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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

154】五・一五事件の助命嘆願運動は、マスコミの報道だけが煽ったのではない。

 

「これは昭和恐慌による経済的苦境の中で、ロンドン海軍軍縮条約に不満を持った海軍軍縮条約に不満を持った海軍の急進派青年将校を中心とするクーデターで、首相官邸、内大臣官邸、立憲政友会本部、日本銀行、警視庁などを襲撃して、犬養毅首相を射殺した事件である。」(P361P362)

「この事件の背景には、世界恐慌による不景気が続き、農村の疲弊や政党政治への不満が民衆の中に充満していたこともあった。」(P362)

 

と説明されています。あれ? 変なこと言うなぁ、と思いました。

というのも、P350でこのように説明されているからです。

 

「政府は恐慌が脱出するために、金融緩和に踏み切るとともに積極的な歳出拡大をし、農村漁村経済更正運動を起こし、インドや東南アジアへと輸出を行ない、欧米諸国よりも早く景気回復を成し遂げた。」(P350)

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12444761232.html

 

この「政府」って、犬養毅内閣のことなんです。五・一五事件の背景の説明で「世界恐慌による不景気が続き」という説明は明らかに矛盾です。

「欧米諸国よりも早く景気回復を成し遂げた」という表面的な成果を誇示せず、「その裏で農村が疲弊していた」「利益は財閥や地主などに独占されていた」と実情を説明しておくべきだったとも思います。

 

「軍人が共謀して首相を殺害するなど許しがたい暴挙だが、それ以上に驚くのは、当時の新聞が犯人らの減刑を訴えたことだ。」(P361)

 

百田氏の感想ですから、べつにこう説明されてもかまいませんが、首相殺害という大事件よりも、新聞が犯人の減刑を訴えたことのほうが「それ以上に驚く」という説明にむしろ私などは驚きます。

「新聞が犯人の減刑をうったえたことには驚かされるが、軍人が共謀して首相を殺害するなどは許しがたい暴挙だ」と説明すべきではないでしょうか。

 

「この報道に煽られた国民の間で助命嘆願運動が巻き起こり、将校らへの量刑は異常に軽いものとなった。」(P361)

 

という説明は著しく不正確です。

まず、五・一五事件が勃発した段階で、完全な報道管制がしかれました。

国民の間に事件が知らされたのは5月17日になってからです。

発表は司法省・陸軍省・海軍省の3省で発表されました。

しかし、ここでの発表で荒木貞夫陸軍大臣は驚くべきことに犯行に一定の理解を示したのです。

 

「純真なる青年が、かくの如き挙措に出でた心情について涙なきを得ない。」

 

裁判も異様でした。犯行に及んだ士官候補生はもちろん軍籍を剥奪されていましたが、軍部は彼らに襟章の無い制服を新調し、海軍将校は真っ白な新しい軍服を着用していました。軍をあげて「義挙」であるかのような演出をしていたとしか言いようがありません。

犯人の一人中村海軍中尉の公判中には、戦闘機3機が公判廷上空を低空で飛行します。

被告らは「我らが捨て石とならば」を繰り返し、市原陸軍士官候補生は「対立政党の腐敗、財閥の利権独占、東北地方の不作を放置すれば、国家にとってこれより大なる危険はない」と強調、軍人である裁判官判士は公然と涙を流しています。

実は、各新聞はこの様子を記事にしていて、裁判官判士が「体を震わせて泣いていた」と描写しています。

これらの記事が国民の犯人に同情を招いたことは否定できないと思いますが、東西朝日新聞・新愛知新聞(現在の中日新聞)・福岡日日新聞(現在の西日本新聞)はいずれもかなり厳しく犯行を糾弾しています。

「それ以上に驚くのは、当時の新聞が犯人らの減刑を訴えたことだ。」(P361)

と説明されていますが、「犯人の減刑を訴えた」新聞はいったいどれだったのでしょうか。

「助命嘆願運動」が広がった背景に、愛郷塾の「農民決死隊」が事件に荷担していたことが大きいと思います。五・一五事件は、軍部だけでなく民間人も参加していて、新聞は軍の暴挙には攻撃的論調でしたが、民間人には同情的でした。

 

新聞報道によって助命嘆願運動の激化と犯行将校らへの量刑が軽くなったと説明し、それが二・二六事件の「後押し」となったと説明するのは、事件の全体像を歪めてしまうと思います。

むしろ軍部の犯行将校・候補生に対する同情的対応に、軍部内の急進的な国家改造への意思を感じます。

 

153】満州は中華民国の一部であり、リットン調査団の報告書の説明が一面的である。

 

P359P360にかけて、唐突に「満州は中華民国のものか」という問いかけから始まる説明が行われています。

これはどういう意図でこのようなことをおっしゃっているのでしょうか。

 

「『九ヵ国条約』は、中国(China)の門戸開放、機会均等、主権尊重の原則を包括したものだったが、実はこの条約におけるChinaに『満州』が含まれるかどうかについては曖昧なまま放置されていたのだ。」(P359)

 

と説明されていますが、根拠の無い独特な解釈です。

世界史における清末から中華民国の成立の過程を知っていれば、このような言説にはいたりません。

まず、孫文が191211日に南京で中華民国の建国を宣言しました。

この段階では、清帝国はまだ存在しています。清は袁世凱を起用して中華民国臨時政府と交渉させ、袁世凱は宣統帝溥儀と皇室の身分、生活保障の約束と引き換えにその退位を承諾するとともに、自らの臨時大総統就任、臨時約法(中華民国の制定した憲法ともいうべき基本法)の遵守、共和政の採用を約束します。

この時、さらに「清の版図の維持」と「五族協和」も約束しました。

その後、北京と南京の政府が合流し、袁世凱を首班とする中華民国が北京に成立しています。中華民国は、清が列強と締結した諸条約の継承を宣言し、1913年までに列強も中華民国を国際的に承認しています。

 

「南京に臨時政府を建てた孫文が、『中華民国は清朝の領土を引き継ぐ』と宣言した。ただし、これは孫文の一方的な宣言にすぎず、そもそも女真族の土地であった満州全土が、この宣言一つで中華民国の実効支配下に置かれたはずもなかった。」

 

と、説明されていますが、はい、そうですとしか言いようがありません。これは1912年の段階の話で、その清朝は宣統帝の退位で滅亡し、袁世凱の北京政府と、孫文の南京政府が合流し、事前の「約束」通り、袁世凱が孫文より臨時大総統の地位を宣統帝の退位と引き換えに譲り受けられました。

明確にに清帝国はその版図ごと中華民国に継承され、関係列国も清帝国時代の諸条約・利権をそのまま引き継ぐことと引き換えに中華民国を承認しました。

(そもそも百田氏も、冒頭に「関東軍主導のもと、満州は中華民国から分離され…」と説明されていて、満州が中華民国の一部であることは認識されていると思うのですが…)

 

「中華民国の体制は非常に弱く、その支配は限定的で、満州に限らず、広い版図の大半の地域に地方軍閥の割拠を許していた。」(P360)

 

という説明は、袁世凱の死後、後継争いが起こってからのことです。

 

満州は中華民国のものではないかのような言説は、当時も現在も否定されています。

よって「九ヵ国条約を盾に日本を非難し…」(P360)という説明は不適切で、「九ヵ国条約にもとづいて…」と説明すべきでした。

 

「この時、(リットン)調査団は『満州における日本の権益の正当性』や『満州に在住する日本人の権益を、中華民国が組織的に不法行為を含む行ないによって脅かしている』ことを認める報告書を出している。つまり満州事変には相応の発生事由があったと、国際的に見做されたことになる。」(P360)

 

と説明されていますが、これはあまりに一面的で一部の切り取りです。これだけの説明では不十分で誤解を与えかねません。

報告書は全部で10章あり、「満州に日本が持つ権益は認めるべき」であり、「国際社会や日本は中国を近代化できる」と述べられていて、「日本が武力を、中華民国が不買運動や挑発を行使していては平和は訪れない」と一部「日本への配慮」を示しつつ、「柳条湖事件及びその後の日本軍の行動は自衛的行為とはいえず」、「満州国は住民の自発的独立によって成立したものとはいえず」、「満州国の存在は日本軍が支えている」と結論付けています。

リットン調査団の報告書は、日本が主張した「自衛のための行動」「満州国は満州の人々による独立国家である」ということは明白に否定したものなのです。

152】中国に対する幣原外交を誤解していて、満州事変の説明が表面的である。

 

「被害を受けた日本人居留民が領事館に訴えても、前述したように、時の日本政府は、第二次幣原外交の『善隣の誼を敦くするは刻下の一大急務に属す』(中国人と仲良くするのが何よりも大事)という対支外交方針を取っていたため、訴えを黙殺した。」(P357)

「それどころか幣原外務大臣は、『日本警官増強は日支対立を深め、ひいては日本の満蒙権益を損なう』という理由で、応援警官引き揚げを決定する。」(P357)

 

いずれも、当時の国家主義団体や右翼、一部マスコミの政府非難と同じような論調の説明で少し驚きました。

満州でのテロや日本人襲撃などの話が2000年に入ってからインターネット上の説明に増えるようになったのですが、いずれも当時の右翼団体や国家主義者などが喧伝していた内容の引用で、一次史料の裏付けのあるものは少なく、これらの言説をもとにした説明はどうしても一面的になります。

また、ここで「幣原喜重郎」という一人の政治家の名前をあげて非難しているところにも違和感をおぼえます。

なぜ、日本政府、という説明にしないのでしょうか。日本政府だけではなく、軍部もこの方針には同調していたのです。

というのも、この場合の「善隣の誼」とは、共産党及び国民党左派をのぞいた国民党政府に対する「誼」のことだからです。

当時の日本政府、および軍部の考え方は、日本や欧米に対するテロ・襲撃事件は国民党ではなく、国民党と列国を分離・対立させようとする「共産党勢力の工作」と考えていたからで、日英米仏伊5ヵ国と蔣介石との「協定」で「外国人の生命財産の保障」を約束させ、蔣介石に治安維持をさせる、という列国との共同歩調の枠組みの中での話でした。

 

1920年代、中国では主権と列強におさえられていた様々な権益を回収しようとする動きが活発になっていました。その大きな背景は1919年のソ連による「カラハン宣言」の影響が大きいのです。

ソ連は、ロシアが中国に持っていた権益を全面的に放棄する、と宣言しました。

以来、中国民衆はこのソ連の「態度」に共鳴し、「政権が変われば、前政権の条約は引き継ぐ必要は無い」という考え方が広がり、ソ連・共産党と連携しようという考え方が生まれていました。

孫文が、「連ソ・容共・扶助工農」を唱えたのもこれが背景にあります。

それを蔣介石が不服に思い、孫文死後、国民党内の主導権を握り、反共に転じていました。

英・仏・米は蔣介石を支援し、日本も最初は蔣介石を支援しようとしていましたが、関東軍による張作霖爆殺後、その子の張学良がしだいに日本の排斥に動き、満蒙の権益にこだわる日本への反発を強め、満鉄によって奪われていた権益を回収するために、満鉄に並行する鉄道を敷設していったのです。

 

「…張学良はこの後、満州に入植してきた日本人と朝鮮人の権利を侵害する様々な法律を作った。また父の張作霖が満鉄に並行して敷いた鉄道の運賃を異常に安くすることで満鉄を経営難に陥れた。」(P356)

 

と、満鉄の損害を一方的に説明されていますが、張学良政権の「排日」と国民党への歩み寄りは、反共・民族的利益回収で利害が一致したためで、とくに過度の排日は張作霖爆殺事件による日本側の敵対行動のいわば「自業自得」の側面もあったことを忘れてはいけません。

 

また、百田氏は「幣原外交」の対中融和的態度を非難されていますが、これも当時の国家主義団体や右翼勢力の言説とたいして内容が変わらず、当時の日本政府の方針を正確に説明していません。

若槻礼次郎内閣(外務大臣幣原喜重郎)も、実は「満蒙の権益」固守は賛同していて、立憲民政党の大会では「いかなる犠牲もかえりみず、完全として決起せねばならぬ」と演説していて、満蒙の権益を固守する考え方に立っていました。

 

「韓国併合により当時は『日本人』だった朝鮮人は、中国人を見下す横柄な態度をとっていたといわれ、中国人にしてみれば、長い間、自分たちの属国の民のような存在と思っていた朝鮮人が、自分たちよりもいい暮らしをしているのが我慢ならなかったと考えられる。」(P358)

 

と説明されていますが、「~いわれ」「~と考えられる」とあるように、いずれも百田氏の推測にすぎません。

韓国併合を言外に正当化するような説明をふまえ、「朝鮮人が中国人を見下す横柄な態度をとっていた」、「自分たちよりも(朝鮮人が)いい暮らしをしているのが我慢ならなかった」ということが示されている一次史料を見たことがありません。

どのような根拠でこう説明されているのかちょっとわかりません。

逆に、1910年~1931年にかけての朝鮮人入植者の実態について説明した論文・研究はたくさんあります。

一般にこの時期の朝鮮人移民に関しては二段階で説明します。

第一段階は1910年の韓国併合直後から満州へ移動した人々、第二段階は1919年の「三・一独立運動」以後に満州に移動した人々です。

弾圧・支配の抵抗としての移民(逃亡)のほかに、韓国併合にともなう日本の「土地調査事業」と「産米増産計画」などの植民地政策が由来の移民がありました。

調査事業によって土地を失い、農民たちの貧困化が進みました。

1918年の米騒動をきっかけに、日本は朝鮮での米の増産計画を進め、そのための土地改良・整理を進めます。これを契機に朝鮮半島のモノカルチュア化が進み、地主による土地集積が進みました。とくに日本政府がとった、日本人が朝鮮に移住し、朝鮮人が満州に移住する、という「換位政策」が移民を後押ししています。

これらの移民は、土地を失い、生活の糧を求めての移民でしたので「いい暮らし」をしていたとはとてもいえない状況でした。

 

「中国人から執拗な嫌がらせを受けていた朝鮮人入植者は、日本政府に対して『日本名を名乗らせてほしい』と訴える。最初は日本名を名乗ることを許さなかった統監府も、やがて黙認する形で認めることとなる。」(P358)

 

という説明も違和感をおぼえます。

というのも、「創氏改名」の研究も現在ではかなり進んでいて、設定創氏(届け出による氏の設定)の比率は、朝鮮80%、日本国内15%、満州は20%弱なのです。

満州での朝鮮人の改名率は圧倒的に少ないのが実際でした。百田氏は、どういう根拠でこれを説明されているのかよくわかりません。

 

『日本帝国をめぐる人口移動の国際社会学』(蘭信三編・不二出版)

『新訂増補・朝鮮を知る事典』(平凡社)

『朝鮮における産米増殖計画』(河合和男・未来社)

『植民地朝鮮の日本人』(高崎宗司・岩波書店)

 

ちなみに「最初は日本名を名乗ることを許さなかった統監府も、やがて黙認する形で認めることとなる。」とされていますが、「統監府」ではなく「総督府」の誤りではないでしょうか。

 

「日本政府の無為無策では南満州鉄道や入植者を守れないと判断した関東軍は、昭和六年(一九三一)九月、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で、南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国軍の仕業であるとして、満州の治安を守るという名目で軍事行動を起こした。」(P358)

 

と説明されていますが、これでは関東軍の謀略が、あたかも政府の無為無策にかわって、満鉄や入植者を守るための軍事行動であったと言わんばかりです。

 

他の説明でもそうですが、当時の国家主義者や右翼団体の主張や、政府・軍部の秘密主義から正しい情報を知らずに排外主義をあおった当時のマスコミの論調とよく似た説明で、満州事変の本質的説明になっていません。

そもそも、満蒙問題の解決とそのための軍事行動の計画は、張作霖・張学良の排日政策以前から計画されていたことです。

1827年には、木曜会が結成され、翌年には、帝国自存のために満蒙に独立した政治権力を樹立する(『現代史資料7・満州事変』(みすず書房))、ということを決定しています。満鉄の権益維持や入植者保護は、この目的実現のための「口実」として利用したにすぎません。

 

『消えた帝国 満州』(山口重次・毎日新聞社)

『浜口雄幸と永田鉄山』(川田稔・講談社選書メチエ)

『満州事変と政党政治』(同上)

『政党内閣の崩壊と満州事変19181932』(小林道彦・ミネルヴァ書房)

 

1511927年の南京事件と幣原外交の説明が不正確で背景を誤解している。

 

「日露戦争でロシア軍を追い出して以降、日本は満鉄をはじめとする投資により、満州のインフラを整え、産業を興してきた。そのお陰で満州は大発展したのである。」(P356)

 

一面の事実を強調して支配の実態を正確に説明できていません。

帝国主義諸国による進出は、すべてこの「形式」をとり、利益は本国に還元されるしくみが作られています。

児玉源太郎は日露戦争後の満州の経営について、

 

「戦後満州経営唯一ノ要訣ハ、陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装ヒ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ」

 

と説明しています。

満鉄は、フーシュン炭田、アンシャン製鉄所、ヤマトホテル、航空会社の経営、炭坑開発、農林水産業など総合的な事業展開をおこなっていました。

それだけではなく、ロシアから譲られた鉄道付属地での行政権も有していたのです。

長春、奉天、大連の都市近代化を進め、学校や病院の設立をおこなっています。

しかし、張作霖爆殺事件以後、息子の張学良は排日政策に転じ、満鉄を包囲するように鉄道網を整備して、日本に奪われていた利権の回収を図ろうとしました。

 

「蔣介石率いる中国国民党政権と中国共産党による反日宣伝工作が進められ、排日運動や日本人への脅迫やいじめが日常的に行なわれるようになった。」(P356)

 

と、説明しています。これでは、満州での排日運動が、日本の利権独占による反発や不満ではなく、中国国民党や共産党による工作であったかのような印象を与えてしまいます。

 

蔣介石は、そもそも孫文のおこなった国共合作に不満を感じていて、国民党軍内に共産党の兵が含まれていることに不満を感じていました。

アメリカ・イギリス・フランスは共産党と国民党を分離し、共産党並びに国民党左派抜きの蔣介石による国民党政府樹立を考えていました。

この分離工作に対抗しようと、共産党は、国民党軍とイギリス・アメリカ・フランス

の関係を悪化させるために、第2軍、第6軍に南京攻撃を計画したのです。

 

南京事件では、日本人1人、イギリス人3人、アメリカ人1人、イタリア人1人、デンマーク人1人、フランス人宣教師2人が殺害され、2人が行方不明です。

当時の記録(中支被難者連合会・『南京漢口事件真相・揚子江流域邦人遭難実記』)によると、中国軍、といっても正規兵では無さそうで(便衣兵)、略奪したのは中国兵ではなく、南京の住民だったようです。

また、第2軍の師長である戴岱は、このような略奪を働いたのは国民軍ではない、北軍(軍閥の兵)である、と説明して帰ったといいます。

 

「この暴挙に対して、列強は怒り、イギリスとアメリカの艦艇はただちに南京を砲撃したが、中華民国への協調路線(および内政不干渉政策)を取る幣原喜重郎外務大臣は、中華民国への報復措置をとらないばかりか、逆に列強を説得している。」(P357)

 

これも一面的な説明です。

イギリスとアメリカは艦砲射撃の後、陸戦隊を上陸させました。

日本は艦砲射撃をしていませんが、陸戦隊をちゃんと派遣しています。日本は、砲撃がさらなる虐殺を誘発する可能性があるため砲撃はおこなわず、陸戦隊を送り込んだのです。イギリスやアメリカの対応よりも居留民の安全に配慮したものです。

(実際、イギリス・アメリカの艦砲射撃は民間人も巻き込んで被害者を出し、日本の領事館近くにも着弾しています。)

 

「中国国民党がこの事件と日本の無抵抗主義を大きく宣伝したため、これ以降、中国人は日本を見下すようになったといわれる。」(P357)

「中華民国への報復措置をとらないばかりか、逆に列強を説得している。」(P357)

 

とありますが、日本は共産党による組織的な排外暴動であり、国民党と列強の対立を企図したものであるとの情報を森岡領事から受けており、過度の国民党への攻撃・非難を控えるべきだ、とイギリス・アメリカを「説得」したのです。

そしてこれを受けて、蔣介石に謝罪、外国人の生命保障、人的物的被害に対する賠償要求が出されました。

蔣介石が、後に上海クーデターを起こし、国民政府内の共産主義勢力を一掃し、共産党指導者を90人以上処刑したのは、これに応えた側面もあり、コミンテルン指揮下の共産党勢力と決別し、ソ連との断交も発表しました。実際、新しく成立した蔣介石国民政府は、1928年、1929年にアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本と協定・合意を結び、南京事件は決着したのです。

幣原によるイギリス、フランス、アメリカとの協調外交は、共産党と国民党を分離させることに一定の成果を出しています。

百田氏の後々の共産党やコミンテルンに対する言説を考えると、なぜこれを「評価」されていないのかがちょっと不思議です。南京事件の背景や裏事情をご存知なかったのかもしれません。

 

『もう一つの南京事件-日本人遭難者の記録』(田中秀雄編・芙蓉書房)

『蔣介石秘録』(サンケイ出版)

『毛沢東と蔣介石-世界戦争のなかの革命』(野村浩一・岩波書店)

『蔣介石』(保阪正康・文春新書)

 

150】統帥権干犯問題の説明が不正確で、浜口内閣の経済政策の話が無い。

 

前回に続き、『日本国紀』は、「昭和」「統帥権干犯問題」「満州事変」の中の記述が、時系列に沿って説明されていないので、時系列を整えて以下、説明します。

 

関東軍参謀による張作霖爆殺事件、いわゆる満州某重大事件で昭和天皇の信頼を失った田中義一内閣は総辞職し、かわって組閣したのが立憲民政党の浜口雄幸でした。

(このころ、立憲政友会と立憲民政党の二大政党制のような政局で、政友会の田中義一の退陣で、立憲民政党からの組閣となりました。)

一般に田中義一内閣の強硬外交、幣原喜重郎外務大臣の協調外交、と説明されがちですが、「田中外交」は実は対中国強硬、対欧米協調路線で、不戦条約の批准もおこなっています。

欧米と協調すれば中国進出が容易にできると考えていたのが「田中外交」、中国進出が欧米協調を崩すと考えていたのが「幣原外交」です。

 

不思議なことに浜口内閣の「統帥権干犯問題」には触れられているのに、1930年1月からの「金解禁」と産業合理化・緊縮財政の話が出てきていません。

 

「昭和」(P350P352)の説明の中で、世界恐慌による企業の倒産、農村不況の話をされた後、

 

「政府は恐慌から脱出するために、金融緩和に踏み切るとともに積極的な歳出拡大をし、農山漁村経済更正運動を起こし、インドや東南アジアへと輸出を行ない、欧米諸国よりも早く景気回復を成し遂げた。」(P350)

 

と説明されていますが、これは、浜口内閣の次の第二次若槻内閣のさらに次の立憲政友会犬養毅内閣の蔵相高橋是清の財政政策(「高橋財政」)の話です。

 

田中内閣の次の、立憲民政党の浜口・若槻内閣の経済政策の話がまったく無いのは違和感をおぼえます。

通史の記述はネタフリとオチが大切。

浜口雄幸の金解禁と緊縮財政、産業合理化の話があるから、犬養内閣の「金融緩和」「金輸出再禁止」「管理通貨制度」「労働者の不当に安い賃金」の話に繋がるのにどうしてすべて割愛されているのか、なんとも不思議です。

 

浜口内閣は、井上準之助蔵相のもと、産業の合理化、緊縮財政につとめ、金輸出の解禁をすることで為替相場を安定させ、輸出を促進しようとしましたが、アメリカ発の世界恐慌に巻き込まれ、金解禁は「嵐の中で雨戸を開ける」ような状態となり、昭和恐慌に陥りました。

一方、浜口内閣の「緊縮財政」は軍事費にもおよび、世界的不況の中で各国も軍縮による財政赤字の解消を図ろうとしていました。軍縮は一国ではできません。そこでロンドンで軍縮会議が開かれ、日本も1930年4月に軍縮条約に調印しました。

 

「ところが、ロンドン海軍軍縮条約に反対する野党政治家(犬養毅、鳩山一郎など)が、それまでの大日本帝国憲法の解釈と運用を無視して、『陸海軍の兵力を決めるのは天皇であり、それを差し置いて兵力を決めたのは、天皇の統帥権と編制大権を侵すものであり、憲法違反である』と言い出して、政府を批判したのだ。」(P353P354)

「…野党が無理矢理な理屈で反発したのである。そしてこれに一部の軍人が乗り、大きな問題となった。やがて民衆の中にも政府を非難する者が出た。」(P354)

 

と説明されていますが、順序が逆です。「一部の軍人が乗り」ではなく「野党がこれに乗り」です。

そもそも、海軍は対米七割を主張していました。政府は交渉で対米6.975割を実現したのです。

海軍省はこれを受け入れる感じだったのですが、軍令部長の加藤寬治がこれに噛みつきました。これに野党立憲政友会・国家主義団体が同調し、野党は衆議院本会議で追及したのです。

そもそも、この問題はダシにすぎず、海軍の反発は、浜口内閣の海軍予算削減にありました。議会の承認を必要とする予算ではなく、グレーゾーンであった統帥権・編制権にからめて反発したのが真相です。

 

「やがて民衆の中にも政府を非難する者が出た。」(P354)

 

という説明も不正確で誤った印象を与えます。「民衆の中」と言えないことはありませんが、非難したのは右翼団体や国家主義活動家のことで民衆レベルの反対運動は起こっていません。

 

「軍部の一部が統帥権を利用して、暴走していくことになる。野党の政府攻撃が日本を変えることになったのだ。」(P354)

 

という説明もどうでしょうか…

軍部の暴走をもたらしたのが政府の政策に無理解な、いつも政局を絡める野党のせいだったと言わんばかりです。

軍部の条約批判に野党が乗っかり政局に持ち込もうとしたのが統帥権干犯問題でした。

「野党」というのはいつの時代でも、政局に絡めることが多々ありますが、情報公開をしない政府や、軍事機密をタテに軍部に不利な情報を開示しない状況があったことも忘れてはいけません。

軍・政府の情報非公開・情報操作は、関東大震災の朝鮮人虐殺・張作霖爆殺事件を経て、満州事変・日中戦争・太平洋戦争と深化していきます。

 

以下は蛇足ですが…

 

クラウセヴィッツの言葉と称して「戦争は、政府と軍隊と国民の三位一体で行なわれなければならない」を引用し、「…戦争に勝利するためは、国民の理解が必要であり、政府は戦争目的を訴え、国民の支持を集め、軍事予算を準備する。その予算のもとで軍は戦うが、この時、軍事に関して素人の政治家は作戦には口出ししない」という話をされています。

クラウセヴィッツの「シビリアン・コントロール」を著しく曲解した説明で、百田氏独特の解釈です。

 

クラウセヴィッツは、戦争は、

 

「憎悪や敵意をともなう暴力行為」

「偶然性という賭けの要素」

「政策のための従属的性質」

 

から構成されている、と説いたのです。

この三つをクラウセヴィツは「国民」「軍隊」「政府」に割り当てています。

戦争には、国民の情熱や世論の支持が必要、偶然性の高い賭けの要素があるがゆえに、将軍と軍隊の勇気と能力が勝敗を分ける、達成すべき政治目的は、政府のみが決定できる、と説いたのです。

「政府は戦争目的を訴え、国民の支持を集め、軍事予算を準備する。その予算のもとで軍は戦うが、この時、軍事に関して素人の政治家は作戦には口出ししない」という説明は、あくまでも百田氏の独自解釈にすぎません。

 

『戦争論』を読めばわかりますが、シビリアン・コントロールとは、経済や外交を知らない軍人が戦争をしてしまうことを抑制することです。クラウセヴィッツは、「戦争は外交の延長」と明言していることからわかるように「軍事=政治・外交」なのです。

クラウセヴィッツを用いるならば、経済・外交の素人である軍人が「軍事」に口出ししない、というところも強調すべきでした。

 

『日本の近代9-逆説の軍隊』(戸部良一・中央公論新社)

『統帥権と帝国陸海軍の時代』(秦郁彦・平凡社新書)

『近代日本の戦争指導』(雨宮昭一・吉川弘文館)

『戦争論』は岩波文庫、中公文庫などから多数翻訳出版されています。

森鷗外も『大戦原理』という翻訳書を書いています。

『クラウセヴィッツと「戦争論」』(清水多吉・石津朋之編・彩流社)