中国の古い書物に、日本のようすが書かれています。
どんなことが書かれているのでしょう。
朝鮮半島の海のむこう、東南にひろがる大きな海に、山の多い島国がありました。
そこに住んでいる人たちは倭人(わじん)といいます。
クニやムラをつくってくらしていました。
海岸にそって、ずっとずっと進んでいくと、対馬(つしま)国、一支(いき)国、どんどん進んで伊都(いと)国、そして奴(な)国へ…
さらに進んで邪馬台国(やまたいこく)にたどりつきます。
そしてそこには女王さまがいるそうです。
もともと男の王さまがいました。
でも、戦いがつづいて、おたがい攻(せ)めあう日が長く長くつづいていました。
こんなことをつづけていても、何もよいことはない。
クニやムラの長(おさ)たちは、みんなで話し合いをし、女王を立てて一つにまとまろう、と、約束をしました。
この女王の名前が、ヒミコです。
クニやムラの数だけ、いろいろな考え方がたくさんあります。
それを一つにまとめるのはたいへんです。
戦って、力でまとめることはできませんでした。
ヒミコは、うらないやまじないで、神さまの声を人びとに伝えたのです。
神さまのお考えはこうですよ。
神さまは、そんなことはしてはいけないとおっしゃっていますよ。
神さまのいうとおりにしたらうまくいった。
神さまのおっしゃっていることにまちがいはないぞ。
それまで、いろいろ不満に思っていた人たちも、たんだんヒミコの言葉に耳をかたむけるようになります。
ああ、神さまがおっしゃっているんだからしかたがないか…
いろいろな考え方をしていた人びとも、なっとくして一つにまとまるようになったのです。
ヒミコには夫(おっと)がいませんでした。
弟が一人いて、政治をたすけていたといわれています。
ヒミコは人びとの前に、めったに出てこなかったそうです。
一人の男が食事の世話をし、ヒミコの言葉をみんなに伝えていました。
邪馬台国の人びとは、どのようなくらしをしていたのでしょう。
稲(いね)や麻(あさ)をうえ、糸をつむいでいたそうです。
稲からとれたお米を食べます。
麻で着物をつくりました。
蚕(かいこ)をかっていたようです。
絹(きぬ)をつくっていたことがわかります。
食事は手づかみ、そしてお酒も大好きだったそうですよ。
牛も馬も羊(ひつじ)もいなかったそうです。
豹(ひょう)のような猛獣(もうじゅう)もいませんでした。
人が死ぬと棺(ひつぎ)に入れ、土をつみあげてお墓(はか)もつくっていました。
人びとには身分の差がありました。
身分の高い人は「大人(たいじん)」とよばれていました。
身分の低い人は「下戸(げこ)」とよばれていました。
道で、「下戸」が「大人」に出会うと、おそるおそる道ばたの草むらに入り、うずくまったりひざまずいたりして敬(うやま)いの気持ちをあらわしました。
邪馬台国にはみんながまもらなくてはならない「きまり」もありました。
税(ぜい)もありました。
市場もあって、役人がわるいことをする人がいないか、しっかり見まわりをしていました。
とてもしっかりした国だ、と、中国の人たちもおどろいていました。
ヒミコがしていた、うらないやまじないはどのようなものだったのでしょう。
鹿(しか)の骨(ほね)を焼いて、そのひびわれの様子をみて、うらなったということがわかっています。
これは中国でおこなわれていた方法とよくにています。
ヒミコは中国に使いをおくり、中国の皇帝から、「日本の王さまとしてみとめてやろう」と言われます。
このとき、中国は三つに国がわかれていましたが、ヒミコは、そのうちの魏(ぎ)という国に使いを送っていました。
魏の皇帝から、日本の王であることをみとめるしるしとして、金でできた印や、青銅でできた鏡をたくさんさずかっています。
この金印はみつかっていませんが、ヒミコがもらったかもしれない鏡は、あっちこっちでたくさん見つかっています。
ヒミコは大きな力を持っていたことがわかります。
ヒミコが死んだときのことでした。
大きな大きなお墓(はか)がつくられました。
ヒミコといっしょに死んだ人たちも100人以上いたそうです。
ヒミコが死んだあとのことです。
男の王が立ちました。
けれども、その王にしたがわない国がたくさん出てきて、たがいにまた争(あらそ)って、1000人以上が死んだそうです。
このままでは、やっぱりだめだ…
人びとは、ヒミコの血すじの子で、まだ13歳だった女の子を王に立てました。
また、女王さまの登場です。
そうすると、国中じゅうのあらそいはおさまりました。
この女王さまは、イヨという名前でした。
イヨも中国に使いをおくっています。
イヨから使いが来た、ということが記された後、中国の書物にしばらく日本のことが書かれなくなりました。
日本の様子がわからない時代が100年つづくことになります。
《くわしい解説》
中国の書物『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には3世紀ごろの日本のことが記されています。
そして邪馬台国という国があって、30あまりの国ぐにをしたがえていた、ということも書かれてありました。
もともと男の王がいたのですが、戦いが続き、女の王を立てると国がおさまった、ということが記されています。
その女王が卑弥呼(ひみこ)で、うらないを用いて政治をしていたようです。
鹿の骨を焼いて、ひびの割れ方を見てうらなうもの…
これを太占(ふとまに)といいますが、中国で古くからおこなわれている方法です。
卑弥呼は中国に使いをおくって、銅鏡をたくさんさずかっていました。中国とのつきあいががたくさんあったので、うらないの方法なども取り入れていたのかもしれません。
卑弥呼には弟がいて、政治をたすけていたそうです。
そして一人の男が卑弥呼の身の回りの世話をしていて、卑弥呼の言葉は、この男が伝えていたそうです。
王がいて、その人をたすける人がいて、そしてじっさいに政治をする人がいる…
後の歴史に出てくる日本の政治の「かたち」によくにています。
稲作、養蚕(ようさん)、織物があったことが記されています。
牛・馬・羊がいない、ということも記されています。
税の制度や身分の制度もある、ということがわかっています。
税についてはくわしいことはわかりませんが、身分については、身分の高い人びとである「大人(たいじん)」と、いっぱんの人びとである「下戸(げこ)」と、「生口(せいこう)」とよばれる奴隷(どれい)の三つの身分がありました。
卑弥呼が死ぬと、大きな墓に葬(ほうむ)られました。
そのとき、卑弥呼に仕えていた奴隷たちがいっしょに葬られていたようです。
こういう習慣を殉死(じゅんし)といいます。
後に日本ではこのような週刊はみられなくなりましたが、当時はまだそんな習慣があったようです。
卑弥呼はよほどうまく政治をしていたのでしょう。
卑弥呼が死ぬと、まもなくしてまた戦争が始まってしまいます。
後つぎをめぐる争いだったのでしょうか。
卑弥呼のあとに立った男の王は、国をまとめることができなかったようです。
人びとは、卑弥呼の血すじの少女を王に立てて、また一つにまとまろうとしました。
この少女の名前は壱与(いよ)といいます。
ふたたび、邪馬台国は、女王がおさめる国になりました。
壱与の時代も中国に使いをおくっています。
このとき、中国では、魏という国がなくなって、新しく晋(しん)という国ができていました。
使いは晋の都、洛陽(らくよう)に行ったことがわかっています。
このときの記録を最後に、しばらく日本のことが書かれなくなり、「空白の四世紀」(日本のことがわからない百年間)の時代になりました。