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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

149】張作霖爆殺事件には諸説は無く、事件の首謀者は関東軍参謀である。

 

関東大震災後の話と、前の話を混同されていましたが、関東大震災後、第二次護憲運動の話は無く、治安維持法の制定についても触れられていませんでした。

 

「昭和の前半は日本にとって暗く陰鬱な時代となるが、その兆候はすぐに現れる。」(P350)

 

と説明され、昭和四年(1929)の世界恐慌の話に入られています。

実は、1927年の「金融恐慌」の話が出てきません。

加藤高明内閣の後、憲政会総裁となった若槻礼次郎が内閣を組織しますが、関東大震災で決済不能となっていた手形(「震災手形」)の処理の審議中、大蔵大臣の不用意な発言から取り付け騒ぎが起こり、金融恐慌が起こってしまいました。

若槻は、緊急勅令によって不良債権を抱えていた台湾銀行を救済しようとしましたが、対外政策に「協調的」な若槻内閣を嫌った枢密院の了承が得られず、総辞職することになってしまいました。

そして、その後をうけたのが政友会総裁で陸軍出身の田中義一でした。

『日本国紀』は、「昭和」「統帥権干犯問題」「満州事変」の中の記述が、時系列に沿って説明されていないので、時系列を整えて以下、説明します。

 

田中内閣は、緊急勅令を得て支払い猶予を実施し、日本銀行から多額の融資を引き出して金融恐慌をしずめました。

このころ、中国では国民党の蔣介石が、国民革命軍を率いて中国を統一しようと「北伐」を開始していました。田中内閣は、外交官・軍人を集めた「東方会議」を開催して満州における日本の権益を、武力を用いてでも守ることを決定します。

袁世凱の後をついだ段祺瑞に、すでに多額の借款を与えて影響力を華北・満州に日本は及ぼしていましたが、段祺瑞の後、後継をめぐる軍閥の争いが起こります。日本は張作霖を支援しました。

こうして国民党との戦いなどを通じて他軍閥が倒れていく中で、とうとう張作霖が北京政府の実権を握ります。

ところが、このころからイギリスやフランス、とくにアメリカなどが張作霖に接近するようになったのです。日本から離れて、とくにアメリカの支援を受けるようになり、南満州鉄道に対抗して、平行線の建設に着手し始めました。

また、日本は、蔣介石の「北伐」に対抗するため、三度にわたって「山東出兵」をおこない、第二次出兵に際しては国民党軍と戦闘をおこなっています。

こういう武力をともなう日本の派兵は、まったく説明されていません。

このころ、満州及び関東州で力を持っていたのが関東軍です。

もともと1919年に関東都督府が関東庁に改組されたとき、遼東半島租借地と南満州鉄道及びその沿線を守備する陸軍部が関東軍として独立し、大陸進出の急先鋒となっていました。

張作霖が国民党軍の戦いで敗れると、この関東軍の中で、張作霖を排除して満州を直接支配する計画が台頭するようになったのです。

 

「もとは馬賊」「権謀術数に長けた」「徴収した金をすべて自分のものとしていた」とし、「物資の買い占め、紙幣の乱発、増税など」の行為をしていたと強調されて、「張作霖爆殺事件はそんな状況下で起こった。」(P355)

 

と説明されています。これではまるで、張作霖が悪行を重ねていたため、爆殺されても仕方がなかったと言わんばかりの印象を与えてしまいます。

もともと張作霖はロシアと手を組んで諜報活動をしていたところ日本軍に捕らわれ、処刑されかけた人物です。しかし、参謀次長だった児玉源太郎が張作霖を利用することを考え、処刑せずに今度は日本側のスパイとしたのです。その時の連絡役が、当時、陸軍少佐だった田中義一でしたからおもしろいところです。

日本軍との癒着は日露戦争以来で、満州の実力者となってからも深い関係にありましたが、アメリカ・イギリス・フランスに接近して、もともとの中国の利権を回収しようとしたため、関東軍は独断で張作霖排除に動いたのです。

『馬賊の「満州」張作霖と近代中国』(澁谷由里・講談社学術文庫)

『張作霖爆殺 昭和天皇の統帥』  (大江志乃夫・中公新書)

 

「事件の首謀者は関東軍参謀といわれているが、これには諸説あって決定的な証拠は今もってない。」(P355)

 

と説明されていますが、まったくの誤りです。

事件の首謀者は関東軍参謀「といわれている」ものではなく、事件の首謀者は関東軍参謀河本大作であることはわかっています。

このことは諸説があるものではありません。

「諸説ある」というのは、歴史学上の議論となっていることで、『歴史学研究』や『史学雑誌』などでこれに異論を提唱している歴史学者は一人もいません。

あたかも歴史学上、諸説あるかのように説明するのは避けるべきでした。

 

そもそもこの事件は昭和天皇も知るところとなり、元老西園寺公望は真相の公表と厳重処分の意向を田中義一に伝えています。

爆破方法の詳細もすでに判明していて、調査におもむいた国会議員も、爆破に使用された電線などが日本軍の監視所から引かれている事実も明白となり、弁解不能という感想も残しています(『三代回顧録』松村謙三・東洋経済新報社)

爆破にかかわった軍人のヒアリングもおこなわれていて、書簡「奉天に於ける爆発事件の真相」として鉄道大臣にも伝えられ、田中首相・小川鉄道相らを中心に「特別調査委員会」も設けられています。

斎藤関東軍参謀長も、河本大作による陰謀であることは明確で、残りの調査はどのような方法をとったかの調査であったことを「張作霖列車爆破事件に関する所見」で示しています。

しかし、閣僚や陸軍から反対されたため、首謀者の河本大作を停職にしただけの処分としました。田中義一のこの事件への対応に昭和天皇は不満を示され、田中内閣は総辞職することになったのです(『西園寺公と政局』第一巻・原田熊雄・岩波書店)

148】関東大震災についての話が不正確である。

 

「そんな楽しい空気を一気に吹き飛ばす出来事が発生した。」(P348)

 

と、関東大震災を説明されていますが、正確ではありません。

1920年から戦後恐慌に入り、不景気や社会不安が増大していました。

関東大震災は、むしろそんな状況への「追い打ち」であったかのようである、と説明したほうが適切です。

 

大正時代の中間層の成長と、市民の娯楽の拡大の時期を少し誤解されているようです。

 

「第一次世界大戦後は国民の生活も大きく変わった。街には活動写真(映画)を上映する劇場が多く作られ、ラジオ放送も始まった。食生活でも、カレーライス、とんカツなどの洋食や、キャラメルやビスケット、ケーキが庶民生活の中に溶け込んでいった。東京や大阪には鉄筋コンクリートのビルが立ち並び、デパートが誕生し、バスが運行した。電話交換手やバスガールなど、女性の社会進出も増えた。」(P348)

 

と、説明していて、その後、「そんな楽しい雰囲気を一気に吹き飛ばした」と関東大震災を説明してしまっているところが誤っています。

この説明の中に、関東大震災後の「風景」が説明されてしまっているからです。

明確に誤りは、「ラジオ放送」です。

これは1925年で、関東大震災が発生したとき(1923)にはまだラジオ放送はおこなわれていません。情報伝達手段が未発達だったことが震災中のデマや流言飛語を生み出した背景にもありました。

 

さて、百田氏が説明されている大部分は、実は関東大震災「後」の風景なんです。

1924年に同潤会が設立され、木造アパートの建築、45階建てのデパートの建築がス進みました。電灯なども農村部に拡大し、都市では一般家庭に普及します。

都市では水道、ガスの供給事業が本格化しました。さらに市電やバス、円タクなどの交通機関が発達し、東京と大阪では地下鉄も開通します。

洋服を着る男性も増え、いわゆる「モボ・モガ」とよばれる人々が街を闊歩するようになりました。

とんカツ、カレーライスの普及も関東大震災後なんです。

どうやら百田氏は関東大震災の「前」と「後」の社会の様子の区別がついていなかったようです。

 

「なお、この震災直後、流言飛語やデマが原因で日本人自警団が多数の朝鮮人を虐殺したといわれているが、この話に虚偽が含まれている。一部の朝鮮人が殺人・暴行・放火・略奪を行なったことは事実である(警察記録もあり、新聞記事になった事件も非常に多い。ただし記事の中にはデマもあった)。中には震災に乗じたテロリストグループによる犯行もあった。」(P349)

 

と説明されています。

「多数の朝鮮人を虐殺したといわれている」ではなく、「多数の朝鮮人を虐殺した」というのは事実です。「いわれている」という風聞ではありません。

司法省の記録として233人という数があけられていますが、「一部のホント」で全体を説明するのは誤りです。この「記録」をこのように使用するのはちょっと問題があると思います。

「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書」は、「司法省」の記録ですから、この資料に取り上げられている朝鮮人殺傷事件は、「犯罪行為に因り殺傷せられたるものとして明確に認め得べきもの」として起訴された事件だけの数なんです。

逆にいえば、「明確ではないもの」はこれを上回る、という証拠でもあります。この数字で朝鮮人犠牲者6000人を否定することはできません。

芥川龍之介は、「自警団」に入っていた経験があり、そのときの体験をもとにした小説も書いています(『或る自警団員の言葉』(『侏儒の言葉』より))

映画監督の黒澤明も父親が朝鮮人と間違えられて暴徒に囲まれた話、自分の落書きが朝鮮人が井戸に毒を入れた印だと自警団員が大騒ぎしていた話を自伝で懐古しています。歴史家や政治家の記録以外に、いくらでも当時の話は残っています。

「中には震災に乗じたテロリストグループによる犯行もあった」と説明されていますが、甘粕事件は、憲兵隊が震災のどさくさに、目をつけていた無政府主義者を殺害した事件です。「震災に乗じてテロリストグループが殺害された」が正しい説明です。

日本の植民地支配に対する朝鮮人たちの抵抗運動に対する恐怖心や敵対心、朝鮮人への差別意識が、自警団の過剰な朝鮮人への警戒心を生んだ、と考えるべきでしょう。

「魔女狩り」の心理と同じで、朝鮮人や社会主義者に間違えられることをおそれた人々は、「取り締まる側」にまわる、という心理から「自警団」の活動も活発化しました。

また、不思議なのは、日露戦争や後の満州事変以後の話で、あれほど「新聞」が民衆を煽動した、と、批判しながら関東大震災での朝鮮人の話については、どうして「新聞」は「正しい」かのように引用されているのでしょうか。ここでもデマに基づいたり情報不足だったりしたことから多くの新聞がミスリードしてしまった、と考えるべきではないでしょうか。

 

「警察記録もあり、新聞記事にもなった事件も非常に多い」(P349)と説明されていますが、これこそ実は関東大震災の時のおそろしさで、次のような史料が明確に残っていることを忘れてはいけません。

震災発生時の翌日、臨時震災救護事務局が設立されます。その警備局が95日に次のような協定を定めています。

 

朝鮮問題ニ関スル協定

警備部

鮮人問題ニ関スル協定

朝鮮人ニ対スル官憲ノ採ルベキ態度ニ付キ、九月五日関係各方面主任者事務局警備部ニ集合取敢ヘズ左ノ打合ヲ為シタリ

第一、内外ニ対シ各方面官憲ハ鮮人問題ニ対シテハ、左記事項ヲ事実ノ真相トシテ宣伝ニ努メ将来之ヲ事実ノ真相トスルコト

 

従テ、()一般関係官憲ニモ事実ノ真相トシテ此ノ趣旨ヲ通達シ各部ニ対シテモ此ノ態度ヲ採ラシメ、()新聞等ニ対シテ、調査ノ結果事実ノ真相トシテ斯ノ如シト伝フルコト

 

ここまで読めば、警察や新聞に対して「左記」のことを「真相」として宣伝せよ、と命じていることは明白です。完全な情報操作でしょう。

 

左記

 

朝鮮人ノ暴行又ハ暴行セムトシタル事柄ハ多少アリトモ今日ハ全然危険ナシ、而シテ一般鮮人ハ皆極メテ平穏順良ナリ

朝鮮人ニシテ混雑ノ際危害ヲ受ケタル者ノ少数アルベキモ、内地人モ同様ノ危害ヲ蒙リタルモノ多数アリ

皆混乱ノ際ニ生ジタルモノニシテ、鮮人ニ対シ故ラニ大ナル迫害ヲ加ヘタル事実ナシ

 

第二、朝鮮人ノ暴行又ハ暴行セムトシタル事実ヲ極力捜査シ、肯定ニ努ムルコト

尚、左記事項ニ努ムルコト

 イ 風説ヲ徹底的ニ取調ベ、之ヲ事実トシテ出来ル限リ肯定スルコトニ努ムルコト

 ロ 風説宣伝ノ根拠ヲ充分ニ取調ブルコト

 

『現代史資料(6)』「関東大震災と朝鮮人」(みすず書房)

 

朝鮮人による暴動があったかのように肯定し、虐殺は震災による混乱で生じた一部の民衆の暴走、ということにしてしまう、ということを政府が意図的に「宣伝」していたことがわかります。

情報が少ない中、政府機関が発表する情報を新聞は書きますし、警察はこの「支持」に従って取り調べていたことは明らかです。

満州事変以降の官憲による情報操作の徹底は、関東大震災直後の「対応」をみればどのようなものであったかも容易に想像できます。

マスコミのミスリードの背後にはこういう政府の情報操作があったことも忘れてはいけません。

 

以下は細かいことが気になるぼくの悪いクセ、です。

 

「地震国である日本は江戸時代にもたびたび大地震に見舞われたが、明治の近代国家になってからは初めてで…」(P349)

 

と説明されていますが、『防災白書』などを見てもらえればわかりますが、1891年の

「濃尾地震」では死者・不明者7000人を超える被害が出ていますし、1896年の「明治三陸地震」では津波にみまわれ2万人以上の死者・不明者が出ています。

関東大震災は「超」大規模な地震ですが、濃尾地震も明治三陸地震も、どう考えても十分「大地震」だったと思います。

147】明治時代から大正時代にかけての社会問題にまったく触れられていない。

 

「日本で最初の本格的な政党内閣を作った原敬は爵位を持たない最初の総理大臣になった(そのため平民宰相)と呼ばれた。」(P347)

 

原敬内閣の成立がたったこれだけです。

第一次世界大戦が始まると、造船・化学などの工業が発達、生糸・綿糸の輸出も大幅に伸張し、空前の好景気を迎えました。

しかし、多くの利益は後の財閥となる企業に吸収され、大部分の労働者への利益還元は滞り、物価高が人々の生活にのしかかりました。

農業も寄生地主制の影響で生産は停滞し、寺内正毅内閣のシベリア出兵を見越した投機的な米を中心とする農産物の買い占めが起こり、物価高にさらに追い打ちをかけていました。

これを背景に富山県を出発点として米騒動が全国に広がり、軍隊まで出動させて鎮圧したものの、寺内内閣は引責辞任せざるをえませんでした。

こうして立憲政友会を中心とする原敬の本格的政党内閣が始まったのです。

 

しかし、この内閣も、1920年に始まる戦後恐慌で、財政的にゆきづまり、また党員の関係する汚職事件も続出しました。政党政治に憤激した一青年により東京駅で原敬が暗殺され、かわって高橋是清が政友会総裁となりましたが、政権内の対立から短命に終わります。

さて、このころ、労働運動も活発になり、友愛会は1919年、大日本労働総同盟友愛会となり、翌年には日本最初のメーデーも実施されました。

しかし、戦後恐慌の影響もあり、労働争議が頻発し、1921年には日本労働総同盟が結成されました。

それまでの労使協調路線から階級闘争路線に変化することになりました。

農村でも小作料引き下げをもとめる小作争議も頻発し、1922年には日本農民組合が結成されました。

後の財閥となる一部企業への利益集中、寄生地主制による小作と地主の貧富の差の拡大など、1920年代はこれらの矛盾が表面化した時代でした。

また、ロシア革命の影響を受けて社会主義運動が高まりました。

1922年には堺利彦や山川均らによって日本共産党がコミンテルンの日本支部として非合法に結成されました。

1920年には、婦人参政権の実現をめざす新婦人協会が平塚らいてう、市川房枝らによって組織されました。

また、被差別部落の住民たちへの社会的差別を自主的に撤廃しようとする運動も本格化して全国水平社ができました。

 

『日本国紀』で語られる歴史は、「誰か」の歴史ではありますが、日本の人口の八割以上を占める「人々」の歴史の説明は圧倒的に希薄です。

社会や経済の動きの説明無く歴史の説明をすることには無理があります。

 

「大正一四年(一九二五)には、普通選挙法ができた。これにより納税額による制限が撤廃され、満二十五歳以上の男性は全員参政権を持った(ただし女性には参政権は与えられなかった)。」(P347)

 

と説明されていますが、これも先に説明した労働運動、小作争議、社会主義の広がり、婦人参政権運動などに触れておけば、普通選挙がなぜ実現したかもわかりやすかったはずです。

また、普通選挙法と同時に制定された、治安維持法の説明が皆無です。

無産政党を非合法化し、後に強化されて言論を弾圧するこの法律に触れていないのは問題です。

また、シベリア出兵などロシア革命に干渉していた日本でしたが、同じ年に日ソ基本条約を締結し、日本はソビエト連邦を承認しました。この説明が無いのも不思議です。

 

「明治維新からひたすら富国強兵に励んできた日本であったが、大正時代になってようやく国民が娯楽や愉しみを享受できるようになった。」(P348)

 

と説明されていますが、大戦後の恐慌を受けて、娯楽や愉しみを享受できたのは都市の一部の市民たちだけでした。

大企業と中小企業、都市と農村との間の格差が開いたのもこの時期です。

「二重構造」と説明されるようになり、この解決が政治課題となっていました。

個人の消費は増大し、いわゆる大衆消費社会が生まれたともいえますが、農家や都市労働者の生活水準は低く、大企業で働く人との差が大きく開きました。

146】ワシントン会議における日英同盟の説明が誤っている。

 

「大正一〇年(一九二一)から翌年にかけて、アメリカでワシントン会議が開かれた。参加国はアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ポルトガル、中華民国で、これほど大きな国際会議が開かれたのは初めてのことだった。」(P345)

 

と、説明されていますが、少し意味がわかりません。

直近のパリ講和会議は三十ヵ国以上が参加しています。なぜ、「これほど大きな国際会議が開かれたのは初めて」とおっしゃっているんでしょうか…

 

「議題は、列強が再び第一次世界大戦のような悲惨な戦争を繰り返さないための軍縮だった。」(P345)

 

と説明されていますが、このような説明は誤解をまねきます。

まず、この会議は国際連盟が承認していない会議です。

集まった国々は、太平洋と東アジアに権益がある国のみです。

「第一次世界大戦のような悲惨な戦争」を回避するならば、陸軍の軍縮を話し合うべきで、国際連盟は承認せず、陸軍の軍縮は話し合われず、東アジア・太平洋に利権のある国だけが集まる会議でした。

ということで、「議題」は次の三つです。

 

「太平洋問題の調整」「中国問題の解決」「軍縮」

 

ヴェルサイユ条約によって南洋諸島・マーシャル諸島の委任統治権を得た日本は太平洋に利権を得ました。これはフィリピン・ハワイに利権を持つアメリカとの「対立」をまねく可能性がありました。アメリカなど列強は多国間条約によって太平洋の安定を図ろうと利害の調整を進めようとしました。

 

山東半島の権益はヴェルサイユ条約によって日本に帰属することが明記されています。

しかし、中国では反対運動が激化していました。山東問題だけでなく、中国をめぐっての列強の対立が国際的な安定を揺るがすことを回避しようとしました。

 

第一次世界大戦で参加国の経済は低迷し、日本も大戦中こそ好景気でしたが戦後は恐慌に陥りました。しかし、軍備だけはどこの国も維持したままで、財政を圧迫していました。戦後の経済的不安定を解決するために各国とも軍縮が必須でしたが、軍縮は一国ではできません。多国間で行おうと考えました。

 

さて、

 

「この会議で『中国の領土保全』『門戸開放・機会均等』が成文化される(九ヵ国条約)。つまり列強も現状以上の中国への侵略を控え、ビジネス的な進出に切り替えようというものだった。これには中国大陸進出に出遅れたアメリカの意向が色濃く反映されていた。」(P346)

 

そして「日英同盟」の破棄に言及し、

 

「この同盟の破棄を強引に主導したのはアメリカだった。中国大陸の市場に乗り込もうと考えていたアメリカは、日本とイギリスの分断を目論んだのだ。」(P346)

 

という史料に基づかない推論を断言されています。

 

『近現代日本経済史要覧』には、中国に対する列強の投資費が示されています。

 

1914年】

イギリス 38

ロシア  17

ドイツ  16

日本   13

フランス 11

アメリカ3%

 

1931年】

イギリス37

日本  35

ソ連  8%

フランス6%

アメリカ6%

ドイツ 3%

 

あたかもアメリカの経済進出のために日本の進出をおさえようとしていたかのような説明をされていますが、実際は圧倒的にイギリスと日本の投資額が増えて、中国における非軍事的な経済的進出はイギリス・日本の独占といっても過言ではありません。

九ヵ国条約の経済的恩恵はあきらか日本とイギリスが得ました。

 

そもそも、二十一ヵ条要求後の第一次世界大戦中の日本の大陸への進出と、それを列強に認めさせていく過程が、ご存知ないのか意図的なのか、まったく説明されていません。

1916年には第4次日露協約を締結し、極東における日露の特殊権益を相互承認しました。

大隈内閣の後の寺内正毅内閣では、袁世凱の後継者となった段祺瑞に対して巨額の経済借款を与え(西原借款)、段祺瑞政権を通じて日本の権益の浸透を図っています。

また、イギリスの地中海派兵要求との取引では、山東半島の権益と南洋諸島の権益をイギリス・フランスに認めさせています。

日本の中国進出を警戒していたアメリカとも1917年、石井=ランシング協定を結び、中国の領土保全と門戸開放、地理的な近接性ゆえに日本は中国に特殊権益がある、認めさせています。

さらにはロシア革命に干渉するシベリア出兵も1918年から開始し、大戦終了後も、他列強が撤兵したにもかかわらず、1922年まで日本は撤兵をしていません。

アメリカがどうこう、と百田氏は説明していますが、そんな問題ではなく、アジア及び太平洋の「平和と安定」の鍵は日本が握っているのは明白です。

第四次日露協約、英仏との秘密協定による山東省・南洋諸島進出、石井=ランシング協定、シベリア出兵の話がまったく出てきていません。

ワシントン会議の九ヵ国条約は、この石井=ランシング協定の破棄であったことにもまったく触れられていません。

 

さらに日英同盟の破棄に関する説明が著しく誤認されていて不正確です。

 

「日本とイギリスの分断を目論んだのだ。」

「そしてもう一つ、いずれ日本と戦うためにも、イギリスとは切り離しておきたいという意図もあった。」(P346)

 

そもそも日英同盟は、「アメリカを交戦国の対象から外す」と明記されている同盟です。すでに1911年の段階で、アメリカも交えてこれは確認されていて、ワシントン会議で突如言い出した話などではありません。

 

「イギリスは同盟の破棄を望んでいなかったが、日本の全権大使、幣原喜重郎は『四ヵ国条約』を締結すれば国際平和につながるだろうと安易に考え、これを呑んで、日英同盟を破棄してしまった。」

「日英同盟こそは日本の安全保障の要であり、日露戦争に勝利できたのも、この同盟があったればこそである。しかし幣原は、その重要性も、また変化する国際情勢における日本の立ち位置やアメリカの思惑も、まったく理解していなかった。」(P346)

 

と説明されていますが、まったくの事実誤認です。

 

日英同盟は二回の更新をへて、1923年に失効しました。

締結は1902年で、次に1905年、そして1911年に更新されています。

第二次同盟では、日英同盟の範囲をインドにまで拡大することと引き換えに日本は韓国を保護国化する承認を得ました。

第三次同盟ではアメリカが交戦国の対象外になります。

ところが、辛亥革命をきっかけに東アジア情勢をめぐる日英の「温度差」が出てくるようになりました。辛亥革命に対して、日本とイギリスの考え方が対立し、イギリスは孫文と清国の仲介を図るようになりました。

このあたりから、双方、日英同盟の重要性が低下するようになり、両国の東アジアにおける行動の制約になりつつありました。(『日露戦争と新聞-「世界の中の日本をどう報じたか」』片山慶隆・講談社選書メチエ)

日英両国の対立は、パリ講和会議での「人種差別撤廃提案」をめぐる問題で決定的となりました。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12443302398.html

 

百田氏は、これをアメリカとの対立であるかのように説明してしまって、ほんとうはイギリスが激しく反対したことにまったく言及されていませんでした。

1921年には、日英同盟がそもそも国際連盟規約に抵触するのではないか、という議論も起こり、日本でもイギリスでも、日英同盟の廃止が望まれていたのです。

「イギリスは日英同盟の破棄を望んでいなかった」という説明は適切ではありません。

もちろんイギリス外相バルフォアは、四ヵ国条約締結に際して「日英同盟を存続すればアメリカに誤解され、破棄すれば日本に誤解される」と述懐しています(『裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記』(波多野勝・草思社))が、日英同盟の存続を願っての発言ではなく、外交上の調整の難しさを嘆く発言です。

幣原喜重郎は「変化する国際情勢における立ち位置」を「まったく理解していなかった」のではなく、変化する国際情勢に合わせて、制度疲労していた日英同盟を四ヵ国条約へと発展解消してのです。

 

「日英同盟が破棄されたことで、日本は後にアメリカと戦う時には単独で対峙しなければならなくなった。これこそアメリカが望んでいたことだったのだ。」(P345P346)

 

という説明にいたっては意味がよくわかりません

アメリカと戦う時は、イギリスに対しても同時に宣戦布告しています。真珠湾の攻撃と同時にマレー半島にも上陸しています。

当初の戦争目的になかった後付けの「植民地の解放」などはあきらかに東南アジアのイギリスを対象としているわけで、日本のアジア・太平洋への進出過程において、日英同盟はしかるべくして失効したのです。

 

二十一ヵ条要求の説明のときには、外務大臣加藤高明の名前すら出てこなかったのに、突如、ここでは幣原喜重郎を登場させて非難しているのも不可解です。

複雑な国際情勢をふまえず、幣原一個人の考えで1920年代の外交が展開したかのように説明するのはたいへん不適切だと思います。

145】二十一ヵ条要求の説明が一面的である。

 

「…袁世凱の中華民国政府に対して、ドイツが山東省に持っていた権益を譲ることなどを含む『二十一ヵ条要求』を出す。それは一部の希望条件を除き、当時の国際情勢において、ごく普通の要求だった。しかも最初は日本と中華民国双方納得の上での話だったものを中華民国側から『要求という形にしてほしい。やむなく調印したという形にしたい』という申し出があったので、日本側は敢えて『要求』という形にした。」(P344)

 

一部のホントの話を紹介してそれが全体であるかのように語る、というのはウソと誇張と同じとは言いませんが、不正確な説明と同じです。

 

「これは日本の外相だけでなく、中国に詳しいアメリカ外交官のラルフ・タウンゼントも認めていることであり、また孫文も『二十一ヵ条要求は、袁世凱自身によって起草され、『要求』された策略であり、皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払った代償である』と言っている。」

 

と続けて説明されています。

 

これではまるで、日中双方納得して結んだ「条約」だったのに、袁世凱が自分の立場が悪くなるから「要求」という形にしてほしい、と日本にお願いして、おひとよしの日本が「じゃあそれでいいです」ということにしたものが「二十一ヵ条の要求」だった、みたいな印象を与えてしまいます。

 

まったく違います。

(二十一ヵ条の要求、は第一号から第五号まであり、第一号、第二号に複数の条項があり、それらを合計して二十一ヵ条としているものです。)

 

まず、「当時の国際情勢において、ごく普通の要求だった」という「当時の国際情勢」に、実は日本が乗り遅れていて、ここでいう「当時の国際情勢」は1900年代の話なんです。「普通の要求」が、この段階ではもう「前時代」の国際常識になりつつ時代であった、ということを忘れてはいけません。

中国の領土保全、という国際合意は、第一次世界大戦後の九ヵ国条約で成立しますが、実は第一次世界大戦が始まった段階で、「中国の領土保全」はイギリスやフランス、ロシア、そしてアメリカも合意していたことでした。

このことは日本も承認しないと、「国際常識」に乗り遅れます。

ですから、これが第四号「中国の領土保全のための約定」に示されています。

 

日本は少し焦っていました。中華民国政府が成立した後、清国の時代に得ていた利権をそのまま引き継ぐ必要があります。その外交的手続きを日本は第一次世界大戦が始まるまでに完了できていなかったのです。

改めて「日露戦争で得た権益」を確実に継承することを確認する必要がありました。

とくにこのままだと旅順・大連の租借期間は、1923年に満了してしまうのです。

ですから、「二十一ヵ条要求」のうちの第二号「南満東蒙での日本の地位明確化」というのは、ちょっと時代遅れになりつつありましたが、いちはやく出して中国に承認させなくてはならない「当時の国際情勢において、ごく普通の要求だった」のです。

 

第四号はまったく問題なし、第二号も、これだけならば、実は、すんなり通っていた話で、何も無理な要求ではありませんでした。

ところが、第一次世界大戦が始まり、日本はさらなる権益を得るチャンスを得ることになり、ドイツの山東半島を軍事的に占領することに成功しました。

しかし、山東半島の利権はドイツと中国の間で成立している「契約」ですから、日本がドイツの租借地を占領したからといって、日本のものにそのまま利権がスライドされるわけではありません。講和条約で敗戦国のドイツに中国が返還要求すれば中国に返還されます。利権の他国譲渡は、「租借」契約では禁止されていることですから、山東半島への攻撃と同時に、中華民国政府と利権獲得の交渉をしなくてはなりませんでした。

これが第一号「山東半島処分に関する条約」の内容です。

 

ここで日本政府は「不思議な動き」をします。

青島のドイツ軍に対して宣戦布告したのが823日。ところが外務大臣の加藤高明は日置駐中公使の再三の要求にもかかわらず交渉を始めませんでした。

青島を占領したのが117日。そして11日になってようやく閣議を開きます。

18日になってから日置公使にようやく「交渉ヲ開始セラレ差支ヘナシ」と発令されます。

 

さっさと「第二号」の交渉を第一次世界大戦前に始めていればよかったのに、国際情勢が変化したため「第四号」を入れなくてはならなくなり、第一次世界大戦が始まってドイツに宣戦するなら、早くに「第一号」の交渉をしなくてはいけなかったのに、なかなか交渉指示を出さない…

 

なぜ、加藤高明は、「第一号」の交渉を遅らせたのか…

もう、この話をすると、ああ、そーゆーことね、て、なっちゃうんですが…

加藤高明は、立憲同志会の政治家です。

実は、1225日に衆議院の解散・総選挙が始まっていたんです。

一号・二号・四号をまとめて示して政府の強気の外交成果を示して、選挙を有利に進めるという「選挙戦略」に外交を用いたんです。

 

「外交」を「政治」に利用すると必ず国益が損なわれます。

しかも、「第一号」の交渉をドイツ宣戦前から始めていなかったことが、さらに「要求」を拡大してしまうハメになりました。

それは軍部の介入をまねいたのです。

山東半島の軍事占領、という成果をもって、中国に対する要求を高めるように求め始めました。

参謀本部の明石元二郎次長は1915129日付けの寺内総督宛書簡で、

 

「ワガ提議ハ十分強硬ニコレヲ貫徹スル必要コレアルベク、モシソレワガ要求ニシテ容レラレズバ、断乎トシテ教師団ヲ燕京ノ城郭ニ進メ候コトハ数ヶ月ヲ待タズシテ解決イタスベク」

と記しています。

兵力を用いてでも要求を貫徹することを主張しているのは明白です。

とても「日本と中華民国双方納得の上での話だった」という「交渉過程」ではなかったことがわかります。

実際、海軍は艦隊を派遣していますし、陸軍はこの時期に合わせて満州駐屯軍の交代を名目に軍を動かしています。

 

さらに123日、日置公使は加藤外務大臣に、交渉の意見書に「懸引上引誘条件」を記していて、それによると、

 

一、膠州湾の還付

二、袁世凱大総統の地位及び政府の安全の保証

三、日本国内及び日本法権下の国民党など留学生、不謹慎な日本商人取締の厳重励行

四、袁大総統及び閣僚の叙勲

五、税率改定の提議についての同意条件

 

を示し、「山東出征中の軍隊による威力」もあわせて説いています。

 

袁世凱の大総統としての地位保証、というのは日本政府側から求めていたことがわかります。「二十一ヵ条要求は、袁世凱自身によって起草され、『要求』された策略であり、皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払った代償である。」という孫文の言葉は、交渉の舞台裏を知らないゆえの推測にすぎません(袁世凱と対立し、日本政府にも革命分子と考えられていた孫文が知らないのはあたりまえ)

 

第二号の交渉が遅れ、第一号の要求は、軍部のさらなる強硬案をもたらし、そして第五号を付け加えなくてはならなくなりました。

第五号は、「その他」ですが、中央政府に日本の政治財政軍事顧問を招聘する、中国内の日本の病院・寺院・学校に土地所有を認める、さらには中国南部の鉄道敷設権、などを求めています。

これは「領土保全」の第四号に矛盾しますし、当然、イギリスやフランス、アメリカに知られると困ります。

ですからこれを袁世凱には、他国には秘密として付記したのです。

 

「この『要求』の経緯は外部には漏らさないという密約として交わされた条約だったが、袁世凱はそれを破って公にし、国内外に向かって、日本の横暴を訴えた。」(P344)

 

と説明されていますが、これも不正確です。

「この要求」とは、第五号だけの話です。

第一号から第四号までは、すでにイギリスやフランス、アメリカにも伝えているんです。袁世凱が暴露したのは秘密条項の「第五号」です。

ですから、

 

「欧米列強は条約の裏事情を知りながら、日本を糾弾した。」(P345)

 

という説明も誤りです。「裏事情を知りながら」ではなく「第五号を知らなかった」ので「糾弾した」のです。第一号から第四号は聞いているが、第五号なんて知らないぞ、と、不信感を表明しました。

加藤外務大臣は210日、駐英公使に「第五号は希望にしかすぎません」と弁明していますが、加藤は第五号を取り下げず、そのまま袁世凱に認めさせています(後には撤回されます)

しかし、イギリスとフランスはちゃんと承認しています。アメリカだけが「不承認」を発表しました。

 

「第二号」の要求はもっと早くに確認すべきもの。

「第四号」は諸外国を納得させるために「中国の領土保全」を認めたもの。

「第一号」はほんとうならば、ドイツに宣戦する前から交渉すべきこと。

それを延期したため、軍部の要求が高くなってしまって「第五号」を入れなくてはならなくなったこと。

そして「対外強硬論」で「強い政治家」を演出し、総選挙を利用して、本来ならば別々に示して交渉すべきことをまとめて「要求」してしまったこと。

「第一号」から「第四号」も各国は認知していたのに、秘密のはずの「第五号」を袁世凱に暴露されてしまったこと。

よって弁解のために「袁世凱から求められたこと」で、「第五号は希望にすぎない」と弁解したこと。

 

これが「二十一ヵ条の要求」の実態でした。

現在の研究では、事細かくここまでちゃんとわかっていて、他国の外交官や政治家が「推測」ではない「史料」がしっかり残しています。すでに十分議論されていることをふまえて説明がされてきています。

 

『加藤高明』(櫻井良樹・ミネルヴァ書房)

『日本歴史』日本歴史学会144号「対華二十一ヶ条要求条項の決定とその背景」(長岡新次郎)

『史林』573号「参戦・二一ヵ条要求と陸軍」(山本四郎)

『対華二十一ヵ条要求とは何だったのか』(奈良岡聰智・名古屋大学出版会)

「対華二十一ヵ条要求-加藤高明の外交指導」(島田洋一)

(※島田洋一論文は、ご本人がブログで公開されています。)

 

「現代でも『二十一ヵ条要求』は日本の非道さの表われとする歴史教科書があるが、これは誤りである。」(P345)

 

と、断じられていますが、いったいどの教科書のどの記述が、「日本の非道さの表われ」と説明しているというのでしょうか。

日本の教科書は、現在きわめてニュートラルに記述されていて、いずれも文献・史料に基づいた記述がなされています。あいまいな推測や無根拠の話を排除した結果のものです。以下、山川出版の『詳説日本史B(P321)を引用します。

 

「続く1915(大正4)年、加藤外相は北京の袁世凱政府に対し、山東半島のドイツ権益の継承、南満州および東部内蒙古の権益強化、日中合弁事業の承認など、いわゆる二十一ヵ条要求をおこない、同年5月、最後通牒を発して大部分を承認させた。加藤による外交には内外からの批判があり、大隈を首相に選んだ元老の山県も、野党政友会の総裁原敬に『訳のわからぬ無用の箇条まで羅列して請求したるは大失策』と述べて加藤を批判していた。」

 

少なくとも、加藤外交に一定の批判を感じますが、ここに「日本の非道さ」を示す表現は無いように思います。

 

以下は蛇足ですが。

 

孫文は正義、袁世凱は悪、という考え方は、現在ではおこないません。

孫文革命勢力も袁世凱政府も、どちらも日本政府の支援を得ようとしていて、孫文も二十一ヵ条の要求の内容とほぼよく似たことを日本に打診しています。

「袁世凱が起草したものだ」と非難していますが、自分も日本に歩み寄ろうとしていたことを糊塗とする言説だと考えればよいと思います。