こはにわ歴史堂のブログ -21ページ目

こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

139】第一次世界大戦へのイギリスの参戦理由が不正確である。

 

第一次世界大戦の「宣戦布告」の話がされています。宣戦過程なのですが…

 

「…これを受け、フランスとロシアの同盟国であるイギリスがドイツに宣戦布告する。」(P336P337)

 

と説明されているのですが、「同盟」と「協商」は実は違うのです。

ロシアとフランスの「同盟」と、イギリスとフランス、イギリスとロシアの「協商」はかなり違います。「協商」はinterest(利害)を調整して、友好関係を整えることで、援助義務規定をともないません。

イギリスとフランスは主としてアフリカにおいて、イギリスとロシアは中央アジア・中国などにおいて利害関係を調整し(勢力範囲をとりきめ)、相互に敵対的関係にならない、という「合意」をおこなっているものです。

これ、よく間違えるんですが、イギリスはフランス・ロシアに軍事的協力や安全保障を共有する(集団安全保障)ような約束はしていないんです。

「同盟」は「援助義務規定」が明記され、ロシアとフランスは1891年の同盟において政治協力、そして1894年において軍事協力を約しました。

よく生徒にも、露仏同盟が91年と94年、両方表記されている理由を問われるのですが、

1894年同盟は、より強化されたものであると説明します。

イギリスがドイツに宣戦布告したのは、「フランスとロシアの同盟国」だからでは実はありません。

意外に思われますが、第一次世界大戦前および開始段階ではイギリスは「中立国」だったんです。

極論を言うと、オーストリアとロシアの戦争(バルカン問題)、フランスとドイツの戦争(普仏戦争以来のアルザス・ロレーヌ問題)だけならイギリスは「傍観者」でした。

ところが、ドイツがフランスと戦うにあたって、ベルギーを通過することが有効な作戦(シュリーフェン・プラン)であり、ベルギーに対して通過の許可要求を出しました。

19世紀前半に、ベルギーはオランダから独立したのですが、その独立の条件として「永世中立」を宣言していて、オランダとベルギーをイギリスがとりもってこれを成立させました(ロンドン条約)

ドイツ・フランスの対立が激化しても、ベルギーが中立であるとドイツもフランスも有効な軍事展開ができません。西欧の安全保障の要がベルギーでもありましたし、何よりベルギーが占領された場合、イギリスの安全保障にも問題が生じます。

ですから、イギリスはベルギーとの友好・協力関係をずっと続けていました。

ところが軍事作戦の必要上、ドイツはベルギーを通過しようとしたのです。

ベルギーははっきりとドイツの「要請」を拒否します。「われわれは道ではない」と。

ところが、ドイツはそれを無視すると宣言しました。

イギリスは、このため、ドイツに宣戦しました。

ドイツ首相ベートマン=ホルヴェークは驚きました。「たった一片の紙きれ(ロンドン条約のこと)で戦争するのか…」と。

イギリスとベルギーの関係を甘く考えていたようです。

ですから、「フランスとロシアの同盟国であるイギリスがドイツに宣戦する」という表現は誤りで、このように説明する教科書は現在ではもうありません。

 

「ドイツは8月はじめ、かねてからの計画に従って、ロシアとフランスに宣戦し、中立国ベルギーに侵入して、まずフランスをめざした。イギリスは、中立国侵犯を理由にドイツに宣戦し…」(『世界史B』東京書籍・P337)

 

というように、ロシア・フランスの参戦経緯と明確に区別して示しています。

「三国同盟」(イタリアは連合国側で参戦して三国同盟として第一次世界大戦は戦っていない)対「三国協商」の戦い、という単純な説明は現在の教科書ではしていないのです。

 

以下は誤りの指摘ではありません。

 

「ヨーロッパ諸国で中立を保ったのは、永世中立国スイスを別にすると、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーなど、一部にすぎなかった。」(P337)

 

スペイン、オランダも中立でした。「など」とまとめるには無視できないヨーロッパの主要国ですので追加しておいたほうがよいと思います。

138】辛亥革命の説明が不正確で、「ヨーロッパの火薬庫」の説明が間違っている。

 

ようやく第十章にたどりつきました。

まず、同時代の世界の歴史の説明から始まっています。

ただ、いくら日本史の通史とはいえ、世界を概観する以上は、ある程度は正確な説明をしないと、近現代以降は、日本史も世界史です。簡潔であっても慎重・丁寧な説明が必要だと思います。

 

「明治四四年(一九一一)、義和団の乱(北清事変)以降、すっかり国力が落ちていた清帝国の各地で、『清朝打倒』を掲げる漢人による武装蜂起が相次いだ。」(P335)

 

以下は誤りの指摘ではありません。

なぜ、清朝打倒が叫ばれたのか、つまり、義和団の乱のときは「扶清滅洋」のスローガンだったのが、なぜ清朝打倒に変わったのか、これだけではむろんわからないと思うので補足させていただきますと…

 

まず、義和団の乱の賠償金は、人々の重税に転嫁されました。

「滅洋」の頂点にあったともいえる保守派の西大后は、あっさりと「洋化」に転じ、義和団の行動を否定してしまいました。

これが人心が離れるきっかけとなってしまいました。

さらに、「光緒新政」とよばれる改革は、立憲君主政をめざすものでしたが、組織された内閣には満州人がほぼ全席を占め、さらには財政立て直しのため、地方に認めていた利権を廃止し、すべて中央に集約してしまおうとしました。

続いて、清政府は、民間資本で建設されていた鉄道を国有化しようとし、その資金不足を外国からの借款で賄おうとしたのです。

外国から借款を受ける、債務超過になる、鉄道経営権が奪われる…

帝国主義諸国の常套手段です。

こうして民間資本家や地方勢力が結び、四川省で暴動が起こります。

この暴動を鎮圧しようと、軍が派遣されたのですが、武昌に残されていた軍の兵士たちが、革命勢力と呼応して蜂起し、民間資本家・地方勢力・軍が一体となって独立を宣言しました。

これが辛亥革命です。

アメリカにいた孫文が帰国すると、民間資本・地方勢力・軍の「接着剤」として声望の高い孫文が指導者に推戴され、1912年、孫文が臨時大総統となって中華民国が成立することになります。

 

「…南京に臨時政府『中華民国』が誕生し、孫文が臨時大総統となった。翌月、清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)は退位させられ、ここに清帝国二百九十六年の歴史に幕を閉じる。中華民国はほどなく軍閥(多くの私兵を抱えた地方豪族)の袁世凱が実権を握り、孫文を追い出して大総統となる。」(P335)

 

と説明されています。

清政府は、北洋新軍の首領袁世凱に中華民国臨時政府と交渉をさせました。

そして、袁世凱と孫文が「取引」をします。

袁世凱は、宣統帝溥儀や皇室の身分、生活保障などの優待条件と引き換えに皇帝の退位を承諾しました。孫文は、中華民国の制定した憲法とでも言うべき「臨時約法」の順守、共和政の採用、清の版図の維持、五族協和を約束すれば中華民国の臨時大総統の地位を譲る、としたのです。

直後に、「同年、明治天皇が崩御し…」とあるので、ここまでの話は1912年までの出来事になりますから、「孫文を追い出して大総統となる。」というのは不正確です。

 

袁世凱が臨時大総統となると、南京の政府が合流して袁世凱を首班とする中華民国が北京に成立しました。しかし、中華民国の制度では大総統よりも議会の力が強く、国会の選挙では国民党が第一党となりました。

しかし、袁世凱は中央集権国家建設をめざし、議会を弾圧します。そして国民党の中心人物である宋教仁が暗殺されると、1913年に正式に大総統となったばかりが、自ら皇帝になろうとして内外の反発を受け、帝位に就くことを諦めることになります。

 

以下は誤りの指摘です。

 

「オスマン帝国は… 十九世紀を迎える頃から弱体化し始めていた。これに呼応するかのように、バルカン半島では小国のナショナリズムが高揚していた。半島の諸国・諸民族(現在のギリシャ、アルバニア、ブルガリア、マケドニア、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア、ヘルツェゴヴィナ、コソボ、ヴォイヴォディナ、トルコの一部などを含む地域)が、独立を目指す動きを見せる中、その民族感情を利用する形で列強が入り込み、まさに一触即発の状態へと緊張が高まっていた。この時のバルカン半島情勢は『ヨーロッパの火薬庫』と呼ばれた。」(P336)

 

 

「半島の諸国・諸民族が、独立を目指す動きを見せる中」と説明されているのですが、これらはどこから「独立を目指す」と言われているのでしょう?

オスマン帝国からでしょうか、それともオーストリアからでしょうか、あるいはその両方それぞれでしょうか…

 

このうち、ギリシャはすでに19世紀前半に独立しています。

セルビアもルーマニアもモンテネグロも既に1878年に独立しています(ロシアの南下を阻止したベルリン会議で)

ブルガリアも1908年に独立しました。

アルバニアも1912年に独立しました。

『ヨーロッパの火薬庫』と呼ばれているときは、すでに、百田氏があげられている多くの地域は独立しています。

「独立の動きを見せる中、その民族感情を利用する形で列強が入り込んでいる状態」を「ヨーロッパの火薬庫」と比喩的に説明したのではありません。

ボスニア=ヘルツェゴヴィナがオーストリアに1878年以来、統治権を奪われていたのですが、スラヴ系住民が多いボスニア=ヘルツェゴヴィナを本格的に併合したことからスラヴ系のセルビアが猛反発し、セルビアとオーストリアの対立が深刻化します。

また、セルビア、モンテネグロ、ブルガリアにギリシャを加えたバルカン同盟がオスマン帝国と戦い(第一次バルカン戦争)、バルカン半島からほぼオスマン帝国を締め出しましたが、その領土配分をめぐって、ブルガリアとそれを除くバルカン同盟が戦うことになり(第二次バルカン戦争)、敗れたブルガリアがドイツ、オーストリアに接近してセルビア、モンテネグロ、ギリシャと対立するようになったのです。

「独立をめぐる列強の介入」が「ヨーロッパの火薬庫」ではなく、「小国の民族的対立を列強が利用しようとしていつ衝突してもおかしくない状態」を「ヨーロッパの火薬庫」と比喩したのです。

「全体がほぼはげ山だったところに約六億本もの木を植え、鴨緑江には当時世界最大の水力発電所を作り、国内の至るところに鉄道網を敷き、工場を建てた。新たな農地を開拓し、灌漑をおこない、耕地面積を倍にした。それにより米の収穫量を増やし、三十年足らずで人口を約二倍に増やした。同時に二十四歳だった平均寿命を四十二歳まで延ばした。厳しい身分制度や奴隷制度、おぞましい刑罰を廃止した。これらのどこが収奪だというのだろうか。」(P327P328)

 

さて、前にも説明しましたように、「植民地支配」のイメージを誤って理解しているため、日本の朝鮮半島の植民地支配を誤解してしまうのです。

 

列強は、支配する先を、都合よく「色分け」している、という話を前にしました。

 

資源がある国は、資源の供給地に。

農産物がある国は、農産品の供給地に。

 

これらは第一段階としては「収奪」です。

現地の人間を奴隷として、あるいは安価な労働力として重労働に従事させます。

資源のある国ならば鉱山労働者として、農産物がある国は農民として。

 

最初は「国営」あるいは「半官半民」の企業がこれらを特権的に運営します。

しかし、やがて産業資本家たちは、自分たちも利益に参加させるように要求し、官営は民間払い下げ、「半官半民」は完全自由化します。

「投資先」として活用されるようになります。

 

資源がある国は、一面、資源しか無い国です。だったら、鉄道を通したり、耕地を切り開いたりしたりして、「開発」が進んでいきます。

本来、そこに生息していない農産物でも、気候や地質的に「育つはず」と考えれば、べつの地域からその農産物を移植すればよいわけです。

熱帯ならば、天然ゴムやサトウキビ。

もともとそこには生えていないのに、現地の人たちが作っているイモや穀物の畑をつぶして、それらをどんどん植えさせていきます。

これがプランテーションです。

もともと農産物がある国では、効率と収益を高めるために、特定の農産物しかつくらせません。コーヒーが売れる、麻が売れる、それならこの地域はコーヒー、こっちは麻、というように支配地域ごとに栽培する農作物を単一化していく…

これがモノカルチュアです。

 

ところが、さらなる利益を追求するには、支配のコストダウンが必要となります。

効率の良い輸送のために、さらなる鉄道や道路の整備が進みます。

それから労働力の減少を食い止める必要がありますから、医療・公衆衛生などを充実させる必要があります。

アフリカなどは奥地開発を進めたため、ヨーロッパ人の知らない病気に遭遇し、伝染病の蔓延で植民地支配が一時停滞しました。

よってイギリスやフランスでは伝染病の研究が進んでいきます。どうして国家が多額の資本を投下して伝染病研究・医療開発をしたかというと、こういう植民地支配の深化と深い関わりがあるからです。

 

そもそもが、帝国主義は、タテマエの近代化、ホンネの支配深化の並走なんです。

 

現地での支配のコストを下げるのは簡単で、現地支配の事務や雑務を現地の人々に分担すればよいのです。

文字が無ければ文字を与え、意思疎通がしやすいように英語やフランス語を教え、さらには学校をつくって「現地人の中間層」を養います。

被支配者をタテに分断すれば、団結による植民地支配の転覆も回避できます。

支配の恩恵を一部還元すれば、支配を甘受する層が生まれ、低いコストで支配を続けていくことが可能です。

 

もともと一定の文化が発展していて、住民に購買力がある場合は、自国の製品を輸出し、その国の製品を輸入する「市場」として活用すればよいのです。

この場合は植民地にはしないで、有利な商取引の環境をつくります。

武力をつかわず、武力で威嚇し、有利な通商条件を呑ませて貿易を展開する。

中国は「半植民地化」という表現をしますが、植民地にはせずに、マーケットとして温存して最大に利益を引き出す有利な条件を押し付けていく、という方法を列強はとっていきました。租界・租借などはその方法です。

 

日本はこの点、「市場」として温存されました。

イギリスは鉄道を敷設することに協力しましたが、経営は日本に委ねます。

40万円以上の売り上げを出し、経費を差し引いても20万円も出せる鉄道経営ができる国です。「植民地」などにするわけがありません。

植民地にされる、という妄想に近い危機感を抱いていた幕末の志士たちは無知でしたが、その危機感が原動力となって近代化の弾みになったことは確かです。

 

「極東に位置する島国は、列強から見れば、清帝国とともに最後に残された植民地候補の地であった。」(P329)

 

という見立ては誤りです。清や日本は「原料供給地」としての「植民地」にはせず、自国に有利なマーケットに組み込んでいく対象でした。

 

よく、日清・日露戦争に勝利し、植民地も持てたことで列強が一流国と認めてくれたから条約が改正できた、という一面的な説明をしがちですが、むしろ経済発展によって、マーケットとしての「価値」が次のステップに上がったため、というべきです。

「関税」というのは、物流の停滞を結局はまねくのです。関税無しに通商するほうが経済規模は拡大し、結局大きな利益をもたらします。

経済発展が十分になしえた相手は、関税で利益をあげる方法を選択すれば、かえって損をする…

日清戦争後、日本は金本位制を導入し、ほぼ同じ時期に綿糸の輸出額が輸入額をついに上回る国となりました。その後、製鉄などの重工業分野における第二次産業革命も成功させ、国内資本の蓄積も高まり、銀行は海外への投資までおこなえる水準まできました。イギリス・アメリカなどの産業資本家・銀行家は「自由化」を政府にもとめて当然です。

外交的不利を経済で打開する、というのが日本の「得意技」となっていきます。

そして後には、この逆、経済的不振が外交のゆきづまりをもたらしてしまう…

という未来が待っていることになりました。

 

アメリカとの間で関税自主権が回復された背景は、ここにありました。

 

以下は蛇足ながら。

以前にも、お話ししました。

 

「日本はアメリカとの間で日米修好通商条約に残されていた最後の不平等条約項である『関税自主権がない』という条文を完全に消し去ることに成功した。安政五年(一八五八)に結ばれた不平等条約が、ようやく改正されたのだ。」(P328)

 

といわれていますが、1866年の改税約書、ならびに明治新政府になって結んだ日墺修好通商条約の「不平等条約」が改正されたのであって、日米修好通商条約の不平等性は、関税に関してはありませんでした。

 

さて、

 

「日本は欧米諸国のような収奪型の植民地政策を行なうつもりはなく、朝鮮半島は東南アジアのように資源が豊富ではなかっただけに、併合によるメリットがなかったのだ。」(P326)

 

とあります。

日本は、欧米列強のとっていた二段階目から植民地支配をスタートさせただけです。

耕地が少なければ耕地を増やし、インフラを整備しました。支配のコストを下げるために識字率をあげ、すでにあった文字ハングルを利用します。

ですから、最初は「半官半民」の企業で植民地支配を進めます。

1910年から18年にかけて強行した「土地調査事業」で、既存の特権階級であった地主も利用し、さらに植民した日本人の一部を地主としていきます。

そして1908年に設立されていた「東洋拓殖会社」にほぼ独占的に植民地事業を担当させます。

移民事業では1910年には14万人、1917年には33万人の入植を進めています。

この会社は土地調査事業で「買収」した土地が東洋拓殖会社に「現物投資」という形で付与されました(11400町歩)1919年の段階で78000町歩の土地を所有し、朝鮮の最大の「地主」となっています。

東洋拓殖会社は、地主でありながら金融業もおこない(日本の不在地主と同じ)、朝鮮企業50社以上の株主でもありました。

 

「全体がほぼはげ山だったところに約六億本もの木を植え、鴨緑江には当時世界最大の水力発電所を作り、国内の至るところに鉄道網を敷き、工場を建てた。新たな農地を開拓し、灌漑をおこない、耕地面積を倍にした。」(P327)

 

これ、東洋拓殖会社が何らかの形で関与しているんですよね…

 

「むしろ日本は朝鮮半島に凄まじいまでの資金を投入して、近代化に大きく貢献した。」(P327)

 

と力説されていますが、朝鮮への投資は、何に投資しても、ぐるっと還流して東洋拓殖会社が回収するしくみになっていたのも同然だったのです。

 

(参考)『日韓併合小史』(山辺健太郎・岩波新書)

   『韓国併合』(海野福寿・岩波新書)

 

137】一進会は最大の政治結社ではなく、韓国内の世論は併合に反対であった。

 

「国内で併合論が高まると同時に、大韓帝国政府からも併合の提案がなされた。大韓帝国最大の政治結社である『一進会』(会員八十万~百万人)もまた『日韓合邦』を勧める声明文を出した。」(P326)

 

と説明されています。

なんというか、いまだに一進会が「日韓合邦」を提案した話を鵜呑みにされていることに少し驚きました。

一進会の実態はもうすでに明らかになっています。

 

まず一進会が求めたことは「対等の合併」です。声明文、まずちゃんと読めばわかることです。

「韓国自らを保つため、韓国皇室を万世にわたり尊栄させたい」と明記しています。

「両翼鼓身」「両輪行輿」という表現も見られます。

韓国を無くすこと、韓国皇室の退位などのぞんでいません。

「保護国の劣等、奴隷の侮蔑から抜け出し、対等の権利を獲得すべく合邦を求める」と書いています。

ネット上にみられる一進会についての言説のうち、「韓国の人々が韓国併合を求めていた」という主張は、明らかに意図的な「読み替え」でしょう。

 

さらに一進会のこの「請願文」を受け取った韓国統監府は困惑します。どうすべきかの判断を東京に打診しています。

 

明治四十二念十二月五日午后六時二十分発第三六号

 

日韓合邦ニ関スル一進会上書ノ趣旨ハ

一、韓国皇室ノ尊栄ヲ日本皇室ト共ニ永遠普及ニ垂レント欲スル事

二、韓国ヲシテ世界一等国ノ班ニ列シ、韓国民モ日本人同様ノ権利幸福ヲ受セシメン。

トスルノ二点ニ帰着シ合邦ノ意味ハ連邦ナルガ如ク、又、合併ナルガ如ク見ヘ、甚ダ不明ナリ。

元来、此ル大事ヲ一進会如キモノノ行動ニ基キ今日ニ実行セントスルガ如キハ、徒ニ平地ニ波風ヲ起コシ其局ヲ統ルコトナキニ終ルベシ

 

一進会の「対等な合併」については否定的に考えていることがわかります。つまりは統監府が考えていた「合邦」がどのようなものであったかは明白だと思います。おもしろいのはこれに続く文です。

 

殊ニ内田ハ、韓人ニ対シ此事ニツイテハ桂首相、寺内陸相ノ密旨ヲ受ケ来レルコトヲ声言シ居レルガ如シ。是最モ憂フベキ事ト存ス。

 

唐突に「内田」なる人物が登場してきました。彼は政治結社黒龍会の内田良平のことで、彼については、憲兵隊が機密報告を出しています。

 

憲機二三六五号

今回一進会ノ発表しシタル声明書ノ主謀者ハ内田良平ニシテ、同人ガ該書ヲ齎シタルコトハ蔽フ可カラザルモノニシテ、発表後、意外ニモ国民及ビ政府ノ反対熾烈ナルタメ、殆ンド今日ニテハソノ成算ニ苦ミ居レリト。

 

憲兵隊は、一進会の声明文の「黒幕」は日本人の内田良平であると断じています。

「大韓帝国最大の政治結社」と言われ、韓国民を代表しているかのように説明されていますが、その請願文は日本人の「企画」によるものであったことが濃厚です。

しかも、「意外にも国民および政府の反対」が激しかったこともわかります。

ネット上の説明では、韓国民の多くがのぞんでいる証拠のように一進会の請願の話がなされていますが、実際は違うことを日本の憲兵隊が「証言」しているのです。

 

そしてこの続きによると、

 

而シテ昨日、菊池謙譲ハ内田ニ対シ大要左ノ如キ忠告ヲ与ヘタリ。

 

一、今日ノ事件ハ時機未ダ熟セズ、一般ノ反対ヲ受ケ平和ヲ破壊スルノミナラズ、平地ニ風波ヲ起スモノナレバ、一進会ノ指揮ハ東京ニ於テ之ヲ為サズ、一切之レヲ京城ニ移シ、且ツ内田等ハ潔ク関係ヲ絶チ、間接ニ一進会ヲ援助スベシト。

二、各会中声望アルハ大韓協会ナルヲ以テ、該会ニ反対スレバ到底希望ヲ満シ能ハザルニヨリ、大垣丈夫ト協議決定スベシト。

 

一進会は、日本人活動家が背後で動いていたことが読み取れます。文内の「菊池謙譲」なる人物は統監府の顧問です。(また一進会の顧問には杉山茂丸という日本人もいます。)

しかも「各会声望アルハ大韓協会」と憲兵隊は把握していたことがわかります。

こうなってくると一進会が「大韓帝国最大の秘密結社」ということも怪しくなってきました。

 

一進会の会員はほんとうに百万人だったのでしょうか。

ネット上の説明では百万人の署名を集めた、とよく出てきますが、あれはウソです。

統監府に出された請願文の最後に、「一進会長李容九 同一百万人」と記されているだけなんです。つまり「自称」にすぎません。

それどころか、1909127日に「日韓合邦論に対する言動」という資料の中では「一進会ハ或ル一部ノ人士ヨリ成ル政治団体ニシテ、ソノ勢力モ我ガ韓国ニ於テハ大韓協会ノ如ク厖大ナラズ、ソノ会員ハ僅カ三千人内外ニ過ギズ」と韓国興学会副会長朴炳哲が証言しています。

 

ただ、これはちょっと「一進会なんてたいしたことない」という別団体の主張とも解釈できます。

実は、日韓併合によって一進会も解散させられているのですが、明治四十三年八月二十五日の「朝鮮総督府施政年報1910年版」に「併合ノ際解散ヲ命ジタル政治結社」として、

 

 会名 一進会

 創立年月 明治三十七年八月

 会員概算数 一四〇,七一五

 

と記されています。

一進会は、日本人活動家が背後にいて志操していた団体で、百田氏が説明されているように「大韓帝国最大の政治結社」ではなく、会員は八十万~百万人どころか、三千人~十四万人しか確認できない団体です。

日韓併合は韓国の人ものぞんでいたことだ、というリクツは今日では破綻している話なんです。

 

(参考)

「アジア資料センター レファレンスコードB03041514200,B03050325500,B03050325700,B03050610500」

『外交史料-韓国併合下巻』(海野福寿・不二出版)

『韓国併合』(海野福寿・岩波新書)

『日韓併合小史』(山辺健太郎・岩波新書)

 

 

136】韓国併合のプロセスの説明が一面的である。

 

「…韓国併合は武力を用いて行なわれたものでもなければ、大韓帝国政府の意向を無視して強引に行なわれたものでもない。あくまで両政府の合意のもとでなされ、当時の国際社会が歓迎したことだったのである。もちろん、朝鮮人の中には併合に反対する者もいたが、そのことをもって併合が非合法だなどとはいえない。」(P327)

 

と説明されています。

 

百田氏の主張は、「武力を用いていない」「両政府の合意」「国際社会が歓迎」「反対する人がいたからといって非合法とはいえない」という四つにあるように思われます。

今回は「武力を用いていない」「両政府の合意」ということについてお話しします。

 

190510月の閣議の記録にあるように、第二次日韓協約の案を決定しました。

それには「韓国政府ノ同意ヲ得ル見込ナキ時ハ最後ノ手段」を用いても強行することが定められていました。

この段階で同意しなければ武力行使することは前提となっています。

そして119日、首都には軍が配備され、特命全権大使伊藤博文がソウルに到着しました。

王宮の周囲にも武装した日本兵が囲んでいて、正門に大砲を配置しています。

9日から17日まで、王宮前広場および市街で日本軍による演習がおこなわれていました。

1115日、伊藤は皇帝高宗と会見し、日露戦争後、日本がとってきた措置のいくつかに不満を表明しています。これに対して伊藤は第二次日韓協約の案を提示しました。

1116日、大韓帝国の各大臣が日本の公使館に呼び出されます。そして第二次日韓協約の説明をおこない、受諾を求めました。ほとんどの大臣は反対を表明します。

1117日、林権助公使は、また大臣を呼び出し、その後王宮での御前会議となりました。

同日夕刻、兵が王宮内に入って整列し、伊藤博文は憲兵と長谷川好道軍司令官とともに閣議に参加します。

第二次日韓協約案の賛否を問うと、まず首相は反対して部屋を退出します。

首相と二人が反対を表明し、残りの五人のうち賛成したのは学部大臣であった李克用でした。四人は賛成も反対も唱えませんでした。

この状況で、伊藤は「大勢ハ賛成」と判断します。

同深夜に、第二次日韓協約は調印されましたが、皇帝は承認していません。

 

第二次日韓協約が調印されると、首都に地方から多くの人々が集まり、抗議集会が開かれます。

『皇城新聞』はその日の社説で、

 

「ああ彼の豚犬でしかないわが政府大臣は、栄利をねがい、おどしをおそれ、甘んじて売国の賊となり、三千里の領土を他人にわたし、二千万の国民を他人の奴隷にかりたてるとは。」

 

と記しました。もちろん『皇城新聞』は発行禁止となり、編集者は逮捕・投獄となります。

翌年、反対運動は激化します。19062月、忠清道で閔宗植ら500人が洪州城に籠城しました。日本は警察・憲兵に加え、歩兵・騎兵を出動しています。

1907年までに七万人の蜂起があり、一万人が殺されました。

 

植民地支配に対する抵抗と弾圧というのはこのようなものです。批判を承知で申しますと、だから日本はひどい、などと私は思いません。一方の事実だけを説明してしまっていては、歴史の全体像が歪になると思っているだけです。

19世紀末から20世紀初頭のアジア・アフリカでみられた帝国主義諸国の支配というものと日本の植民地支配は大差はなく、日本が「特別」という部分は少ないのです。

併合までのプロセスにこのようなことがあったことは『日本国紀』にはもちろん一行も触れられていません。

 

「…伊藤がハルビンで朝鮮人テロリストによって暗殺され、状況は一変する」(P326)

 

と説明されていますが、状況は一変したというより、そのような弾圧・反対運動の延長におこった事件として眺めれば、テロリスト安重根が朝鮮では愛国者としてとらえられている理由も見えます。

私も、実は伊藤博文が国内の併合推進派をおさえて、植民地化には消極的であったと考えています。彼が暗殺されたことによって推進派が発言権を持ってしまったことは確かですが、伊藤博文が併合に反対だろうが賛成だろうが統監として武断的な態度・政策を展開していたことも確かでした(統監は在韓日本軍の指揮権を持っています)