幻の世界遺産「浦上天主堂」 | 大東亜戦争ダークツーリズム~星になった彼等を想い声なき声を伝えたい

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亡くなった者は語る事ができない。ならば生きている者が亡き者の思いを代弁するしかない、その思いで戦争遺跡の周知及び戦争被害者の心に寄り添っていこうと思っております。組織や団体は大嫌いな一匹オオカミです。

●浦上天主堂(爆心地より東北東約500m)

旧浦上天主堂撤去の謎に迫る 高瀬毅さん
毎日新聞 2009年8月8日

幻の世界遺産・浦上天主堂はなぜ取り壊されたのか? 
長崎原爆の隠された真実に迫る。
1945年8月9日、午前11時1分、広島に続き2つめの原爆が長崎に落とされた。
爆弾は浦上地区中央の上空で爆発し、アジア最大規模のキリスト教会のひとつであった浦上天主堂を破壊。
天主堂の廃墟は広島原爆ドームと同じように、後世に原子爆弾の悲惨さを伝えるため保存されるはずだった。
少なくとも、市議会では保存する方向で全会一致していた。
当時の田川市長も、保存に前向きであり、知り合いの建築家に保存法を調べさせることまでしていた。

しかし、その市長が、米国セントポール市との日米初の姉妹都市計画の為、米国の招待により1カ月の視察旅行に出かけた。
しかも、戦争で負けた日本の一地方都市の市長を国務省関係者が出迎え、すべての世話をしたというのは非常に違和感のある事である。

筆者は米国立公文書館を訪れるなど3年がかりの取材で、田川市長の訪米に当時大統領直轄だった広報・文化交流局の関与が判明。
何か狙いがあって姉妹都市提携を利用しようとしたのではないかという疑惑がある。

又、当時ソ連との冷戦下、核開発競争が激化している中、それらへの批判を米国は恐れており、キリスト教会の被害の象徴である天主堂を残して置く事は国内外からの核への風当たりが強くなる一因になるのを避けたかった国の思惑が見え隠れする。

田川市長は帰国したときは別人のように廃墟の取り壊しと撤去を頑強に主張。
1958年の市議会での発言「原爆の必要性の可否について国際世論は二分されており、天主堂の廃墟が平和を守る唯一不可欠のものとは思えない。多額の市費を投じてまで残すつもりはない」と答弁した。

同時期に当の教会には新教会の建設費用にと多額の寄付金が集められた。
米国での天主堂再建の募金を報じる現地新聞に、「廃虚の撤去を前提」という記述があった。
そして終戦13年後、もとの天主堂は取り壊され、建て替えられてしまった。一体米国で何があったのか、圧力、もしくは懐柔――?

「怒りの広島、祈りの長崎」とはウィキペディア日本語版にも項目があるほど人口に膾炙した言葉だが、なぜ、そのようなことになったのか。
なぜ、長崎の人々は被爆を受容し、あまつさえ、「原爆は神の摂理」などという言説をゆるしたのか。
それは、被爆の象徴ともいうべき遺構が喪われたからではなかったか・・・。


という記事(これ、テレビでもやっていたのでそれを元に、不足した事実を一部加えました)がありましたのでご紹介致しました。
今回、被爆地巡りで各資料館の管理人の方々(知っていそうな年代の方々)に尋ねたら、確かにそういう話し(噂)はあったようですが、あまり触れたがらなかったですね・・・。
その様子にすごく違和感を感じました。

ただし、当の浦上天主堂側は元々の場所での再建を希望していたようなので、まあしょうがないのかな~という気もしなくもないのだが・・・。

どなたか長崎ご出身の方でご存じの方はおりませんかね・・・?

遺構というものは廣島もそうでしたし、東日本大震災でも被害者の精神的苦痛が蘇るという理由で取り壊し論が先行してしまいがちですが、月日の経過と共に記憶の風化が進み保存の意義が大きくなります。
事実、廣島原爆ドームは保存決定迄二十数年もの年月が費やされ、最終的には世界遺産になりました。
旧浦上天主堂の取り壊しで後世に禍根を残した現実を人々は深く熟慮するべきではないのでしょうか?

子孫に繋がる未来の為に。