第29回は黒田官兵衛。
2014年のコヤブ歴史堂は、大河ドラマの主人公、黒田官兵衛でした。
黒田官兵衛孝高。引退後の名前は如水です。
実は、日本に“軍師”はいませんでした。
すいません。ちょっと誇張して説明してしまいました。
ただ、江戸時代に書かれた軍記物や、軍学者と称する人たちの残した話、さらには講談やお芝居などで取り上げられている類の話は、かなり“盛られた”話である、と考えていただきたいところです。
また、江戸時代の中期までに、各大名家の祖というべき人たちの“偉業”をまとめた「各藩の歴史」の編纂作業も“流行”し、当然のことながら、これらにはかなりの美化が施されていると考えてもよいと思うんです。
○○家のご先祖さま、思ったほど領地をもらえていないよね?
いやいや、ほんとはもっと大きな領地をもらってもおかしくない手柄があったんだけれど、「ちょっとした事情」で、もらえなかったのだよ。
え? 「ちょっとした事情」って何?
気になる?
しょ~がないなぁ~ 実はカクカクシカジカ…
こんな調子で語られている話もあるわけです。
さてさて、冒頭の“軍師”はいなかった、という話ですが…
「軍師」というと、軍事上の参謀、というイメージをみなさんはお持ちかもしれません。
実は、一級史料(当時の信頼すべき文書)の中に「軍師」という表現は見あたらず、「軍配者」という言葉が出てきます。
軍配者とは、兵の配置や分担などを指図した役割なので、これが「参謀」なのではないか、と、考えられているわけですが、実は、この軍の配列などは、陰陽道や占いなどに基づいて、「吉凶」を判じた結果、決められたことなのです。
「軍配者」は、従軍占い師のようなもので、複数人おり、いろいろな合戦の絵巻物や屏風の中で、
五芒星
の縫い物、染め物の白い衣服を着た集団が描かれているのが見られます。
(「長篠合戦屏風」にも、この集団、描かれているんですよ。)
いやいや、軍配者と軍師は違う、確実に存在していた、という学者さんも、もちろんおられます。
ただ… やはり江戸時代に、儒学とともに中国のさまざまな古典が日本に伝来し、さらに平安時代と比べて一般庶民、下級武士レベルにまで「教育」が広まったために、いろいろな話が誇張・流布されるようになったのではないでしょうか。
『史記』『三国志演義』『水滸伝』などなど、原文だけでなく、その訳本や講談やお芝居が広まり、張良や諸葛孔明などの“軍師”像が作り上げられ、日本の戦国時代の合戦や武将の活躍がそれに重ね合わせられていった…
黒田官兵衛に関する「史料」としては、
ルイス=フロイス 『日本史』・書簡
『川角太閤記』
『名将言行録』
『黒田家譜』
『常山紀談』
『三河後風土記』
『黒田如水傳』
などがあげられます。
小説やドラマの「黒田官兵衛」像は、ほぼこれらの史料に拠っている場合が多いと思います。
しかし、ルイス=フロイスを除いて、他は実は一級史料ではありません。
『川角太閤記』は江戸時代前期の記述、『黒田家譜』は1671年から1688年に書かれたもの(黒田官兵衛が活躍していた時期のおよそ100年後の記述)、『常山紀談』も江戸中期のものですし、『名将言行録』は19世紀、幕末の記述。
『黒田如水傳』にいたっては、1916年に金子堅太郎が書いたものです。
秀吉に備中高松城の水攻めを献策したとか、中国大返しを企画したとかは、『黒田家譜』に書かれていることですが、それ以前の史料では確認できません。
秀吉が官兵衛の才能をおそれて、わずかな領地しか与えられなかった、関ヶ原の戦いのときに九州で天下をとろうと企画していた、などは18世紀に書かれた『名将言行録』以前の記録には出てこない話なんです。
荒木村重を説得するために有岡城に出かけていって捕えられてしまった、という有名な逸話は『黒田家譜』に記されていますが、そのときのケガが原因で体が不自由になった云々の話は『黒田如水傳』にしか見られない逸話なんです。
それどころか、近年、小寺高友宛てに秀吉が送った手紙が発見され、官兵衛が有岡城の本丸にいた(それなりの待遇を受けていて、牢には入れられていなかった)ことがわかるようになりました。
が、しかし…
だからといって、黒田官兵衛に「功績」がなかった、という話ではないのです。
秀吉に天下をとらせた「軍師」として扱われすぎてしまい、本当の黒田官兵衛の功績が埋もれてしまうことこそ問題だと思うのです。
毛利と織田の接触点である播州で、小豪族たちの多くを信長方に寝返らせる交渉に成功したのも官兵衛ですし、宇喜多直家という大物を秀吉の陣営に寝返らせる交渉に成功したのも官兵衛です。
荒木村重の説得は失敗したものの、囚われの身になっても裏切らなかった、という点で、秀吉の深い信頼を得ます。
実際、黒田官兵衛宛ての手紙に「おまえは弟の小一郎と同じように信頼している」という記述があり、秀吉が黒田官兵衛をおそれていたり疎んじたりした記録は、一級史料には見出せません。
黒田官兵衛に関する記述の多くは江戸時代に書かれています。もはや徳川の天下の時代。
そんなときに官兵衛が秀吉から信頼されていた、なんて話を残すのは危険です。
「実は嫌われていた」「実は疎んじられていた」としておいたほうが無難ですからね。
黒田官兵衛の手腕が見事に発揮されたのは四国平定のときでした。
交渉と攻城を巧みに使い分けながら毛利と強調して四国平定を進めていく官兵衛は、超一流の外交術を持っていたとしか言いようがありません。
また、秀吉が関東を平定する際、小田原北条氏を「説得」し、小田原無血開城を実現した手腕は、もっともっと高く評価すべきポイントだと思います。
「武」に関する手柄の記録も発見されました。
2013年に見つかった文書で、「賤ヶ岳の戦い」にも黒田官兵衛が従軍していて、自ら兵を率いて戦っていたことがわかりました。
「虚像」とは違う、すぐれた武将としての「実像」がわかりつつあります。
“軍師”ではなく、すぐれた“戦国ネゴシエーター(交渉人)”であった、というほうが、戦国時代の実情と合致していると思うんです。
軍師として描かれすぎた一因は、『三河後風土記』に記された2代将軍徳川秀忠の「如水は今世の張良なり」という言葉によるところが大きいのかもしれません。
でも、秀忠が感動したのは、張良の「参謀」としての部分よりも、張良と同じように、新しく領地をもらえる、というのに断って引退した、という“潔さ”の部分にあったのではないかと思います。
ルイス=フロイスは黒田官兵衛の言葉を次のように記しています。
予の権力、武勲、領地、戦さで得た数々の功績、すべては水の泡となった。
よって、“如水”と名乗って隠居する。
人を陥れる策謀や、野望を秘めた軍師、というより、誠心誠意、ときには相手の利も考えて交渉進め、秀吉の天下統一を助けていた人物であった、というほうが、実像に近いような気がしてしかたありません。