は津波で壊滅状態となり、ロシアの黒船も壊れた。この時、ともに被災した伊豆の人々とロシアの乗組員は協力して被災者救助にあたり、その後、日本側がロシア側に帰国のための新しい船を造って寄贈しようということになった。」(P237)

 

「ディアナ号事件」の説明が不正確です。

 

以下西暦表記で説明しますと。

 

1854123日、プゥチャーチン(現在はこう表記します)が下田に入港します。

三日後、日露和親条約の交渉が開始されました。

ところがこの交渉中の1223日、安政・東海大地震が発生します。

ロシアの乗組員と、船医が下田の被災者救援と治療に協力し、幕府は謝意を示しました。

11日から交渉は再開されます。

一方、被災したディアナ号ですが、プゥチャーチンは幕府に修理の協力を依頼し、その結果、伊豆の戸田村で修理をすることが決まり、下田港からディアナ号は出港します。

ですから「帰国のための新しい船を造って」というのは、この段階の話ではありません。

戸田へ向かっていた航行中の115日、ディアナ号は強風にあって浸水し、航行不能に陥って、そこで沈没してしまいました。

プゥチャーチンは、幕府に船の建造の許可を幕府に求めます。

そこで、ロシア人の指揮・監督のもと、ディアナ号から沈没前に持ち出された設計図を用いて船が再建されることになります。

こうして伊豆の船大工が集められ、日本の木材・塗料を用いて帆船が建造されることになりました。

 

江戸太郎左衛門(英龍)は、ヨーロッパの帆船技術を学べる絶好の機会と考えて、技術の習得をおこないました。

 

さて、細かいことが気になるぼくの悪いクセ、なのですが。

 

「当時、伊豆の代官だった江川太郎左衛門は、長崎で海防を学び、後に江戸湾に国防のための洋式砲台(現在のお台場)を設置した先進的な人物だった。彼は幕府にかけあい、腕利きの職人や資材を伊豆に集めた。」(P237P238)

 

当時、江川英龍は、勘定吟味役で海防掛でした。幕府にかけあったのではなく、幕府から命じられて、勘定奉行川路聖謨とともにロシア船の建造に協力することになります。

 

建造の協力の経緯なのですが…

日本が資材と作業員(船大工)を提供し、その代償として完成した船はロシアに帰国後、日本に譲渡する、という「契約」でした。

「帰国のための新しい船を造って寄贈しようとなった。」(P237)という話ではありません。むしろ話は逆で、「造ることを協力してくれたら、帰国後、日本に寄贈する」、というような話なんです。

 

「この後に行なわれた日露の交渉によって、北方四島は日本の領土と定められたのだ。」(P238)

 

これは重大な誤りを含んでいると思います。

 

まず、先に小さい部分から説明しますと。

ヘダ号の建造後に日露の交渉が行われたのではありません。

ディアナ号が沈没する前に交渉は再開されており、代船(ヘダ号)の建造中の27日に日露和親条約は締結されています。

ヘダ号が完成したのは426日です。

 

それからこれが重大な誤りなのですが。

日露の交渉で北方四島が日本の領土と定められたのではありません。

国後・択捉・歯舞・色丹は、すでに日本の領土でした。

日露の国境が、択捉島と得撫島の間である、と日露和親条約で定められただけです。

「北方四島の帰属を決めた」(P238)のではなく、「日露の国境を画定した」の誤りです。

「日露の交渉」で「北方四島の帰属を決めた」、なんて話が日本側の認識である、と思われたならば、誤ったメッセージをロシアに伝えることになります。

日露の交渉の「前」から「北方四島は日本のもの」であったがゆえに、択捉と得撫の間に国境線が引けたのです。

ロシアが『日本国紀』を手にとって、「何十万部も売れているのだから日本人の多くの認識はこういうことだろう。この本に、こう書いてある。安倍首相も読んでいるし、北方四島は1855年の日露の交渉で決まったものだ。」なんて主張されたらたいへんです。

ロシアは無関係で、「日本はロシアより早く、北方四島(択捉島・国後島・色丹島及び歯舞群島)の存在を知り、多くの日本人がこの地域に渡航するとともに、徐々にこれらの島々の統治を確立しました。1855年、日本とロシアとの間で、全く平和的・友好的な形で調印された日魯通好条約(下田条約)は、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の国境をそのまま確認するものでした。」(外務省HP・「北方領土問題とは?」より)

 

P237P238のコラムで安倍晋三首相とプーチン大統領の話が出てきています。

安倍首相は、「ヘダ号の絵」を通じて日ロ友好・協力に思いを馳せようというメッセージを込められたことは確かでしょうが、「北方四島の帰属を決めた歴史に思いを馳せよう」というメッセージを込められているはずがありません。

何度も申しますが、「北方四島」は1855年以前から日本の固有の領土です。日露の交渉で決まったのは「択捉とウルップ島の間が国境である」ということだけです。

もう何十万部も日本中に出回ってしまっています。

多くの読者が「北方四島の帰属が日露の交渉で決まった」「日露の交渉によって、北方四島は日本の領土と定められたのだ」と誤って理解しないように一刻も早く訂正してほしい部分です。

 

89】「不平等条約」の不平等を誤解している。

 

ハリスと結んだ日米修好通商条約は不平等条約ですが、これに関してもたいへん誤解されています。

 

まず、一般に不平等の内容ですが、大きく二つのことがあげられます。

 

一つは「領事裁判権」を認めていた、ということ。

もう一つは「関税自主権」が無い、といこと。

 

「『領事裁判権を認める』とは、アメリカ人が日本で罪を犯しても、日本人が裁くことができないということだ。極端なことをいえば、アメリカ人は日本で犯罪をやり放題ということになる。」(P235)

 

この解釈は誤っています。

条文を正確に読むとわかりますが、「アメリカ人の犯罪には、アメリカ人の法律が適用される」、ということです。

百田氏は、アメリカ人が日本で犯罪をした場合、アメリカ領事はアメリカ人を無罪にするとでも思っているのでしょうか。

アメリカ人が窃盗を犯せば、日本の公事方御定書が適用されるのではなく、アメリカの刑法が適用される、というだけのことです。

(参考・『近世の日本において外国人犯罪者はどのように裁かれていたか』荒野泰典より)

アメリカにせよイギリスにせよ、日本で自国人が罪を犯すことがないよう、かなり厳格に在留外国人には徹底していましたし、生麦事件のときもイギリス領事は居住民が報復しないように厳に戒めています。

 

それから「関税自主権」や「貿易」に関する説明も、誤っています。というか1866年の段階の話と混同されています。

 

「この時決められた関税率は、輸入品には平均二〇パーセント、輸出品には五パーセントというものだったが、輸出品の関税が低かったのはアメリカが日本の生糸を大量に買いたかったからである。」

 

と説明されているのですが…

関税は、ふつうは相手国とは相談なく、自国で決定できるものです。

「関税自主権がない」というのは、協定関税、つまり関税を話し合いで決める、ということです。一方的にアメリカが決めたことではありません。

実は、1858年の段階では、「関税自主権がない」ことはとくに問題ではなく、同じころ、中国が締結した天津条約の輸入関税は5パーセントでしたから、当時の国際水準からいえば不平等どころかたいへん妥当なものです。

「輸出品の関税が低かったのはアメリカが日本の生糸を大量に買いたかったからである」と説明されていますが、これ、日本が生糸を輸出すれば、幕府に関税収入が入るしくみができた、というだけのことです。

この輸出関税5パーセントのおかけで、アメリカが生糸を買えば買うほど幕府は儲かり、実際、1864年の幕府の関税収入は174万両におよびました(幕府の歳入の18パーセント)

 

「その結果、条約締結以降、国内の生糸価格が高騰する一方で、外国から安価な綿織物が大量に入ってきて、国内の綿織物業が大打撃を受ける状況になった。」(P235)

 

これもこの時点ではまったく誤った説明です。

国内の木綿生産に影響を受けるのは1866年の「改税約書」で輸入関税が一律5パーセントに引き下げられてからのことです。「改税約書」締結後の話と日米修好通商条約の話を混同して説明してしまっています。

実は綿織物業よりも、大きな問題は綿花の生産でした。

インドからの安価な綿花が輸入され、河内・濃尾平野の綿花畑はどんどん無くなります。

国内の綿織物業は、安価な綿花による生産に移っていったのです。

むろん木綿業にも影響は受けましたが、もともと綿織物生産のベースがあったために、後に南河内、濃尾平野の紡績業の発展につながりました。

 

「現代なら中学生でもわかるこんな不利な条件を、なぜ呑んだのかといえば、ひとえに当時の幕閣たちの無知のせいである。それまで大々的に国際貿易を行なったことがなかったので関税の重要性を理解していなかったのだ。」(P235P236)

 

とありますが、日米修好通商条約は、不利な条件では無いから呑んだわけで、幕閣は無知ではありませんでした。

関税の重要性を知らなかったわけではなく、輸出関税5パーセントを認めさせて多額の税関収入を幕府は得ています。

百田氏が、1866年の「改税約書」の問題と1858年の「日米修好通商条約」の問題を間違えておられるだけです。

 

そもそも「改税約書」はなぜ幕府を認めることになったのか。

 

「…条約に書かれた兵庫海溝の遅れを理由に…」(P262)幕府に列強が改税約書を認めさせた、と百田氏は説明されて、あたかも幕府に責任があるかのように説明されていますが、イギリス公使パークスは、「下関戦争」の賠償金を2/3に減免することを条件に「条約の勅許」「兵庫の早期開港」「関税引き下げ」を要求しています。

「下関戦争」、つまり、長州藩による諸外国への攻撃が原因で、日本は「不平等な」条約をおしつけられるはめになったんです。

「幕閣たちの無知」のせいではなく「長州藩の無謀」が原因です。

 

「現代なら中学生でもわかるこんな不利な条件を、なぜ呑んだのかといえば、ひとえに当時の長州藩の無謀のせいである。」

 

と説明すべきでしょう。

 

「…世界では銀の価格が急落し、金との交換比率は一対十五にまで開いていた。ところが幕府は長年の鎖国でそのことを知らなかったため、外国人に利用され、大量の金が日本から持ち去られたのだ。」(P236)

 

と説明されていますが、実は、幕府はちゃんと海外と国内の金銀比価の差は知っていました。流失してしまったのは無知からではなく別の事情からです。

もともとは、金貨の持ち出しは禁止されていたのですが、幕府は外国の貨幣と日本の貨幣が交換されることを嫌い、外国の貨幣をそのまま日本で使用する案を提案しました。ハリスは、急に日本国内でアメリカの貨幣を通用させるのは混乱する、というので一年間に限り、交換することを認めたのです。

 

ちなみに、最近の研究では、その後、幕府の貨幣対策で1861年には沈静化し、従来言われていたような50万両の流失というのは過大であると考えられるようになりました。

 

「江戸時代夜・明治維新夜明け」、明治維新後の「幕府無能」論の影響で、幕末の経済混乱についても評価が必要以上に歪められています。

 

安政の五か国条約の「関税自主権が無い」「治外法権を認める」という内容が、不平等条約として認識されて、改正に力が入れられるようになったのは明治維新後の話で、調印当初は、この二つが不平等であった、という認識はなかったのです。

88】庶民が政道そのものに意見ができるというのは世界にはいくらでも例がある。

 

「庶民が政道そのものに意見ができるという状況は、日本史上なかっただけでなく、当時の世界を見渡しても例がないことであった。」(P232)

 

まったくの誤認です。

世界の状況をご存知ないばかりか、日本の当時の状況もあまりご存知ないようです。

「庶民」をどのレベルでお話しされているのかわかりませんが、「当時」を19世紀と理解して説明させていただきますと、まず近代的な政治システムの中でもすでに18世紀のフランス革命期のジロンド派政権で「男性普通選挙」が実施され、国民公会が成立しています。

そもそもアメリカ合衆国は、1776年に独立宣言を出し、国民主権はもちろん、ロックの思想に基づいて革命権も認めています。「政道そのものに意見できる」どころか、国家元首を選挙で選び、人民の手で政権交代ができる制度が成立しています。

立憲君主政の下、貴族も存在していたイギリスでも、議会の下院は「庶民院」という名称で、1830年代には産業資本家が選挙権を有しています。1848年以降は労働者も選挙権を求める運動を起こしています。フランスでは二月革命が起こり、1848年には男子普通選挙が行われ、政権に社会主義者も参加しています。

「世界を見渡して例がない」などと、どうして力説されているのかよくわかりません。

 

「…大名に止まらず、旗本や御家人、さらには町人にまでアイデアを求めていく。これは江戸時代始まって以来の画期的なことだった。」(P232)

 

これも誤りです。

天明の飢饉の時に、全国の大名にその対策について幕府は意見を聞いています。その際、領内の人々の意見をとりまとめてもよい、というようなことを伝えていたため、藩の中には庶民に意見を求めています。

本居宣長は、当時、松阪の庶民の一人(町医者ですから士分扱いといえなくもありませんが)ですが、紀州の殿様に『秘本玉くしげ』を献じていますが、これができたのは、こういう背景があったからです(1787)

 

また、「海防」ということに関しても、日本海側の諸藩では、18世紀初期からすでに異国船の来航(遭難・漂着)に対応してきているんです。

百田氏がご存知無いのか意図的に無視されているのかわかりませんが、新井白石の「正徳の治」のときから、沿岸警備・抜け荷防止のための全国取り締まり令を発しています。徳川吉宗も1718年に「唐船打ち払い令」を出しています。

これをうけて松江藩は実際に打ち払いを実行しています。

異国船の打ち払い、あるいは薪水給与、ということは、幕末、藩や民衆に突然降ってわいたことではなく、従来の政治の延長線上の「事件」で、各藩それぞれのマニュアル、民衆レベルの意識はそれなりにありました。

 

房総半島の漁民・農民たちは、すでに蝦夷地警備に動員され、さらに化政期には大名の警備配置などを通じて農民たちは「御手伝い」をしていて、民衆レベルの危機意識も高まっていました。

異国船打ち払いにせよ薪水給与にせよ、農村ではそれなりの負担をしているので、外国の情勢に無知ではおられず、むしろ肌身で感じていました。

名主や豪農たちは、林子平の『海国兵談』、工藤平助の『赤蝦夷風説考』だけでなく、長崎の情報も手に入れて「世界情勢」を彼らなりに得ようと努力していることもみてとれました。「海防差配役」など村落の有力者に課されている場合も多くみられます。

 

幕府や藩は、こういった庶民・農民層に役職を与え、支配体制に組み込みながら、地域の情報収集、沿岸警備などの海防を実現しようとしていました。

異国船発見の情報伝達、軍需物資の手配、大名沿岸警備の御手伝い、台場の建設の手配など、村人、地域の有力者、とくに商品作物生産などを通じて成長してきていた豪農らの協力無しには海防体制は築けなかったのです。

(このあたりの最新研究は、『黒船がやってきた』(岩田みゆき・吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)にたいへんわかりやすく紹介されていますので、是非お読みください。)

こういう背景をふまえて、次の一文を改めてお読みください。

 

「…大名に止まらず、旗本や御家人、さらには町人にまでアイデアを求めていく。」(P232)

 

一見、幕府が「特殊なこと」をしているように見えますが、当時の藩や幕府にしてみれば、何も特別なことを農民や庶民に求めていたのではありませんし、豪農たちも、とくに目新しいことを求められたようには感じていなかったのです。

 

「同時に、今の幕府では国が守れないのではないかという危機感を、多くのものが抱いた。」(P233)

 

というのも誤解です。

これは後の明治新政府ができてからの「歴史」から生まれたイメージで、「江戸時代夜・明治時代夜明け」という、かなり古い歴史認識での説明です。

むしろ、この段階では、幕府とともに一体感をもって危機に対応していこう、という姿勢を感じます。

たとえば幕末、孝明天皇の御意志は、幕府しっかりせよ、という感じで、むしろ幕府以外では国は守れない、という空気のほうが強かったと思います。

 

87】ペリーの来航で幕府は狼狽していない。

 

何度も説明してきましたが、幕府は「異国船」の来航に関して、「右往左往」していたり「狼狽」したりしていません。

「江戸時代夜・明治時代夜明け」という、古くさい歴史観の発想です。

大河ドラマや時代劇でも1970年代から80年代あたりは、まだこの論調で歴史が語られ演出されてきました。

「幕末の志士」たちが先見的で、幕府は保守・頑迷…

むしろ、「幕末の志士」たちのほうが「右往左往」して「狼狽」し、ゆえに過激な尊王攘夷論に踊らされ、幕末テロ・異人切りに走っていたというべきではないでしょうか。偏った情報で、偏った思想を養い、偏った行動をとる、というのはいつの時代でもみられるものです。

現代のわれわれは、幕末の状況を「一面的」に見る愚は避けないといけません。

 

「翌嘉永六年(一八五三)六月三日(新暦七月八日)、ペリー率いるアメリカの軍艦四隻が浦賀にやってきた。そして武力行使をほのめかして、開国を要求した。この時、幕府は慌てふためくばかりだった。というのも、何の準備もしていなかったからだ。」(P224)

 

というのはあまりに一方的かつ前時代的な説明です。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12433912416.html

 

P260P261で、「水野忠徳」の説明をされていますが、この人物を百田氏は高く評価されていて、

 

「江戸幕府の旗本であった忠徳は、長崎奉行時代に幕府海軍創設に奔走し…」

 

と説明されています。

彼を登用したのは老中阿部正弘で、水野忠徳だけでなく、岩瀬忠震、川路聖謨など有能な幕僚群がこの時活躍しているんですよ。

水野忠徳は1852年に浦賀奉行に任じられ、さらに阿部正弘は、翌年の「ペリーの来航に備えて」(オランダからの情報で来航を把握していた)、この有能な官僚を1853年に長崎奉行に任命しています。

後に水野忠徳を高く評価されているのに、ペリー来航前に「何の準備もしていなかった」とか「慌てふためくばかりだった」と説明されているのは不思議です。

また、川路聖謨は1853年に海岸防禦御用掛に任じられ、さらにはロシアのプゥチャーチンとの交渉を展開、岩瀬忠震は日露和親条約に重要な役割を果たしています。

「幕末三俊」と称えられた岩瀬忠震・小栗忠順・水野忠徳は、ペリー来航前の準備、ペリー来航時の対応をした幕府の官僚でした。彼らは60年代になって急に有能になったわけではありません。

ですから、「慌てふためくばかり」とか「何の準備もしていなかった」というのは言い過ぎです。

そもそも、明治維新後、このような「評価」ができたわけで、老中阿部正弘以下の幕府の役人が「慌てふためくばかり」で「何の準備もしていなかった」ということを示す根拠はきわめて希薄なのです。

また、

 

「…この時、アメリカ艦隊はいつでも戦闘を開始できる状態であった。」(P225)

 

と説明されています。

1852年の計画書では、サスケハナ・サラトガ・プリマスに加えて、別の蒸気船4隻、帆船の軍艦6隻の計13隻の大艦隊で日本に向かう予定でした。

ところが実際、使用可能な別の蒸気船の軍艦はミシシッピ1隻だけで、おまけに、帆船6隻は予算がおりずに結局除外されてしまいます。

来航時、蒸気機関を稼働できていたのはサスケハナだけで、ミシシッピは故障のために曳航されてやってきました。そしてサラトガ・プリマスは帆船で蒸気船ではありません。

アメリカ側の状況をみる限り、とても「いつでも戦闘を開始できる」ような軍事力と配備ではなかったことがわかります。

湾内に入った艦隊は、幕府側の襲撃を「おそれて」戦闘態勢に入っていました。

つまり攻撃ではなく、「防禦」のための臨戦態勢であったことがアメリカ側の史料でわかっています。

「空砲」による「威嚇」についても、江戸の町人たちにはあらかじめ幕府が「空砲」が撃たれることを「お知らせ」しており、最初は驚いた江戸の町人たちも、やがて湾岸に見学に集まるなど、町人側に残る史料では「花火」を楽しむように集まった、と記されています。

まさに「舐めら」ていたのはペリー艦隊のほうだったかもしれません。

 

当時のアメリカ側の「事情」を付加するならば、アメリカのジャーナリズムや政府は、当時、イギリス・フランスなどの列強に「遅れ」をとっていたこともあり、イギリスなどの「軍事力」による植民地支配を「批判」している立場にありました。

もし、非戦闘員が居住する江戸を砲撃などすれば、ジャーナリズムは一斉に反発し、またイギリスやフランスを非難できなくなるので、政府は武力行使を容認する情勢にはありませんでした。

(実際、当時から国際世論やジャーナリズムの影響力は強く、後年、生麦事件の報復で、イギリスは薩摩藩と戦争をしますが(薩英戦争)、鹿児島市内を砲撃したことが国際世論の反感をかい、日本への強硬策をとれなくなりました。)

 

ちなみに、以下は蛇足ですが…

例によって、細かいことが気になるぼくの悪いクセ、という話です。

 

「アメリカ艦隊が去った十日後、将軍家慶が死んだ。暑気中りで病臥して六日後に亡くなったのだが、おそらくは黒船来航による精神的なショックも影響したと考えられる。」(P231)

 

と、説明されているのですが…

ペリー来航は西暦18537月8日です。嘉永六年六月三日に該当します。

西暦で1853年7月17(嘉永六年六月十二日)にペリー艦隊は浦賀を出港しました。

家慶の死は嘉永六年六月二十二日と記録されています。

つまり、西暦では1853726日になります。「暑気中りで六日後に亡くなった」ということは、720日頃に発病した計算になります。

ペリー艦隊が去ってから三日後に発病していることになりますが、実は、老中阿部正弘は、西暦1853711(嘉永六年六月六日)に「将軍が病気に伏せっていて決定できない」として「国書を受け取るくらいは仕方が無い」という決定をしています。

「病臥して六日後」ではなく、「十六日後」、の誤記ではないでしょうか。