爆心地の象徴「浦上天主堂」 | 大東亜戦争ダークツーリズム~星になった彼等を想い声なき声を伝えたい

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亡くなった者は語る事ができない。ならば生きている者が亡き者の思いを代弁するしかない、その思いで戦争遺跡の周知及び戦争被害者の心に寄り添っていこうと思っております。組織や団体は大嫌いな一匹オオカミです。

●浦上天主堂(爆心地より東北東約500m)

明治13年(1880)浦上の信徒たちは、かって「踏み絵」の行われた浦上山里村の旧庄屋、高谷屋敷跡を買い取り、明治28年(1895)建築開始、大正3年(1914)3月献堂式が行われ、大正14年(1925)双塔完成し、大小二つの鐘が吊るされた。
30年もの勤労奉仕と献金活動によって、石と赤煉瓦造りのロマネスク様式聖堂、赤煉瓦の壁面には84個の天使の石像が取り付けられ完成した。
しかし、この大聖堂も石像も1945年8月9日の原爆投下により瓦礫の中に散乱倒壊しました。
参堂していた神父2名、信徒24名が旧浦上天主堂と運命を共にしました。
浦上地区の信徒約12,000人のうち約8,500人の人達が被爆死したといわれています。
昭和34年(1959)鉄筋コンクリート造りで再建され、昭和55年(1980)外壁を煉瓦タイルに改装、内装工事も行う。
収容人員は約1250名


●浦上天主堂・鐘楼(しょうろう)ドーム

鐘楼には、左塔(北側)に小鐘、右塔(南側)に大鐘とフランス製の大小二つの鐘が吊り下げれていたが、原爆により左塔の小鐘は大破し、現在、その破片は信徒会館内に保管展示されている。
右塔の大鐘は奇跡的にも瓦礫の中から発堀され、再建された浦上天主堂・右塔から昔ながらの音を浦上の丘に鳴り響かせている。
左塔の鐘楼は直径5.5m、重さ約50トンあったといわれるが、原爆によって天主堂北側の崖下に崩落し、川の流れをふさいでしまった。
その後、川を移設し、原爆の威力のすさまじさを物語る貴重な被爆資料として公開されている。


画像1
被爆した聖人の石造遺構
どれも熱線で黒く焦げ、強烈な爆風の影響で鼻、指、頭部などが欠けた痛々しい姿となっています。