ふらんどや 桜の花を まちながら 小林一茶
第7回は小林一茶でした。
あまりにも有名な俳人ですが、私生活にふみこんでテレビがとりあげたのはコヤブ歴史堂が初めてだったかもしれません。
ところで、この句の「ふらんど」って何のことかわかりますか? じつはブランコのことです。江戸時代にはすでにブランコがあったんですよ。
学校遊具は和製のものも案外とあり、ジャングルジムは、日本の小学校の校長先生が工夫して発明されたものなんです。
さて、小林一茶は弱者や子どもに対して温かいまなざしを送っている俳人です。一茶の「不幸」な境遇を考えると、ある意味それは当然だったかもしれません。
ユーモアもたっぷりあり、自分が死んだ、と、知人に伝えて葬式を開き、こっそりその様子を盗み見てニヤニヤ笑っていた、というエピソードも有名です。
ちょっと変人でもありました。
ところで… 俳諧を詠む人たち… 小林一茶はどうやって生計を立てていたのでしょうか?
ようするに
俳句詠んでいて、食べていけたの?
という疑問です。
現代でも小説家や詩人のみなさんは、けっこう食っていくのに苦労されている方が多いと聞きます。現在ならは出版による著作権料や講演などの講演料、なんかの収入がイメージできますが、江戸時代ってそのあたりはどうなっていたのでしょうか…
一茶の場合、家出した後、実家にもどり、弟との相続争いはあったものの、一定の財産を父から引き継ぎ、農業をすることになります。一茶の後半生は、農業収入で生計を立てていました。
いや、江戸時代、農民って貧しかったんでしょ?
と思われる方もいるかもですが、実は、これは誤解です。
年貢は「五公五民」「四公六民」などとよく言われますが実際は28%ほど。
兼業農家のうち、農業収入が少ないものを第二種兼業農家といいますが、江戸時代の農民の収入計算を、兼業部分の収入をカウントせず、農業収入の部分だけで説明してしまっているんですよ。実際よりも農民は豊かな暮らしをしていました。
河内国の場合ですと、耕作面積にしめる綿花畑の割合は七割もあり、のこりの三割で50%の年貢をとられていたわけですから、経済的にはな~んなにも貧しくありません。
「貧しくて困っている」という訴状が残っているじゃないか、と、いう説明も可能ですが、そもそも代官所に「収入が多い」と申告する農民なんていません。
では、前半生はどうだったのでしょう。また、百歩ゆずって農民はやはり貧しく、農業収入だけでは食べていけない、とすると、他に何か収入があったのでしょうか。
実は、江戸時代中期は空前の俳諧ブームで、江戸だけでも2万人の愛好家がいました(5万人という推定もあります)。
年二回、あるいは何か特別な季節の行事のときに「発句合」といって、俳諧コンクールが開催され、なんと毎回1万2000通の応募がありました。
そして、一茶は「発句合」の審査員をしていたことがわかりました。
2009年、「発句合」の募集チラシを印刷した版木が発見され、そこの審査員に一茶の名前が刻まれていたのです。
応募費用は一人38文。
江戸の町では、
だんご 4文
そば 16文
職人の日当200文
長屋の家賃一か月800文
酒一升200文
銭湯8文
寺子屋代(塾にかかる費用)200文
というのが当時の相場です。
1文は現代で言えば20円から30円くらい。
12000通だとして45万6000文。これは小判にすると114両。1両=8~10万円ですから、一回に1000万円近くのお金が集まることになります。
年二回だけでも、1800~2000万。集めた句を審査して発表する(木版印刷)だけで、当時の本屋さんもスポンサーについているので、選者(審査員4人)でほぼ山分け… 500万くらいの収入はあった計算です。
職人日当200文で酒一升と同じ金額。で、寺子屋代も200文…
なんかお父さんがお酒がまんして、子どもの塾代になっている、というのは、江戸時代も今も変わらないようですね…