清少納言の父は、清原元輔という貴族です。
彼は歌人としても有名で、「百人一首」に作品を残しています。
ちぎりなき
かたみに袖をしぼりつつ
すゑの松山
波こさじとは
現代語訳をしますと、
約束したよね?
涙でぬれてしまった袖をしぼりながら
末の松山を波が越さないのと同様、心変わりなど絶対にしないということを…
(永遠の愛を誓い合ったはずの女性の心変わりを責めた歌なんですよね。)
「末の松山」は歌枕。
歌枕、というのは、和歌に詠まれる定番の名所のことで、宮城県多賀城市にある、海岸からおよそ3㎞離れた場所にある小高い丘のことだそうです。
「末の松山が波にのまれることがない」
というのは、不可能、ありえない、という話の例になっているわけなのですが…
西暦869年7月。
マグニチュード8を軽く越えたであろう大地震が発生しました。
いわゆる“貞観地震”です。
『日本三代実録』によると
陸奥国で大地震が発生。
流れる光が昼のように輝いてあたりを照らし、人々はただ叫び声をあげるだけて立つこともできない。
家屋の下敷きになって死ぬ者、地割れに落ちて死ぬ者、その数はおびただしい。
牛や馬もあばれて互いにふみつけあい、城や倉庫などみなくずれ落ちてしまった。
雷鳴のような海鳴りが聞こえてきた。
潮がわき上がり、川という川は逆流し、津波が長く連なって押し寄せ、たちまち多賀城まで達した。
野原も道も、たちまち大海原になってしまった。
船で逃げたり山に避難したりすることができずに、千人以上が溺れ死に、後には人も田畑も財産も、ほとんど何も残らなかった…
ということが記されています…
当時の人口は600万人ほどでしたから、1000人以上の被害者が出る、というのは、現代でいうならば2万人規模の犠牲が出たことに匹敵します…
この未曾有の大災害の中、「末の松山」だけは、水没せず、ぽっかりと海原に浮かぶ島のように残りました。
こうして、「ありえない」という意味として「末の松山が波にのまれること」という表現が平安時代に生まれることになりました。
(おれを裏切るなんてっ 末の松山が波にのまれるくらいありえんことやんっ という気持ちをこめたわけですな。)
このときの天皇は清和天皇。
摂政にして太政大臣が藤原良房。
藤原氏の摂関政治が始まったときにおこった未曾有の大災害です。
政府の対応は素早く、疫病蔓延の危険性を減らすために、遺体の埋葬を命じ、多賀城の修復に加え、地元住民の免税と労役義務の停止を発令しました。
貞観年間は、“天変地異”の年代で、富士山の噴火、金環日食などがあいついで起こっています。
当時、天変地異は政治の誤りが起こすことだと信じられていた時代です。
清和天皇は、伊勢神宮に国家の安泰を祈願し、御霊会もとりおこなわせました。
“あれ”から三年が立ちました。
歴史に残る大災害を乗り越え、今、東北は力強く立ち上がろうとしています。
しかし、まだまだ、多くの人々の助けを必要としています。
平安時代では、東北はまだ“蝦夷”と呼ばれていたぐらいだから、朝廷は何もしなかったのではないか、と、思う人もいるかもしれませんが、さにあらず。
そういう時代であっても、朝廷は復興のために力を尽くしていたのです。
日本は“一つ”です。
東北地方の人々の災害は、日本人みんなが受けた災害だと考え、いまこそみんなの力を結集していかなければならないと思います。
神仏は乗り越えられない試練をお与えになりません。
東日本大震災で犠牲になった人々の冥福を祈りつつ…