おもしろいことに、高望王は、これで関東に定住、とはならなかったのです。
父、高見王の謎とも関係しているとは思うのですが、明確に記録には残らないものの、当時の中央政界の動きと、桓武平氏の動きは、関係があるような気がして仕方がないんです。
ちょっと話がそれますが…
高棟王の子孫は、江戸時代まで続くのです。
前にも申しましたが、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡したわけではありません。
それからおもしろいことを申しますと…
「平氏」と「平家」は違うのです。
今、書き進めている“物語”が“大・平家物語”と銘打つ以上、ちょっとはっきりとさせておきたいのですが…(一部の歴史マニアの方しかナットクしていただけないとは思うのですが…)
たとえば、
平将門
は、「平家」ではありません。
私の伯父などは、「伊勢平氏が平家なのだ。平と付けば、なんでもかんでも平家なのではない。」とハッキリと申しておりました。
尊敬する伯父の言なのですが、大江匡房の書などによると、桓武平氏のうち、「高棟王」の流れを、本来は「平家」と称していたようなのです。ほんとのほんとの平家は高棟流、なのかもしれませんが…
さてさて、なぜ、こんな脇道に入ったかと申しますと…
当時、天皇は、宇多天皇でした。
宇多天皇は、もともと“源”の姓名をたまわり、臣下にくだっていたことがある人物なのです。
それが、なんと、異例中の異例なのですが、ふたたび皇族にもどって、天皇となりました。
次の醍醐天皇は(宇多天皇の子)、ですから、臣下の子として生まれて、皇太子となって天皇となった唯一の例です。
そしてこのときの政治と言えば、「寛平の治」と呼ばれる宇多天皇による政治がおこなわれていたときで、藤原北家の勢力を抑えて(というより、他貴族もとりたててバランスをとって)政治がおこなわれていました。
源能有・藤原保則・菅原道真
など、非藤原、藤原南家といった貴族が政治に参加するようになっていました。
そして、菅原道真とともに、宇多天皇を補佐していたのが
平季長
なんです。この人物、高棟王の四男でした。
888年、菅原道真とともに平季長は阿衡事件をなんとかおさめ、896年には蔵人頭となっています。
894年の遣唐使停止の献策にも、季長は関わっていたはずです。
ところが、897年、宇多天皇が醍醐天皇に位を譲ったその年、季長は死んでしまいました。
宇多上皇も菅原道真もその死をたいへん惜しんだといいますから、かなり優秀な官僚貴族だったのでしょう。
このとき、何やら謀反の企てがあり、それを解決したのが高望王で、その手柄で上総介に任じられた、とそされているのが898年。
その翌年に、菅原道真が、右大臣にのぼりつめました。
どうも、このころ、宮廷では宇多上皇・醍醐天皇の政治的対立などから、いろいろ貴族たちが出世したり左遷されたり、けっこう人事が変動しているんですよね…
桓武平氏は、このときの政争に巻き込まれたこともあり、中央から地方へと出向いた、ということも考えられなくもない…
で、昌泰の変で、901年、菅原道真が大宰府へ左遷されるのですが…
なんとこの翌年、高望王は、突如、西海道の国司に任じられ、なんと大宰府へ行くように命じられるんですよ。
菅原道真は903年に大宰府で死去しますから、一年間、形式上、高望王の上司が菅原道真だったときがあるんです。
高望王と菅原道真
思わぬところで、不思議な“接点”が出てきました。
菅原道真ら非藤原氏の中央での台頭と失脚と、桓武平氏の動向…
明確な一次史料は無いのですが、何らかの関係があったはずです。
こう話を進めると、一部の歴史マニアの方は、ポンっと膝を打って、
ああ、だから、“あのとき”、菅原道真の怨霊が出てくるのか!
ということにお気づきになられるかもしれません。
いずれ“あのとき”のお話しはさせてもらいたいと思います。
坂東平氏の基礎を築いた高望王ですから関東で死んだと思っておられる方もいたかもですが、高望王は、関東でも都でもなく、こういう事情で大宰府で亡くなったのでした。
911年のことです。
(次回に続く)