第14回は、「こんな武将もおったのにゃ~」の回で、島津義弘、松永久秀、吉川経家の三人にスポットを当てました。
織田信長は、京都に上った後、「西進」を続けます。
こうして中国地方を支配する毛利氏と対決することになりました。
この対決の中で、三つの切腹事件が起こります。
一つは…
播磨国(現在の兵庫県)の東部一帯を支配していたのが別所氏でした。この別所氏を信長の支配下に組み入れることに成功したのが後の豊臣秀吉、羽柴秀吉でした。
ところが、毛利氏の働きかけにより、織田信長から離反して毛利につくことになったのです。
戦国時代にはありがちな外交交渉、外交争いです。
当然、秀吉は「再交渉」を開始します。ところが別所氏は、これを拒否して戦いとなりました。
秀吉は、別所氏が立てこもる三木城を三年間包囲し、いわゆる兵糧攻め(食糧と水を遮断する)にしたのでした。(三木の干し殺し)
城内は餓死寸前の悲惨な状況となり、機を見て秀吉は、別所長治に降伏を勧めました。
「切腹すれば城内の兵の命は助けよう。」
こうして別所長治は切腹したのです。
一つは…
備中国(現在の岡山県)の高松城の城主は清水宗治でした。毛利に属する勇将で、多くの戦功をあげていることで有名な人物です。
ただ、ここで誤解をしてはいけないのは、清水宗治は、毛利の「家来」ではない、ということです。いわば地元の有力者で、毛利に服属することを誓っている勢力でした。
味方をしてくれる豪族が攻められているとき、これを無視すると、国境線のあたりの豪族たちの信頼を失い、みな、敵方に寝返ってしまいます。
ですから、戦国の習いとして毛利氏は、清水宗治の救援の兵をさしむけなくてはなりませんでした。
羽柴秀吉は、高松城の周囲に土手を築き、そこに川の水を引き込んで、城を水没させる“水攻め”をおこないました。
到着した毛利軍は驚いたことでしょう。こうして織田軍(羽柴秀吉)と対峙することになったのです。
和睦の条件として、秀吉は、援軍に来た毛利軍に、「清水宗治が切腹したら兵を退く」(このあたりを毛利の勢力圏として認める)と報せました。
が、しかし… 清水宗治は毛利の家来ではありません。毛利が清水に切腹せよと、言おうものなら、国境の豪族たちの信頼を失います…
一番よいのは、「空気を読んで」清水宗治が「自発的に」切腹してくれることでした。
こうして空気を読んだ清水宗治は切腹したのです。
さらに一つは…
因幡国(現在の鳥取県)の鳥取城で、一つの“事件”が起こりました。
因幡国は、攻める織田(羽柴秀吉)と毛利のちょうど接触点です。
ここの城主は、山名豊国でした。攻める織田軍と戦ったのですが、秀吉に攻められ、娘まで人質にとられ、とうとう降伏することを決めました。
ところが、山名豊国の家来たちが猛反発。身の危険を感じた山名豊国が逃亡する、という珍事が発生したのです。そこで家臣たちは、隣国の有力大名の毛利に救援を求め、こうして派遣されてきたのが吉川経家だったのです。
ですから、経家は鳥取城主、ではありません。
ここに攻めてきたのが羽柴秀吉軍でした。秀吉は、鳥取城をぐるりと包囲し、糧道を絶って“兵糧攻め”にしたのです。
たちまち、城内の水と食料は無くなり、餓死者が出るほどの悲惨な状況になりました。
秀吉は、「山名豊国の家臣たちが切腹すれば城内の兵たちの命は助ける」と報せました。
ところが、ここで、ちょっと変なことが起こります。吉川経家が、
「わたしは、毛利家から派遣され、この城をまかされた。わたしが切腹するからそれで他の者たちはすべて許してやってくれっ」
と、秀吉に伝えたのです。「いやいやいやいや、あなたは関係無いですがな。」と切腹しなくてよい、ということを伝えます。山名豊国の家来たちも、「いやいやいやいや、確かに救援を求めましたが、これは我々と秀吉の問題です。あなたさまはお帰りください。」と申し出たにもかかわらず、吉川経家はこれも拒否。
こうして誰もが切腹をのぞんでいないのに、吉川経家は切腹したのです。
切腹せよと言われて切腹した将。
空気を読んで自ら切腹した将。
切腹しないでと言うているのに切腹した将。
織田と毛利の国境で起こった、切腹三様でした。