誰がために鐘は鳴る? 前編 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

元禄15年から翌16年にかけて、大きな事件が二つありました。




一つは元禄15年12月14日、大石内蔵助をはじめ47人の浪人が、旧主の仇を討つため、吉良邸に乱入し、吉良上野介義央を討ち取った、という事件。


もう一つは元禄16年4月某日、内本町の醤油屋平野屋の徳兵衛と堂島新地天満屋のお初が、天神の森で心中した曽根崎心中事件です。




二つとも歌舞伎や人形浄瑠璃にとりあげられ、現在にいたっています。




さて、この二つの事件。実はほぼ同じ時間に起こりました。




まず、「赤穂浪士の討ち入り」です。


47人もの浪人が、一斉に行動を起こすわけですから、その計画は周到を極めました。「行動の覚書」によると行動隊は表門と裏門の二手に分かれ、襲撃の時刻は「八つ時」とされていました。


現在の時刻では午前2時にあたります。




で、よく考えてほしいのですが、「八つ時」すなわち「午前2時」ちょうどに、どうして彼らは行動できたのでしょうか?


相手に悟られることなく、一斉に行動するためには、あらかじめ時刻を決めておくことは常識です。現在なら全員が腕時計を持っていて、行動直前に時刻を秒単位でセットする…


映画やドラマでよく見る場面ですよね。


しかし、江戸時代に「腕時計」なんぞありません… で、考えられるのが




「鐘」




です。


江戸時代の時刻制度ってどんなふうになっていたのでしょうか…




1日を十二刻、十二支の名前で12分割する不定時法を採用していました。


ですから、「子の刻」は午前0時ちょうどではなく、午前0時から午前2時の2時間を示していたのです。


つまりこの2時間すべてを「子の刻」と呼んでいました。




さて、そうだとして、「子の刻」の開始の「時、告げる鐘」をどのように鳴らしていたのでしょうか?


調べてみるとおもしろいことがわかりました。




「子の刻」は0時の時点で鐘を9つ鳴らしました。


え?? 9つ??? 現代のわれわれは、鐘が9回叩かれると9時かな、と、思ってしまいますよね。


そして次の「丑の刻」の場合は鐘を8つ、さらに次の「寅の刻」は7つ… というわけで「巳の刻」は4つ、ということになります。


で、また、「午の刻」(正午)の始まりで9つ鳴らして、未が8つ、申は7つ、酉は6つ…


午前・午後、それぞれ9から4つの鐘を鳴らしていました。




「3時のおやつ」という言葉があります。「未の刻」から「申の刻」の間は「八つ時」なのです。


「おやつ」は「お八つ」で、それを食べる時間のことだったんですよ。




で、赤穂浪士たちです。


夜中から朝にかけての「八つ時」。この鐘の音が鳴るのを合図に47人が一斉に吉良邸に討ち入ったはずなのです。




さてさて、「曽根崎心中事件」の場合なのですが…




(次回に続く)