『足利直義願文』というものがあります。
神護寺に足利尊氏の弟、直義が出したもので、「兄との縁を深めたいと思い、兄の絵とわたしの絵を送ります。」という文書が残っています。
そして、有職故実にもとづいて、「神護寺三像」をよく見てみると、三人とも「武官」の装束をしている、ともいえるようなんですよね。
頼朝、重盛はともかく、藤原光能が武官の装束を着ているのはやや違和感がある(着ていてもおかしくはないのですが…)。
そして、この三像のうち、「平重盛像」のみが、損傷が多く、くるくると丸められていたような感じがあるのです。
これらはどういう意味があるのでしょう。
これらを総合して考えると、「頼朝像」=「足利直義像」、「平清盛像」=「足利尊氏像」、「藤原光能像」=「足利義詮」と置き換えると、一つのストーリーが浮かびあがるのです。
足利尊氏の弟、直義は、南北朝の争乱期、執事の高師直とともに、兄の尊氏を助けて、足利尊氏を征夷大将軍にすることに尽力しました。
しかし、この兄弟は、壮大な「兄弟喧嘩」をしてしまいます。これが観応の擾乱、という内乱です。
南北朝の争乱は、北朝と南朝の対立だけでなく、北朝内部の争いも絡んで複雑に展開します。
足利尊氏と直義は、最初は仲良く政治をしていましたが、やがてその方法の食い違いから対立します。
尊氏は「もう政治はしないっ」と引退宣言をしてしまい、直義は、尊氏の子、義詮と一時期共同して政治をするようになりました。(『太平記』)
このとき、直義は、神護寺に掲げていた「尊氏像」と自分の像のうち、「尊氏像」を外して片付けさせ、かわりに「義詮像」を掲げた…
と、考えるとどうでしょう。「平重盛像」の損傷と丸めて片付けたあとがある、ということの説明もつきます。
「頼朝像」=「足利直義像」
という説は、『足利直義願文』と足利兄弟の対立、ということから生まれたこの“ストーリー”によって裏付げられる、というわけです。
「頼朝像」「重盛像」「光能像」は、『平家物語』を。
「直義像」「尊氏像」「義詮像」は、『太平記』を。
これらの絵を見るものにそれぞれ想像させる…
どちらになっても、魅力的な歴史のストーリーを背後に感じさせます。
ただ、学校の教科書は、なんとか「うまく」源頼朝を説明したい。
具体的には、頼朝の説明をするときは、教科書のどこかに頼朝の絵を入れたい…
そこで苦肉の策であみだしたのが
「伝」
という一文字。
「伝・源頼朝像」と表記しておくんです。
「頼朝の絵じゃない!」という人に対しても、「頼朝じゃないけど、そう言い伝えられている絵」ということで、一応のナットクを得られます。
「頼朝の絵だ!」という人に対しても、「頼朝像である、と言い伝えられている絵には違いない」ということで、一応のナットクを得られます。
ただね、「え~ そんな議論に巻き込まれるのめんどくせぇ」ということも確かなんですよね。
そもそも学校の教科書は、頼朝のことが伝わればよいわけだから、何もこの絵使う必要はないじゃんっ
と、ということで、現在は鶴岡八幡宮の、頼朝座像(木造)を教科書の写真に採用するものが増えました。
「神護寺三像」は果たして、誰の絵なのか?
もっともっと議論をしてほしいと思います。