三枚の絵のミステリー 前編 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

三枚の絵… ここからいろいろなことが見えてきます。

この三枚の絵とは、「神護寺三像」と呼ばれるものです。

一つは、「源頼朝」、一つは「平重盛」、一つは「藤原光能」です。


といえば、ああ、教科書に出ていた「源頼朝」の肖像画のことね。

そういや、あれ、別人って言われているのでしょ?

だって教科書では、「伝・源頼朝像」って書かれているもんね~


と、思われている方も多いと思います。


これらを描いたのは、藤原隆信という人物です。

意外と知らない人が多いのですが、歌人、藤原定家のお兄さん(異父兄)である、ということ。

で、後白河法皇の近臣でしたから、活動の時期は主に12世紀(1205年没)ということがわかります。


『神護寺略記』その他寺の伝承、史料によると、後白河法皇、源頼朝、平重盛、藤原光能らの絵があり、それは藤原隆信が描いた、ということが記されています。


もともとは、描かれた人物は別人だ、という話ではなく、成立年がおかしい、つまり、藤原隆信が描いたものではない、という「議論」でした。


同年代の絵、『伴大納言絵巻』『信貴山縁起絵巻』のものと、あまりに描き方が違う。鎌倉時代初期のものではないのではないか?

で、使われている材質などなど、いろいろなものから考えて、鎌倉時代中期くらいかな、いや、末期くらいじゃないの? となったわけです。

また、描かれている服の様子… 冠の形などが当時のものとはちょっと違うよね、という話になりました。


変な比喩ですが、人物の写真を見せられても、着ている服や帽子が、「え~ 今時こんなファッションないやろ、1970年代ころの写真ちゃうん??」ってわかりますよね。

「源頼朝像」にも、当時の服装とは少し違うもの(冠などは鎌倉末期以降のもの)が描かれているので、藤原隆信が描いたのとちゃうやろ? ということになったのです。


注意してほしいことは、描かれた時代が違う、という議論と、描かれた人物が違う、という議論をまず、整理しなくてはならない、ということです。


描かれた時代が違うからといって、描かれた人物が別人、とはいえません。


だって、鎌倉時代末期の画家が、源頼朝さんの絵を描こう、となったとき、どうしてもその服装は、その画家の時代のものを描いてしまいますよね。当時の服のこと知らないんですから。

「聖徳太子」、「大化の改新」や「聖武天皇」のお姿の絵も、描かれた時が奈良時代や平安時代だったものだから、奈良時代の冠や、平安時代の服装で描いちゃっています。


なので、成立年代が違うという議論によって、描かれた絵が別人だ、とするのは、ちょっと無理があるということです。


絵には、「物語」がつきものです。


肖像画には描かれた背景、理由があります。


神護寺三像は、後白河法皇をめぐる“一つのストーリー”で描かれているのです。

ですから、描かれている人物が、頼朝、重盛、光能の三人であることに違和感がなく、よって、長く三像はこの三人だ、ということに異説が出なかったのです。


藤原光能は、後白河法皇の近臣で、平氏政権が誕生した中でも異例の出世をとげます。平重盛は、清盛の専横をときに戒め、後白河法皇とも良好な関係を保っていた人物です。

しかし重盛が死去すると、院と平氏政権の“バランス”が崩れる… 光能は失脚させられ、後白河法皇も幽閉される… 

後白河法皇は平氏打倒を決心し、後白河法皇は平氏打倒の院宣を藤原光能に託して源頼朝のもとに届けさせ、平氏打倒の物語が始まる、ということなのです。(『平家物語』)


この三枚の絵で、こういうストーリーを語ることができ、『平家物語』を読んだ者は、この三像+後白河法皇の絵をみて、ああ、そういう話だなぁ、と、わかるんですよね。


では、この神護寺三像が、別人である、とするのは、成立年代以外、どういう根拠があるのか。

そして、別人でないとすれば、その三枚の絵には、また何らかの“ストーリー”があるのか。

(次回に続く)