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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

『日本国紀』に関しては、いろいろな方がいろんな角度から批判やご意見があるようです。

 

たとえば、「参考文献の掲載が無い」「史料の引用が無い」ということも話題になっているそうですが…

私は、これに関してはそれほど問題を感じてはいません。

 

ただ、「教科書などにも参考文献や引用先が記されていない」、という「ご指摘」「反論」には、ちょっと待ってほしい、と思います。

 

「教科書」は日本では、かなり特殊な「書籍」です。

「検定制度」があるからです。

検定に際しては、いっぱい指摘がされて、参考文献やソースを要求されて提出しなくてはなりません。

書いて,出して、検定して、ハイおしまい、ではありません。

教科書に引用先、参考文献の「記載が無い」、と、いうのと引用・参考文献が「無い」ということは別です。

ですから、変な話ですが、『日本国紀』を教科書にしようとして検定に出せば、たぶん大量の指摘がされて、それに応える形で参考文献、史料・資料を提出しなくてはならなくなります。

 

ただ、現行の教科書の場合は、参考文献は直接掲載・紹介されてはいないかもしれませんが、ナマの「史料」、つまり原文の史料、それから写真などはちゃんと掲載されています。(小・中の教科書の場合は現代語訳で掲載されています。)

ナマの史料が載せられている、というのは、これは参考文献掲載よりも「説得力」があり、ちゃんとその史料も出典が書かれています。

 

次に、日本史に関する書籍、とくに「通史」には参考文献が無いではないか、という指摘ですが、まぁ細かく載せているものは少ないと思います。

「主要参考文献」、という形で引用箇所も細かく指摘せずに載せているものがあるくらい…

ですから、最初に申し上げたように、わたしもそれほどこれに関しては問題を感じてはいません。

 

ただ、それらの本と『日本国紀』の場合が違うのは、百田氏によって、従来の説、通説とは異なる指摘がされている箇所がある、ということです。

「学者の中には~」「教科書では~」とことわって、その説、立場をかなり強い口調で否定する言説が散見できます。

こういう場合は、やはり「引用」「根拠」を示す必要があるのではないでしょうか。

 

「参考文献提示がない」「引用先(ソース)を示せ」というご指摘の中には、この部分に関する要求が含まれていると思います。

「そんなに言うならソースを出せ」という側の気持ちもよくわかります。

 

「『日本国紀』だけにそれを求めるのはおかしい」というご意見に関しては、「それをそう説明しているのは『日本国紀』だけだからです」という場合もあるからだと思います。

 

私は、誤った事実からは誤った感想が生まれると思っています。

誤った事実をもとに思考すれば、誤った結論に至ると思っています。

どれだけ素晴らしいご意見であっても、それが誤った事実の上に立っていたなら「砂上の楼閣」です。

 

126】朝鮮半島は「火薬庫」になっていない。

 

「火薬庫となる朝鮮半島」(P312P315)という項目があります。

 

「清を破って自国を解放してくれたことで、大韓帝国内では親日派が台頭したが、日本が三国干渉に屈したのを見ると、今度は親日派に変わって親ロシア派が力を持った。いかにも朝鮮らしい事大主義(強い他国に従っていくという考え方)の表われである。」(P313)

 

たいへん不正確で史実と異なります。

そもそも大韓帝国は1897年に成立しました。大韓帝国が成立してから三国干渉(1895)がおこなわれたのでもなければ、親日派が台頭したこともありません。時系列も誤っていますし事実関係も正確ではありません。

 

改めて以下に整理しますと。

18957月、三国干渉の後、閔氏政権は親ロシアの方針に切り替えました。

それに危機感をおぼえた日本の公使三浦梧楼らが10月、クーデターを決行して閔妃を殺害し、大院君を擁立して親日政権を立てます。

ところが1896年に再びクーデターが起きて日本の勢力が排除されます。

日本は国王を捕らえて廃位しようとする動きをみせたため、高宗はロシア公使館に居をうつします(露館播遷)

この点、高宗に同情できなくはありません。

閔妃は日本によって殺害されたわけですし、自身の廃位を画策した日本への不信はぬぐえません。

軍事力も治安維持力も劣る朝鮮がロシアに保護を求めたのは、(私も事大主義だという百田氏の指摘に同意しないわけでもありませんが)、この状況では仕方が無いように思います。

それよりも、この過程で、三浦梧楼によるクーデターと閔妃殺害事件にまったく触れずに、この時期を説明するのは不正確で誤解をまねく説明だと思います。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12440878205.html

 

「親ロシア領事館に匿われて政治を行っていた。どこの国に、自国内にある他国の領事館に住んで政治を行なう国家元首がいるだろうか。」(P313)

 

と、説明されていますがこれも誤りです。

(まず「領事館」ではなく「公使館」なのですが)この「露館播遷」は1896211日から1897220日の一年間で、しかも大韓帝国成立(189710)の前の話です。

この文脈だと、大韓帝国成立後に公使館で政治をしていたかのような誤解をあたえかねません。

 

「高宗はロシアに言われるがまま自国の鉱山採掘権や森林伐採権を売り渡した。」(P313)

 

と、ありますが、これも一面的な説明です。

百田氏は、過度にロシア単独の「脅威」を強調されていますが…

 

1896年3月にアメリカが金鉱採掘権、京仁鉄道敷設権、首都の電灯・電話・電車敷設権を得ています。

同年4月にロシアが鉱山採掘権を得ています。

同年7月にフランスが京義鉄道敷設権を得ています。

同年9月にロシアが豆満江・鴨緑江上流・鬱陵島・茂山の森林伐採権を得ています。

そしてこの間、5月と6月に二度、日露議定書が交わされて朝鮮半島での利権を調節する話し合いをしています。

とくにロシアだけが朝鮮に進出していたわけではありません。そしてこれらは、すべて大韓帝国成立(1897年)前のことです。

 

さて、この李氏朝鮮内での親日派、親ロシア派による内紛は、そのまま日本とロシアの対立に発展してしまいます。

そこで18969月、山県有朋(当時首相)とロシア外相ロバノフがペテルブルクで会談をします。

 

(1)朝鮮の独立を相互に保証すること。

(2)朝鮮の財政改革を進めること。

(3)朝鮮の警察・軍隊を組織すること。

(4)電信線を維持すること。(クーデターのときに電信線を切る事件があったので)

 

の四つを相互に確認しました(山県・ロバノフ協定)

 

この後、1897220日、高宗はロシア公使館から慶運宮へ遷り、同年10月に大韓帝国の成立となります。

 

「…それはかつての清の属国時代よりもひどい有様で、もはや植民地一歩手前の状態となっていた。この状態が続けば、朝鮮半島全体がロシアの領土になりかねず、そうなれば日本の安全が脅かされることは火を見るよりも明らかであった。」(P313)

 

これだけはっきりと誤ってこの時期を説明しているものは珍しいです。

すでに説明したように、朝鮮には、ロシアだけでなく、アメリカ・フランスも進出していて、さらに日本はロシアと議定書を二度も結んでいます。

この時期、朝鮮半島では利権をめぐって列強のバランスがとれている状態でした。

ですから、このバランスを背景に、1897年に朝鮮は大韓帝国として「独立」できたのです。

ここで過度に韓国をめぐる、ロシア単独の脅威が説かれているのは不適切です。

 

1898315日、ロシアは清から旅順と大連を租借することになりました。

ロシアが朝鮮半島に進出することを企図したのは、不凍港を求める「南下政策」が理由でした。ですから、旅順・大連を租借したことで、ロシアの韓国に対する関心は、一気になくなってしまったのです。

ロシアの動きは速く、323日には韓国からロシアは軍事・民事アドバイザーを全員退去させてしまいました。

そして425日、日本とロシアは東京で会談し、外務大臣西徳二郎と駐日ロシア公使ローゼンの間で協定が結ばれます。

 

(1)ロシアは韓国への日本の非軍事的投資を妨害しない。

(2)日本は満州におけるロシアの勢力範囲を認める。

(3)ロシアは韓国が日本の勢力範囲になることを認める。

 

としたのです(西・ローゼン協定)

 

「この状態が続けば、朝鮮半島全体がロシアの領土になりかねず、そうなれば日本の安全が脅かされることは火を見るよりも明らかであった。」(P313)

 

というのが史実に基づかない百田氏の想像に過ぎず、しかもその想像も誤りであることは明確です。

1899年、義和団の乱が起こる前に、朝鮮半島の日露間の問題は決着がついていました。

アメリカ公使アレンも西・ローゼン協定によって、「朝鮮半島におけるロシアの影響が完全に撤退した」と説明しています(Korean-American relations.3.The period of diminishing influence,1896-1905 George MacAfee McCune 1989)

 

「この状態が続けば、朝鮮半島全体が『日本』の領土になりかねず、そうなれば『大韓帝国』の『独立』が脅かされることは火を見るよりも明らかであった。」

 

と、説明しなおすことも可能でしょう。

実際、後の史実をみればわかるように、15年を経ずに、そうなりましたから…

 

125「たった一つの言語で古今東西の文学を読めた国は日本だけ」ではない。

 

 「義和団の乱」の説明に付属したコラムで、柴五郎が紹介されています。

 

 ロンドン・タイムズ紙の社説が紹介されているのですが

 

 『籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ』と記したが…(P312)

 

 この「社説」、出典がわからないんです。

 インターネット上の説明(Wikipedea)にも、これと一言一句同じ文章が紹介されていて、

 

「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ。」

 

 と説明されているのですが、こちらにも出典が明示されていません。日付などがわかれば調べようもあるのですが不明です。

 「男らしく」という訳も原文がどのような単語であったのかも興味があります。「北京籠城」という表現は、柴の回顧録などにも使用されているものです。

義和団の乱の渦中にいたロンドン・タイムズ特派員モリソンの書いた社説かと思ったのですが、そちらは、

 

「公使館区域における救出は日本のおかげであると列国は感謝している。列国が虐殺・国旗侮辱を免れたのは日本のおかげである。」

 

というもので、似ても似つかない表現ですし…

こちらには、有名な「日本は欧米列強の伴侶たるにふさわしい国である」という文が続きます。

もし、どなたか出典がわかる方がおられればお教えいただきたいです。

 

「柴は、イギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与された。柴五郎は欧米で広く知られた最初の日本人となった。」(P312)

 

という表現は、ちょっと

 

柴五郎の活躍はもちろん否定しませんが、「欧米で広く知られた最初の日本人」を柴五郎と断じているのは誤りでしょう。

「欧米で広く知られた日本人」は、幕末から1900年まででは、かなりたくさんおられます。

いや、それどころか、葛飾北斎や安藤広重などは、印象派の画家に、ものすごい影響を与えたわけで、1860年代のジャポニズムの流行もあり、欧米では広く知られた日本人です。

もっと言えば、「米」はともかく「欧」ならば、戦国時代末期、ルイス=フロイスが『日本史』を著していますから「オダノブナガ」が知られた日本人ともいえます。

 

幕末・明治に話をもどすならば、新島襄などもその一人でしょうし、北里柴三郎などもそうです。

不思議なのはP329の「明治を支えた学者たち」で、「世界で欧米人の成し得なかった偉大な業績を残した」とちゃんと紹介しているのに、なぜ柴五郎を「欧米で広く知られた最初の日本人」とされたのか…

 

教育者・研究者などは教え子も論文回覧も多くの数になりますから知名度、貢献度はかなり高いはずです。

新渡戸稲造の『武士道』は1900年に英語・ドイツ語・フランス語で訳されて大ベストセラーになりました。同時代にしぼれば、柴五郎よりも新渡戸稲造のほうがはるかに有名でした。

これは百田氏の、筆がすべってしまった失敗、としか言いようがありません。

 

筆がすべった、というならば、P331P332のコラムの中で、

 

「余談だが、『○○である』という表現もこの時代に編み出され、用いられるようになったものだ。」(P332)

 

と、説明されていますが

明治時代の話、ということに乗っかれば、これはもともと長州の方言で、「であります」が由来です。長州出身者の指揮官が多い陸軍で、「です」を「であります」に統一したせいだ、と言われていますが…

というか 「○○である」という表現は、戦国時代にもありました。

太田牛一の記した『信長公記』の中で、信長が「デアルカ」と返答した話が出てきます。

 

いや、それにしてもこのコラムでの百田氏の筆の滑りっぷりはすごいです。

 

「また日本は欧米の書物を数多く翻訳したことにより、日本語で世界中の本が読める特異な国となった。おそらく当時たった一つの言語で、世界の社会科学や自然科学の本だけでなく、古今東西の文学を読めた国は日本だけであったと思われる。」

 

おそらく百田氏だけがそう思っています。

英語やドイツ語、フランス語などに翻訳されている世界の書籍は、日本語に訳されたものをはるかに凌駕しています。これ、いちいち説明する必要もありませんよね。

 

「同時代の中国人や朝鮮人、それに東南アジアのインテリたちが、懸命に日本語を学んだ理由はここにもあった。当時、日本語こそ、東アジアで最高の国際言語であった。」(P332)

 

そんな理由はありません。

そもそも外国の書物を読むのに日本語を学ぶ必要もありません。

これは、いちいち説明したほうがよいと思うので以下、説明させていただきますと

 

明末清初にかけて中国を訪れた宣教師たちが、科学技術書などを中国語に翻訳して紹介しています。マテオ=リッチなどはユークリッドの幾何学を翻訳して紹介しています(『幾何原本』)。

中国の人は、日本語に翻訳された世界の書物を、いちいち日本語を学んで読む必要などはまったくなく、数多くの翻訳が清代を通じて出版されてきました。

1860年代の洋務運動でも翻訳事業は重要なものです。1862年には京師同文館がつくられ、以来、西洋の書物を翻訳して出版しています。

 

19世紀末から20世紀初めでも、中国では翻訳・出版はさかんでした。

フランスから帰国した王寿昌は、デュマの『椿姫』を中国語に訳して紹介していますし、林紓はシェイクスピア、バルザック、ディケンズ、イプセン、日本の徳冨蘆花など、世界10余国、170種類の文学を660冊以上翻訳して出版しています。

厳復は、ポーツマス軍事大学に学び、西洋思想の紹介に力を入れ、アダム=スミスの『諸国民の富』(『原富』)、モンテスキューの『法の精神』(『法意』)、J・S・ミルの『自由論』(『群己権界論』)を翻訳しています。

 

「当時たった一つの言語で、世界の社会科学や自然科学の本だけでなく、古今東西の文学を読めた国は日本だけであった」わけがなく、「当時、日本語こそ、東アジアで最高の国際言語であった」わけでももちろんありません。

 

124】日清戦争後の中国への列強進出の背景を誤解している。

 

「日清戦争は、列強に『清帝国は弱い』という事実を教えることになった。」(P309)

 

という説明は、昔からよく言われているものです。

 

「…実は『弱い国』であることを列強は知った。清は『眠れる獅子』ではなく『死せる豚』と揶揄された。」(P309)

 

と続いて説明されています。

 

実は、この見方は、欧米のマスコミなどの「表現」で、それぞれ列強は百田氏も指摘されているように、アヘン戦争・アロー戦争・清仏戦争を通じて、日清戦争以前から十分「弱い国」であることを知っていて、戦争すれば十分勝てることはわかっていたのです。

ただ、戦争はコストがかかってムダですし、中国への軍事的進出は、列強間の国際関係のバランスを崩して、余計な対立を生み出し、それがヨーロッパやアフリカの情勢に影響を与えるために、どこの国も、「楽して得する方法」のチャンスをうかがっていただけでした。

 

日清戦争は、列強にとってコストと犠牲を日本に肩代わりしてもらい、中国に進出する絶好のチャンスとなったのです。

「日本に好意的な態度」を示していたのに、イギリス・アメリカが局外中立を宣言したのも、これが理由でした。

敗戦をきっかけにいっそうの近代化の必要性を感じ、また多額の賠償金を支払わなくてはならなくなった中国に、列強は借款を申し入れ、「その見返り」にさまざまな恩恵を得ることができたのです

 

世界史の教科書では、この考え方がすでに反映されていて、

 

「日清戦争後、清では近代国家建設が提唱され、すでにすすめていた全国の電信網が完成し、財政難を理由に外国からの借款にもとづいて鉄道網を整備することとなった。」(『世界史B』東京書籍・P328)

 

と説明します。ですから、

 

「…三国干渉に対して見返りを求め、ロシアは明治二九年(一八九六)に東清鉄道敷設権を獲得…」(P309)

 

と、百田氏は説明されてしまっていますが、これは1896年の露清密約によるもので三国干渉の見返りではなく、財政難による借款の見返りです。

 

「他方、日本だけでなく、ヴィルヘルム2世の拡張政策のもとにあるドイツ」が「山東半島の膠州湾を租借地とし青島に海軍基地を建設すると、ロシアが旅順、大連に、イギリスが山東半島の威海衛にそれぞれ租借地を設定した。」

 

と説明します。

ちなみに、ドイツの膠州湾租借も「三国干渉の見返り」ではありません。

三国干渉後も、ロシア・フランス(露仏同盟)に比べて中国進出は出遅れていて、進出の口実を模索していました。

「うまい具合に」ドイツ人宣教師殺害事件が起こり、それをきっかけに(在留ドイツ人保護を名目に)膠州湾租借を実現しています。

そしてこれが後の「義和団事件」の遠因となります。

 

西洋列強は租借地を拠点にして、鉄道敷設権・鉱山開発権を経済援助、近代化協力、財政難の借款と引き換えに手に入れていったのです。

ちなみに租借は、割譲と異なり、租借料を支払っていて(国と条約、場所によって異なります)、租界は地主などに賃料を支払う借地契約です。

 

「日本に干渉してきた国々の『極東の平和を乱す』という理由が、まったくの口実にすぎないことを自ら証明したような行ないである。」(P310)

 

と、列強を非難されていますが、皮肉なことに、日清戦争を利用して、列強はいっさい戦いをすることなく、「極東の平和を乱す」ことなく利権を手に入れていったのです。

 

123】「三国干渉」時の国際関係を誤解している。

 

「…下関条約が結ばれた六日後、ロシアとフランスとドイツが、日本に対して『遼東半島の返還』を要求した。」

「…満州の利権を狙っていたロシアが、フランスとドイツに働きかけて行なったものだった。フランスとドイツはこの干渉に参加することによって清に恩を売り、その見返りを得ようという目論見があった。互いがロシアと接近するのを拒むために、敢えて手を結んだという事情もあった。」(P308)

 

1890年代のヨーロッパの国際関係の情勢に基づかない説明が含まれています。

 

ドイツは、1890年にビスマルクが退任し、皇帝ヴィルヘルム2世による親政が始まっていました。

フランスを孤立化して、ドイツの安全保障を確立するための同盟関係を作っていたビスマルク体制は大きく転換されます。

ヴィルヘルム2世は、イギリスやフランスのように海外に植民地を持つことを考え、「世界政策」に大きく外交政策の転換をおこなおうとする矢先でした。

ビスマルクはロシアとのつながりを重視していましたが、ヴィルヘルム2世は、ロシアがバルカン半島をめぐって対立していたオーストリアとの関係を重視します。

このため、ロシアはフランスと接近し、1891年に露仏同盟を結び、1894年にはその関係をさらに強化していたのです。

ですから、フランスはアジアにおいてもロシアと歩調を合わせるのは当然で、「敢えて手を」結んだわけではありません。同盟に基づいた行動です。

ドイツは、「世界政策」に舵をきっており、首相ホーエンローエは、ロシアの注意と進出をバルカンから極東にふりむける好機ととらえ、「協力」をすることを企図しました。また、それまで出遅れていた中国市場への参入のチャンスでもあったのでロシアの呼びかけに応えたのです。

 

陸奥宗光は、彼の外交手記『蹇蹇録』を読む限り、ロシアによる干渉を予見していました。しかし、アメリカとイギリスが日本に好意的であったこと、それから当初ドイツが条約に問題なしと通知していたことから、干渉を退けられると考えていたのです。ところが、イギリスとアメリカは中立を宣言してしまい、ドイツがロシア側についたことで、要求をのまなくてはならなくなりました。

 

「しかし清から得た二億テールという莫大な賠償金(当時の国家予算の四倍)と遼東半島の還付金三千万テールは日本の経済を繁栄させた。」(P309)

「そのため多くの国民が『戦争は金になる』という誤った意識を持った。この意識が後に日本を危険な方向に導くもととなる。」

 

日清戦争の結果、「戦争は金になる」という誤った意識を国民は持ったのでしょうか。

そしてこの意識が日本を危険な方向に導くもととなったのでしょうか。

「独特な説明」としか言いようがありません。

 

三国干渉を甘んじて受け入れなくてはならなくなった憤慨の声が高まり、「臥薪嘗胆」の合言葉が叫ばれ、政府もそうした気運のなかで軍備拡張と国力の充実をめざし、軍備拡張と重工業分野拡張のために賠償金の多くを使います。

そもそも日清戦争のために約2億円を費やしています。ですから賠償金(遼東半島返還にともなう追加賠償金を含む)36000万円は巨額ですが、さきのマイナス分の補填にも使用されています。

動員された兵力は10万人で、日本側の死者は17000人…

ところが実は、死者の七割は戦地での病死で、変な話ですが、「戦争による犠牲」、という意識が後の日露戦争に比べて桁外れに希薄でした。

「この意識が日本を危険な方向に導くもととなる」と、あたかも国民自身に後の戦争の責任の一端があるかのような示唆です。

後の日露戦争は、日清戦争とは異なり、多くの国民が増税に耐えて戦争を支え、110万人を動員して20万人もの戦死者を出したのにもかかわらず、日本の戦況について真相を知らされないままの戦争だった、ということを忘れてはいけません。