鎌倉幕府の滅亡への道のり | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

先日、中2の授業で、元寇と元寇後の鎌倉時代の話をしました。

もちろん、元寇、という表現は現在では高校の授業では言わなくなった、今では「蒙古襲来」と言うんだよ、という話はしました。

前にもお話ししましたように「元寇」という表現は江戸時代に生まれ、その表現は水戸黄門さんが使ったことで有名になったんです。
高校の教科書の多くは「蒙古襲来」という単元名になりました。

で、中学受験を終了した子どもたちは、だいたい以下のように鎌倉幕府滅亡の道程を「理解」しています。

① 元寇→撃退→恩賞不十分

元寇を退けたが、恩賞が不十分であった。
封建制度は手柄をたてた者に土地を与えて成立するのに、元寇では土地を得ることができなかったので恩賞が与えられなかった。
よって幕府への不満が高まる。

② 恩賞不十分→御家人の窮乏→徳政令→社会の混乱

恩賞が不十分だったので御家人が窮乏、それを救うために徳政令を出したが、かえって社会が混乱してしまった。
よって幕府への不満が高まる。

だいたい、①と②の流れで、倒幕運動が沸き起こる、と説明します。

ただ、これはもはや「誤った」説明といっても過言ではありません。

とくに、「元寇→恩賞不十分→御家人窮乏」を強調してしまうと、御家人の窮乏が元寇後に起こったかの印象を与えます。
御家人の窮乏は、元寇前から進行していて、たびたび御家人の土地と借金に関する法令が出ているんですよね。

元寇が原因で御家人が窮乏したのではありません。
また、ついつい元寇によって鎌倉幕府が弱体化した、とも説明しちゃいますが、実際は、元寇後、幕府権力は強化されたんです。

鎮西探題の設置、守護・地頭の再編、そして何よりも、非御家人である武士への指導力、影響力というのも強化されました。

そして、実はこのことが「幕府への不満」をもたらしたのです。

幕府権力が強まれば強まるほど、同時にそれへの反発が高まる…

北条氏の権限が強化され、幕府の要職が北条氏によって独占されていきます。
そして、北条氏の家来(御内人)が幕府に参加してくる…

これは頼朝以来の御家人たちにとっては屈辱的でした。

ここからは心理学的な説明のほうがわかりやすいと思うのですが、御家人たちにとっては、自分たちも北条氏も同じ御家人である、と、心の底のどこかで「対等」と思っているんですよね。
鎌倉幕府創設以来の御家人たちの“プライド”というもの。

しかし北条氏が執権という要職を世襲し、そして元寇後、さらに幕府の要職を独占し、しかも北条氏の家臣たちが、あたかも自分たちと同格であるかのように政治に参加してくる…

御家人たちにすれば、北条氏の家来は、陪臣(またもの)にすぎず、本来ならば、自分たちと口などきけぬ存在…

「またものふぜいがえらそうに!」

という意識が高まっていました。

そうして事件が起こります。

北条氏の御内人と御家人たちが対立し、霜月騒動、と呼ばれる事件が起こりました。
御内人の統括者内管領の平頼綱と御家人の安達泰盛が対立し、安達氏が討たれる、ということになったのです。

安達といえば、御家人の中でも頼朝挙兵以来の家柄(それどころか北条政子と頼朝の“愛のキューピッド”をしたのが安達氏)、それが討たれた、とあっては、他御家人たちにとっては、「これはもうアカン…」となってもおかしくはありません。

倒幕運動のエネルギーは、むしろここにこそあり、御家人たちは「鎌倉幕府を滅ぼす」ということを考えたのではなく、「鎌倉幕府を支配する北条氏を倒す」ということを意識したんだと思います。

幕府を倒す、のではなく、北条氏の支配する幕府を倒す…

これに対して後醍醐天皇は、ちょっと認識がズレていたのでしょう、御家人たちが「幕府に不満を持っている」と考えてしまったのだと思います。

武家と公家の認識の相違がここにあったと思うんです。

会社そのものを新しく創設しようとしたのではなく、会社の経営陣から北条氏を一掃したかった…

「建武の新政」の失敗は、倒幕運動の段階で“予定”されていたと思います。