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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

135】大韓帝国を近代化によって独り立ちさせるために保護国化したのではない。

 

「日本は大韓帝国を近代化によって独り立ちさせようとし、そうなった暁には保護を解くつもりでいた。」(P326)

 

と説明されていますが、これを示す一次史料は何でしょうか。

これは保護国化、さらには植民地化にあたっての後付け説明でしかありません。

「保護国化」とは、百田氏が説明しているように「外交処理を代わりに行なう国」(P326)のことですが、近代化するために、なぜ外交権を奪う「保護国化」する必要があったのでしょうか。

 

日清戦争の下関条約の締結過程をふりかえればわかるように、第一条の

 

「清国は朝鮮の独立を認める。」

 

という項目をめぐって、李鴻章はこれを「日清両国は朝鮮の独立を認める」ということにしようと要求したことを陸奥宗光は頑なに拒否し、清国一方による「独立の承認」を認めさせています。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12440840209.html

 

ところが、その「清国から独立した」大韓帝国は、今度はロシアに接近し始めました。

皇帝の高宗も政府も、ロシアの協力による日本離れを示し始めていたのです。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12440878205.html

 

ですから、ロシア(あるいはその後、他の国)と手を組ませない、ということの延長線上に保護国化がありました。

 

「日本は欧米諸国のような収奪型の植民地政策を行なうつまりはなく、朝鮮半島は東南アジアのように資源が豊富ではなかっただけに、併合によるメリットがなかったのだ。」(P326)

 

という説明も、大きな誤認のもとに展開されている説明です。

 

インターネット上の説明などでも、「日本の植民地支配は欧米とは違う。」「ヨーロッパの植民地支配は収奪を目的としていた。」という説明を散見できます。

一般に「植民地支配」は、「収奪型」である、というイメージが広がっています。

 

ですから、「ヨーロッパと違う」と説明されると、日本の植民地支配はそうではないんだ、と、納得してしまいやすいものです。

 

そもそもの「植民地支配=収奪型」というのが誤った「植民地支配」の理解です。

スペインがその初期において南米におこなったような「植民地支配」は19世紀後半以降、おこなわれていません。

 

イギリスの植民地支配は、現地に鉄道を敷き、インフラを整備していくものでした。そして学校も設立し、教育をおこなっています。

フランスの植民地支配は、「同化政策」が中心で、街並みなどもフランス式のものに建て替え、フランス語の教育を進めていきます。

フランスによって植民地化される前のアルジェリアの人々は、犬小屋とかわらぬ家に住み、食べ物がろくに手に入らぬ状態であり、伝染病も蔓延し、子供の半数が5歳を迎えず死亡している状態で人口は150万人くらいでした。しかし、フランスが植民地支配してからは、これらは「改善」され、1890年代には450万人と三倍になっています。

(『チュニジア・アルジェリア・モロッコ(世界の国ぐにの歴史6)』林槙子・岩崎書店)

インフラを整備し、公衆衛生を向上させ、現地の「野蛮な習慣」を廃止し、奴隷取引を停止、「近代的な」ヨーロッパの法律を適用し、教育を施して文字の無い世界に文字を与え、人口が増加しているから良好な植民地支配である、というならヨーロッパ諸国の植民地支配はすべて良好であったことになります。

 

「全体がほぼはげ山だったところに約六億本もの木を植え、鴨緑江には当時世界最大の水力発電所を作り、国内の至るところに鉄道網を敷き、工場を建てた。新たな農地を開拓し、灌漑をおこない、耕地面積を倍にした。それにより米の収穫量を増やし、三十年足らずで人口を約二倍に増やした。同時に二十四歳だった平均寿命を四十二歳まで延ばした。厳しい身分制度や奴隷制度、おぞましい刑罰を廃止した。これらのどこが収奪だというのだろうか。」(P327P328)

 

と説明されていますが、はい、もちろん「収奪」ではありませんが、20世紀に世界でよくみられた列強の「植民地支配」と、だいたい同じ、といえます。

帝国主義諸国の植民地支配の多様性を研究したことがある方ならば、べつに「驚くべきこと」ではないでしょう。

 

奴隷の廃止、というのは19世紀前半からイギリスが進めていますが、それは人道的な理由で進めているのではなく、安価な労働力の創出のためです。

南北戦争による奴隷解放も、ロシアの農奴解放も、産業革命と資本主義の発展が背景にあります。

帝国主義時代は、植民地支配をその地域に「近代化」をもたらした、というのは、支配する国にとって都合の良い経済構造に改造することです。

 

「たしかに当時の日本の内務省の文書には『植民地』という言葉があるが、これは用語だけのことで…」(P328)

 

と説明されていますが、はい、そうです、としか言いようがありません。われわれは、「植民地」という言葉をよく使いますが、文字通り「植民」つまり、人を移動させる場所が、もともとの「植民地」の意味である、ということを忘れています。「植民のために」支配する場所が「植民地」です。

「植民」先として適合するように「改造」するのが植民地支配です。法律も刑罰も社会制度も変えるのはあたりまえです。

また、この段階で唐突に「また、日本名を強制した事実もなければ、『慰安婦狩り』をした事実もない。」(P328)と説明されていますが、韓国併合後の植民地支配は、1910年以降、一貫して同じだったわけではありません。1912年の辛亥革命、第一次世界大戦、恐慌前後、満州事変前後、日中戦争前後、と状況に応じて変化してきています。

 

「韓国併合」時における支配のあり方を一元的に説明するのは無理があります。

134】大韓帝国を保護国とするにあって「世界」の了承を取り付けていない。

 

「韓国併合への道」は日露戦争開戦と同時に始まりました。

19042月、日本は仁川に軍を上陸させ、ただちに漢城を制圧しました。

そして223日に、朝鮮内の軍事行動と韓国政府の便宜供与と「施政改善」を日本が「協力」することを韓国政府に認めさせました。

これが第一次日韓議定書です。

7月には軍用電信線・鉄道を破壊した者を死刑にする軍律を施行、19051月には日本軍に不利益な行動をする者は死刑以下にする布告を出します。

この軍律で、19047月から190610月までに、死刑35人、監禁・拘留46人、追放2人、笞刑100人、過料74人がおこなわれています。

(『戦争の日本史20 世界の中の日露戦争』山田朗・吉川弘文館)

 

「日本は日露戦争後、大韓帝国を保護国(外交処理を代わりに行なう国)とし、漢城に統監府を置き、初代統監に伊藤博文が就いた。この時日本が大韓帝国を保護国とするにあたって、世界の承認を取り付けている。」(P326)

 

と説明されています。大きな誤解と事実誤認があります。

まず、この文脈では日露戦争「後」に大韓帝国を保護国化してから承認を取り付けているように読めてしまいますが、実際は日露戦争中です。

それから「世界の承認」と言われていますがあまりに不正確です。これ、何をもって世界が承認した、と説明されているのでしょう。

日露戦争「中」、日本が「世界の承認」を「取り付けている」というのは以下のことです。

まず、1905729日、アメリカとの間で桂・タフト協定を成立させます。

これはアメリカによるフィリピン支配と、日本による韓国保護国化を相互承認したもので、帝国主義諸国がよくおこなうbargain(取引)です。

また、日露戦争が始まると日本とイギリスは日英同盟の適用範囲の拡大と、「攻守同盟」化の検討を始めます。

ロシアの「バルティック艦隊」との海戦が近づくと、1905523日の元老会議と翌日の閣議で、日英同盟の強化を決定しました。

こうして812日、第二次に日英同盟協約を調印、攻守同盟化するとともに、同盟の適用範囲をインドにまで拡大し、いわば朝鮮とインドをbargain(取引)する形で、イギリスは韓国の保護国化に対する保証と援助を了承したのです。

そして、日露戦争「後」、ポーツマス条約によって、ロシアがその項目の一つ「韓国に対する日本の指導・保護・管理措置の承認」を認めています。

 

「この時日本が大韓帝国を保護国とするにあたって、世界の承認を取り付けている。」というのは極めて不正確で誤解を与える説明です。

日露戦争中にイギリスとはインド、アメリカとはフィリピンをbargain(取引)して韓国保護化の承認を「取り付け」、ロシアとはポーツマス条約で承認を「取り付け」ています。

「世界の承認」ではなく、関係列国の承認、「イギリス・アメリカ・ロシアの承認」を得ていた、というべきでしょう。

歴史は、どの「立場」から視るかで、記述の仕方は当然、変わります。

どうも百田氏は、「義和団の乱」を稚拙な「暴徒集団」であるかのように(P311)思われているようです。

義和団の神を、「孫悟空と諸葛孔明」という「奇妙」なもので、「団員たちは修行を積めば刀や銃弾さえもはねかえす不死身の身体になれると信じ、近代的で武装した列強の軍隊に徒手空拳で挑んだが、各国の軍隊が到着すると、一瞬のうちに鎮圧された。」と描写し、「凶暴な暴徒」と説明されています。

 

この捉え方は、かなり一面的で、義和団の本質には一切触れられていません。

 

義和団は、列強の帝国主義支配とその弾圧から民衆が立ち上がったもので、山東半島の農村自警団から生まれた宗教的武術集団です。一部、迷信にとらわれた人々もいましたが、反帝国主義民族運動で、列強の帝国主義的支配の象徴である「鉄道」と「教会」を破壊しました。

 

日清戦争後の列強の進出で、鉄道が敷設されると、その用地を強制的に接収し、農村の共有地や祖先の祭祀の場などをおかまいなく破壊していきました。

教会も、農村のさまざまな祭祀を否定し、その文化を見下した布教活動をおこなっていました。

 

北京に入城した列強の軍隊は、「鎮圧」と称した破壊と略奪を繰り返し、日本軍に掃討と防衛をまかせきりで略奪行為を繰り返したことは、北京攻略戦での犠牲の50%が日本兵であったことからもうかがえます。

北京を奪還した後が、さらにひどく、周辺地区の略奪・暴行はしばらくおさまりませんでした。

列国がことさらに日本の軍事行動を美化して賞賛し、義和団の非を鳴らした背景は、この軍隊の不正行為(国際法違反)を糊塗する目的もあったのです。

 

「孫悟空と諸葛孔明という奇妙な神を崇め、修行を積めば刀や銃弾さえもはねかえす不死身の身体になれると信じた愚かな凶暴な暴徒が、北京の外国人を襲い、近代的で武装した列強の軍隊に徒手空拳で挑んだが、各国の軍隊が到着すると、一瞬のうちに鎮圧された。」という説明は、当時の、義和団を貶め、自分たちの行為を正当化するために列強が誇張したイメージなんです。

 

柴五郎の功績はもちろん高く評価しますが、「義和団事件の英雄」をクローズアップしなくてはならない背景や、帝国主義に対する闘争としての義和団の側面を忘れてはいけないと思います。

 

列強は、当時、義和団を「悪」と描きがちですが、当時、日本のジャーナリストの青柳有美などは『義和団讃論』を著していますし、後にイギリスの軍事評論家リデル=ハートも民族運動としての義和団を評価しています。そもそも北京に籠城していた側からも義和団に同情的な評価もあり、オーストリアの外交官ロストホーンも「私が中国人だったならば、義和団に入ってここで戦っていただろう。」と述べています。

(『北京最後の日』ピエール=ロティ・船岡末利訳・東海大学出版会)

(『義和団-中国とヨーロッパ』スタイガー・藤岡喜久男訳・桃源社)

(『華北駐屯日本軍-義和団から日露戦争への道』櫻井良樹・岩波現代新書)

 

さて、「日英同盟」も、大きな世界史の枠組みで捉える視点が大切です。

19紀半ば以降、常にイギリスはロシアの南下を阻止するように外交を展開してきました。その手法は、「自分の手を汚さず」ロシアの南下を阻止する、ということです。

ロシアの南下は3つのルートがあったのですが、バルカン方面、中東・インド方面への南下を阻止しました。

ロシアの動きを極東にそらせて、ヨーロッパの現状を維持するためにも、極東におけるロシアの南下にぶつける国を模索していました。

義和団事件の様子をみて、手を結ぶにふさわしい相手は、もちろんフランスでもなくドイツでもなく、日本であると判断したのは自然な流れです。

「義和団の英雄」とそれを高く評価するクロード=マクドナルドがいなくても、ソールズベリ首相は、日英同盟を成立させていたことでしょう。

こういった国際関係の枠組みを俯瞰したとき、日露戦争は、イギリスの大きな世界戦略の枠組みの中にあったことがわかります。

日露戦争と同じ年にイギリスは英仏協商を成立させ、日露戦争によってロシアの極東での南下を阻止した後はすぐにロシアに接近し英露協商を成立させ、今度はイギリスと敵対するドイツとオーストリアにぶつけるため、ロシアの南下政策をバルカン半島

にふりむけさせました。

日英同盟は、日露戦争に際して、日本の大きな助けになったことは確かですが、イギリスの世界戦略の片棒をかつがされたこともまた確かです。

伊藤博文が推進しようとしていた日露協商は、イギリスにとっては困る動きであり、イギリスに接近させるために、ビクトリア女王による勲章授与など「義和団の英雄」は演出された、友好的な態度を示した、ということも指摘できます。

 

大国との「同盟」というのは、その大国にとっての「利益」があることにしか利用されない側面がある、ということも日露戦争から学ぶことができます。

 

133】日露戦争は、「新聞社に煽動された国民自らが望んだ」戦争ではない。

 

「余談だが、日本海海戦は『丁字戦法』(T字戦法ともいう)によって勝利したというのが定説になっていて、多くの歴史書にもそう書かれている。」(P320)

 

と、説明されていますが、まず歴史書のうち通史は、細かい戦術のことはまず説明していません。日露戦争について書いた歴史書では戦術的なことに言及しているものがあります。

しかし、「多くの歴史書にもそう書かれている」とありますが、「T字戦法で勝った」と説明している専門書はありません。

歴史の研究では、「T字戦法を採用したが、並行航行での砲戦になった」ということはむしろ「定説」で、現在では確実に「俗説」扱いです。

(戦史研究では、戦前からすでにT字戦法で勝利した、は否定されています。)

「T字戦法による勝利」などの話は、ほとんど小説やドラマでの演出で、自称戦争に詳しい人しか語っていなかったと思います。

 

「…この敗北により、さすがのロシアもほぼ戦意を喪失した。」(P320)

「日本海海戦でバルチック艦隊を撃滅し、ロシアに戦争継続の意思を失わせたが、その時点で、実は日本にも余力は残っていなかった。」(P322)

 

とありますが、実際は少し違います。

クロパトキンが降格され、入れ替わるかたちで総司令官に任命されたリネウィッチは反攻を計画し、シベリア鉄道を用いた陸軍の増援を継続しています。日本海海戦での敗戦は衝撃でしたが、むしろ敗戦後、物量で圧倒して南下を進めようとしていました。

(『日露戦争勝利の後の誤算』黒岩比佐子・文芸新書)

 

ロシアが講和に傾き始めていたのは、その国内問題からでした。

すでに1905年1月に「血の日曜日事件」を発端にして起こった第1革命が起こり、ロシアの兵士たちにも厭戦気分が広がりつつありました。

戦争継続はストライキや革命の拡大をまねく懸念が出てきていたのです。

むしろ、戦争の継続を考えていたのは日本のほうです。

 

「国民は、ぎりぎりの状況であることを知らされていなかった。政府がその情報を公開すれば、ロシアを利することになるため、秘密保持はやむを得なかった。」(P324)

 

と説明されていますが現状は異なりました。

これは、軍事機密であると称して、正しい情報を国民に知らせない口実に使われるものです。軍の作戦の不備、政府の責任回避のために実情を隠す弁解に使用されたリクツにすぎません。

実際、奉天会戦後、「ぎりぎりの状況」であったことを大本営そのものがわかっておらず、追加計画や増援、さらなる占領を企図、実行していました。

「戦争を継続すべし」という空気が大本営をしめ、ウラジオストク侵攻を計画、さらに4個師団編成、樺太南部に軍を上陸させています。

 

驚いた満州軍総司令官大山巌は、ただちに参謀総長児玉源太郎を東京に派遣し、講和にとりかかるように説得させようとします。

にもかかわらず、大本営では、あくまでも戦争継続・戦域拡大を主張するありさまでした。児玉源太郎は前線の状況をつぶさに説明・報告し、海軍の山本権兵衛も口説いて説得させたのです。

児玉源太郎の真の功績は、ロシアとの陸上戦闘の「作戦指揮」よりも、戦争を継続しようとしていた軍首脳の「説得」に成功したことです。

 

「秘密保持」は「ロシアを利すること」を回避するためではなく、戦争継続が不可能な状況であったことを大本営が理解せず戦争を続けてしまったことや、作戦の不備からの犠牲の増加したこと(旅順の要塞の守備力を低くみつもっていたこと、奉天会戦の初戦の苦戦と犠牲は無理な総力戦指示にあったこと)などを隠すためでした。

 

そもそも「ロシアに利する」を回避する秘密保持ならば、講和成立後に、「情報公開」をすればよかったわけで、政府はそのようなことを一切していません。

条約反対集会が暴徒化すると、戒厳令をしいて弾圧しました。

 

「私は、この事件が、様々な意味で日本の分水嶺となった出来事であると見ている。すなわち、『新聞社(メディア)が戦争を煽り、国民世論を誘導した』事件であり、『新聞社に煽動された国民自らが戦争を望んだ』そのきっかけとなった事件でもあったのだ。この流れは、大正に入って鎮火したように見えたが、昭和に入って再燃し、日本が大東亜戦争になだれ込む一因となったのである。」(P325)

 

日本国内で「ロシア討つべしという声が高まる」「戦争は避けられない」と新聞社が煽り、世論が『戦争すべし』という意見が大勢を占めた、そして政府は「ぎりぎりまで外交交渉で戦争を回避する道を模索し」、こちらの交渉をロシアが蹴ったために仕方なしに戦争を始めた、というのでしょうか…

 

日露戦争は新聞社が国民を煽り、政府はロシアとの戦争を回避しようとしていたのに、国民が戦争をのぞんで勃発した戦争、という説明です。

しかし、実際は違いました。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12441383804.html

 

日清戦争では、朝鮮を独立するための戦争と称して戦い、朝鮮半島から清軍を撤退させた後も、戦争を継続してリャオトン半島を占領しました。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12440840209.html

 

この「大陸進出」は列強を刺激し、黄禍論が説かれ、日本を警戒したドイツ・フランス・ロシアの干渉でリャオトン半島を返還せざるを得なかったことに対しては「臥薪嘗胆」を説いて、ロシアを仮想敵国とし、日英同盟を結んでロシアの南下に対抗する姿勢を明確にしました。

そもそも議会で多数を占めていた民党が、民力休養・経費節減を説き、軍事費の削減を要求していたのに、超然主義の立場をとり、朝鮮を日本の「利益線」であるとして軍備の増強を続けたのは政府です。

軍制の改革を進め、参謀本部を設置して統帥部を強化し、鎮台制を改めて、対外戦争可能な師団制も導入しました。

政府が近代化を進め、国際的地位を高める過程で「脱亜入欧」を選択し、その延長上の外交政策がつくり出した国際関係の結果が日清戦争であり、日露戦争でした。

こうしてインドの元首相ネルーが指摘したように、日本は欧米と並ぶ「帝国主義諸国の一員」となれたのです。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12442007945.html

 

この大きな枠組みの中で日露戦争をとらえるべきで、国民がのぞんだ戦争であるかのように説明するのは一面的で、情報不足と偏った情報から民衆をミスリードした新聞社の非を鳴らすのは一方的だと思います。

132】日露戦争は植民地にされてきた人々に自信を与えたが失望も与えた。

 

歴史の評価をするときの姿勢として、それは

 

「(A)であるが(B)である」というものでなければならない。

 

とは、言いませんが、多面的に、一見このように見えるが実はそうである、あるいはこうではないか? と懐疑するところに、社会科学としての側面があるんじゃないかな、と思っています。

 

(A)だけを説明して、(B)を説明しないのは、社会科学ではなくプロパガンダになってしまう場合もあるでしょう。

 

インドの元首相ネルーの言葉が紹介されていて、

 

「インドのネルー首相は十六歳の時、日本の勝利を聞き、『自分たちだって決意と努力次第ではやれない筈がないと思うようになった。そのことが今日に至るまでの私の一生をインド独立に捧げさせることになったのだ』と語っている(P321) 

 

十六歳の時に思ったのが「自分たちだって決意と努力次第ではやれない筈がないと思うようになった。」という気持ちで、「そのことが今日に至るまでの私の一生をインド独立に捧げさせることになったのだ」と思ったのは首相になってからの回顧だと思います。

 

が、しかし この話には続きがあります。

以下、『父が子に語る世界歴史』(みすず書房)によると、

 

「日本の勝利がいかにアジア諸民族を勇気づけたことか…しかし、それはすぐに失望に変わった。」

「一握りの侵略的帝国主義グループにもう一国を加えたというに過ぎなかった。」

 

と、記されています。

日露戦争の勝利がアジアの諸民族に独立の勇気をもたらしたが、それは新たな帝国主義国、日本の誕生によって大きな失望に変わった…

こう考えたアジア諸国の人々は少なくありませんでした。

教科書もこの事実をふまえ、

 

「ヨーロッパの大国ロシアに対する日本の勝利は、アジア諸民族の民族的自覚を高めたが、その後の日本は、むしろ欧米列強とならんで大陸進出を進めた。」

(『詳説世界史B』山川出版・P324)

 

そして、その後の国際的な関係をふまえて、

 

「日露戦争後、日本とイギリスは日英同盟を維持しながら、それぞれロシアと1907年に日露協約・英露協商を結んだ。これにより、日本の大陸進出は容易となった。」(同上)

 

と説明しています。

 

単に「失望」を日本は与えただけではありません。実際、「行動」も起こしています。

ベトナムでは、ファン=ボイ=チャウを中心に、フランスからの独立と立憲君主制の樹立をめざす組織が生まれました。この組織が「維新会」で、明治維新後にめざましい近代化を実現し、日露戦争に勝利した日本の姿に鼓舞されて、日本からの軍事援助を得ようと交渉したり、日本に留学生をおくって新しい学問や技術を学ぼうとする動きを推進したり(「東遊運動」)しました。しかし、日本はフランスと歩調をあわせてこれを弾圧し、留学生を国外へ退去させています。

 

「…長らく欧米の植民地にされてきた中東やアフリカの人々にも大きな自信を与え…」(P321)と胸を張って言えるものではなく、「世界の植民地で民族運動が高まることに」なったのに、それを抑圧する側にまわっていることを忘れてはいけません。

 

「バー・モウは『日本の勝利は我々に新しい誇りを与えてくれた。歴史的に見れば、日本の勝利は、アジアの目覚めの出発点と呼べるものであった』と語っている。」(P321)

 

と説明されています。

ビルマのバー=モウは、ビルマの独立のためにはイギリスに対抗して日本と手を結び、日本の協力を得るためには大東亜会議にも出席して日本を賛辞し、敗戦が濃厚になると日本に亡命し、独立後には日本の植民地支配を批判しています(『ビルマの夜明け-独立運動回想録』太陽出版)

バー=モウについては、彼がどの立場にあるときの発言なのかを精査しないと鵜呑みにはできません。

 

また、「バルチック艦隊が日本の聯合艦隊によって壊滅させられたニュース」をヨーロッパにいたときの孫文が聞いて語ったことを紹介し。

 

「此の報道が欧州に伝わるや、全欧州の人民は恰も父母を失った如くに悲しみ憂えたのであります。英国は日本と同盟国でありましたが、此の消息を知った英国の大多数は何れも眉を顰め、日本が斯くの如き大勝利を博したことは決して白人種の幸福を意味するものではないと思ったのであります。」

「列強諸国の間で日本に対する警戒心が芽生え始めたのも、この頃からであった。」

 

と、説明されています。

 

この孫文が語った話は、実は19241128日、神戸高等女学校で神戸商業会議所の5団体におこなった「大アジア主義」講演演説の一部です。

 

ここだけ切り取ってしまうと、「政治家の発言を一部切りとって紹介している」のと同じで、全文の概意は、「東洋は王道、西洋は覇道。東洋の先端を走っている日本は近代化を進めて素晴らしいが、それが最近では行き過ぎて覇道になっちゃっているよ」、「自分の革命運動をソ連は理解してくれたのに、なんで同じアジアの日本は支援してくれないの?」ということも言外にこめながら、「日本海海戦で勝ったときの欧米と同じ反応を、日本は今、していないか?」「日本はアジアの国のはず」として、「欧米覇道の鷹犬となるか、東洋王道の干城となるか」と日本にせまっているものです。

ぜひ、全文を読んでほしいと思います。

(『孫文選集』社会思想社)

(『孫文講演』「大アジア主義」資料集-192411月 日本と中国の岐路-)

 

以下は誤りの指摘ではありません。

 

「列強諸国の間で日本に対する警戒心が芽生えたのも、この頃からである。」(P322)

 

と説明されていますが、日本に対する警戒心は日清戦争の時から「芽生え」ていました。ドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世やフランスが、「黄禍論」を唱え始めたからです。

この「懸念」が欧米諸国にとって「現実」となったのが日露戦争以降でした。