ゆでガエルの怖さとは、変化があまりに緩やかなために、危機が危機として認識されず、気づいたときには手遅れになることの恐ろしさを指す寓意である。急激な変化には人は反応できるが、漸進的な悪化には順応してしまい、判断力と行動力を失っていく。この性質こそが、ゆでガエルの本質である。
日本の少子高齢化社会は、このゆでガエルの構図と極めてよく似ている。出生率の低下や高齢化の進行は、数十年にわたって徐々に進んできたため、社会全体として危機意識が希薄になりやすい。「昨日より少し悪いだけ」「まだ社会は回っている」という認識が積み重なり、抜本的な対応は先送りされてきた。
しかし、少子高齢化がもたらす影響は静かである一方、不可逆的である。労働力人口の減少、社会保障負担の増大、地域社会の衰退、財政制約の強化といった問題は、ある閾値を超えた瞬間に急激に顕在化する。気づいたときには、もはや選択肢が残されていないという事態に陥る可能性が高い。
ゆでガエルの怖さは、破綻や崩壊が突然訪れる点にあるのではない。むしろ、破綻したという自覚すら持てないまま、社会の持続可能性が失われていく点にある。生活は続き、制度も形式上は機能しているため、危機が見えにくい。その結果、対応が遅れ、取り返しのつかない段階に至る。
したがって、日本の少子高齢化問題は「いずれ何とかなる課題」ではなく、「今理解し、今手を打たなければならない構造的危機」である。ゆでガエルにならないためには、現状を正確に理解し、緩やかな変化の中に潜む不可逆性を直視する必要がある。それを怠れば、日本社会は気づかぬうちに、逃げる力を失った状態へと追い込まれていくであろう。
日本社会には、今なお確かな「光」と、無視できない「影」が同時に存在している。統計データは、日本が衰退国家でも破綻国家でもない一方で、構造的な転換点に立たされていることを明確に示している。その両方を直視しなければ、日本――すなわち国家としての日本がどこへ向かっているのかを正しく捉えることはできない。
日本社会の光の一つは、高い秩序意識と社会的信頼である。日本の殺人発生率は人口10万人当たり約0.3件前後と、OECD諸国の中でも最低水準にある。落とし物の返還率は都市部でも7割を超え、公共交通機関の定時運行率は世界最高水準を維持している。制度や監視よりも、人々の良識と相互信頼によって社会が機能している度合いは、国際比較においても突出している。これは短期間で代替できない、日本固有の社会資本である。
経済成長の面では、日本は1990年代以降、実質GDP成長率で見れば年平均1%未満の低成長が続いてきた。しかし一方で、製造業の付加価値額は依然として世界第3位規模を保ち、自動車、精密機械、素材、半導体製造装置といった分野では世界シェアの3〜5割を占める製品群も少なくない。インフラの老朽化率が高まりつつある中でも、停電時間や断水時間は主要先進国の中で最短水準にある。派手さはないが、社会を安定的に支える「現場力」は、数字の上でも健在である。
文化面でも、日本は独自の多層性を持つ社会である。年間の訪日外国人数はコロナ前に3,000万人を超え、GDPに占める観光消費の割合も約7%に達した。アニメ、食、伝統文化といったソフトパワー分野での国際評価は高く、文化輸出額は過去10年で約2倍に拡大している。分断と対立が深まる国際社会において、調整と共存を重んじる社会モデルは、日本が示し得る一つの価値である。
一方で、日本社会の影もまた、数字によって明確に浮かび上がる。総人口は2008年をピークに減少局面に入り、すでに約1億2,400万人まで縮小した。合計特殊出生率は1.2台にとどまり、65歳以上人口は全体の約30%に達している。これは世界で最も高い水準であり、少子高齢化と人口減少は「克服すべき問題」ではなく、前提条件として固定化した現実となっている。
労働市場を見ると、完全失業率は2〜3%台と低水準で推移しているが、これは「働き手が余っている」のではなく、「働き手が足りない」ことを意味している。実際、企業の人手不足を示す指数は過去最高水準に近く、特に医療・介護・建設・地方産業での不足が深刻だ。その一方で、20代の実質賃金は30年前とほぼ同水準にとどまり、若い世代ほど将来への期待を持ちにくい構造が続いている。
意思決定の遅さと責任回避の構造も、数字に表れている。政府債務残高はGDP比で235%前後と世界最高水準にあるが、歳出構造の抜本改革は先送りされ続けている。政策決定から実行までに要する期間は、欧米主要国と比べて長く、規制改革の実効性も低い評価が続く。合意形成を重んじる文化が、結果として「誰も決断しない構造」に転化している側面は否定できない。
制度疲労も深刻である。日本の労働生産性はOECD加盟国中で下位グループに位置し、主要先進国平均を2〜3割下回る。長時間労働や過剰な事務作業、形式的な会議が生産性を押し下げている一方で、成果と報酬の連動は弱い。本音では結果を重視しながら、制度がそれを阻むという矛盾が、社会全体の停滞感を固定化している。
では、日本はどこへ向かっているのか。現状の延長線上では、日本は急激な崩壊を起こす可能性は低い。しかし同時に、成長も加速せず、影響力も徐々に低下していく「静かな縮小」の道を進む可能性が高い。これは失敗しない代わりに、成功もしない航路である。
希望があるとすれば、それは中央集権的な一発逆転策ではなく、分散型社会への転換にある。地方自治体、地域経済、個人や中小企業がより多くの裁量を持ち、試行錯誤できる余地を広げること。実際、地方発のスタートアップや地域密着型サービスの生産性は、全国平均を上回る事例も増えている。無数の小さな成功を束ねる構造を作れるかどうかが、日本の分岐点となる。
日本が再び国際社会で存在感を示すとすれば、それは覇権国家でも高成長国家でもない。人口減少、高齢化、低成長という「先進国がいずれ直面する課題」を、どのように壊れずに運営するかを示す成熟社会モデルとしてである。これは、数の論理ではなく、質の論理による貢献である。
結局のところ、日本に最も欠けているのは資源や技術ではない。何を捨て、何を守り、誰を主役にするのかを選び取る政治的・社会的意思である。その選択を先送りし続ける限り、日本社会の光も影も、十分に活かされることはない。