第14回は、「こんな武将もおったのにゃ~」の回で、島津義弘、松永久秀、吉川経家の三人にスポットを当てました。
島津義弘。戦国時代ファンなら知らない人がいない武将です。
人気の秘密は、「関ヶ原の戦い」での退却戦、“島津の退き口”にあるのではないでしょうか。
薩摩の島津氏は、関ヶ原の戦いでは、西軍に属していました。
いちいち、関ヶ原の戦いをここでは詳しく説明しませんが、ようするに戦いの途中で、西軍に属していた小早川秀秋の軍1万5000が裏切り、東軍が勝利した、という結末です。
関ヶ原の戦いでは、戦闘が開始されても、しばらく、西軍の兵の多くが動かなかった、と言われています。
開戦当初動かなかった西軍の兵のうち大きな兵力は、
小早川秀秋 1万5000
毛利秀元 1万5000
長宗我盛親 6600
で、合計3万以上が動いていません。
そして島津義弘の兵1500も開戦当初は動いていませんでした。
よく言われるのは、4万近くの兵が参加していないのに西軍は東軍相手に奮戦した、と言われていますが、最初の開戦時に、3万以上の兵が参加していないのは、東軍も同じだったんです。
数量的に「不利な」西軍が「最初は勝っていた」という話は、「歴史小説」としてはおもしろいところ…
でも、関ヶ原の戦いの実相はそうではありませんでした。
なんと徳川家康軍3万が開戦しても、参戦していないんですよね。
そもそも東軍は突出して徳川軍の数が多く、徳川の次に多い兵力は浅野幸長の6500、そして福島正則の6000で、黒田も細川も5000ほどなんです。
最初に衝突した軍は、
(東軍)福島・藤堂・京極・黒田・細川・織田・古田の計22100人。
(西軍)宇喜多・大谷・石田・小西の計30900人。
あれ? 衝突前線に参加している兵では、西軍のほうが8000人以上多いんですよね…
西軍が最初は勝っていた、というのは、数量的にはあたりまえのような気がします。
いや、それどころか6000の福島正則の軍は、1万7000の宇喜多秀家の軍と激戦を続け、一進一退の戦いを展開したといいます。
あれ? 数量的に「不利な」東軍が、むしろ善戦しているんではないの??
という印象です。
3万の家康は参加していない、目の前では、兵力的に不利な東軍が善戦している… 小早川秀秋が「裏切り」を決心したのは、こういう状況をみて「勝っている方」に加勢したのではないか、ともいえるような気がします。
こうして昼から形勢は東軍に優勢になり、西軍の兵はどんどん戦場から離脱していきます。
島津軍は、戦場に取り残される形になりました。
さて、ここから、“島津の退き口”と呼ばれる「決死行」が始まります。
退却戦がもっとも難しいと言われています。逃げる・追う、という関係の“戦場心理学”では、兵数差は無関係で、逃げる側に戦意が無いので追撃側が勝つのが当然です。1万の逃げる兵は、たとえ100人でも「狩る」ことができます。
ですから、実際の戦闘でもっとも重要なのは、「戦線の維持」。どちらが長くその場にとどまっていられるかが勝負になります。
崩れ始めた西軍は、もはや「狩りの対象」。「逃げる・追う」の戦場心理が働いて、西軍は一気に瓦解したと思われます。
その中で、島津義弘は、「引き際」を見極めていました。
じっと動かない…
逃げる・追うの関係が発生して初めて追う者が「狩人」になります。
「動かない」という選択は正解だったと思います。
「退く」というと、ついつい後ろに下がる、というイメージですが、それは一軍対一軍の、向き合った戦いの場合のことで、広範な戦場においては、軍の疎密を見極め、「疎」にむかって動くのが「正統な退却」です。
前代未聞の「前への退却」と称される島津義弘の行動ですが、案外と正しい「退却」です。
眼前の福島軍は、別の西軍の追撃を始めており、「疎」が発生していました。そこにむけて突進したわけです。
結果としてはるか前方の徳川軍に向かうことになるわけですが、1500の島津軍と3万の徳川軍では勝負になりません。福島軍の「疎」を突破して、徳川軍の「密」に向かった瞬間、方向を転換して別の「疎」のほうへ転身しました。
そもそも、東軍はもう西軍に勝利をして、あとは掃討戦の段階に入っています。もう「手柄」は確定しているのに、ここで「余計なこと」をして、ケガをしたり死んだりする愚はどの兵も避けたいところです。
ですから、徳川軍以外は、島津軍に、手を出す理由がなくなっていました。
それになんといっても…
朝鮮出兵のときの島津兵の強さは、いくらかの誇張をともなって、東軍の兵士たちの中で知らない者はいなかったと思うんです。
朝鮮出兵における泗川の戦いで、4万の明軍を7000で撃退していますから…
おれたちは他の西軍の兵を追撃するから、やりたけりゃ、徳川さん、勝手に島津を追いかけて。あんな強いやつらに手を出してケガするのいやだもんっ
という感じだったかもしれません。
「疎」へ突撃してくる島津軍を避けるのは当然です。が、背を向けて逃げ始めると話は変わります。実際追撃される途中で、どんどん島津兵は倒され、壊滅寸前の脱出行となりました…
徳川軍からは井伊直政、本田忠勝、松平正吉らが追撃し、島津軍1000の兵のうち生きて薩摩に帰ることができたのは80数名であったといわれています。
後世、“島津の退き口”と称賛されてはいますが、実際は、見るも無残な逃避行であったというべきでしょう。