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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

131】日露戦争に対する評価の、世界史的位置づけは慎重にする必要がある。

 

1905年1月に旅順要塞を陥落させた日本陸軍はクロパトキン率いるロシア陸軍と前哨戦とでもいうべき戦闘状態に2月から入ります。

「秋山好古少将の陽動作戦に怯えたクロパトキン」という説明は、やや昔の評価で、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の逸話によるところが多い説明です。

 

「秋山好古少将の陽動作戦に怯えたクロパトキンが余力を残したまま撤退するという失態を犯した」(P319)

 

という説明も、かつてはよくみられましたが、当時は「戦略的撤退」とヨーロッパでは判断され(ナポレオン戦争でもみられたロシアの常套作戦)、マーケット(ロンドン株式市場)の反応は冷静でした。

(『日露戦争、資金調達の戦い』板谷敏彦・新潮選書)

 

ところが、ロシアの司令部内・宮廷内の権力争いが絡んで、讒言もあり、クロパトキンが解任されてしまったのです。

『坂の上の雲』によって、乃木希典の過小評価、秋山好古・秋山真之兄弟の過大評価がすっかり定着してしまいました。

 

3月の奉天会戦は、「大勝利」との国内宣伝とは裏腹に、かなりの犠牲が出ており、乃木希典の第3軍は、その活躍でクロパトキンの後退の決断をうながすほど健闘していたにもかかわらず、弾薬がつきたためにロシア軍の撤退に対する追撃ができず、鉄道でのロシア軍の移動を傍観せざるをえない状況でした。

(『日露戦争史』横手慎二・中公新書)

(日露戦争研究の新視点』日露戦争研究会編・成文社)

 

日本海海戦は「世界開戦史上に残る一方的勝利に終わった」わけですが、その「真の勝因は水兵たちの練度の高さと、指揮官の勇猛果敢な精神にあった。」というわけではもちろんありません。

 

戦争の勝利とは、海面に出ている氷山の一角と同じで、トータルなものです。

百田氏があげていることでまず言うならば、外交的優位(日英同盟)、マーケットの反応(高橋是清の活躍)に加え、下瀬火薬の開発と利用、無線の活用、明石機関による対露工作など、「オールジャパン」による勝利でした。個人の手柄や勇猛果敢な精神論よりも、こちらを強調されたほうが、日本の命運をかけた「総力戦」であったことを強調できたと思います。

 

「水兵たちの練度の高さと指揮官の勇猛果敢な精神」で勝利した、と言ってしまえば、重税に耐えて、戦争の勝利のために多大な犠牲を強いられた国民の姿が見えにくくなってしまいます。

 

「日本の勝利は世界を驚倒させた。二十七年前まで鎖国によって西洋文明から隔てられていた極東の小さな島国が、ナポレオンでさえ勝てなかったロシアに勝利したのだ。」(P320)

 

日本の勝利は、当時、世界をもちろん驚かせたもので、大きな衝撃を与えたことは確かですが、他国との比較は世界史の知識が不十分ですと誤った説明になります。

「ナポレオンでさえ勝てなかったロシア」と説明されていますが、そんなことはありません。ナポレオンはロシアに勝利し、プロイセンとロシアに屈辱的なティルジット条約をのませました。

(教科書に記されている戦いだけでも、アウステルリッツの三帝会戦でもナポレオンはロシアに勝利していますし、アイラウの戦いについては少し微妙ですが、ロシアが撤退したという意味では勝利でしょう。しかし、フリーラントの戦いではロシア軍を完全に撃破しています。)

 

「…コロンブスがアメリカ大陸を発見して以来、四百年以上続いてきた、『劣等人種である有色人種は、優秀な白人には絶対勝てない』という神話を打ち砕いたのだ」(P320)

 

と説明されていますが、そんなことはありません。

 

1884年のムハンマド=アフマド率いるマフディー反乱では、ゴードン率いるイギリス軍はハルツームの戦いで壊滅させられ、ゴードンも戦死しました。

1896年のアドワの戦いでは、エチオピア軍が、アフリカ分割を進める帝国主義諸国の中で、初めてイタリアを破り、独立を守りました。

 

世界史的な位置づけの評価は、正確な知識が必要となります。

「アジアの小国がヨーロッパの大国を破った」、という説明で十分だと思います。

130】「バルティック艦隊」は世界最強というわけではない。

 

「ロシアの国家歳入約二十億円に対して日本は約二億五千万円、常備兵力は約三百万人対約二十万人だった。しかもコサック騎兵は世界最強の陸上部隊といわれ、海軍もまた世界最強といわれていた。」(P315)

 

「海軍もまた世界最強といわれていた」というのは、当時の世界の評価としては少し違うと思います。

前回、高橋是清が世界の投資家・銀行家たちに公債引き受けをさせるための苦労を「自伝」で説明していたことを紹介しましたが、これを読むと世界の評価は「陸軍はロシアが優位、海軍は日本が優位」というので定まっていたことがわかります。

これはバルティック艦隊の戦艦の指揮官でも認識していて、1904109日の艦隊士官送別晩餐会(海軍司令官アレクサンドロウィッチ大公主宰)で、戦艦アレクサンドル3世の艦長ブファウォストフ大佐は、

 

「…我々は、ロシアが海軍国ではないこと、それに政治資金がこれらの艦船に無駄に使われたことを知っています。あなたがたは勝利をのぞまれたが、しかし勝利などはありえないのです。おそらく我々の艦隊の半分は、途中で失われるでしょう。たぶん私が悲観的過ぎるので、全艦艇はあるいは無事に黄海に着くかもしれません。しかし着いたとしても、東郷は、我々を木っ端微塵にしてしまうでしょう。東郷の艦隊は、我々よりはるかにすぐれており、それに日本人は根っからの水兵なのです。しかしここに、私は一つだけみなさなんに約束できます。ここにいる我々すべて、第二太平洋艦隊の全将兵は、少なくとも、いかに死すべきかは知っています。我々はけっして降伏しないでしょう。」(TOGO and the Battle of Tsusima N.F.Busch)

 

と説明しています。ロシアは海軍国ではない、日本の艦隊がすぐれている、という認識がみてとれます。

イギリス製の軍艦、規律・練度の高さは海軍の軍事専門家の中では当時世界的に有名で、とくに投資家・銀行家たちは、戦争の勝敗の行方は「ビジネス」と深くかかわっていることもあり、かなり正確に情報を集めていました。

 

「海軍もまた世界最強と言われていた」という言説は、ポーツマス条約の講和の不調に対する不満を緩和するために(日本海海戦の戦果を「大戦果」と誇張するために)流布されたものです。

 

「バルティック艦隊」について、いくつかの誤解を解いておきますと、もともと単体の艦隊として「バルティック艦隊」というものは存在しませんでした。

バルト海に展開している艦隊群を、極東の太平洋艦隊に編入するために、大移動させる、という計画をロシア海軍は立てました。

というのも、日本の連合艦隊と太平洋艦隊の勢力ではやや日本が上回っていたからで、追加艦隊を送り、増強する、という作戦です。

ミリタリーバランスを自国に有利にしてから戦闘を開始するのは常識。

そうして、バルト海の諸艦隊から艦艇を引き抜いて、第二太平洋艦隊を編成したわけです。

 

ですからこれに対する日本の対応策は明白です。

これらが合流すると日本に不利なミリタリーバランスになるため、すでにある太平洋艦隊を旅順港に閉塞し、第二太平洋艦隊と合流する前に、対馬海峡あるいは津軽海峡のいずれかでこれ迎撃する、という作戦になりました。

 

簡にして要なる作戦です。

 

190410月、第二艦隊が出発します。

ところが19051月、ロシアに旅順要塞陥落の報せが入りました。

これに焦ったロシアは、バルト海に残存していた艦艇をすべて結集し、第三太平洋艦隊を編成し、追加増援をおこないます。こうして、ロシアの海軍は、黒海艦隊をのぞいて、すべて日本に向けられることになったのです。

ですから、「世界最強といわれた」艦隊ではなく、旅順の第一太平洋艦隊と合流できれば、「ロシア最大といわれた」艦隊となる、と言うべきでしょう。

 

「陸軍は世界最強」、という評価をロシアは受けていましたが、海軍に関しては、当時はむしろ、日本が高く評価されていたのです。

 

以下は蛇足ながら… 

 

「コサック騎兵は世界最強の陸上部隊」、と当時の軍事関係者はあまり思っていません。

「騎兵」が陸軍戦力で重要な役割を果たしていたのは19世紀前半までのことです。司馬遼太郎の『坂の上の雲』の中で、「日本騎兵の父」と称される秋山好古にスポットが当てられ、その活躍をクローズアップするためもあり、そのような表現がされましたが、当時はすでに「機関銃」が開発されていて、騎兵は前時代の産物になりつつありました。

秋山好古も騎兵ではなく、機関銃を使用してコサック騎兵を撃退しています。

 

129】高橋是清は「イギリス」を納得させていない。

 

さて、以下は誤りの指摘ではありません。

念のために申し上げておきますと、

 

「高橋の活躍により、日本はようやく戦う準備が整った。」(P317)

 

と、説明されていますが、「日本の外債は開戦と同時に暴落しており…」(P316)とあるように、高橋が外債の発行の見込みを得たり、「ユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの知遇を得て」外債を引き受けてもらったりしたのは「開戦後」のことです。

 

ところで、「開戦と同時に暴落しており…」というのは実は正確ではありません。暴落は開戦の約一カ月前の14日に起こりました。

マーケットというのは、「見通し」で動くものです。

日露の開戦が近い、と、考えた「売り」市場となりました。

というか… まだ、戦費調達のための「外債」は発行していないので、それは、暴落はしません。

つまり、正確には、「開戦を前に、株式市場は大暴落し、このままでは戦費調達のための外債を発行しても引き受け手がなくなる」と説明したほうがよかったかもしれません。

高橋是清は、この困難な状態の中で、なんとか外債を引き受けさせる努力をしたのです。

 

「同盟国イギリスも『公債引き受けは軍費提供となり、中立違反となる』と考え、手をこまねいていた。」(P316)

「この難事に、日銀副総裁の高橋是清は自らロンドンに出向き…イギリスを納得させた。」(同上)

 

と、説明されていますが、おや?変な話をされるな、と思いました。

外債の引き受けは、ロンドンにいる投資家や銀行家が引き受けることで、イギリス政府は関係無いはずでは? そんな話じゃなかったような、と、思ってあらためて、学生時代に読んだ『高橋是清自伝()(上塚司・中公文庫)を読み直してみました。

 

やはり、話が違っていました。

まず、銀行家たちの外債引き受けをためらわせている理由が書かれています。

日露戦争は白色人種と黄色人種の戦いで、ロシアの帝室とイギリスの王室は縁戚関係にもある、ロシアにはフランスという大銀行を擁する国家の支援がある、軍事的にも不利だ、という思いから日本公債の発行を鈍らせている、ということがわかった、と。

そこで、「このたびの戦争は、日本としては国家存亡のため、自衛上已むを得ずして起こったのであって、日本国民は二千五百年来。上に戴き来った万世一系の皇室を中心とし、老若男女結束して一団となり、最後の一人まで戦わざれば已まぬ覚悟であるというような意味を雑談し」た、と自伝で是清は説明しています。

 

「当時銀行家たちは割合に日本の事情に暗く、常に非常な興味をもって聞いておった。かくして日一日と互いに心を開いて談ずるようになって来た。」

 

と記しています。。

ところがまた、銀行家たちはしぶるようになる… そこで話を聞いてみると、

 

「日英両国は同盟国ではあるが、イギリスは戦争に対しては、今なお局外中立の地位にある。ゆえにこの際軍費を調達することは、局外中立の名義に悖りはせぬかということであった。」

 

つまり、政府は中立なのに、われわれ銀行家が日本の外債を引き受けて咎めはうけぬか、という心配を銀行家たちはしているようなんです。

そこで高橋是清は説明します。

 

「自分にはよく判らぬが、かつてアメリカの南北戦争中に中立国が軍費を調達した事例もあるから、局外中立国が軍費を調達することは差支えないと思うが、君らが心配になるならば、貴君らの信頼せらるる有名なる法官や歴史家について調べて貰うがよかろう。」

 

そしてさらに自伝には、

 

「…その結果、法官や歴史家の意見としては、差支えないということに一致したので、銀行家連も私も安心した次第であった。」

 

と書かれています。

 

高橋是清はイギリス政府を説得したわけではなく、銀行家・投資家を説得していました。この流れの中でユダヤ人投資家のシフにも出会うのです。

日本は日露戦争開戦後、三カ月後にようやく第一次戦時国債を発行できました。

128】日露戦争は圧倒的に日本が不利な戦いではなかった。

 

「ロシア皇帝ニコライ二世は日本人のことを『マカーキ』()と呼んで侮っていた。」(P314)

 

これ、いまだに説明されていることなんですね…

司馬遼太郎の『坂の上の雲』で大津事件のことが説明され、そこで皇太子ニコライのイメージが定着してしまい、以来、ずっと言われ続けていることです。

司馬遼太郎は、よく、これ、やっちゃうんです。

『世に棲む日々』などでも高杉晋作が御成橋を突破した話や白昼堂々関所破りした話や、京都で将軍家茂に「よ!征夷大将軍!」と掛け声をかけた話… あげくに「くやしい思いをした」と江戸に手紙を書いた旗本もいた、と、までリアルなエピソードを添えてしまって…

これ、すべて架空の話なんです。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-11875631519.html

 

『坂の上の雲』の話でのニコライやロシア側の軍の日本を「侮る」エピソードはいずれも根拠不明なものが多く、いくつかは現在では否定されています。公文書にまで「マカーキ」と記されている、とまで説明されているのですが、皮肉ではなく、ほんとにそんな公文書があればぜひ、見てみたいです。

ニコライ2世は、筆まめな人で、いろんな手紙、日記が残っています。『最後のロシア皇帝ニコライ2世の日記』(保田孝一・講談社学術文庫)は、なかなかおもしろくて、ニコライは現在に生まれていたらツイッター大好きだったかもしれません。

これを読むと、日本が大好きだったことがわかります。

大津事件に対する人々の対応にも感謝していますし、襲撃した「津田三蔵」を憎んではいますが、「どこの国にも狂人はいるものだ」と日本人と犯人を明確にわけています。

長崎はことのほかお気に入りの街で、美しい街並みや日本建築、清潔な道などに感心しています。日本人の嫁をもらうことを真剣になやんでいる様子もうかがえます。

京都は昔の日本の首都であったとして、「モスクワ」と同じ、と書いています。

また、自分を助けてくれた車夫に勲章を授与していますが、「車夫の服装で来るように」とわざわざ命じて名誉礼をとっています。

「猿」と侮るような態度を彼は示していません。

ニコライが、対日強硬策をとるのは1902年以降、強硬派アレクセイエフの提言を採用して以降です。

わたしね、日記読んでみたんですが…

ありました!

 

190428日。

「この夜、日本の水雷艇が旅順に投錨中の我が軍に攻撃を加え損害を与えた。これは宣戦布告無しで行われた。卑怯な猿め、神よ我等を助けたまえ。」

 

これ… たしかに「猿め!」て、お怒りですが、これで日本人のことを猿と呼んでいた、とするのは適切ではないと思います。「幕府のイヌめ!」と言ってるような比喩ですよね…

ニコライ2世が「日本人のことを『マカーキ』()と呼んで侮っていた」というのは現在では俗説です。

 

日本は、当時、ロシアに比して弱小だったのでしょうか…

 

「ロシアに比べ大幅に国力の劣る日本は…」(P314)

「日本とロシアの戦争は、二十世紀に入って初めて行なわれた大国同士の戦いだった…」(P315)

「ロシアの国家歳入約二十億円に対して日本は約二億人五千万円、常備兵力は約三百万人対約二十万人だった。」(P315)

 

と、百田氏は説明されています。

当時の実質GDP(百万ドル)を算出したデータがあります。

(『日露戦争、資金調達の戦い』板谷敏彦・新潮選書)

 

日本 52,020

ロシア154,049

アメリカ312,489

イギリス184,6861

 

やはりロシアは日本の三倍の経済力がある、といえそうですが…

しかし、これでは正確ではありません。あたりまえですが、国の力は、「一人あたりのGDP」を算出しなくてはいけません。すると…

 

日本 1,180

ロシア1,237

アメリカ4,091

イギリス4,492

 

これ、経済的にはほぼ拮抗しているといえます。べつに戦争してはいけない相手の経済力ではありません。

日本の人口は約4400万人、ロシアは12500万人です。

問題は、これを背景とする軍事力で、日露戦争開戦時のロシアの常備兵力は約200万人で、それに対して日本は約20万人でした。これでは話になりません。

ところが…

日露戦争で動員された日本の陸軍兵力は戦地勤務が945000人、内地勤務・軍属をこれにくわえると1243000人です。

1905年の段階で戦地に展開されていた兵力はロシアが788000人、日本が692000人なんです。(『日露戦争研究の新視点』日露戦争研究会編・成文社)

 

実は、過去、日露戦争のロシアの戦力・経済力が「過大に」評価されていたようなのです。

これ、ポーツマス条約で講和が不利になる(あるいはなった)ことをふまえて、「日本はすごい相手と戦った」「負けて当然の戦いだった」「それなのに勝ったんだよ」という世論や評価をつくり出すために後に説明されるようになった言説です。

 

「当時、日露戦争は日本にとって絶望的と見られていた戦争だったのだ。」(P315)

 

というイメージをまさに作り出したかったわけです。

ですから、日露戦争開戦前の、ロシアの軍人の話なども、いくつか残っているのですが、どうも出典不明の、何の記録によるかあいまいな話が多いのです。

 

「ロシア陸軍の最高司令官アレクセイ・クロパトキンはこう嘯いた。『日本兵三人に一人で十分。今度の戦争は単に軍事的な散歩にすぎない』。また日本に四年間駐在していた陸軍武官はこう言っている。『日本軍がどれほど頑張ろうと、ヨーロッパの一番弱い国と勝負するのに百年以上かかる』。」(P315)

 

これもよくネットでみられる話なのですが…

1903年にクロパトキンは来日して、日本の視察をしています。

『世界史のなかの満州帝国』(宮脇淳子・PHP新書)では「陸軍戸山学校を視察」した時のもの、「百年以上かかる」の話は駐日陸軍武官パノフスキー陸軍大佐の話、として紹介されていますが、『児玉源太郎・日露戦争における陸軍の頭脳』(神川武利・PHP新書)では、クロパトキンが言った言葉は「日本兵一人半に、ロシア兵は一人で間に合う。」となっていて、「百年かかるだろう」と言った人物は「ワンノフスキー」という人物と紹介されています。

人物も異なりますし、「三人に一人」「一人半に一人」など表現も異なります。

 

正直、この話、わたしは懐疑的なんです。

というのも、前に、1902年以降、ロシア政府内でも対日強硬派と対日融和派に分かれていた、という話をさせていただきました。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12441383804.html

 

アレクセイエフが強硬派、そしてクロパトキンは融和派だったんです。

クロパトキンは、1903年に来日して日本の実情を視察し、日本の軍事力を高く評価しています。

そして帰国するや、なんと日本との戦いを回避する行動に出ました。日本には強気な発言をしてみせた可能性はありますが、来日中クロパトキンを接待した村田惇少将と雑談していてその中でも戦う意思がない話をしていますし、陸軍大臣寺内正毅にも「日本と開戦するは決してのぞましきことにあらず」と説明しています。(『日露戦争史』横手慎二・中公新書)

 

「これだけばかにされていたのに勝ったのだ」ということを強調するためのネタにクロパトキンの逸話が利用されてきたような気がします。

実際、『坂の上の雲』やその他の話でも、「クロパトキン愚将」説はなかなか消えていません。

あいかわらず、「虚像と誇張の日露戦争」が再生産されています。

127】日露戦争開戦過程が不正確である。

 

「ロシアは長年にわたって不凍港を求めていたが、明治一一年(一八七八)のベルリン会議で、地中海に面するバルカン半島への南下政策を阻まれたため、代わりに極東地域での南下に力を入れていた。遼東半島を清から租借したのもそのためであり、朝鮮半島も狙いの一つだった。」(P313)

 

と説明されています。

ちなみに「遼東半島」そのものを租借したのではなく、勢力範囲の一つとしました。租借したのは大連と旅順です。

さて、露土戦争(ロシア=トルコ戦争)に勝利したロシアは、サン=ステファノ条約を締結してバルカン半島への進出が可能になりました。

ところが、ビスマルクの「仲介」によるベルリン会議で、結局、バルカン半島への影響力を低下させられてしまいました。

 

1878年のこの会議から、大連・旅順の租借までには20年を要しています。

ベルリン会議でバルカン方面への南下を阻止されたから、極東地域の南下に力を入れた、というのは、ちょっと単純すぎる世界情勢の説明です。

 

ロシアの南下ルートは、三つあります。

一つはバルカン方面、もう一つは中央アジア方面、そしてもう一つが極東です。

ベルリン会議後、ロシアの南下は、極東では無く、中央アジア方面にうつりました。1881年に清とイリ条約を結び、イリ地方(新疆方面)に進出、そして中央アジア南部に勢力をのばし、ヒヴァ・ブハラを保護国化し、コーカンド=ハン国を併合してロシア領トルキスタンを形成しています。

ロシアはアフガニスタンへの影響力を行使しようとしますが、イギリスに阻止されてしまいます(第2次アフガン戦争)

80年代後半から日清戦争開始前までは、ロシアはヨーロッパの国際関係の調整(ドイツとの対立、フランスとの同盟)に注力し、日清戦争後に極東への南下政策を進めました。

アメリカやフランス同様、ロシアは朝鮮半島進出を企図していたものの、山県・ロバノフ協定で日露関係を調整し、三国干渉後に旅順・大連を獲得すると、西・ローゼン協定で、韓国から手を引き、満州進出に力を入れるようになったのです。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12441109351.html

 

「遼東半島を清から租借したのもそのためであり、朝鮮半島も狙いの一つだった。」と説明されてはいますが、朝鮮半島への興味はこの時点では無くなっていました。

 

「『義和団の乱』の後、各国が満州から軍隊を撤退させたにもかかわらず、ロシアだけは引き揚げず、さらに部隊を増強して事実上満州を占領した。」(P313)

 

と説明されていますが…

「各国が満州から軍隊を撤退させたにもかかわらず」という説明は誤りだと思います。満州にはもともとロシアしか軍を派遣していません。

「義和団事件後も、ロシアは満州から兵を撤退させず」が正しい表現だと思います。

 

この満州への兵力増強と、大韓帝国の皇帝高宗が日本ではなくロシアへの接近を始めたことに日本が危機感を感じて、西・ローゼン協定があるにもかかわらず、このままでは韓国をもロシアに奪われるのではないか、と懸念し始めるのです。

この視点を忘れると、後の韓国の保護国化の過程が誤って理解されるので指摘しておきますが、大韓帝国の皇帝高宗と政府は、日本の支配をのぞまず、ロシアとの関係を強化したい、と考えていました。

 

「ロシアに比べ大幅に国力の劣る日本は、万が一、戦争になった場合のことも考え、明治三五年(一九〇二)、イギリスと同盟を結んだ(日英同盟)。」

 

と、説明されていますが、「万が一」のことを考えていたのではなく、ロシアとの戦争は、もはややむなしと考えて日英同盟を結んでいます。()

 

「しかし大国ロシアに勝てる可能性は低いと考えていた政府は、ぎりぎりまで外交交渉で戦争を回避する道を模索した。」(P314)

 

と、説明されています。

その後、「ロシアが提案を蹴った」ため、「ロシアとの戦争は避けられないと覚悟する」という説明をされていますが、実際は違います。

 

そもそも三国干渉で、日本は「臥薪嘗胆」を合い言葉にし、ロシアを仮想敵国として軍備の充実をはじめ、国力を充実させていたことを忘れられたかのような表現です。

 

政府内の「満韓交換論」(日露協商論)1900年から伊藤博文と井上馨が中心になってすでに提唱されていました。

これに対して、山県有朋・桂太郎、そして小村寿太郎ら外務省の官僚たちは日露協商が成立しても刹那的なもので、ロシアはすぐに放棄する、と反対を唱え、「日英同盟論」を提唱しています。

1902年の段階で、この議論はすでに終わっており、伊藤も日英同盟やむなしと方針を転換し、日英同盟の成立となりました。

日英同盟後に、「満韓交換論」が出てきたのではありませんし、「ぎりぎりまで」「戦争を回避する道を模索」したわけではありません。

「万が一、戦争になったときのことを考えて」ではなく、「ロシアとの戦争に備えて」というべきでしょう。

 

ところが、日英同盟が結ばれると、ロシアのほうも実は対日強硬論と対日融和論に意見が分かれました。

このとき、ニコライ2世に強硬論を説いたのがエフゲニー=アレクセイエフです。彼は海軍軍人で、黒海艦隊の副司令官なども歴任しており、南下政策をことごとくイギリスによって阻止されてきたことを経験しています。

「満州・中国だけでなく朝鮮半島も支配下に置くべし」と主張し、ニコライ2世もこれに賛同します。

つまり、ロシアが朝鮮半島を支配下に置くことを具体的に企図したのは1902年からで、この人物が極東総督に任じられてから、ロシアの日本への要求は厳しくなりました。

 

「満韓交換論を提案する」

「ところがロシアはその提案を蹴った。」

「日本はロシアとの戦争は避けられないと覚悟する」

 

と、説明されていますが、これは一面的な説明で、不正確です。

これでは日本の提案をロシアが蹴って戦争が始まったかのような印象を与えます。

 

実際は、日本が「満韓交換」を提案する、それをアレクセイエフが拒否し、かわって今度はアレクセイエフが「朝鮮半島北部を中立地帯にし、南部を日本の勢力圏とする」という案を提示したのです。

これを日本は受けられない、と、拒否して、「明治三七年(一九〇四)二月四日、御前会議(天皇臨席による閣僚会議)において日露国交断絶を決定し、二日後の六日、ロシアに対してそれを告げた」(P315)のです。

 

(以上は以下を参考にしています。)

『ベル=エポックの国際政治 エドワード七世と古典外交の時代』(君塚道隆・中央公論新社)

『日本外交史1853-1972』(信夫清三郎編・毎日新聞社)

『旧外交の形成-日本外交一九〇〇~一九一九』(千葉功・勁草書房)

『日英同盟 協約交渉とイギリス外交政策』(藤井信行・春風社)

『軍国日本の興亡-日清戦争から日中戦争へ』(猪木正道・中公新書)