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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

144】移民法の成立過程に誤解がある。

 

1924年に成立した移民法は、ジョンソン=リード法といいます。

結論から言いますと、日本人移民を排斥する法ではありません。

アメリカは、建国以来、多くの移民を受け入れ、南北戦争後の経済発展は移民たちによって支えられていたといっても過言ではありません。

大陸横断鉄道の建設は、東西から建設されはじめ、東側からは主としてアイルランドからの移民などヨーロッパ系の移民労働者によって、西側からは中国系の移民労働者によって建設されました。

「線路は続くよどこまでも」という唱歌は、もともとアイルランド民謡で、アメリカで鉄道労働歌になりました。

 

さて、さらに1890年代、大規模な移民が始まりました。

東欧・南欧・アジア系の移民が増えます。

一定以上、人口が増えて経済発展すると、中間層が育つようになります。そこに新しい安価な労働力が入ってくると、自分たちの仕事が奪われる、という危機感を持つ人々が増えて、移民を排斥する「空気」も生まれてきました。

そこで1890年を基準年として、その出身別移民数の2%以下に移民を制限する、というものです。

 

1900年代に「アメリカ」が日本の排斥を強化していったように一部の法令だけを抜き出して説明するのは、やはり一面的です。

もともと日本人は、アメリカの連邦移民帰化法の制限対象外でした。

アジアの中で欧米諸国と対等に交渉ができる国という「評価」を得ていたからで、

アメリカは日本を特別扱いしてくれていたのです。

ここで近現代アメリカ史を理解する上で、重要なことがあります。

アメリカは「連邦制」で、とくに内政においては各州の独立性が高く、州の諸法・諸規制に関しては政府は口出しできないのです。

日露戦争後の1906年に、サンフランシスコで公立学校に通う日本人学童を東洋人のための学校へ転校させようとする動きが出ました。

それをセオドア=ローズヴェルトが「異例の干渉」をおこなって撤回させています。

「私は従来日本びいきだったが、ポーツマス条約以来、そうでなくなった」(P342)とローズヴェルトの書簡(いつのどこのものかは不明)を引用されていますが、大統領の個人的見解はともかく、実際はアメリカ政府は日本に対して友好的に対応しています。

日本政府は、他のアジア系民族とは同列に扱われることを回避しようと、さまざまな働きかけをアメリカ政府におこないました。

結果、林董外務大臣と駐日大使オブライエンとの間で「協定」が結ばれ、日本がアメリカへの移民を「自主的に規制」することにしたのです。

 

「大正二年(一九一三)には排日土地法を成立させ、日本人の農地購入を禁止し…」(P343)

 

と説明されていますが、このとき制定されたのはカリフォルニアの州法のことです。

「市民権の無い外国人の土地所有および3年以上の賃借を禁止するカリフォルニアの法律」です。日本人を特定する文言はこの条文には一切ふくまれていません。ちなみにこれを「排日土地法」と呼称しているのは日本だけです。

 

「アジアからの移民の大半が日本人であったので、実質的には日本を対象としたものだった。」(P343)

 

と、説明されていますが、ほぼ同じ表現がインターネット上の説明(Wikipedia)にもみられますが、まず移民法制定の大きな流れをみれば、中国人や朝鮮人が先に制限され、その後に日本人が制限されています。

これは後に、戦時中の反米プロパガンダによってつくられた文言で、最近ではこれをことさら「排日移民法」として説明しなくなっています。

 

アメリカの各階層によって移民に対する感情には温度差があり、東側ではWASPとよばれる人々が移民に反対しており、西側では、南欧・東欧出身の労働者階層が、自分たちの仕事を奪われることを懸念してアジア系を排斥する動きをみせていました。

アメリカは「民主主義」国家で、選挙によって政権の政策は変化します。

当時の野党は、これら移民に反対する票を取り込むために、移民排斥運動を利用していました。

国務長官ヒューズは、移民法制定を避けようと努力していましたし、クーリッジ大統領は、「対象移民」の中に日本人を入れて排斥してしまうことになり、従来の日本との協定に反するものである、と反対の表明もしています。

 

ウィルソン大統領期の民主党とは異なり、1920年代のアメリカはハーディング・クーリッジ・フーヴァーの共和党時代に入っており、政府は日本に友好的、議会が政府に反対、という状況にありました。

移民法成立時には反米感情が沸き上がりましたが、これは実はすぐに沈静します。

ところが30年代に右翼・軍部などによってこの時のことが再度強調され、「排日移民法」と連呼されるようになったのです。

1920年代、共和党政権との関係はむしろ良好で、「その後も、日本とアメリカの溝は埋まらず、やがて大東亜戦争という悲劇につながっていく。」(P343)、という説明には違和感をおぼえます。

143】「アメリカの敵意」を一方的に強調しすぎている。

 

P341の項目の題名が「アメリカの敵意」と記されています。

そこに行きつくまでにすでに、言外あるいは直接に「アメリカの敵意」を想起させる表現がみられます。

 

「実は両陣営に石油を供給していたのはアメリカだった。アメリカはそれで多くの外貨を得た。」(P340)

 

でも、実際は1914年からのドイツ経済封鎖に参加し、1917年以降は連合国側でアメリカは参戦しています。

 

「議長国のアメリカは、『このような重要な案件は全会一致でなければならない』と主張した。当時、自国内の黒人に公民権を与えず、人種分離政策をとっていたアメリカは、当然ながらこの提案には反対の立場だった。」(P341)

 

と、説明されていますが、アメリカも日本の提案に同意していたことは示されず、イギリスやオーストラリアの反対と、脱退のブラフがあったことには言及されず、日本の山東半島の利権を認めるという「取引」もありましたがそれにも触れられず…

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12443302398.html

 

後の話も、一面的な見方、あるいは事実誤認の上に立った「アメリカの敵意」の話となってしまいます。

 

「日露戦争の勝利によって、列強を含む世界の日本を見る目は変わった。同盟を結んでいるイギリスをはじめとするヨーロッパ諸国は、日本に一種の敬意を持った。」(P341)

「しかし現実の世界は日本を称賛する国ばかりではなかった。その一つがアメリカである。」(P342)

 

と説明されていますが、あれ?変なこというなぁ、と不思議に思ったんです。

 

以前に、

 

「…『日露戦争』こそ、その後の世界秩序を塗り替える端緒となった大事件だった。しかし列強諸国の受け止め方は違った。」(P321)

「…英国は同盟国でありましたが、此の消息を知った英国の大多数は何れも眉を顰め、日本が斯くの如き大勝利を博したことは決して白人種の幸福を意味するものではないと思ったのであります。」(P321P322)

「列強諸国の間で日本に対する警戒心が芽生えたのも、この頃であった。」(P322)

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12442007945.html

 

と説明されていました。

百田氏の、イギリスなどの列強の日本に対する評価の真意は何れにあるのでしょうか。

列強の「日本を見る目は変わった」と説明されていますが、とくにイギリスが抱いたのは「警戒心」だったのか「敬意」だったのか。

むろんこの二つは両立しないわけではありません。

しかし、同じ日露戦争の勝利に対するイギリスなど欧米諸国の感想を、一方では「日本に対する警戒心が芽生えた」とし、一方では「日本に一種の敬意を持った」とする。 それぞれの主張したいことに合わせて評価を変えるのはどうでしょうか。

前者は、「アジアの尊敬を集める日本、警戒する欧米」、ということを強調し、後者は「世界の多くの尊敬を受ける日本、警戒するアメリカ」、ということを強調しているかのようです。

 

世界史を俯瞰すると、イギリス・フランスはアジア・アフリカに進出し、すでに植民地や利権を確保しつつありました。

英仏は衝突ではなく、調整を選択します。

また、イギリスはロシアの南下を食い止めるため、日本とロシアを衝突させようとし、日英同盟を結びました。

そしてアメリカは、中国への進出に出遅れていたため、その進出の機会をうかがいます。日本がロシアと対立していることを利用し、アメリカは中国への進出のきっかけ作りのために日本を後援しました。セオドア=ローズヴェルトは「日本贔屓」であることを日露開戦前から公言しています。

そしてポーツマス条約を仲介したわけですが、帝国主義諸国は、善意やポランティアで外交などしません。

しょせんは大国どうしのエゴの衝突と調節であるということを忘れてはいけません。

日本は朝鮮半島を植民地にし、中国の利権を確保しつつありました。英仏は日本と衝突ではなく、調整を図りました。

アメリカは、イギリスとフランスに対抗して海外進出を企図したのに、日本はアメリカではなくイギリス、フランスとの関係を調節し、ロシアとも協約を結んでいます。

もちろんイギリスにはイギリスの、フランスにはフランスの大国のエゴがあり、日本の植民地支配を否定すれば、後発帝国主義諸国(アメリカやドイツ)からの植民地独占に対する批判をまねきかねませんから。

桂太郎がハリマンとの約束を小村寿太郎の提言を受け入れて白紙にもどした背景にはこうした帝国主義間相互の「調整」があったからです。

ロシア・イギリス・フランスとの利害関係を「調整」し、満州の利権を独占できるチャンスを得た大国日本のエゴと、講和を斡旋し、多くの外債の償還に協力し、日本の満州進出で得るであろう利益の分け前をねらっていた大国アメリカのエゴがぶつかったために、アメリカが「笑顔の表情」の外交から「不快な表情」の外交に転換しただけの話です。

大国日本のエゴの説明抜きで、大国アメリカのエゴのみを説明すれば、「アメリカの敵意」を強調することも可能です。

桂-ハリマン覚書を白紙化し、満鉄中立化を拒否したことに対して、日本の大陸進出をアメリカが警戒するというのは、どちらかがどちらかを非難するような、何も特別な帝国主義的外交ではありませんでした。

142】人種差別撤廃提案の説明が一面的である。

 

「日本は国際連盟規約に、『人種差別をしない』」という文章を入れることを提起する。」

「議長国のアメリカは、『このような重要な案件は全会一致でなければならない』と主張した。当時、自国内の黒人に公民権を与えず、人種分離政策をとっていたアメリカは、当然ながらこの提案には反対の立場だった。」(P340P341)

 

国際会議における外交というのは、まさにディール。取引、駆け引きで、すべて何らかの意味があって提案したり拒否したりしています。

外交とはまさに「自国の利益のためにウソをつくこと」、外交とは「人の弱みにつけこむこと」、外交とは「ねぎって買って、高値で売ること」の「三原則」の表現です。

 

さて、「アメリカは当然ながらこの提案には反対の立場だった」と説明されていますが半分誤りです。

むしろ会議の前半では日本の提案に賛成しています。

「根回し」の段階では国務長官ランシングも乗り気で、それどころか大統領ウィルソンに働きかけ、「大統領提案」として提出するつもりである、という回答まで得ました。

反対したのはイギリスでした。

イギリスは「帝国」で、自治領であったオーストラリアとカナダが強く反対していたのです。オーストラリアは白豪主義で、カナダは移民労働力を必要としていました。

イギリスの外務大臣バルフォアは、アメリカの説得を拒否し、人種差別は国際連盟規約とは無関係である、と主張しました。

 

そもそも、日本は講和会議では、ドイツ領の利権の獲得以外の発言をしておらず、連盟の設立そのものには懐疑的で、外務大臣内田康哉は「本件具体的案ノ議定ハ成ルベクコレヲ延期セシメル…」と述べています。

ですから、連盟の規約について積極的な提案を日本がしてきたことは、議長国のアメリカにとっては好ましい「反応」で、日本の提案に好意的な態度を示すことにより、連盟成立の同意を得ようとしたのです。

また、日本は、人種差別撤廃提案についても「成否はともかくこれについて日本の主張を明らかにしておくことは極めて重要な意味がある」とちょっと「ふくみ」のある考え方をしていました。

 

さて、人種差別撤廃項目についてのオーストラリアの反対はとくに強硬で、この提案が採択されることがあれば帰国する、とまで言い出していました。

さらに、ウィルソンも自国の議会に足をすくわれます。人種差別撤廃条項は、国内政策に対する「内政干渉」にあたる、としてこれが採択された場合、上院は批准しない、ということを宣言しました。

オーストラリアの離反と、イギリスの反対、アメリカ上院の反対などからウィルソンはこの条項を通すわけにはいかなくなりました。

日本では、逆に人種差別撤廃提案が拒否された場合は、「会議の席を立て」「連盟に加盟しなくてもよい」と犬養毅らは猛反発していました。

 

結果、この「外交」では実は日本が勝利します。

ドイツ領の利権(山東半島と南洋諸島)については、もともとイギリス・フランスは同意、アメリカが反対、だったのですが、人種差別撤廃提案を議長判断で「全会一致が必要」として否定するかわりに、ドイツ利権についてアメリカも同意する、というように山東問題では態度を軟化させたのです。

 

(『原敬・外交と政治の理想』伊藤之雄・講談社選書メチエ)

(『ヴェルサイユ条約』牧野雅彦・中公新書)

(「大正期日本の国際連盟観・パリ講和会議における人種平等提案の形成過程が示唆するもの」船尾章子・中部大学『国際関係学部紀要』第14)

(「第一次世界大戦後における戦後構想と外交展開・パリ講和会議における人種差別撤廃案を中心として」『中京大学大学院生邦楽研究論集』第23)

 

「外交とは騙し合いの一種であるということが、単純な日本人には理解できなかったのだろう。」(P345)

 

と、1915年の二十一ヶ条要求の説明のときに百田氏は嘆いておられますが、なかなかどうして、1919年のパリ講和会議の時には巧みに山東半島・南洋諸島の利権の獲得・承認に成功しています。

「人種差別撤廃条項提案」の一面だけをとらえて、美談仕立てにするのは「外交」という複雑な駆け引き、騙し合いを一面的にしかみていないということになりかねません。

二十一ヶ条要求についてはまた後ほど。

141】ロシア革命ではまだソ連は成立していない。

 

「アメリカも世界大戦に参戦していたものの、最後の一年間だけで、戦死者も十二万人とヨーロッパ諸国に比べて桁違いに少なかった。これは自国が戦場にならなかったからだが、それでも日露戦争における日本の戦死者よりも多いのだから、第一次世界大戦の悲惨さがわかる。」(P338)

 

これは誤りの指摘ではありません。

むしろ、日露戦争の悲惨さが際立つと思います。当時の日本の人口は4400万人で、アメリカの人口は9200万人です。

日露戦争も自国が戦場にはなりませんでしたが、84000人以上の戦死者で病死者も含めて戦争犠牲者というならば10万人を超えています。

アメリカは人口比戦没者0.13%で日本は0.2%となります。

 

さて、P338以降は「戦後の世界」の説明がされているわけですが、

 

「日本もまた大きな犠牲を払うことなく(戦死者は三百人)、多くの利権を得た国だった。加えて、ヨーロッパ諸国への軍需品の輸出が急増し、それにつれて重工業が発展した。さらに、大戦前、ヨーロッパから様々なものを輸入していたアジア地域も、戦争により輸入が困難になったことから、日本に注文が殺到し、結果、日本は空前の好景気を迎えた。」(P338)

 

と説明されていますが、事実と少し異なります。

日本の好景気、いわゆる「大戦景気」は、戦争中、のことで、戦後は1920年の恐慌をむかえ、「空前の好景気」を迎えたアメリカとは対照的な状態になりました。

しかも日本の経済構造は、寄生地主制と後の財閥となる一部企業による経済支配が進んでいた時代なので、好景気の利益はそれらが吸い上げ、一般への利益配分は進まず、異常な物価高と品不足をまねきました。

加えて、ロシア革命に干渉するシベリア出兵が計画されると、米の買い占めが起こり、富山県を発端にした「米騒動」が全国的に広がりました。

寺内正毅内閣はこれに軍隊まで出動させて鎮圧しましたが、対応ができず、これを背景として本格的な政党内閣、原敬内閣が発足します。

シベリア出兵、米騒動の説明がまったくなく、唐突にP347で「大正デモクラシー」の話がなされ、「日本で最初の本格的な政党内閣」の原敬の話が出てきます。

通史は、ネタフリとオチが大切ですが、シベリア出兵・米騒動の説明なく原敬内閣成立を説明するのはかなり無理があります。

 

「なお、この戦争中、後の歴史を大きく変える二つの出来事があった。」(P339)として「ロシア革命」を取り上げ、「石炭に代わって石油が最重要な戦略物資となった」と説明されています。

 

「経済学者のマルクスが唱えた共産主義を信奉するレーニンが武装蜂起し、政権を奪って皇帝一族を皆殺しにしたのだ。」(P339)

 

日本史の通史ですので、ロシア革命を簡略化して説明するのはわかりますが、簡略化と単純化は異なると思います。これでは「皇帝一族を皆殺しにした」のがロシア革命であるという説明です。

 

日露戦争中にすでに革命運動が始まっていたことを日露戦争中にネタフリをしておけばここでの話にうまくつながったのに残念です。

明石元二郎を中心とする「明石機関」の活動で、日露戦争中に日本はロシアの革命活動家を支援していて、後のロシア革命に日本は一定の「貢献」をしています。

ロシア革命は二段階です。

大戦の長期化で、国民の間で厭戦気分が広がり、首都で労働者や兵士が暴動を起こし、国会でも立憲民主党を中心に臨時政府が樹立され、皇帝ニコライ2世は退位します。これが二月(三月)革命です。

社会主義左派ボリシェヴィキのレーニンも亡命先から帰還し、革命の過激化が予想されました。そこで臨時政府はより広範な市民層の取り込みをはかろうとして社会革命党や社会主義左派メンシェヴィキを入閣させ、社会革命党のケレンスキーを首相としました。しかし臨時政府は戦争を継続したため、多くの労働者・兵士からなるソヴィエト(評議会)の離反をまねき、これを指導するボリシェヴィキが武装蜂起してソヴィエト政権を樹立しました。これが十月革命(十一月革命)です。

 

実は、革命政権の樹立と皇帝一家処刑は、別なんです。

処刑は19187月。革命政権樹立よりかなり後になります。

新政府の「平和に関する布告」「土地に関する布告」を出し、憲法制定議会のための選挙を実施したら、ボリシェヴィキが大敗し、社会革命党が第一党になりました。

レーニンは議会を即時解散、ほぼ軍事クーデターのような形でボリシェヴィキ独裁体制を建てました。これが19181月です。そして3月にドイツと単独講和をむすんで戦争をやめました。

これに対して各国は、革命が自国への波及をおそれて干渉戦争を開始しました。

日本も干渉戦争をおこないます。これがシベリア出兵です。

ボリシェヴィキは選挙結果を否定、つまり民意を無視した政権を樹立したわけですから、外からの干渉戦争に加え、内からの反革命運動を引き起こします。

こうして、反革命勢力によって皇帝ニコライ2世一家が奪われ、政治利用されることをおそれてひそかに殺害するに至ったのです。

 

「三月革命で臨時政府が誕生したが、戦争を継続したため、それに反対する国民の声が高まり、十月革命によって兵士・農民の支持を得たボリシェヴィキが武装蜂起して政権を奪った」、というくらいの説明にしておけばよかったと思います。

 

というか、簡潔化した説明よりも、以下に続く説明が完全に誤っています。

 

「人類史上初の一党独裁による共産主義国家『ソヴィエト社会主義共和国連邦』(ソ連)の誕生である。この革命により、ソ連はドイツとの戦争をやめ、国内の制圧に力を注いだが、内戦によって、夥しい死者が出た。」(P339)

 

どうも百田氏は1917年の十月革命によってソ連が成立したと誤認されているようで、

ソ連の成立は内戦を抑え、対外干渉戦争を退けた後の1922年です。

ですからドイツとの戦争をやめるブレスト=リトフスク条約はソ連が締結したものではありませんし、国内の制圧に力を注いだのもソ連ではありません。

この段階では、ソ連ではなく、ロシア=ソヴィエトと言うべきかもしれません。

 

「石油が最重要な戦略物資となった」という説明でも、ちょっと不思議な解説がおこなわれています。

 

「実は両陣営に石油を供給していたのはアメリカだった。アメリカはそれで多くの外貨を獲得した。」(P340)

 

「両陣営」というのは、イギリスやフランスだけではなくドイツにも石油を供給していた、ということでしょうか。

第一次世界大戦で敵対する二つの勢力に石油を売っていた「あくどい国」、という印象を与えかねない表現です。

1914年に世界大戦が始まると、イギリスは真っ先に「ドイツの経済封鎖」を実施しています。

イギリスは世界に突出した海軍力を有しています。地中海・北海全域の海上封鎖・臨検が可能でした。8月にはアメリカ合衆国に対しても禁輸・制限品目リストを用意しています。この禁制品はかなり「包括的」で、食料品なども禁止していました。

効果はてきめんで、1915年の段階で、ドイツの貿易は輸入では55%も減少し、輸出も前年比53%となります。

1917年の段階では北海及びアドリア海(オーストリアの領海)を通じてのドイツへの物資輸送は完全にゼロとなりました。

イギリス海軍は、大戦前から海軍艦艇の燃料は石炭から石油に転換していましたが、ドイツはまだ石炭でした。燃料革命が遅れていたドイツにとって「石油」の輸入が途絶えたことももちろん打撃でしたが、自給できている「石炭」を上回る量を戦争では消費し、この輸入途絶が戦争継続を不可能においやりました。

いや、それよりも経済封鎖による食糧の輸入途絶が問題でした。

食糧不足を引き起こし、戦略的にはこちらのほうがドイツにとってはるかに深刻で、実際、大戦末期の暴動やドイツ革命の引き金となっています。

 

140】第一次世界大戦への日本の参戦理由の説明が不正確である。

 

「ヨーロッパから遠く離れた日本もイギリスと同盟を結んでいる関係で、八月二十三日にドイツに宣戦布告し、ドイツの租借地であった山東半島などを攻めた。この時、日本国内では国益に直接寄与しない戦争への参加に異論もあったが、ドイツに最後通牒を送り、回答を一週間待った上で参戦している。」(P337)

 

この説明では、日本が第一次世界大戦の勃発を大陸進出への好機ととらえ、日英同盟を口実に参戦したことがまったく伝わりません。

教科書でも「イギリスは中立国侵犯を理由にドイツに参戦し、日本も19148月末に日英同盟を口実に参戦した。」(『世界史B』東京書籍・P337)

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12442992886.html

 

「イギリスと同盟を結んでいる関係」で参戦したのではないからです。

まず、前回お話ししたように「同盟」はかなり強い結びつきで、韓国の保護国化承認と、イギリスの日英同盟の適用範囲をインドにまで認めるという相互承認をした上での「攻守同盟」でしたが、「自動的に参戦することを義務付けた」ものではありませんでした。

8月に入ってイギリスの外務大臣グレイは日本の駐英大使を呼び出し、「第一次世界大戦参戦は日英同盟は適用されない」と伝え、覚書が交わされました。

日本は「中立」を宣言します。

前にも申しましたが、大国との「同盟」は大国の利益に利用されるものです。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12442248009.html

 

グレイは再び大使を呼び出し、イギリスの都合の良い提案をします。

「ドイツには宣戦布告しないで東アジアのドイツの艦艇を、攻撃を含む牽制行動をとってほしい」と依頼したのです。

にもかかわらず、日本の参戦範囲は中国では沿岸部のみと、「参戦範囲限定」を付帯してきました。

すでにイギリスは、外交方針として、「日本の野心を抑えるが、あくまでドイツと敵対させる。」「膠州湾は日本に奪われないようにする。」「青島の利権はイギリスかフランスのものにする。」「日本の軍事的援助への見返りは財政的な援助とする。」ということを定めました。

イギリスは日英同盟に基づく日本の参戦を回避しようとしていることがわかります。

大隈重信内閣の外務大臣加藤高明、法務大臣尾崎幸雄がドイツへの宣戦布告を強く推進していました。

尾崎は「日英同盟の誼、という理由だけでよいから一刻も早く参戦すべき」と主張しています。

日清戦争のときは、開戦に反対する勢力がありましたが、第一次世界大戦への参戦は閣僚全員が賛成しています。

加藤高明は天皇にも奏上し、元老も参戦には賛成しましたが、井上馨と山県有朋は、「ドイツと中国に日英同盟上、やむを得ぬ参戦であることを十分了解させた上で行動するべきである。」と要求しました。

そこで、政府は、「宣戦布告」形式ではなく、「最後通牒」形式を採ったのです。

「ドイツに最後通牒を送り、回答を一週間待った上で参戦している」理由は、こういうことでした。

 

百田氏は、「この時、日本国内では国益に直接寄与しない戦争への参加に異論もあったが、ドイツに最後通牒を送り、回答を一週間待った上で参戦している。」と説明されているのですが、これを初めて読んだとき、あれ?変なこと言うなぁ、と思ったんです。

「国益に直接寄与しない戦争への参加に異論があった」というのは、後に、フランスやベルギーが、ヨーロッパでの戦闘にも兵を出してほしいと要請してきたときに、日本が断ったときの理由なんです。

インターネット上の説明(Wikipedia)にも、

 

「…直接国益に関与しない第一次世界大戦への参戦には異論も存在したため、一週間の回答期限を設ける異例の対応になったが…」

 

という説明があるのですが誤りです。後のフランス・ベルギーからの参戦依頼を拒否したときの理由と混同したものです。最後通牒に期限があるのは通常で、「異例の対応」というのは、政府が「宣戦布告」にしたかったのに元老の意見で「最後通牒」形式になった、という意味で、期限があることが異例なのではありません。

 

日本はドイツへの宣戦布告をイギリスに承認してもらうために説得工作を続けます。

「ドイツ支配地域以外では戦闘をしない。」「膠州湾は中国に戦後還付する。」という条件を提示し、これを受けてイギリスは青島攻撃を合意しています。

 

イギリスからの参戦延期要請に対しては、すでに天皇に奏上して取り消しは不可能、と大隈重信は回答し、イギリスの戦域限定条件要求に対しては、膠州湾は還付するからと説明し、領土的野心はない、とした上でイギリスの同意をとりつけています。

最後通牒にしたのは、元老の意見をふまえ、ドイツに日英同盟を理由に参戦するものであることを周知させる体裁をとるためでした。

 

(参考)

『総力戦とデモクラシー』(小林啓治・吉川弘文館)

『加藤高明』(櫻井良樹・ミネルヴァ書房)

『日独青島戦争』(斎藤聖二・ゆまに書房)

『日本歴史』「対華二一ヶ条要求条項の決定とその背景」(日本歴史学会・1441960)