【小さな国ぐにの時代】
中国の古い書物に、日本には、むかしは100あまりの国がありました、と、書かれています。
朝鮮半島の、海のむこうに島国がありました。
そこに住んでいる人びとは、倭人(わじん)と言われています。
奴国(なこく)という国がありました。
北九州にあったようです。
そこの王さまが中国に使いをおくりました。
みつぎ物を持ってきました。
わたしを日本の王とみとめてください。
と書いた手紙を中国の王さまにわたしました。
中国の王さまは「皇帝(こうてい)」とよばれています。
いろいろな国の、いろいろな人びとの上に立つ王さま、という意味です。
よしよし。
倭の王とみとめてやろう。
そのあかしとして、金でできた印をさずけよう。
皇帝から王とみとめられました。
わたしは日本の王だ。
強い強い中国の皇帝がみとめたことだぞ。
みんな、わたしにしたがわなくてはいけないぞ。
その金印が、ずっとずっと後の時代になってから発見されました。
中国の書物に書かれていたことが、ほんとうのことだとわかったのです。
漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)
と、記されていました。
その金印こそ、中国の、漢(かん)という国の皇帝が、倭の国王だとみとめたあかしです。
《くわしい解説》
中国の歴史書『漢書地理志(かんじょちりし)』には紀元前1世紀ごろの日本のことが記されています。
当時、朝鮮半島は、中国の漢が支配していて、楽浪郡(らくろうぐん)など4つの郡が置かれていました。
その楽浪郡の海のむこうに島国があり、そこに倭人が住んでいた、ということが書かれています。
当時の日本人は「倭人」とよばれていたんです。
そして小さな国が100くらいあったということが記されています。
そして、その中の国には、楽浪郡に使いを送って、中国との関係を深めたい、と、考えているところもありました。
すぐれた文化は水と同じで、高いところから低いところへと流れていきます。
楽浪郡にやってきた日本の使いは、中国や朝鮮のすぐれた文化を持ち帰っていたかもしれません。
そして『後漢書東夷伝(ごかんじょとういでん)』には1世紀ごろの日本のことが書かれています。
ここでは二つの話が大切です。
一つは、西暦57年。
後漢の年号では建武中元(けんむちゅうげん)二年といいます。
このとき、奴国の王が、後漢の光武帝(こうぶてい)に使いを送り、金でできた印と組みひもをさずかりました。
「おまえを倭の王としてみとめてやろう」
という意味がありました。
ここには「漢委奴国王」という五文字が刻まれていました。
「かんのわのなのこくおう」と読みます。
この金印は、江戸時代に、福岡県の志賀島(しかのしま)で発見されて、現在でものこっています。
そしてもう一つは、西暦107年。
後漢の年号では永初元年といいます。
倭の王、帥升(すいしょう)という人物が使いを送ったということが記されています。
使いを送るときは、みつぎ物を持っていくのが当時のならわしでした。
みつぎ物の中に「生口(せいこう)」がふくまれていました。
「生口」とは、奴隷(どれい)のことです。
この時代、奴隷は「物」あつかいされていました。
さて、中国の皇帝は世界の中心、という考え方を当時はしていたようです。
まわりの国が皇帝にみつぎ物を持って行って、皇帝から王としてみとめてもらう…
ちょっとむずかしい言葉で「冊封(さくほう)」といいます。
中国から王としてみとめてもらう、ということはどういうことなのでしょうか。
何かいいことがあったのでしょうか。
一つはすぐれた文化や物を手に入れることができました。
そしてもう一つ。これが大きな理由です。
小さな国が集まっている日本の中で、ほかの国よりもすぐれているということを示して、ほかの国へ自分の力を示す。
そうして自分の国の仲間になってくれる、自分の国にしたがってくれる国をふやしていこう…
中国に使いを送った国ぐには、こういうことを考えていたのかもしれません。