第8回は「宮本武蔵」でした。
このブログを始めた最初のお話の中で、歴史は壮大な伝言ゲームだ、ということを申しました。
最初に誰かが言った話が、どんどん伝えられているうちに、大きく変わってしまう。
伝えている人は、たとえ真剣に伝えている「つもり」であっても、無意識に自分の考えや、生きている時代や、文化などがちょっぴり加味されて、それが何百年とたつうちに大きく変容してしまう…
宮本武蔵は、その代表的な例といってもよいかもしれません。
巌流島をはじめとする武蔵のさまざまなお話… 「江戸時代のフィルター」を通じて(歌舞伎・浄瑠璃・講談)、そして1930年代に朝日新聞に連載された『宮本武蔵』(吉川英治)で、みなさんの知っている「宮本武蔵」は完成しました。
武蔵に関する関連史料としては
武蔵自身が書いたとされる『五輪書』。
1654年『小倉碑文』
1672年『沼田家記』
1684年『吉岡伝』
1714年『本朝武芸小伝』
1716年『武将感状記』
1727年『兵法大祖武州玄信公伝来』
1740年『古老茶話』
1755年『武公伝』
1776年『二天記』
1783年『西遊雑記』
などがありますが、書かれた年代をみればわかるように、100年くらいの経過をしていることがわかります。まさに伝言ゲーム…
宮本武蔵に合わせて、彼にまつわる「事件」も当然変容します。
「佐々木小次郎」… あまりにも有名な宮本武蔵のライバルですが、どうもこの人物は存在しないようなんですよね…
一番古い『小倉碑文』には、
「岩流」と名乗る兵法の達人が武蔵に試合を申し込んだ。
長門と豊前の国境の海上の「舟島」で対決した。
とあります。
次の『沼田家記』では、
「小次郎」という「岩流」という流儀の兵法者が武蔵と戦った。
武蔵は多くの弟子を引き連れて「舟島」に隠れていた。
ここで、小次郎、という名前が初めて出てきています。
戦った島も「巌流島」ではなく「舟島」であることがわかります。
次の『本朝武芸小伝』では、一人で舟島に渡った岩流小次郎に対して、仲間を引き連れて渡った武蔵の記述がみられます。
そして『武将感状記』で、武蔵は櫂(かい 船をごくもの)を削って作った2本の木刀で、小次郎は三尺余りの太刀で戦った、という記述が出てきます。
お~ ここで二刀流っぽい話が出てきて、櫂で戦ったという話になっている…
『武功伝』は、ほとんど吉川英治の小説『宮本武蔵』に近い話が出てきます。「富田勢源の弟子、岩流小次郎が18歳で自分で岩流という流派を開いた」という話も登場します。
「おそいぞ武蔵!」
「小次郎やぶれたり!」
「何をいう!」
「勝つつもりなら鞘(さや)など捨てないぞ!」
というやりとりがここで具体的に出てきます。
いやいやいやいや、実際の事件に一番近い史料ではまったく出てこないこんな細かい話がなんで1755年に出てくるねんっ これ、もう歴史小説に変容しとるじゃろっ ということになりそうです。
1対1の戦いになっているのもこのあたりからです。
1783年の『西遊雑記』ではおもしろいエピソードが書かれています。「舟島で戦って死んだ岩流小次郎の身内のものがやってきて、ここに岩流小次郎の墓を建てた。以来、岩流島、と、呼ばれるようになった。
あれ? 「佐々木」という名前はいつから?? となるのですが。これは『二天記』の中で「佐々木」という名前に記されています。でも『二天記』のほかの記述は、ほぼ『武功記』の丸写し、に、近いんですよね…
いったいどこから佐々木に??
ありましたありました!
1737年、藤本文三郎作の「敵討巌流島」という脚本が、歌舞伎として大阪で上演されているんです。
これは、親を「佐々木巌流」に殺された「月本武蔵之助」が復讐する、という話…
はぁ??? 1737年以降の記録はあきらかにこの話の影響受けていますよね。佐々木という役名が、岩流小次郎に与えられて「佐々木小次郎」となる…
それどころか、岩流小次郎が富田勢源の弟子で、18歳で岩流という流派を開いたのだとしたら、富田勢源が生きていた時代から計算すると、「巌流島での決闘」のときの年齢は60歳くらいになっちゃいます…
「佐々木小次郎」が若武者に描かれているのは、この「18歳で流派を開いた」という記述が誤解されて、戦ったときが18歳くらいの設定に変えられた可能性が高いようです。
う~ん… 壮大な伝言ゲームで、すっかり形が変わってしまったのは「佐々木小次郎」のほうだったようですね~