「こんなナデシコもおったのにゃ~」のもう一人は、本寿院です。
2008年の大河ドラマ「篤姫」のおかげで、本寿院といえば、徳川12代将軍家慶の側室で、13代家定の生母の“本寿院”さんを思い出した方もおられたかと思いますが、番組で取り上げたのは、同じ“徳川の妻たち”でも、尾張藩の第3代藩主徳川綱誠の側室で、第4代吉通の生母の本寿院さんでした。
綱誠に見初められる前は、“お福”という名前でした。
町の大工の娘だった、という話もあれば、同心の坂崎さんの娘だった、という話もあります。
出自はともかく、絶世の美女だったようです。
ところが、彼女に関する記録は、かなりひどい話が多い…
『鸚鵡籠中記』という尾張藩の役人が記した日記によると以下の説明などが目をひきます。
「本寿院様貪欲絶倫」
「御気に入れば誰によらず召して淫戯」
「御金を拝領すること多し」
さらに、にゃんたのマル秘ファイルでとりあげた『趨庭雑話』によれば、再現VTRにあったように、江戸の藩邸に着任した新人藩士の入浴をチェックし、気に入った人物(というか特定の部位)を物色し、しかもその場で行為におよんでいた、というのですから驚きです。
記録では宝永二年、といいますから西暦で1705年、41歳のときに蟄居(自宅謹慎)させられ、その後、尾張の名古屋城に移送され、城下の屋敷に閉じ込められ、元文四年まで幽閉されることになります。元文四年は西暦で1739年ですから34年近く…
菅原道真怨霊事件にせよ、源義仲略奪事件にせよ、こはにわは、彼らが“冤罪”であると説明し続けてきました。
長く名誉が損なわれている本寿院さんの“不名誉”を晴らしてあげたいっ と、思うのです。
何度も申しますように、神話にせよ伝説にせよ、必ずそれがそのように記録されているには“意味”があるのです。
この点、われらがコヤブ歴史堂主管、コヤブさんも「だいたいこういう話には、ほんとはこんな意味がある、とかいうのがあるんですよね、先生っ」と察っされております。
さてさて、本寿院さんの“夫”徳川綱誠さんなのですが…
正室以外、ななな~んと側室が17人もおり、すべての側室との間に子をもうけております。(本寿院さんより、このおっさんのほうが絶倫?)
二十二男十八女…
ところが正室には子ができず、他の子たちもどんどん死んでいく…
綱誠さんが絶倫、というより、どんどん死んじゃうから、どんどん作っていった、というのが正しいかもしれません。
この時代の大名は、世継ぎをつくるのが第一の“仕事”ですから。
ところが綱誠さんが48歳で急死したため、本寿院さんとの間に生まれた十男の吉通がわずか11歳で藩主になります。
ふつうならば、前藩主の妻は出家後、夫の菩提を弔い、つつましやかに暮らす、というケースが多いのですが、本寿院さんはさにあらず。
江戸藩邸に子どもといっしょに移り、息子を後見する、という名目で藩政に口出しするようになりました。
けっこう尾張藩の藩士たちには不評だったようです。
『鸚鵡籠中記』を書いている朝日重章は、父は天守鍵番、本人は御畳奉行という中級武士です。
尾張藩の中の日常をこと細かく記していて元禄時代の武士のことがよくわかる良質の史料。
ですから、本寿院さんの話も、真実味があり、“事実”であったろう、と言われてしまうところなのですが…
でも、読めばわかりますが、この朝日さん、けっこうな遊び人でゴシップ好きで、あんまり仕事やる気なしの、赤ちょうちんで酒飲んで上司の悪口言うてる、でも、ふだんは気のいいおじさん、という感じなんですよね。
生活の様子を書いているところよりも、江戸でおこったさまざまなスキャンダルや風聞が大好きで、そのときの“描写”だけがみょ~に生き生きしている。
たとえば尾張藩の武士が江戸藩邸で起こした“スキャンダル”を生々しく記載しています。
その事件は、若い武士、内藤頼母という人物が、殿さまに仕える侍女と密通していた、というものでした。
君の寝所に入る者、漸く四五人ばかり頼母其の内なり…
御休所に数多の美女ありて粧を催し媚を求む…
海裳帯雨、西施眉形容艶々として疲療禁ず可らず…
頼母眩みて互いに通ず。
で、最後の十字が意味不明… 文法的におかしくて読み下せない… ま、言いたいことはわかるけど… (おっさん興奮せんと冷静に書けよっ ていう感じです。)
艶言撮手舐唇テ終焉合更
おまえ、見たんかっ という書きっぷり。
この人は尾張にいる中級武士ですから、江戸の話はみな風聞。しかも独特のタッチで書かれた「名文」。
まるで、社長室でおこった秘書と社員の不倫を聞いて、妄想して興奮して「おまえ、こんなん知っているか」と飲み屋で部下に見てきたようにしゃべっている中年サラリーマンみたいです。
この人は、藩主吉通さんのことも、「酒ばっかり飲みやがって」とか書いていて、どうやら反・吉通派、反・本寿院派の役人のようなんですよね。
ただ、この人の日記の中でおもしろいことも読みとれ、綱誠の時代、どうやら、将軍綱吉が出していた「生類あわれみの令」をまったく無視ししていたみたいなんですよね…
本寿院さんも、雉などの鶏肉を食べていたようなんです。
夫が死んでも藩政に口を出し、子が成人しても、江戸藩邸で贅沢な暮らしをしている(というように見えた)本寿院さんを、それに不満を持つ藩重役たちが幕府に申し出て謹慎させた、と、みたほうがよいような気がします。
実際、江戸の屋敷に蟄居、そのうえで名古屋の御下屋敷に幽閉される、というのは、暴君や藩主として無能な者が無理やり引退させられるという当時の慣習“おしこめ”によく似ているんです。
しかし、後年、「謹慎」しているはずの本寿院さんを藩主吉通みずから饗応している記録もあるので、そんな重罪で蟄居させられている、とは思えないのです。
しかも、尾張家に不幸な事件が起こります。
なんと、吉通さんが25歳の若さで死んでしまうんです。で、後継がわずか3歳の幼子となってしまうのです。
ところがこの子もすぐに死んでしまう…
で、吉通の弟、継友が藩主となるのですが… 弟といってもこの人は本寿院さんの子ではありません。
綱誠さんの、別の側室の子…
こうなってしまうと、本寿院さんのことは、悪く記録されるようになっても仕方がありません。
『趨庭雑話』など、「~雑話」なんて題名のものは、スポーツ新聞の芸能欄を集めたようなもんです。
スキャンダラスなネタが誇張されておもしろおかしく庶民に伝えられるようになった…
というのが真相だったのではないでしょうか…
これからも、こはにわは、歴史上の人物の冤罪?を訴えていきたいっ と、思います。